『揺らぎ』というタイトルは、
ユリウスの(少女から大人への)心の移ろいと、
「1/f揺らぎ」という言葉から、クラウスだけに響くユリの声
など織り交ぜた意味です。
※「1/f揺らぎ」/五感を通して心地良さを与えるゆらぎ。波の音。蝋燭の炎。鳥の囀りなど。別名ピンクノイズ。
年が明け、二月に入ると、クラウスは入学試験のために渡仏した。
無事に合格すれば、その後は音大生用アパルトマンの契約など諸々の手続きを済ませ、ドイツに戻ってくるのは約一ヶ月後だと聞いていた。
「一ヶ月なんて、すぐだからさ」
クラウスはそう言っていたけれど、今まで一ヶ月も彼と離れたことがないから、それが長いのか短いのかユリウスには判らない。
二年前のクリスマス休暇明け、いつ戻るかも知れない彼を待ち侘びた二週間と、初めから期間が分かっている一ヶ月と、どちらが長く感じるだろう。
──あの時は、一日が千年にも思えたのに……。
その日も、ユリウスの足は自然とドナウに向かっていた。
どれだけそこで待っていても、クラウスは来ないのに……。
橋の上から見た景色は、いつもよりがらんとしていた。
──ひとりだったら駆け下りないんだ。
緩々と階段を下りながら、ユリウスは思う。
雪の積もった地面にしゃがんだ。身を切るような冷たい風に、思わずコートの襟を両手で寄せる。
「ユリウス!!」
背後から自分を呼ぶ声に、彼女は振り返った。
「イザーク? どうしたの?」
「それはこっちの台詞だよ」
黒髪の青年は階段を駆け下りると、少女の腕を摑んで立ち上がらせた。
「な、何?」
「君こそ何してるんだ? こんな寒いところで一人で」
「ボ、ボクは……」
「クラウスに頼まれたんだよ。よほど君のことが心配みたいだ」
「え? どういうこと?」
「君が風邪を引いたら、僕が怒られるってこと」
イザークは、なんだかむすっとしている。御守りみたいなことを押しつけられて不機嫌なのかもしれない。
「ごめんね、イザーク。ほんと、クラウスったら勝手だよね……」
ユリウスは申し訳なさそうに睫毛を伏せる。
「いいんだ……そんなことは」
君に会う理由ができたからクラウスには感謝したいくらいだ──が本心だ。
「でも僕だって、君のことが心配なんだ。あ! 勿論、友達としてだよ」
イザークが慌てて否定したので、ユリウスはくすっと笑う。
「ありがとう。そうだね……、ボク、みんなに心配ばかりかけているね。もっとしゃんとしないとね」
「僕で良いなら、いつだって……」
「え?」
「い、いや……」
イザークは、顔が熱くなるのを感じた。
「えっとさ……、ユリウス、暇ならゼバスに行って僕と連弾しないか?」
「え? でも、この前も言ったけど、君についていく自信ないし……」
「そんなこと、どうでもいいじゃないか。こんな所に一人でいるよりは有意義だし、気が紛れるだろう?」
「それは、そうだけど……」
「ユリウス、あと数ヶ月したら、嫌でもクラウスとは離れなきゃならなくなるんだよ。今からそんなんじゃ持たないよ?」
瞬時に、ユリウスの顔色が変わる。イザークはしまった、と思った。
「ごめん。余計なことを言った」
──何を言ってるんだ僕は、偉そうに……。
彼女の15年を──男だらけの学校の中で、人知れず神経を擦り減らしていた彼女の気持ちを知りもしないで……。
「ううん……、君の言う通りだね。まだまだ先は長いのに、こんなことじゃ駄目だよね」
「ユリウス……」
「連弾、やってみようかな」
「本当かい?」
「それで、何の曲をやるの?」
「そうだなぁ、初めはモーツァルトなんかどうかな? 『2台のピアノのためのソナタ』」
彼の声は弾んでいた。声は正直だ。
「うん、いいね。好きだよ、その曲」
「良かった。じゃあ行こう。楽譜は僕が持っているから」
イザークは華奢な背中を軽く押して、ユリウスを階段へ促す。
「ありがとう、イザーク」彼女は微笑んだ。
「うん……」
表情を変えずにイザークは頷く。
「こんなことぐらいでしか、僕は役に立てないけど……」
「そんなことない。嬉しい」
その言葉だけで、イザークは嬉しかった。
それだけで十分だと思った。
ある程度予想はしていたことだが、クラウスは無事に合格し、かっきり一ヶ月後にレーゲンスブルクに帰ってきた。
二月のひと月を留守にしていたクラウスにとって、春は一瞬だった。そして戻った途端、学校の行事、加えて寮長の仕事で手いっぱいになった。
以前のように、ユリウスと週に何度も逢うことは出来なくなった。
二人で合格祝いはした。ささやかな短時間のデート。ケーキとジュースで乾杯(アルコールは厳禁)。
「おめでとう、クラウス」
「ん、ダンケ」
ケーキは殆どユリウスが食べた。クラウスは、彼女の鼻の頭についた生クリームを指で掬って舐めただけ。
「子供」
「……」
この時ばかりは、流石のユリウスも反論ができなかった。
紫陽花が、道の其処此処に咲いている。
ユリウスが学校帰りに覗いた花屋にも、色とりどりの紫陽花が飾られていた。
膝を屈めて見入っていると、不意に彼女の髪を掠めて長い腕が伸びてきて、ピンク色の紫陽花を二本引き抜いた。
「ダーヴィト!?」
「やあ、ユリウス」
「どうしたの? また帰ってきたの?」
「うーん、用事も兼ねた定期訪問てところかな」
ダーヴィトは、紫陽花を店員に手渡した。
「定期……訪問?」
「いや、何でもない。あぁ、ありがとう」
「綺麗だね、誰かにプレゼント?」
同じピンクのリボンで結ばれた紫陽花を受け取るダーヴィトに、ユリウスが訊いた。
「ん、君にね」
ダーヴィトが花束をユリウスに差し出す。ふわっと良い香りがした。
「ボクに? どうして?」
「元気になるおまじない」
「っ!?」
ユリウスが額を押さえて後退った。
ダーヴィトは一瞬きょとんとしたが、すぐに大笑いした。
「あははっ……、もうキスはしないから安心していいよ、ユリウス」
「……本当に?」
ユリウスは、疑いの眼差しで、ダーヴィトをじぃっと睨む。
「約束するよ。それより、ピンクの紫陽花の花言葉を知っているかい?」
「え? ううん」
「元気な女性、だよ」
「……ダーヴィト」
ユリウスは、零れんばかりの鞠花を嬉しそうに手に取った。
無数の小さな花びらが、風に揺れ、笑うようにユリウスに話しかける。
「綺麗……」
「元気に、なったかな?」
「うん。ありがとうダーヴィト。貰ってもいいの?」
「勿論。きみの笑顔と交換だ」
ユリウスはにっこりと微笑んだ。
その花咲みを、ダーヴィトは慈しむように見つめていた。
そして──また夏がやってくる。
ユリウスは橋の手摺りに凭れかかり、川の流れを眺めていた。
ゆっくり過ぎて欲しいと願えば願うほど、時間は風のように耳もとを擦り抜ける。
神様は意地悪だ……。
──ボクは……、本当に耐えられる?
ユリウスは、彼の存在しない秋からの生活が、未だ想像できないでいた。
クラウスは、いよいよ忙しくなった。
出発の日まで一ヶ月を切ったのに、渡仏手続きや引っ越しの準備やら何やらで、ますます逢えなくなってしまった。
ドナウが……彼を連れて行ってしまう。そんな妄想まで浮かんでくる。
重症だ、とユリウスは頭を振った。
「ユリウス、お客さんだよ」
ユリウスが夕食の準備を手伝っていると、帰宅したヴィルクリヒが彼女を呼んだ。
「え、ボクに?」
ユリウスが振り返ると、クラウスが顔を覗かせた。
「よっ」
「クラウス!? どうしたの?」
ユリウスの表情が輝いた。彼の顔を見るのは二週間振りだった。
「手続き用の書類を貰いに来たんだ」
「僕が家に置き忘れてね。帰りに寄ってくれって頼んだんだよ」
ヴィルクリヒは、たった今持ち帰ってきた鞄から、ユリウスから見えないように書類をそっと取り出した。
それを目にしたレナーテが目を丸くしたので、ヴィルクリヒは、しーっ、と唇に人差し指を当てた。
レナーテは手を口に添えて笑いを堪える。
「そうなんだ。急ぐやつなの?」
久し振りにクラウスの顔を見たユリウスは、嬉しそうに躰を弾ませる。
「ん、まあな」
クラウスは、そんな恋人の仕草を愛おしそうに見つめた。
クラウスは、ヴィルクリヒから封筒を受け取ると、ドアを開けた。
外はもう暗かったが、空には白い月が見えている。
ドア際で立ち竦んでいるユリウスを、クラウスが手招きをした。
「え……?」
ヴィルクリヒもレナーテも、わざと背中を向けている。
外に出てドアを閉めた途端、クラウスが彼女を抱き寄せた。久し振りの抱擁に、ユリウスはうっとりと身を委ねた。
「ユリウス、逢いたかった」
「ボクも……」
「ごめんな。来週は何とか時間を作ったから。いつものとこで待ち合わせな」
「ほんと? 嬉しいっ」
猫が額を摺り寄せるように、ユリウスは彼の胸に顔を埋める。
クラウスはユリウスに口づけると、ヴィルクリヒ家を後にした。
ユリウスは、その後ろ姿が見えなくなるまで、そこから動けないでいた。
まるで両脚に重りが付いたように。
ずっと……、ずっと、クラウスが小さくなるまで立ち尽くしていた。
約束の日、クラウスがドナウに着くと、川の畔に立っているユリウスの姿が見えた。
クラウスは階段を駆け下りた。いつもと逆だ、と思いながら。
金色の髪を弾ませ、転げるように駆け下りてきたユリウスに、叫びながら走り寄った。
そのうち何度、抱き止めたろう。
初冬の澄んだ陽の光に、眩いくらいに煌めく……羽のついた妖精を。
柔らかな躰と甘い匂いに陶酔しそうになりながら。
「クラウスッ!」
ユリウスが走ってくる。
その勢いのまま抱きつかれ、クラウスは後方に数歩よろけてしまった。
「うわっ! おい、熱烈歓迎だな」
途端に、甘やかな香りが立ちのぼる。
「だって、此処で逢うの久し振りだもん」
「そうだよな。ごめんな、なかなか時間が取れなくて」
「ううん、いいの。だって……、仕方がないもの」
初めは軽く啄むようなキスを交わす。
でもすぐに、熱く深くなっていく。
逢えない時間が、なおのことそうさせる。
なんだか歯止めが利かないと、お互いに思っている。
クラウスは、彼女の夏のワンピースが眩しくて、袖口から手を入れてしまいたい衝動に駆られた。
彼の指にかかれば、いとも簡単に外れそうなボタンに、手を掛けてしまいそうになる。
そんな自制し難い恋情にブレーキを掛け、漸く躰を離すと、川辺に戻って腰を下ろした。
夏なのに、日は長いはずなのに、時間は二倍速のように過ぎていく。
無情な南風が掠め取る。束の間の二人の時間を。
「そろそろ……、帰ろうか」
「まだ、そんなに暗くないよ」
「だけど、ほら、こんな時間だ。送っていくよ」
クラウスは時計を見せた。それでも、ユリウスは名残惜しそうな不満げな顔で、鳶色の瞳を見つめていた。
クラウスは立ち上がり、ユリウスの手を取った。階段へ足を向ける。
その時──ユリウスがクラウスにぴたりと躰を寄せてきた。
背中から二本の腕が伸びてくる。クラウスは、細い手首を優しく摑んだ。
「どうした?」
「ク、ラウス……」
「うん? 何だ……」
「クラウス……、ボクのこと……抱いて」
一瞬、何を言っているのか理解できなかった。
クラウスは、ぼんやりと言葉を反芻する。
──抱いて……? 抱いて……、
「だ……っ」
心臓が、一度、止まった。
反射的に振り返る。
「何だって!?」
「駄目! こっち見ないでっ!!」
「え? あ、あぁ……」
クラウスは素直に顔を戻した。
「こっち……見ないで聞いて……」
「あ、あのさ……、ユリウス」
「黙ってて」
「あ、はい」
クラウスは答えて、黙った。
「キスだけじゃ……足りない。もっと繋がりたいって……、思ったの。そうじゃないと、次に逢える日まで、気持ちをもたせる自信がない。それが、いつなのかも分からないのに。クラウスのこと、もっと躰中で感じたい……。ボクのなかを、君でいっぱいに満たしたい。そうなったらきっと……、離れていても持ち堪えられる、って思う……」
吐息なのか声なのか判断できないソプラノが、微弱な電流のように彼の背骨に響いてくる。
柔らかな丸みを通した心臓の音が、どくんどくん……と彼の血管を波立たせる。
「ユリ……」
「だから……、だからクラウス。ここを発つ前に、ボクを抱いて行って……。
お願ぃ……」
辿々しく切れ切れに、今にも消え入りそうな声が発する渾身の告白。
背中が燃えるように熱い。
更に、脳髄の隅々まで血が行き渡る感覚に彼は陥る。
ずっと口を開いたままだったので、喉はからからである。
意識は未だ朦朧としていた。
狐につままれている、とも思った。
或いは、何かの罠かもしれない。
夢ではないか……と何度も頬をつねりかけた。
「ユリウス。俺、お前のこと大事にしたいって……」
「ボクが、いいって言ってるのっ」
ユリウスが、畳み掛けるように小さく叫ぶ。
これが効いた。
血液の奔流が全身を駆け巡る。
眩暈がしそうになるのを必死で堪えた。
「参った……な」
「クラウス……?」
「俺、人間が出来てないからさ……」
「え……?」
クラウスは振り返った。ユリウスは耳まで真っ赤だった。
「やっ……! 顔、見ないでっ」
彼女は、両手で顔を覆った。
聞こえない振りをして、青年は少女の顔を下から覗き込む。
小刻みに震える手をそっと外すと、赤く火照った頬を両手ですっぽり包み込んだ。
「お前にそんな顔をさせて、そんなことまで言わせて、断れるわけないよなぁ」
茹で上がったほっぺたと泳ぎまくりの碧の瞳が、可愛くて堪らない。
クラウスは、ユリウスを抱き締める。
ユリウスは、まるで破裂したての花火のように放心状態だった。
「嬉しいなぁ。出発前にこんなサプライズがあるなんて」
歓びが滲み出る。仕方ない。昔から進化していない──それが男という生物なのである。
「え……、ぁ……」
一方でユリウスは、自分の発した今世紀最大の爆弾発言に、今更ながら顔から火が出る思いでいた。
「そうだ。場所はどうしようか。うーん……」
すると、ユリウスが顔を上げ、
「えっと……、クラウスの……部屋がいい」
か細い声で主張した。
「俺の?」
「うん……、一番、落ち着く場所だから……」
「そうか」
「そう……」
それからユリウスは、また下を向き、彼のシャツの前立て部分を両手で摑み、意味なく擦り合わせている。クラウスは思わず笑いを嚙み殺す。
彼女の全てが愛おしかった。
「ユリウス、ありがとな」
クラウスは空を見た。
本当は碧の瞳を見つめて言いたかったが、きっと彼女は照れて自分の胸に顔を埋めてしまうだろう。
「どうしてそんなこと言うの?」
「うん。言いたくなった」
「……変なの」
「うん……、変だ」
夏の日差しが、いつものようにドナウの水面を照らしつける。
ユリウスは浅瀬に素足を浸けていた。サンダルを両手に持って。
白いワンピースが風にそよぎ、ゆらゆらと裾を揺らしている。
──そう言えば、以前、サンダルが流されて拾ってもらったことがあったっけ。
川下に目を向けながら、ユリウスはサンダルを持つ手を少し強めた。
「おい」
「きゃっ!」
唐突に後ろから抱き竦められ、ドキッとして振り返る。
「クラウス!? あぁびっくりした」
「お前、今、ほかの男のこと考えてたろ?」
「な、何言って……」
「あいつにサンダル拾ってもらった時のこと、思い出してたろ?」
「な、なんで……」
分かるの? の言葉を飲み込んだ。
「許せんなあ。よりによって今日という日に」
クラウスは、ユリウスを抱き締める腕に力を込めた。
彼の吐息で、耳朶が火がついたように熱くなる。ユリウスは激しく狼狽えた。
「ち、違う! そんなんじゃなくって」
「冗談だよ」
クラウスは笑って腕の力をふっと緩める。
「もぉうっ!」
ユリウスはクラウスに摑みかかった。その拍子に水が跳ね上がる。
「こらこら、俺まで濡らすなよ」
「あっ、ごめん」
「そろそろ上がれよ。冷えちまうぞ。おまえ体温、低いんだから」
「うん」
クラウスは手を引いて、彼女を草地へ上がらせた。サンダルを履こうとユリウスが前屈みになった時、髪が真横に流れ、白いうなじが眼前に曝される。
クラウスは思わず視線を逸らした。
「お前さ、足ぐらいちゃんと拭けよ」
ところが今度は、彼女の開いた胸元が、まともに視界に飛び込んできた。慌てて草地に座らせる。
「わっ!」
ユリウスは彼の袖を咄嗟に摑んだ。
「危ないじゃないっ」
「馬鹿やろう! む、胸が丸見えなんだよ! まったく……。ほら、足出せよ」
クラウスはポケットからハンカチを出すと、ユリウスの足を丁寧に拭き始める。
「あ、ありがと……」
「お前ってやつは、17になっても危機感のきの字も……ま、まさか……」
「今度は何?」
次は何を言われるのか、とユリウスは身構えた。
「お前……あいつの前でも、今みたいに思いっ切り前屈みになったのか?」
「えっと、わ……忘れちゃった、かな?」
それは嘘だと、直ぐに彼は勘付いた。
「はあぁ、お前はよぅ……、俺はつくづく、お前を置いていくのが不安になったぜ」
「そっそんな昔のこと、今さら蒸し返さないでよ! 見えたかどうかなんて本当に覚えてないのっ」
クラウスは、裸足のまま摑みかかってくる小さな躰を抱き止める。
ユリウスは、地面に膝をついた格好のまま、身動きが取れなくなった。
「もう……、動けないってば」
「やっと捕まえた……、白い鳥」
「鳥じゃないもん」
そんなことを言いながら、ユリウスは自分が本物の雛のように包まれている気分になった。
こんなに暑い日なのに、やっぱり自分は体温が低いんだろうか……。
「その服、よく似合ってる」
「え、もう何度も見ているでしょう?」
「今日は格別良く見える。今夜、それを脱がせることができるかと思うと」
悪戯っ子の声が囁いた。
「ば、ばか……」
ユリウスは、みるみる真っ赤になった。
「離してっ!」
「なんで離さなきゃならないんだよ。今夜、嫌でもくっつくんだぞ。ん?」
「今夜、今夜って連呼しないでよッ、恥ずかしい」
さっきまで心地良かった胸の中がサウナのように熱くなり、ユリウスは居ても立ってもいられなくなる。
なのに、彼の腕の力は、ますます強くなっていく。
「クラウス……熱い」
息が苦しい。
「ユリウス、本当に……いいのか?」
絞り出すような声。
「えっ?」
「やめるなら、今のうちだぞ」
「クラウス……?」
「部屋に連れて行ったら、もう離さないからな」
どきん、と、心臓が波打った。
今まで聴いたなかで、一番……切なく震えるバリトンだった。
「離さない…で……」
今にも溶けそうな熱さの中で、陽炎のようなソプラノが、揺らいで消えた。