真白《復活祭~2nd》

 

 

※昨年同様、花束贈呈役として登場したドレス姿のユリウスに幻惑されるクラウスとイザーク。
新しい友人たちと談笑する彼女を遠巻きに眺めるうちに、妬心強めの男の堪忍袋の緒が切れる。

 

 

──あいつの世界が広がっていくことは、喜ぶべきことなんだよな。解り切っている、そんなことは。だけど……。
リーナがアニカの躰を押さえ、ユリウスはハリーの腕を摑んで引っ張っている。その腕が彼女の胸に触れそうだった。
ユリウスがハリーの顔を見上げて、必死に言い聞かせているように見える。それが揺るぎのない事実なのだから。
だがしかし、クラウスの目にはそうは見えない。
ハリーが、ユリウスを口説いているようにしか映らない。
『ユリウス姫、僕と一緒に逃げましょう!』
『ハリー王子、いけません!』
誰が何と言おうと──それ以外考えられない(おいおい)。

 

「あンの野郎、もう我慢できねえ」
「は?」
とイザークが横を向いた時には、ヴァイオリニストの姿は消えていた。
そして──、
リーナ、ハリー、アニカの傍を一陣の風が吹き抜けた。
「え、クラウス!?」
各々が彼の姿を確認し、
「あれ? ユリウス?」
それぞれに名前を叫んだ。
その時には既に、お姫さまは連れ去られた後でした。

 

いきなり手首を摑まれて、ユリウスは外に連れ出された。
「クラウス? ど、どうしたの?」
クラウスは無言のまま、速足で歩いていく。行き先は訊かなくとも分かるけれど。
「ねえ、ダンスは踊らないの?」
「今年はパスだ。あんなかったるいもん昔から苦手なんだ」
「でも……、ボク、クラウスと踊りたかったな」
クラウスは足を止め、振り返ってユリウスを見た。
自分の大人げない態度を、少しだけ反省する。

 

「ユリウス……」
「ね、いつものところに行くんでしょ? そこでだったら踊ってくれる?」
ユリウスは、小首を傾げて彼を見つめる。
「お、おう。もちろん」
「やったぁ」
ユリウスの表情が輝いた。
今度は逆に、ユリウスがクラウスの手を引いて、嬉々として歩いていく。
ドナウの階段まで着いたところで、クラウスが彼女の手を引き止めた。

 

「こらこら、ここから先は俺が先頭だ」
「え、どうして?」
「問答無用」
ユリウスは頬を膨らませる。
「二度あることは三度あるって言うだろう? 今日のこと、忘れたとは言わせねえぞ」
舞台の上で、すっ転びそうになったことである。
「……(言い返せない)」
クラウスはユリウスを追い越して、階段を下りていく。ユリウスも大人しく従った。
クラウスは川辺から離れた草地の真ん中で立ち止まった。

 

「お手をどうぞ、フロイライン」
クラウスが、ユリウスの目の前でひざまずく。
どきり、と心臓が高鳴った。
差し出された大きな手に、小さな手が重ねられる。
音楽は何もない。川のせせらぎと風にそよぐ枝葉の調べだけが伴奏だ。
二人はステップを踏んでいく。自然が奏でる旋律に合わせ、躰と躰が踊りだす。
「ふふ……、楽しい」
ユリウスが嬉しそうに微笑んだ。クラウスは、その顔を愛おしげに見つめている。
「ユリウス、今日のお前、最高に綺麗だ。そのドレスも凄く似合っている」
いつもなら照れ臭くて言えないことが、すらすらと口に出る。
「クラウス……」
自分の腕に抱いている女神に惑わされているのだろうか。それは彼にも解らない。

 

「いや、お前以上に似合うやつはいない。俺が保証する。きっと何年経っても似合うと思う。絶対だ。だから」
「だから?」
「これ、結婚式でも着てくれ」
「え? 誰、の……?」
「あほっ!俺とのに決まってるだろーがっ!!」
「えぇっ!? クラウスったら気が早ぁい」
ユリウスは大きな目を丸くして、ころころと笑いだす。
「そんなのすぐだ。あっという間だっ」
「……本気なの?」
「いいか。それまで大事に保管しておけよ」
「ふふ……。うん、分かった」
ユリウスは、にっこりと微笑んだ。

 

──お前……、これから先、俺以外の男と出会うかもしれないとか思わないのか?
もう一人の自分が問う。
冗談じゃない! と否定した。
不安が襲う。あまりにも彼女が純粋過ぎて……。

 

あっという間だということは、時が過ぎてから思うのだ。それは彼にも解っていた。
緩やかな坂を上るように、ゆっくりと過ぎていく日々。正直もどかしいと思う。
自分の将来のことですら、まだ靄がかかった状態だというのに。
時間は無限ではない。そして戻らない。
大事にしよう。彼女も。──彼女自身の時間も。

 

「それまでは我慢しといてやる」
「何を?」
「これを脱がすのを、だ」
クラウスはにやりと笑い、ドレスごとユリウスを抱き締めた。
「なっ……、何言ってるの?」
「新婚初夜が楽しみだって言ってるのさ」
耳元で彼が囁く。
なんて嬉しそうな声だろう、とユリウスは思った。
「だから気が早いってば……、離してよっ!」
「い、や、だ。それとも、今から予行練習しとくか? ん?」
背中のファスナーに手が伸びる。
「やだっ、やめて! こんなところ誰かに見られたら……」
ユリウスは、身を捩って抵抗する。

 

──誰にも見られなかったらいいのか?
喉まで出かかった言葉を、クラウスは飲み込んだ。
──いいよ……クラウスなら……。
言わせたい自分と、言わせたくない自分が喧嘩する。
そして……、後者が勝った。──今回は。
「冗談だよ」
「もぉ……」
薄紅色の口もとが小さく尖った。
「お前……、その口、反則」
「え?」
不意に口づけられた。唇の熱で、桃色の花弁が一枚一枚溶かされていく。
満々と水を湛えた碧海が、鳶色の光が差すのを待っている。

 

純白のドレスに縫い付けられたシフォンの薔薇が、ドナウの風でかぐわしい匂いを振り撒いている。
クラウスの瞼の裏に、目映い金色の髪を覆う透明なヴェールが映った。
出来るなら──これからもずっと互いの手を離さずに。
病める時も健やかなる時も、喜びの時も悲しみの時も、命ある限り。
そう誓い合える日が来ることを信じて……。

 


 

 

清漣

 

 

※ドナウでダンスを踊った後、ユリウスを家まで送るクラウス。(幸か不幸か)誰もいない家で、無防備な姿態を晒す(ど天然な)恋人。さあどうする? どう出る?(暴走3)

 

 

「クラウス!?」
突然、視界からクラウスが消えたので、ユリウスは視線を泳がせる。
「ど、どうしたの? 大丈夫?」
彼は、床に尻餅をついていた。
──大丈夫じゃねーよっ!!
「お、お前……、何見せてんだよっ!?」

ドレスから半分覗いたコルセットから、前触れもなく胸もとを見せられて驚かないわけがない。
「ご、ごめん……」
ユリウスは、思考より先に躰が動くタイプだった。
床にへたり込んだクラウスを起こそうと、迷いなく両手を伸ばす。
必然的に前屈みになり、控えめだけれど魅惑的な谷間が男の眼前に──。

 

……起爆装置の作動ボタンの蓋が開く……

 

──お前……、俺を……誘ってるのか?
彼はゆっくりと膝を立てた。
両手で華奢な肩を摑み、中腰の躰を少しずつ後ろへ押していく。
「どこが……、まだまだだって?」
「え…と、あの……」
鳶色の瞳に影が差し、碧の瞳を刺すように見据えた。
床にしゃがみ込んだ体勢のまま、ユリウスはベッドの脇に押し付けられた。
「クラウス、ドレスが汚れ……」
「黙……れ……」
──誰にも見られなかったら……?
先刻の迷いがクラウスの脳裏を過った。
「ク……」
唇が……、重なり合う。
「──っ」
ドナウで吸い尽くしたはずの蜜が、たっぷりと舌に絡んだ。
もう、止められない。彼にも。彼女にも……。
甘い蜜を味わいながら、薄衣を肩から滑らせる。

 

……作動ボタンに指が置かれ……

 

ベビーピンクのコルセットから覗く柔肌に目線を落とす。
「全然、まだまだじゃねえよ」
「で…も……」
ソプラノが戦慄する。躰は、金縛りにあったように動かない。
「十分だ……俺には」
骨の髄まで響く重低音のバリトンに、彼女の口が小さく開く。
漏れたのは微かな空気だけだった。
長い指が鎖骨へ伸び、サテンの先に爪が触れる。
ユリウスの躰が、びくんと震えた。
リボン状の結び目が、器用に指でほどかれた。
一本一本緩められ、真白が徐々に増えていく。
彼が十分だと言った膨らみが、かたちになって現れhh始める。
「クラウ…ス……」
少女の顔は、これ以上ないくらい熱を帯び、赤く艶めく。
碧い瞳は、ただ一点だけを見据えている。自分を暴いていく指先を。
その指は、美しい鎖骨のラインをなぞるように撫でていき、そのまま彼女の柔みを捕らえ……、

 

ーガチャリ。
遠くで、微かに金属的な音がした。
クラウスの手が止まった。
「ただいま。ユリウス、帰っているの?」
階下から、娘を呼ぶ母親の声。
ユリウスは、瞬発的に胸もとを手で覆い、
「か、帰ってるよ! 今、着替えてるとこだから」
上擦った声で返事を返した。それからロボットのように立ち上がる。
「あ」
よろけそうになった彼女の躰を、クラウスはしっかりと抱き留めた。
「あ、りがと……」
彼の目は、いつもの鳶色に戻っていた。

 

……起爆装置の蓋は閉じられた……。

 

クローバー クローバー クローバー

 

帰り際、ドアを開けたところで、ヴィルクリヒがクラウスに歩み寄る。
「──邪魔したか?」
教師は無表情だった。茶化してるわけではなさそうだった。
「いや……」
クラウスは顔を上げ、リビングの奥に佇んでいるユリウスを一瞥する。眼差しが交差した。
それから、またヴィルクリヒに視線を戻す。
「……助かった」
それ以上、教師は何も言わなかった。

 

「待って、クラウス!」
歩き始めたクラウスの後をユリウスが追いかけてくる。
「何だ? どうした?」
「これ……」
ユリウスは両手を重ねてクラウスへ差し出した。手のひらに緑色の葉っぱがのっていた。
「四つ葉のクローバー。ドナウで見つけたの」
「お前、地面ばっか見ていると思ったら……、これを探していたのか?」
「一つだけ見つけたの。クラウスにあげる」
「いいのか? 俺が貰っても」
「いいの。クラウスにあげたくて探してたんだもん」

「そっか、じゃ貰っとく。ダンケ」
クラウスはクローバーをシャツの胸ポケットに、そっと入れた。
「うん」
ユリウスが屈託のない笑顔を見せる。ぎこちなさはもう無かった。
クラウスがユリウスを目で呼んだ。二人の距離が人一人分ほど空いていたからだ。
「なあに?」
ユリウスが、彼に近づき顔を上げた。

 

「その髪……、可愛いな。似合ってる」
「え、今ごろ?」
「うん……、言いそびれた」
ユリウスはくすっと笑う。
「……変なの。でも、ありがと。母さんにやってもらったんだよ」
「そうか」
ユリウスが編み込んだ髪を、そうっと触った。
その上に、クラウスの手が覆うように触れた。
「クラウス……?」
少女の耳に、クラウスの顔が近づく。
「さっきは、惜しかったな」
耳もと擦れ擦れで、彼が囁く。
「え? なっ……!」
ユリウスは真っ赤になった。まるで出来たてほやほやのりんご飴のように。
「も……やだ……」
その顔を見せたくなくて、彼女は彼の胸に飛び込んだ。
「ばか……、焚きつけるなよ」
クラウスは彼女の背中を両手で抱いた。小さい躰は、じんわりと熱をもっていた。
「……怒ってるか?」

 

分かっている癖にわざと言う。訊いてみたくて、確かめたくて。
金色の髪が、左右に揺れた。
信じた通りの答えだった。
焚きつけるな、と言っておいて、自分の方が負けそうだった。
今日はもう、ディフェンスが崩壊しているらしい。
熱い頬を包み込むように、両手を添えて、赤い唇の封を解く。
媚薬の蓋が落ちて割れ、甘い香りが広がった。
ここが外だということを完全に忘れ去り、彼は彼女の香りに酔いしれた。

 

 

 

 

 

 

本当に、プロポーズだったのだろうか?
結婚しよう、とストレートに告げられたわけではない。
結婚式でドレスを着てほしいと言われただけだ。
でも結婚式でドレスを着るということは、結局のところ結婚するから着るわけで……。
──回りくどい……。
女として、少しは成長したと思っていた。もう一年、経ったのだから。
まだ……全然だ。
普通は、あそこで気づくのだ。

 

ドレスを着てくれ、と言われた時点で。(現に母さんはすぐにピンときていた)
それで、「えっ? それってもしかして……プロポーズ?」なんて胸に手を当てて、おずおずと尋ねるのだ。
彼に、その場で、直に……。
「そっ、そんなこと言えるわけないよっ!」
独り言なのに叫んでしまった。慌てて辺りを見回す。誰も歩いていなかった。
ほっ。
どうしよう……、もうすぐ着いてしまう。彼が待っている、いつもの場所に。
どんな顔をして逢えばいいのだろう……。
でもクラウスも、自分の発言に気づいていないかも?
なら大丈夫……、あーっ! だめだめ、ヴィルクリヒ先生が絶対に彼に喋ってる。

 

──いっつもそうなんだから。
それで後で、ボクがクラウスに怒られるんだ。
もう……どうして母さんたら喋っちゃうんだろう? 先生には何でも言うんだから。
そりゃあボクだって、クラウスには色々話すけど、何でもかんでも喋ったりは……してないよね?
だって、喋れることが楽しいんだ。
昔は──言ってはいけないことばかりだったから……。
「おい、さっきから、なに百面相してんだよ?」
「わあっ!」
目の前に突然クラウスの顔が現れて、ユリウスは跳び退いた。
「階段、過ぎてるぞ」
「え? あ」
「それとも、今日は帰るのか?」
ユリウスは、ぶんぶんと首を振る。洗いっぱなしの髪が真横に揺れた。
「じゃあ、ほら」
差し出された彼の手に、そうっと手を重ねると、長い指が握り締めた。
安全確保。

 

ふと、ユリウスは、少し前、学校帰りに見かけた老夫婦を思い出した。
最初は並んで歩いていた。手は繋いでいなかった。
そのうち少しずつ二人の間が開き始めたので、ユリウスは見ていて不安になった。すると、前を歩いていた夫が立ち止まり、後方に腕を伸ばした。
皺だらけの無骨な手に膨よかな手が、のろのろと重なる。目も合わさず、一言も喋らない。だけど不思議と、ユリウスの心は温かさで満たされた。
そのまま、二人は歩いていった。
たったそれだけ、時間にしたら数分のこと。

 

夫婦になって歳を取ったら、ボクたちも口数が減るのかな。今よりも喋らなくなるのかな?
無言で差し出された手に、黙ったまま手を入れて、同じ景色を二人でぼんやりと眺めながら、石畳を歩いていくのかな? ──あの老夫婦のように。
そんなことを考えていたら、たった今まで悩んでいたことが、ユリウスはどうでも良くなった。
一段ずつ階段を下り、クラウスより半歩遅れて、ぽんと地面にジャンプする。
「こら」
心配性の恋人が優しく睨んだ。
足首が埋もれるほどのクローバーと、その隙間から顔を出すシロツメクサ。
清冽な川のせせらぎと、枝葉を抜ける柔らかな陽射し。
五月の風が駆け抜けるように、金色の髪とスカートを靡かせる。
ユリウスは広い背中を見つめて言った。

 

「クラウス、ボクをお嫁さんにして」

 

 

 

 

誓い

 

 

 

あの日──色々な場面が目まぐるしく変化して、ついていくのが精いっぱいだった。
夜になって、ベッドに入っても、気持ちが整理し切れなくて、結局翌日へ持ち越した。
クラウスに逢う直前まで、引っ繰り返ったおもちゃ箱みたいに、頭の中は散り散りばらばらだったのに、顔を見て、声を聴いて、手を握られた瞬間に、憑き物が落ちたように治まった。
そして、何の気構えも無く、すんなりとその言葉を発した。
日常の一部のように、息を吐くように、自然と口を衝いて出た。

 

「クラウス、ボクをお嫁さんにして」
──ボクを……、お嫁さんに……。
言葉が、彼の背中に吸い込まれるように消えた頃、ゆっくりと彼が振り向いた。
彼はボクの顔を見下ろして、繋いでいない方の手でボクの頭の天辺を、いつものようにくしゃっと触ると、にっと笑った。
「ばーか。あったりまえだろ?」
ほぼ同時に、繋いだ手がボクの躰を優しく引いた。
もう片方の手がボクの背中を抱き寄せて、それから強く抱き締められた。
ともすれば一瞬にも感じられたこの行為を、どうしてこんなに細かく覚えているのか、とても不思議だったけれど……。

 

「覚悟しとけ。もうお前のこと、一生離さないからな。解ったか?」
クラウスの胸と腕に両耳が覆われて、
──本当に?
こだまのように彼の声が反響する。
──お爺さんになっても?
それが何だか心地良くて、いつまでも聴いていたかったのに……。

 

「おい、返事は?」
「もう、せっかく浸ってたのに……。何なの?」
顔を上げて彼を睨む。
「へ、ん、じ、だ」
「初めに告白したのはボクだよ」
「お前の、返事が、聞きたいんだ」
Jaヤーに決まってるでしょ。ばか」
「ばかとは何だ!」
「自分だって、さっき、ばかって言ったじゃない!」
「お前はァ、相変わらずああ言えばこう言うやつだなッ」
ムードもへったくれも皆無になった。だんだん腹が立ってくる。
「もぉういい! 帰るっ!」
ボクは手を振り解いた。
「わっ、待て待て!!」

 

階段を二段駆け上がったところで、敢え無く手首を捕まえられる。
躰はあっという間に元の位置に。
──どうせまた抱き締めるなら、離さなければいいのに……。
クラウスの胸に埋うずまりながら、ぼんやりと考える。
二人の頭が殆ど同じ位置になる。彼とボクの身長は階段二段分違うのか、と今更気づく。
二つの瞳が同じ高さで睨み合う。

 

「ごめん……。お前にだけ言わせたくなかったんだ。俺からもちゃんと言って、お前から返事が聞きたかった」
「初めから、そう言えばいいじゃない」
「天の邪鬼だからな」
「もう一度、返事が聞きたいの?」
「ああ……聴きたい」
彼の顔に近づいて、ボクは唇を重ね合わせる。
これが……返事。
「ユリウス、好きだ……」
彼にしては珍しく、不明瞭で掠れた声。
じわじわと、ボクの胸を焦がす告白。
「そんなこと、もう知ってる」
「こいつめ」

 

だって、本当のことだもの。
ボクのほうが、ずうっと知ってる。
毎日毎日、積み重なるように……、ボクの躰と心に刻み込まれていった言葉が、今にも零れ落ちそうなくらい、なみなみと溢れているから。

 

 

幻ばかり追いかけていた④

 

何度だって伝えるよ──

 

ユリウス……

分かっている……、とお前は言う。 
知っているよ……、と言われても……

何度でも伝えたい。

 

言葉が溢れて零れて、
お前の顔から笑みが零れて、喜びに溢れるまで……。

 

 

 

 

Crossroads

 

 

※卒業後、パリへ行くことを決意したクラウス。最後の学内演奏会は、お前と一緒に。

ゼバスでの二人のラストステージ。曲はもちろん……。

 

 

ベートーヴェン『ロマンス』第2番──

ゼバスのレッスン室に、こっそり二人で忍び込んで弾いた曲。
あの時は、ぶっつけだったけど、今回はたくさん練習した。時間の許す限り、レッスン室でも、ボクの家でも。
その度にキスをした。
一曲終わる毎に、時には小節の途中でも、どちらともなく引き寄せ合い、口づけを繰り返した。

 

「おい……、練習にならねえって」
耳元で、戯けたように彼が囁く。
「ボクのせいなの?」
唇を尖らせると、ちゅっと彼がキスをする。
そうして、二人で笑い合う。

 

どれだけ練習しただろう。
どれほどキスを交わしただろう……。

 

彼女の鍵盤を叩く指は、すべてを覚えていた。
彼の弦の強弱も、緩急も、呼吸の間さえも……。
彼の弓を奏でる手も、余すところ無く記憶した。
彼女の旋律が、何処で跳ねて何処で溜め、どの位置で震えるのか……。

 

演奏が終わり、幕が下りる。
拍手の音が遠くに聞こえる。
鍵盤に涙が落ちた。一粒、また一粒……。
慌てて袖で拭いた。けれど、後から後から絶え間なく零れてくる。
ピアノから立ち上がるどころではなかったし、顔すら上げられなかった。
その時、クラウスがユリウスの腕を摑んだ。
そのまま、レッスン室まで連れて行かれた。
ドアを閉めた途端しゃくりあげる恋人を、クラウスは抱き締める。

 

「泣くなって」
「泣いて……ないもん」
「はあ? じゃあ、その顔は何だ?」
涙でぐしゃぐしゃのユリウスの顔を、クラウスが覗き込む。
「あ……汗……」
「汗ぇ? 何だそりゃ? 子供だってもう少しましなこと言うぞ」
「……」
「あれ? 子供って言われて怒らないのか? 禁句じゃなかったっけ?」
「もぉう~ッ!」
ユリウスは目を真っ赤にして、摑みかかってきた。
クラウスは笑いながら、両手で彼女を抱き止める。
「お前、泣くか怒るか、どっちかにしろよ?」
「誰が怒らせてるのっ!」
「いてててっ! ばか、やめろって」
「ばかはそっちだよ!」
「何だとお? こいつめ」

 

俺の胸を叩きながら膨れる頬を両手で押さえ、強引に口づけた。
その瞬間、彼女の腕が俺の背中に滑り込み、力いっぱい俺の躰を抱き締める。
初めて喧嘩した日──弾け飛ぶように拒絶した小さな躰。俺を殴った細い腕。生意気な口を利く唇。
その全てが今、俺に縋って絡みつく。


彼の手のひらが、少しずつ熱を帯びて熱くなる。
長い睫毛から伝い落ち、両頬で煌めく……、この世で一番澄んだ水を彼は残らず吸い取った。

 

 

 

 

彼の卒業、彼女の卒業、僕の卒業

 

 

※「俺の女に手を出すな」。卒業式の壇上で、彼は高らかに宣言した。ざわつく場内。凍りつくターゲット。周章狼狽する教師たち。そして消えたい彼女。前代未聞の式典の結末や如何に──?

 

 

閉会後、数多の野次馬どもを振り切って、ホフマンは花嫁を連れ去った──。
少なくとも、イザークの目にはそう映った。
歓声と悲鳴と溜息が一体化したように空気が揺れる。銀幕のなかで観た一瞬の連写。
祭りのあとに漂う一抹の虚しさを感じながら、イザークは考える。
自分なら、同じことは出来るだろうか? 伝統と格式をぶち壊す勇気があるだろうか。
イザークは苦笑する。
いつも想像で終わるだけ。それが答えだ。
それでも、いつか……、
そこまで決意させる相手に、近い将来、出会えるだろうか……?

 

『馬鹿ねえ。あなたには、そんなことは似合わないわ』
脳裏を掠める知らない顔の知らない声。でも、金髪でソプラノだった。
先ず、もっと視野を広げるところから始めないと……。
誰だって好き好んで、あんな荒唐無稽な行動は選ばない。そうせずにはいられなかった彼は、幸せなのか、不幸なのか。
──それでも、やっぱり羨ましいよ。僕は……。

 

クローバー クローバー クローバー

 

彼と彼女は、ドナウまでの石畳を歩いている。
何処よりも通い慣れた道程みちのり
彼が此処レーゲンスブルクを発つまでに、あと何回、二人で歩くことができるだろう……。

 

「今日のこと、怒ってるか?」
彼にしては怖々とした声だった。
「……ううん。びっくりしたけどね」
「お前は自覚がないから、あれくらい釘を刺しておかないと駄目なんだ。ダーヴィトはともかく、あのハリーって野郎までやって来るとは思わなかったぜ。なんで揃いも揃って諦めの悪いやつばっかなんだよ、まったく……」
理由なんて、言われなくとも解っている。それだけ彼女が魅力的だからである。
そして、それほどの相手を掌中にして、悠然と構えていられるほど自分はまだ大人ではないということだ。
「それで、不安は取り除けた?」
「いいや。前よりも、もっとお前を連れて行きたくなっちまった」
「ふぅん……」
「あーあ、参るよなぁ……」
「ふふ……、大丈夫だよ。あの後、アニカがね……」
「は? アニカ?」

 

クローバー クローバー クローバー

 

『感動したわ! ユリウス。良いわ、この私が引き受けるから任せといて!』
アニカが胸に手を当て、宣言する。
『な……何を?』
アニカが発言すると、ユリウスは、つい後退りをしてしまう。
『今後、あなたの半径1メートル以内には、金輪際、男を近寄らせないってことをよ。良いわね? みんな』
『アニカ、それは、いくら何でもちょっと無理があるんじゃないの?』
眉を顰めるリーナ。
『そうだよ!そんなことをしたら、僕だって近づけないじゃないか!』
必死のハリー。
『まあぁ、いい度胸ねぇ、ハリー。クラウスに何本矢を突き立てられたら目が醒めるのかしら?』
ハリーの胸に矢を突き立てる真似をするアニカ。
『うっ……!』
蘇る悪夢。背中を流れる冷や汗。

 

クローバー クローバー クローバー

 

「そりゃあ……、頼もしいな」
「ね?」
淋しさを帯びた笑みで、彼女は彼を見つめる。
「電話するよ。毎日は無理だけど」
小指を絡めて指きりげんまん。
「いいよ、電話代、高くなっちゃうもん」
「何だよ、俺の声、聴きたくないのかよ?」
「本物の声じゃなきゃ聴きたくない……」
「お前、無茶言うなよ。それが出来ないから……」
「嘘だよ。ごめん……」

 

握り締める指の力が強まった。彼女は、ずっと川を見ている。
突然、彼が制服の第二ボタンを引きちぎった。
「な、何してるの? ブレザーが破けちゃうよ」
「良いんだよ。この制服とも今日でおさらばなんだから」
ボタンを握らせた小さな手を、大きな手が包み込む。
「これ、俺の心臓。お前に預ける」
「心臓……?」
「第二ボタンは、一番心臓に近いんだ」
彼は自分の心臓の位置まで、彼女の手を導いた。
「……ほんとだ」
「俺の代わりな」
「クラウスの?」
「捨てるなよ」
「捨てないってば」
「電話もする」
「……うん」

 

ふわり……とキスが落ちてきた。
新緑と、彼の匂い。
「愛しているよ……」
彼女は、広い背中をぎゅっと摑んで目を閉じた。
痛みを伴った温かさが、ゆっくりと、じんわりと、躰中へ染み渡る。
分かっているよ、って言いたかった。ボクもだよ、って返したかった。
だけど……、声を盗られた人魚みたいに、言葉は泡になって海に沈んだ。
涙は出なかった。また少し大人になったのかもしれない。
もう、哀しい涙は流さない。透明な小瓶に詰めて、ポケットに仕舞っておこう。

 

いつの日か訪れる最高に嬉しい瞬間のために──。

 

 

 

 

揺らぎ

 

 

 

約束の日、クラウスがドナウに着くと、川の畔に立っているユリウスの姿が見えた。
クラウスは階段を駆け下りた。いつもと逆だ、と思いながら。
金色の髪を弾ませ、転げるように駆け下りてきたユリウスに、叫びながら走り寄った。
そのうち何度、抱き止めたろう。
初冬の澄んだ陽の光に、眩いくらいに煌めく……羽のついた妖精を。
柔らかな躰と甘い匂いに陶酔しそうになりながら。

 

「クラウスッ!」
ユリウスが走ってくる。
その勢いのまま抱きつかれ、クラウスは後方に数歩よろけてしまった。
「うわっ! おい、熱烈歓迎だな」
途端に、甘やかな香りが立ちのぼる。
「だって、此処で逢うの久し振りだもん」
「そうだよな。ごめんな、なかなか時間が取れなくて」
「ううん、いいの。だって……、仕方がないもの」

 

初めは軽く啄むようなキスを交わす。
でもすぐに、熱く深くなっていく。
逢えない時間が、なおのことそうさせる。
なんだか歯止めが利かないと、お互いに思っている。
クラウスは、彼女の夏のワンピースが眩しくて、袖口から手を入れてしまいたい衝動に駆られた。
彼の指にかかれば、いとも簡単に外れそうなボタンに、手を掛けてしまいそうになる。
そんな自制し難い恋情にブレーキを掛け、漸く躰を離すと、川辺に戻って腰を下ろした。
夏なのに、日は長いはずなのに、時間は二倍速のように過ぎていく。
無情な南風が掠め取る。束の間の二人の時間ときを。

 

「そろそろ、帰ろうか」
「まだ、そんなに暗くないよ」
「うん。でも、こんな時間だ。送っていくよ」
クラウスは時計を見せた。それでも、ユリウスは名残惜しそうな不満げな顔で、鳶色の瞳を見つめていた。
クラウスは立ち上がり、ユリウスの手を取った。階段へ足を向ける。
その時──ユリウスがクラウスにぴたりと躰を寄せてきた。
背中から二本の腕が伸びてくる。クラウスは、細い手首を優しく摑んだ。
「どうした?」
「ク、ラウス……」
「うん? 何だ……」
「クラウス……、ボクのこと……抱いて」

 

 

 

 

天使に溺れた夜…

 

抱いて……と言われた。
か細い声で。
ボクを抱いてと。

 

ほっそりとした腕が震えながら巻きついて、「うん」と言うまで離すまいと、磁石のように背中に貼り付く。
欲望とは裏腹に、諭し、押しとどめようとする己の心を見透かすような甘い誘惑。
揺らいで揺らいで、揺さぶられ……、最後の最後で1パーセントの理性が爆ぜた。


その日は朝から、夢と現の中間を歩いている気分だった。
約束の場所に辿り着いた瞬間、夢が醒め、ただの独り相撲で終わるのではなかろうかと。

けれども、彼女はそこにいた。
真っ白なワンピース、艶やかに波打つ金糸の髪、透き通る白い肌が、きらきらと真夏の光に溶けかけていたけれど、確かに目の前に存在していた。
きらきらと真夏の光に溶けかけて……、
浅瀬に浸けた裸足が宙に浮き、華奢な背中に羽が生え、そのまま空に──
慌てて後ろから抱き留めた。
彼女が驚いて振り返り、耳に馴染んだソプラノで屈託なく笑う。
それでも、手を離せなかった。
見えない不安が背中を覆う。

 

自分が発した言葉の意味を、いったいどこまで理解しているのか。
無邪気にはしゃぐ小さな躰を、逃がさないように、確かめるように、何度も何度も抱きしめた。
「やめるなら、今のうちだぞ」
──やめるなら……?
碧海の瞳がこちらを見た。
──そんな気など無い癖に。
手を繋ぎ、ぎゅっと握る。
ドナウの階段を上り、永遠とも感じる石畳を並んで歩いた。
川面に映っていたはずの半分欠けた青白い月が影のようについてくる。
自分だけを照らしているようだった。

 

──お前は天使を抱くのかと。

 

 

 

 

 

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