さて、「How To Read」第2回です。
今回のテーマは「行間を読む」です。
永遠のテーマですよね。

というか行間なんて何も書いてないのに
読めるか、っちゅう話ですよね。
正直自分でも行間は
読めてないと思います。
ただ、僕が心がけているのは
話が「とんで」いないかどうか。
これを気にするかどうかで
頭の入りは俄然違うと思います。
やっぱり接続詞は大事ですよね。
これは書くときもそうですが
接続詞の使い方は意識しています。
判決文にしろ教科書にしろ
ダラダラ読んでいても仕方ないですから
メリハリをつけないといけません。
メリハリをつけるときにポイントになるものの
1つが接続詞。
判決文の接続詞の使い方は
本当にわかりやすい。
手を抜こうと思えば接続詞だけ意識すれば
長い判例でも10~20分ぐらいで
概要がつかめるんじゃないか、ってぐらい。
一方教科書では当然ですがまちまち。
しかし最低限の接続詞はあるので
それを頼りにすることはできると思います。

判決文って意外と飛んでますよね。
なんでこれが出てきた?って
結構ある気がします。
まぁ最高裁なら許されるんでしょうが。
そこを埋めるのは知識と論理。
やはり論理が通ってることって大事です。
論理が通ってれば理解がしやすい。
=頭にいれやすい。
暗記には限度があります。

読むことからは離れますが
接続詞の使い方について。
特に書くときです。
僕も含め、ですが
適当に使っている、
あるいは間違えて使っている、
そういった文章が多く見られます。
これは心象悪いですよね。
つまるところ接続詞って
使わずに伝えられるのが
ベストだと思います。
時間もかからないし。
接続詞に限ったわけではないですが
みんなが1文で書くところを
2.3語でかけると
スマートですよね。
到底及びませんが。

最後は話が逸れましたが
接続詞は大事、ということで。
さて、次回のテーマは「タイトル」(仮)です。

既修者試験まで残り3日。
終わったらすぐに試験です。
自己満ブログになりつつある今日この頃。
皆様、いかがお過ごしでしょうか。

そろそろこのブログも
生産的なものにしなくてはならない
ということで、短期連載を始めます。
その名も「How To Read」。
基本書や判例を読むのを
苦痛と感じる方もいると思います。
そうするとなかなか頭に入ってこない。
そこで、頭にいれるためのポイントを
僕の独断と偏見で語って行きます。
(あれ?自己満ブログに変わりなくね?)
ということで反論は受け付けます。笑
というか僕の手法なので
絶対ではない、ということを念頭に
読んでいただけると幸いです。
そして、いままでに書いたことも
多々含まれると思いますが、ご容赦を。

さて、記念すべき(?)第1回は
「Refering Reading」です。
文字通り参照しながら読む、
ということです。
教科書を読むときであれば
六法は当然、判例集も横に置いた方が
いいですよね。
それから参考文献(他の教科書、論文集等)がある
環境であればあった方がいいと思います。
とまぁここまでは当たり前。
さらには読んでいる教科書の
関連部分まで参照することで
Refering Readingは完成です。
もちろんすべて関連するんですが
特に関連する部分、
教科書で「○ページへ」とか
書いてあるとこですね。
これがなかなかめんどくさい。
教科書読みながら判例集めくるのも
メンドウくさいのに
同じ教科書の違うページをめくるなんて
参照先に参照項目があった日にはもう。笑
指が10本では足りません。

しかし、やはり教科書は紙幅の制約もあるので
体系的に書かれていたとしても
完全ではありません。
そもそも条文同士が複雑に(しかし整然と)
絡み合っているのが法ですから
参照項目が1箇所にまとまってないのは
当然っちゃ当然ですよね。

それから、六法を引くことを怠らない。
やっぱり最後の最後で頼れるのは
自分の頭と六法です。
戦場(=試験会場)に持っていける
唯一の武器(=六法)の戦闘力(=使いやすさ)
をあげておくことが勝敗(=合否)を決める
と言っても過言ではありません。(多分)

少し話は戻りますが、
参照を繰り返すことで
知識の階層化も進むと思います。
やっぱりアウトプットが大事ですから
自分の頭のどこに何が入っているか
どれだけん簡単に取り出せるかも
大事だと思います。
ここは後日改めて。
また、イヤでも繰り返すことになります。
知識の定着は繰り返し以外にはないですからね。

ということで「参照せよ」ということでした。
次回のテーマは「行間を読む」(の予定)です。

既修者試験まで残り5日。
追い込む((((((ノ゚⊿゚)ノ
120709(Mon)73'20"
120710(Tue)0'00"
120711(Wed)0'00"
120712(Thu)182'54"
120713(Fri)97'34"
120714(Sat)425'57"
120715(Sun)692'26"
1週間合計1472'11"(約24h)

2日も0時間が…orz
来週は2400分(40h)な。
先週は出願に時間を取られすぎました。
(まだ出してない。)
結構めんどくさいんですよね。
かと言って後回しにしても
気になって勉強にならないし。(性格?)
字は綺麗に書かなくちゃだし。
コンぐらい綺麗な字で
答案もかけるといいんですがね。
次回の出願は8月頭。
私立はこの2校だけなので
これが終わればあとはゆっくりです。
とりあえず既修者試験がんばろ(^-^)/

というか土日一歩も外に
出ていない(´・_・`)
夏休みも出不精になりそう…。
と言っても夏休みなんて
あってないようなものですが。

既修者試験まで残り6日。
1週間切ったばい!
中央の出願準備が
先程終わりました。
あとは切って貼って
ポストに投函するだけ!

…切っていくら貼ればいいの?
速達だし…。
ということでポストにも入らないし
火曜日郵便局に持って行きます。

出願書類は気使いますね。
中央は何と言ってもステメン。
1000字を手書きですからね。
間違えられないというプレッシャーから
柄にもなく気使いました。

あとは結構細かく書いてあったし
悩むことはなかったですね。

しかし既修者が壊滅的なので
どうしたものかと…。
これで中央受かるのか?
イヤ、平均とれてないって
受かるわけない。

既修者試験まで残り7日。
中央試験日まで残り34日。
読了しました。「わが心の旅路」
わが心の旅路/有斐閣

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気になったセンテンスをいくつか紹介したいと思います。
まずは「1 生い立ち」での言葉。
法律家は情に流されてはいけませんが、人情味のない法律というのは死んだ法律だと思うんです。人情というものが法に盛り込まれなければならない。まして、裁判の場面で人情味というものがないような裁判は、私は法を殺すものだと思うんです。殺人剣であってはならず、活人剣でなければならないですね。同じ法を殺人剣にするか活人剣にするかは、裁判官の心構えによると思います。
解釈論として、成り立たないことは無論いけませんが、大阪空港事件なんかでも、あの差止請求を民事訴訟として適法と認める解釈論はゆうに成り立つと私は思うのです。多数意見のような不適法論も成り立つでしょうけれども、我々のような適法論も成り立つ。私は、こういうときは適法論で行くべきだと、むきになって議論したのです。


人情味のある法律(家)。
確かに条文は無機質かもしれませんが
法律家は血を通わすことができると思いますね。

続いて「2 青年の日」より。
民事訴訟法の兼子一先生の難しい講義の話。
わからなくてもいいから、ああいう難しい講義というのはいいですね。いまの学生とそのころの学生と違うのは、いまの学生はわかりいいほうがいいと思っているのではないですか。それに対し、そのころの学生はわかりにくいのにかじり付くような、意地みたいなものをもっていたのです。書物でも、あまりわかりやすい書物などは駄目で、わかりにくい難しい書物と取り組んだものです。もちろん、本当の大家になって、完全に練り上げられ、こなされた理論というものは、わかりいいはずです。ですから、わかりやすいのがいけないということは絶対ない。本当はわかりやすいのが一番いいのですが、解説みたいな形のわかりやすさというのはいけません。本当のわかりやすさは、これは大家にならなければできないのです。むしろ若手の教授は、一種の研究発表みたいな形で講義をするのが、学生に一番いい刺激を与えるのではないでしょうか。学生も一緒に研究するつもりで聞くのが一番いいのです。

本書が書かれたのが20年少し前(S63年)ですから
「いまの学生」というのも2012年現在の学生と
違うのでしょうが、現在のがぅせいのほうが
そういった意地みたいなものがないのでしょうか。
法律を勉強するのは堪え性は必要だと思います。

さて、最後です。
「12 最高裁判所での九年」より。
私は、法学、ことに刑法学というものは、体系的なものでなければならない、したがって、考え方も、体系的思考が基本にならなければならない、という頭を持っているんです。
これに対して実務には、…問題思考が重要です。しかし、実務というのも、実務としての…大きな体系を持っているのです。それは、最高裁判所の判例を根幹とし、下級審の裁判例、あるいは昔の大審院判例を含めた広い意味のはんれいと、それに、実務のしきたりとが結びついて、一つの体系をなしているわけです。それは、学者が個人として持つ体系とはむろん違うものでして、実務家として裁判をやるときには、必ずこの実務上の体系の下で裁判をするわけで、そこにまず、自分個人の学問的体系との間に性質上の違いが出てくるんです。
けれども、その場合、ここの裁判官は、ただ実務的にでき上がっている判例を中心とした体系の中に浸り込んで、それに追随していけば良いのかといえば、むろん、そうではない。法というものは社会が動いていく以上、絶えず発展するものですから、判例を中心とする実務の体系というものも当然に動いていかなければならない、あるいは、動かしていかなければならないのです。どういう方向に動いていくようにするべきか、動かしていくべきか、ということは、各裁判官がそれぞれに考えるべきことです。
そういうことで、私が最高裁判事として実務を行う場合も、自分というものはむろんなければなりません。その場合の自分というものは、一方では学者でもあるところの自分なので、いわば主観的-客観的、
あるいは、主体的-客体的な、両極を持ったものとして、そこに存在するわけです。
…そういう裁判官の自己矛盾的なものを根本に意識しながら、裁判のあるべき姿を描こうとしたものでして、いまおっしゃる問題は、それに触れてくるわけです。従って、簡単に学者としてはこうだ、裁判官としてはこうだというふうに、図式的に割り切ることは決してできない。両方結びついている。良心というものは根本において一つであって、しかし、それがある場合には学者的良心となって現れ、ある場合には裁判官的良心となって現れるといったような、非常に複雑な、立体的な、体験的なものなんです。


学者判事は少ないですから
こういった方の言葉は貴重ですよね。
わかったようなわからないようなところもありますが
また、読み直してみたいですね。

引用も長いのでこれだけで。
既修者試験まで残り8日。