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アファンダニュウゥェ、ベイベ

バイトが終わって、パチンコ屋に自転車を撤去された僕は仕方なく歩いて帰る。
時間は夜中の1時を回っていて、空っぽのタクシーがどこかまぬけな感じ。
コンビニに車を止め、車内で人目をはばからずに愛し合うクソ恋人達もどこかまぬけな感じ。
僕はコンビニでレモンティーを買う。
太陽と反対側で向かい合っている。
でも実感がない。夜中であること以外になにもない街。
甘いような、なくないようなレモンティーを買う。
夜中の街には鳥がいない。昼間あんなにいたのに。いったい彼らはどこに行くんだろう。

ハンドリング・アーミー

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名古屋、東京へのささやかな旅を終えてからというものの僕はビルを描くことに取り付かれている。
各都市には実に様々なビルがあって、それらにも住民のセンスや地方自治が如実に現われていて、いくら見ても見飽きることはないような気がする。
そして、よく考えれば当たり前だが、ひとつとして同じ形のビルは存在しないのだ。似ているように見えても、絶対に同じではない。形式が似ているだけだ。
だから、僕の描くビルもビルという形式を借りた別の何かなのだろう。
ビルを描くたびにそういった考えがぼんやりと浮かび、目の前のカタチになったビルのようなものの裏に潜む何かが、製作衝動を駆り立てる。
僕がこの春見たビルのなかでのイチ推しは、名古屋にある大名古屋ビルヂング。なんとも言えぬ昭和日本臭。

5つめの車輪

バイト先の事務所に『スタッフ連絡ノート』なるものが置いてある。
店長やベテランスタッフから商品の価格や置場の変更といった事務的なものから、日常的なもの、犯罪対策、あと、おしかりの声等々が所狭し、びっちりと書き込まれ、出勤の際は一同目を通しサインをする、様々な人の怒りやら愛着やらが染み込んだ手強いノートである。
昨日そのノートに店長が“店内の有線放送で演歌がかかったら変えるように”と書き込んでおり、それを見たときに、脳がきゅるんと音を立てた。   
単純な疑問。
読みすすめると“演歌が嫌いなわけでなく、店の雰囲気にあわない”と書かれてあった。
店の雰囲気とは。
ふと高級ホテルの洋室にコテコテの日本手ぬぐいが置いてある風景が網膜をぴっと通り過ぎた。
居場所がない。
今演歌の居場所がないのだ。
あるとしてもしみったれた飲み屋くらいのものだ。
スターバックスで演歌かかってたらやっぱりちぐはぐだろうし、ファミレスであっても同じだろう。
この、どうにもならない居場所のなさを考えると、どうしても自分の甘さへと着地してしまう。
心理学や効率や統一性のみを重要視する近代看板が街を占拠している様を見る時と同じような、甘さ。