七月──ダーヴィトがゼバスを卒業した。
彼とは、何も無かったと言えば嘘になるけれど……、(クラウスとのことで)たくさん助けてくれたから、今は感謝の気持ちしかない。
卒業後は、ウィーンへ行くらしい。演奏者としては無理かもしれないが、どんな形でも良いから音楽とは関わり続けていたいと言っていた。
彼がレーゲンスブルクからいなくなってしまうのは、やっぱり寂しい。それは素直な気持ちだった。
「ユリウス、ウィーンなんて会おうと思えばいつだって会えるよ。いつでも遊びにおいで。歓迎するよ」
寮の玄関で、ダーヴィトがユリウスに向かって言った。
足元には、ボストンバッグが置いてある。
「ほんと……?」
「おい、なんでこいつが、わざわざお前に会うために、ウィーンまで行かなきゃならないんだよ」
間髪入れず、横からクラウスが口を出す。
「クラウスったら! 直ぐそうやって突っかかるんだから」
「お前もだ。マジで行く気じゃないだろうな?」
「だって、クラウスは寂しくないの? 部屋だってずっと隣同士だったのに……」
「はは……、何なら二人で一緒に来ればいい。ホテルの手配ぐらいしてやるぞ?」
ダーヴィトが言った。
「ホ、ホテルって……?」
と目を丸くするユリウスに、
「勿論、部屋はツインだろう?」
とダーヴィトが片目を瞑る。
「つ、ツインてことは、同じ部屋ってこと?」
「まさかこの期に及んでシングル二つは無いだろう。あぁそれとも、ダブルルームの方がお好みかい?」
「く、クラウスぅ……」
ユリウスが縋るような目でクラウスを見た。
「おい、てめぇ、いい加減にしろよ! 未成年つかまえて何言ってやがるッ」
クラウスは悪友を睨みつけた。
「ほぉう、お前にも一応、分別はあるんだな」
「何だとぉ!?」
「もぉうっ、喧嘩やめて!」
今度はユリウスが男二人の間に割って入った。
「お前のお陰でなかなか楽しい寮生活だったよ、クラウス」
ダーヴィトはそう言って、懐かしそうに自分の部屋だった窓を見る。
「そうそう、ここ一年は、隣の部屋が少々騒がしいこともあったけどな」
ぎっくーん……。
恋人たちは二人同時に目を剥いた。
「さ、さ、騒がしいって……」
「ね、ネズミだっ! ネズミが出たんだよ」
ユリウスが判り易く狼狽する。みるみる顔が林檎になる。
クラウスは、ダーヴィトをぎろりと睨んだ。
その時である。
「クラウス、ここにいたのか。寮監が呼んでるぞ」
寮から出てきた生徒が、クラウスを見つけて声をかけた。
「またかよ? 悪い、ちょっと行ってくる」
「ああ、寮長は大変だな。頑張れよ、主席最上級生」
「まったく煩わしいったらないぜ。直ぐ戻るからな、ユリウス」
「うん」
クラウスは建物の中へ走って行った。
期せずして、ダーヴィトと二人きりになったユリウスは、身の置き場に困り、下を向く。
──よりによってあんな話の後に……どうしよう……。
「ユリウス、喧嘩も程々にな。これからは助けたくても、僕は飛んで行けないからね」
「え?」
顔を上げると、優しげな表情が彼女を見つめていた。
「だ、大丈夫だよ。ボクだって少しは成長したんだから」
「本当かなあ? 僕から見たら、まだまだ危なっかしくて心配だ」
「そんな……、ダーヴィトと比べないでよ」
ユリウスは、途端に不安な顔になる。
「じゃあ……、これはおまじない」
ダーヴィトはユリウスの頭を引き寄せて、額に軽くキスをした。
「ダ、ダーヴィト!?」
ユリウスはびっくりして、額を手のひらで押さえつける。
「やつには内緒だよ。君もそろそろ、そういうことを覚えないとね」
ダーヴィトは、人差し指を唇に当てる仕草をする。
「そういうこと……って?」
「何でもかんでも話さない。顔にも出さない」
「そ、そんなの無理……っ」
キスされたショックに加え、自分の脳で処理し切れない要求に、ユリウスは慌てふためく。
「ほら、もうすぐやつが戻ってくる。やつに僕を殴らせたいかい?」
「ダーヴィトぉ、狡いッ」
数分後、戻ってきたクラウスは、ユリウスの背中を見ただけで、ビビビッと危険アンテナが起立した。
「てめえ、ユリウスに何やった!?」
「だめぇ! クラウス、殴らないでっ!」
ダーヴィトは、あーあ、とばかりに額に手をやり天を仰ぐ。
「だから……言ったのに……」
消え入りそうな声でユリウスが呟く。
ダーヴィトはボストンバッグを持ち上げると、にっこりと微笑んだ。
「餞別をね、貰ったんだよ」
奇跡的なことに、一度上げた右腕をクラウスは戻した。ユリウスはほっとする。
以前のような憤りは、不思議と湧いてこなかった。
唇と額は違うから、と言ってしまえばそれまでだけれど……。
左手をひらひらと振りながらだんだん小さくなっていくダーヴィトの後ろ姿を見送りながら、ボクはクラウスの右手に自分の指を滑り込ませた。
復活祭が終わって数日後、ボクはリーナに自分の過去を打ち明けた。
告白するなら包み隠さず全て話そう、と決意した。
掻いつまんで話すとか、これだけは秘密にしておこうとか、ボクはそんなに器用じゃないから。
時々学校帰りに行くこじんまりとしたカフェのテラス席に二人で座る。テーブルの真ん中に一輪挿しが置いてある。今日の花はピンクと白のガーベラだった。
「久し振りね、ここに来るの」
「ん、そうだね」
「殆ど毎日だものね、騎士のお迎え。時間もまるで判で押したよう、下手な執事よりよっぽど正確なんじゃない?」
「ご、ごめんね、リーナ。ボクも、大変だから毎日はいいって言ってるんだけど。復活祭の後から、なんか彼おかしいの」
「解ってるわよ。目の前で、あんな映画みたいなシーン見せつけられちゃあねぇ。あの後のハリーの落ち込みようったら、目も当てられなかったわよ」
「え? どうしてハリーが落ち込むの?」
「ユリウス、……あなた」
リーナは急に低い声になり、ユリウスを見据える。
「はぁ、益々ハリーに同情するわぁ……。まあ良いわ、放っておこう。それで、話ってなあに?」
今度は真面目な顔になって、友人がボクを見つめる。
ボクは姿勢を正して、頭の中で整理しながら、一つ一つ話し始める。
15年間、男として育てられたこと。
男装をして男子校に通っていたこと。
リーナの顔が少しずつ深刻になっていく。
そこでクラウスに出逢って、気が付いたら好きになっていて、凄く……凄く思い悩んだこと。
それから、女だとばれて脅されかけて、すんでのところでクラウスが助けに来てくれたこと。
張り詰めた友人の表情が、緩やかに安堵に変わった。
それから、クラウスが、ボクを好きだと言ってくれたこと。
それから……、ゼバスを退学になったこと。そして、レーゲンに編入したこと。
新しい学校で知り合って、友人になって一年足らず。
果たしてこれが早過ぎるのか遅過ぎたのか……、打ち明けて良かったのか、それとも言わない方が良かったのか、今のボクには判断できない。
リーナは、ボクの過去に何か秘密がありそうだということは、薄々察していたようだった。
もしかしたら、クラウスから、それとなく仄めかされていたのかもしれない。
だけどリーナは、今まで一度も、ボクには何も訊いてはこなかった。
オペラハウスで──アニカの無理難題の盾になってくれた時、もう言わなければ、ううん、言ってしまおう、と思った。
それに対する反応が怖くない、と言えば嘘になるけれど……。
リーナは、最後まで口を挟まずに、ボクの話を聞いてくれた。
それだけで十分だ、と思った。黙って聞いてくれただけで……。
「ユリウス、話してくれてありがとう」
リーナは一度目を瞑り、ボクの顔をじっと見つめた。
「本当は、言いたくなかったでしょう?」
「え?」
「私に、いつ言おうか、いつ言おうかって、ずうっと考えていたの?」
──あれ……?
ボクの目からは理由もなく、勝手に涙が溢れてきた。
たった今まで何とも無かったのに、どうしてだろ……?
そんなボクを、リーナは何も言わないで、そっと抱き締めてくれた。
ボクの涙が止まるまで……。
ボクより少しだけ背の高いリーナの胸は暖かくて、長い黒髪がボクの顔にふわりと被さってきて……、
それは母さんやマリア姉さまとも、勿論クラウスとも違う、これまで感じたことのない不思議な感覚だった。
「リーナって、同い年とは思えない。ずっと歳上のお姉さんみたい」
「まあっ! 失礼ね」
文句を言いながら、リーナは朗らかに笑っていた。
「ねえ、ユリウス。友達だからって、自分のこと洗い浚い話さなくても良いのよ。言いたくないことまで無理にはね」
「言いたくなかった訳じゃないよ。言わなくちゃ、って思ったの。言わなくちゃってことは、言いたいってことでしょう?」
「うーん、それは一概には言えないけれど……」
リーナはコーヒーを一口飲んだ。
「それにボク、洗い浚い喋ってないよ。クラウスのこととか……はっ」
きらり、とリーナの黒い瞳が光る。そして、カップをテーブルに静かに置いた。
──し、しまったぁ……。
「何か、あったわね?」
「ど、どうして、何かあったって、分かるの?」
リーナはくすっと笑った。
「語るに落ちているわよ、ユリウス」
彼女は身を乗り出して、テーブルに肘をつく。
「ほぅらほら、お姉さん、に言ってごらん?」
ああっ、根に持ってる……。
「え、ええと……、あの……」
ボクは、初めてリーナに詰め寄られた日のことを思い出した。
逃げられない──と思った。
「ええっ!? 逆プロポーズした!?」
リーナが椅子から立ち上がった。
椅子が大きな音を立て、店内のカウンターの奥にいる店員まで振り返った。
あの日──色々な場面が目まぐるしく変化して、ついていくのが精いっぱいだった。
夜になって、ベッドに入っても、気持ちが整理し切れなくて、結局翌日へ持ち越した。
クラウスに逢う直前まで、引っ繰り返ったおもちゃ箱みたいに、頭の中は散り散りばらばらだったのに、顔を見て、声を聴いて、手を握られた瞬間に、憑き物が落ちたように治まった。
そして、何の気構えも無く、すんなりとその言葉を発した。
日常の一部のように、息を吐くように、自然と口を衝いて出た。
「クラウス、ボクをお嫁さんにして」
──ボクを……、お嫁さんに……。
言葉が、彼の背中に吸い込まれるように消えた頃、ゆっくりと彼が振り向いた。
彼はボクの顔を見下ろして、繋いでいない方の手でボクの頭の天辺を、いつものようにくしゃっと触ると、にっと笑った。
「ばーか。あったりまえだろ?」
ほぼ同時に、繋いだ手がボクの躰を優しく引いた。
もう片方の手がボクの背中を抱き寄せて、それから強く抱き締められた。
ともすれば一瞬にも感じられたこの行為を、どうしてこんなに細かく覚えているのか、とても不思議だったけれど……。
「覚悟しとけ。もうお前のこと、一生離さないからな。解ったか?」
クラウスの胸と腕に両耳が覆われて、
──本当に?
こだまのように彼の声が反響する。
──お爺さんになっても?
それが何だか心地良くて、いつまでも聴いていたかったのに……。
「おい、返事は?」
「もう、せっかく浸ってたのに……。何なの?」
顔を上げて彼を睨む。
「へ、ん、じ、だ」
「初めに告白したのはボクだよ」
「お前の、返事が、聞きたいんだ」
「Ja に決まってるでしょ。ばか」
「ばかとは何だ!」
「自分だって、さっき、ばかって言ったじゃない!」
「お前はァ、相変わらずああ言えばこう言うやつだなッ」
ムードもへったくれも皆無になった。だんだん腹が立ってくる。
「もぉういい! 帰るっ!」
ボクは手を振り解いた。
「わっ、待て待て!!」
階段を二段駆け上がったところで、敢え無く手首を捕まえられる。
躰はあっという間に元の位置に。
──どうせまた抱き締めるなら、離さなければいいのに……。
クラウスの胸に埋まりながら、ぼんやりと考える。
二人の頭が殆ど同じ位置になる。彼とボクの身長は階段二段分違うのか、と今更気づく。
二つの瞳が同じ高さで睨み合う。
「ごめん……。お前にだけ言わせたくなかったんだ。俺からもちゃんと言って、お前から返事が聞きたかった」
「初めから、そう言えばいいじゃない」
「天の邪鬼だからな」
「もう一度、返事が聞きたいの?」
「ああ……聴きたい」
彼の顔に近づいて、ボクは唇を重ね合わせる。
これが……返事。
「ユリウス、好きだ……」
彼にしては珍しく、不明瞭で掠れた声。
じわじわと、ボクの胸を焦がす告白。
「そんなこと、もう知ってる」
「こいつめ」
だって、本当のことだもの。
ボクのほうが、ずうっと知ってる。
毎日毎日、積み重なるように……、ボクの躰と心に刻み込まれていった言葉が、今にも零れ落ちそうなくらい、なみなみと溢れているから。