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空軍機が墜落、炎上 バリ・ングラライ空港


 軍高官ら脱出し無事

 二十四日午後三時半ごろ、バリ州ングラライ空港で、ジョクジャカルタからデンパサールへ遠距離飛行訓練を行っていた空軍の小型練習機一機が墜落し、空港敷地内で炎上した。操縦士と乗員のラフマッド・ブディアント・ウダヤナ師団司令官二人は、墜落直前にパラシュートを開き緊急脱出し、負傷したものの無事だった。
 国軍などによると、墜落したのは練習機として使用されているウォン・ビーKT1型機。空軍は毎週金曜日に定期的な飛行訓練を実施しており、事故機は複数のほかの訓練機と編隊を組み、ジョクジャカルタからデンパサールを飛行。また訓練機の紹介を兼ねて、ングラライ空港上空で、低空編隊飛行を行っていた。地元テレビ局が放映した事故当時の映像では、滑走路上空を低空でV字飛行していた編隊の中から、一機が突如、急上昇。ボンという爆発音とともに、二つのパラシュートが機体から飛び出し滑走路に降下した。
 ジョコ・サントソ国軍司令官は「操縦士によると飛行中、機器に不備が生じ、コントロールが効かなくなったため、緊急脱出を図った。事故原因を早急に解明する」と説明した。事故機は二〇〇五年に製造・購入したものだった。
 事故の影響で同空港は一時間閉鎖し、飛行機の発着に遅れが生じた。

重大事故、絶えず

 昨年から軍用機の墜落事故が相次ぎ、国軍の装備の老朽化などが問題となっている。昨年五月には東ジャワ州マゲタンで空軍兵士と家族らを乗せた空軍の大型輸送機が墜落し百一人が死亡する事故が発生。翌六月には西ジャワ州チアンジュールで陸軍ヘリが墜落し二人が死亡、ボゴールでも空軍ヘリが墜落し二人が死亡する事故が立て続けに起こった。九月にも中部ジャワ州スラゲン県で訓練機が墜落し、乗っていた一人が死亡した。


ガルーダ航空 大阪―デンパサール線10月から毎日運行に 

 

 国営ガルーダ・インドネシア航空大阪支店は十六日、十月七日から大阪デンパサール間での運行を現在の週五便から週七便に増便し、毎日運航すると発表した。機体はエアバスA330341を使用する。
 同社によると、十月七日から同三十日までのスケジュールは、GA883便が関西空港を午前十一時(現地時間、以下同)に出発し、デンパサールに午後四時四十分に到着する。GA882便は、デンパサールを午前零時四十分に出発し、関西空港に午前八時半に到着する。
 十月三十一日から、来年三月二十七日までのスケジュールは、GA883便が関西空港を午前十一時に出発し、デンパサールに午後五時十分に到着する。GA882便がデンパサールを午前一時に出発し、関西空港に午前八時半に到着する。
 日本航空(JAL)は今年四月に、東京、大阪発のデンパサール行き便を十月から停止すると発表。大阪府、関西経済連合会、関西国際空港の四人の幹部が、今月九日から四日間の日程でジャカルタを訪れ、ガルーダ航空に同路線の毎日の運航などを要請していた。

邦人夫妻、殺害される 元庭師のアセップ容疑者逮捕


 十七日夜、ジャカルタ郊外のバンテン州南タンゲラン市チプタット郡レレラワ在住の原康雄さん(六九)と瑞枝さん(六七)夫妻が血を流して死んでいるのが、騒ぎを聞きつけた住民に発見された。チプタット警察によると、別の場所にいた原さんの娘や住民から通報を受けた警察は数時間後、殺人容疑で、現場付近にいた原さん宅の元庭師アセップ容疑者(二一)を逮捕した。また、共犯とみられ、逃走中のイルワン容疑者の行方を追っている。
 十七日午後七時半過ぎ、アセップ容疑者は、同容疑者の自宅がある西ジャワ州ボゴール県チパナスのプサントレン(イスラム寄宿学校)の同級生だったイルワン容疑者とともに原さん夫妻宅の高さ約四メートルの塀を乗り越え、鍵の掛かっていなかった裏口から侵入。
 一緒に原さん宅で寝泊りしていた家事手伝いの男性ハディ・クスウォヨさん(二一)に刃物を突きつけて「おとなしくしろ」と脅した。その後、アセップ容疑者は台所へ向かい、そこにいた康雄さんに金を要求。口論になった後、刃物で康雄さんの腹部を二、三カ所刺した。
 寝室でこの騒ぎを聞きつけた瑞枝さんは、別の場所にいた娘のちさとさんに携帯電話で連絡し、「襲われているの。もう死ぬかもしれない。警察に連絡して。早く!」と叫んだ。
 瑞枝さんの声を聞きつけたアセップ容疑者は、瑞枝さんの部屋へ押し入り、刃物で瑞枝さんの首を切りつけた。
 この間、居間から家の外に飛び出したハディさんが「助けて!」と大声で住民に助けを求めているのを聞き、アセップ容疑者らは塀をよじ登るなどして逃走。アセップ容疑者は近隣住民に暴行を受けた後、近くの小学校裏の暗闇に隠れていたところを、駆け付けたチプタット警察の警官六人に取り押さえられた。
 警察の調べによると、アセップ容疑者は、約一カ月前から原さん夫妻の自宅で庭師として働いていた。しかし、仕事ぶりが怠慢だったため、十六日に仕事を辞めさせられた。アセップ容疑者は警察の取り調べに対し、「殺害するつもりはなく、金を要求しに来ただけだった。しかし、(康雄さんに)額を殴られるなど抵抗されたため、かっとなった」と供述し、犯行を認めているという。
 約一年前から住み込みの家事手伝いとして働き、アセップ容疑者と一カ月間、一緒に寝泊りしていたハディさんはアセップ容疑者について「原さん夫妻に注意されたら反抗するなど、怒りっぽい性格だった」と語った。毎週木曜の夜は守衛が休みのため、この日を狙ったのだろうとしている。
 遺体は南ジャカルタのファトマワティ病院で検視が行われた。十九日昼に同病院を出棺し、荼毘(だび)に付される。葬儀は近親者で済ませる。
 出棺まで、病院敷地内のルマ・ドゥカ(遺体安置室)で弔問を受け付けている。

「笑顔が印象的だった」

 原さんの家は、ジャカルタ日本人学校から南に約三・五キロほどのカンプン(村落)にある。建物は千三百平米ほどの広大な敷地の奥に建つ二階建て。四メートルほどの高さの塀に囲まれ、一部はガラスのかけらや有刺鉄線を張っており、畑や庶民の民家が散在している地域では一際目立つ存在だった。左右に二カ所ある正門を通った敷地内は、車が通ることのできる道路の周りに手入れの行き届いた緑が広がっていた。事件を聞き、自宅前には近隣の住民が集まった。近所に住む主婦は「車で家を出るときに窓を開けて、周りの子どもたちに笑顔を投げかける旦那さんの姿が印象的だった」と語った。


日イ交流に尽力した原さん夫妻


 「どうして原さんご夫妻が」。原さん夫妻の遺体が安置された南ジャカルタ・ファトマワティ病院には、二人が力を注いだ奨学金事業に支えられたインドネシア人学生や、康雄さんが国際交流ディレクターを務めたジャカルタ日本人学校(JJS)の教職員、在留邦人らが駆け付け、遺体の前でやりきれない思いをぶつけた。原さん夫妻は、一九八〇年代後半からインドネシアで暮らし、インドネシアで余生を送ろうと二〇〇二年にマイホームを購入し、邦人やインドネシア人はむろん、国籍を問わず友人たちを家に招いて、ホームパーティを開いた。「インドネシアを心から愛して、日イの交流の架け橋になろうと尽力していたのに」。駆けつけた人々の間に深い悲しみが広がった。
 原さん夫妻は精米機製造大手サタケの現地法人代表として、インドネシアに移住。その前には米テキサス州ヒューストンに八年間駐在し、子ども三人を含めた家族全員が英語とインドネシア語が堪能で、米国人や邦人ら国籍を問わず家に招いてホームパーティーを開く一家だった。
 退職後、康雄さんは文科省の国際交流ディレクターに応募し、二〇〇〇年四月〇三年三月までJJSに派遣され、暴動後の不安定な時代、JJSとインドネシアの子どもたちの信頼関係を交流を通して築きたいと尽力した。
 運動会や日イ交流キャンプなどでJJSと十年間交流してきたアンニサ校との関係は、康雄さんがJJS職員とともに切り拓いたもの。
 ともにキャンプ計画などを練ったインドネシア人教員は「康雄さんが提案し、ガスコンロを大量に買って、子どもたちがナシゴレンなどを作る自炊をしたことがある。『みんなで何かをしないと信頼関係は生まれない』との信念だった」と振り返る。
 アンニサ校のウリス校長は「子どもだけでなく先生、保護者たちの橋渡しもしてくれた。何か問題が起こりそうになると、自分から頭を下げに来て、仲介に入って信頼関係を築いてくれた」と振り返る。JJSとの交流写真が校内に飾られている。
 着任したばかりのJJSの教師たちは「まず原さんの家に行け」と言われていた。右も左も分からない教師に、ベチャ(人力車)や各地の手工芸品で飾り付けた自宅に宿泊させ、「インドネシアの人にこんなことを言ってはいけないよ」など理解し合う方法を伝えた。「自分から心を開き、優しく接すれば、インドネシア人は優しくしてくれるいい民族だ」と何度も説いたという。
 JJSがまとめる作文集「みなみ十字」に康雄さんは国際交流にかける信念を寄せている。「国際間の人間交流の中に求められることは相手の言うことを聞く度量と自己の考えを率直に表現できる能力である」(二〇〇〇年度版)。
 教師たちは「インドネシアが好きで、この国のために尽くしていた」と振り返る。記念式典や卒業式に出席し、静かに子どもたちの成長や巣立ちを見守っていた康雄さん。「行事の度に来てくれた。(発表会などの後)『良かったよ』、『子どもたちが懸命に頑張っていて、可愛かった』と話してくれた」と康雄さんとの思い出を語る。「人のために尽くしてくれた優しい人だった」
 長谷川清孝校長は「邦人教員の目を広げる役割を果たしてくれ、JJSの国際交流の基盤を作ってくれた人の一人だった。今回の不運な事件で、子どもたちがインドネシアへの悪いイメージを抱いてほしくない。原さんが残してくれた交流の遺産を引き継いでいかなければならない」と言葉を噛みしめた。

「行動力ある女性だった」

 瑞枝さんは一九九八年、アジア通貨危機で経済的に学業継続が困難になった大学生を支援する非営利団体(NPO)の設立に携わった。二〇〇三年二月末には奨学生の支援に注力するグッドウィル・インターナショナル財団を設立した。インドネシア大(UI)とボゴール農科大(IPB)の学生約七十人に毎年奨学金を贈り、これまでに支援を受けた学生は五百人を超えた。康雄さんも講演などに毎回顔を出し、活動を支援した。
 「二人は両親のような存在」と慕う奨学生三十人以上が、原さん夫妻の遺体が安置されたファトマワティ病院に駆け付けた。奨学生のボイク・ラフマンダさんは「笑顔が彼らの言葉のようだった」と話す。学生の前で二人は笑顔を絶やさなかった。
 豪州の大学院に進学した奨学生には冬用のコートを贈り、体を気遣った。
 瑞枝さんはほかにも、在住外国人による文化ボランティア団体「インドネシアン・ヘリテイジ・ソサエティ」に約二十年間所属。
 インドネシアの歴史、文化の理解を深める活動を行う同団体で、持ち前の英語、インドネシア語を生かし、一九九五年から三年間、議長を務め、その後もスーパーバイザーとして尽力していた。国立博物館を来館者に案内したり、日本語版ガイドブックの製作にかかわり、「文化を学べば、インドネシア人のことが理解できるようになる。旅行に行っても裏の面まで見るようになるので世界が広がる」と話していた。
 一九九五年から瑞枝さんと一緒に活動してきたインドネシア在住歴二十年のマイヤー・純子さんは「非常に穏やかな人柄でありながらも、行動力があり活動的な女性だった」と語る。先月十四日に行われたJJSの国立博物館見学でも、はつらつとした表情で子どもたちを案内していた。
 九八年度にジャカルタ・ジャパンクラブ(JJC)婦人部部長も務め、孤児院、福祉施設訪問やジャカルタで生活を始める邦人女性を対象にした座談会「おしゃべり会」の開催など積極的に活動を行っていた。