絶対的に良いもの、を思い浮かべる時、反射的に批判を全く寄せ付けないものを想像してしまっていたが、
何かを拒絶するようなものが果たして絶対的に良いことがあるのだろうか。
逆に、批判を全て受け入れ、かつ良いと感じられるようなものこそ絶対的なものではないだろうか。
絶対的に良いもの、を思い浮かべる時、反射的に批判を全く寄せ付けないものを想像してしまっていたが、
何かを拒絶するようなものが果たして絶対的に良いことがあるのだろうか。
逆に、批判を全て受け入れ、かつ良いと感じられるようなものこそ絶対的なものではないだろうか。
演奏者と聴衆の間をどう捉えるのか、は音楽の大事なテーマかもしれない。
時間をかけて忘れず考えねば…
音楽について考えれば考えるほど答えの線が枝分かれして細くなっていくが、一つの抽象的な球体の答えに近づいているような感覚もある。きっとそれが人間なんだろうな。
三日ではないが同じようなもの。志の続かない人間である。
昨年あたりから、野球・サッカーの世界で日本人が躍動している。趣味はスポーツ観戦と言っていいくらい(テレビばかりだけれど)、スポーツ好きな私は気分がとても良い。
特にサッカー、スペインリーグの久保の活躍は何とも感慨深い。サッカーなど全くできず、ファン としてもライトな方の私ですら感慨深いのだから、純然たるサッカーファンは興奮が止まらないのではないだろうか。
久保とシルバの関係に魅了されているが、シルバの「スピードを落とせ、そこにはスペースがある」という言葉は深く刻まれた。本当に良い師匠に恵まれたんだなあ。
サッカーでも野球でも、良い選手には間と連続性があるように思う。他の人が止まっているような。
これは音楽でも本当に大事だ…
演奏する曲、作曲家の得手不得手、ないし好き嫌いは演奏者、聴衆にとって大きな影響を持つ。
そもそも得意不得意は誰が判断するのだろうか。
演奏者が主観的に「得意だと感じている」から得意と定められるのか、聴者の評価によって定められるのだろうか。
これが一致する場合は話は簡単だが、実はそうでもないことが多いように思う。がまあ、これに関しては考えても仕方ない。よっぽどでない場合、聴者の意見は様々だし、想像することはできないから。
さて、得意な曲を弾くことはいいことだろうか。
この問題もまた、答えが出ることはない。一人一人答えが違うことだし、その個別の答えが出る時は演奏をやめるとき…ですらないかもしれない。
ただ、どのような信念を持って曲を選択していくかはとても大事な問題だ。
私は常に、得意と感じるものが最終的に最も良い状態になるために、どんな曲を選択していくべきか、と考えている。
「得意だ」と感じているものは基本的に自分の範疇で処理できるものが多い。それ故に、厳しく自分を見つめない限り、自分の範疇を超えていくことは難しい。
苦手だと感じるものはその逆で、自分の範疇で処理できない故に、その曲、作曲家を理解しようと努めることが自然と新しい見聞、感覚を深めることに繋がる。それにより得意と感じていたものに別の世界が広がる可能性がある。
ただ、常に正解はない。
有限の人生、振り返った時に後悔のない曲選択を続けていきたい。
音楽において、「こうしかない」というものはほぼなく、基本的にはあり得ないと考えて良い。
しかし、正しくもなく誤ってもいないものなのだ、と認識しているままの状態は、正常、「よいもの」なのだろうか。正誤の判断は出来ないもの、と他人行儀に捉え、ニュートラルを目指すことは、感覚的に間違っていると感じられる。
そもそも、正誤があるかないかという考え方も必要なように思う。
ものの正誤を判断するのが自他の枠を超えた絶対的な存在だとしても、そのものは正誤がある状態であり、相対的な状態である。
正誤から解き放たれた状態こそが目指すべき場所、絶対的な状態なのではないだろうか。
正誤から解き放たれた境地は極めて強力である。他者、さらには自分の判断にすら干渉されないのだから。驕りによる排他的、高圧的な態度とは全く異なる次元である。
私は時折レッスンでそのような言葉に遭遇してきたが、そういう言葉はきっと無限に私に力を及ぼし続けていくのだろう。
まあ、そんなところに辿り着いてみたい。