読了しました。「わが心の旅路」
わが心の旅路/有斐閣

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気になったセンテンスをいくつか紹介したいと思います。
まずは「1 生い立ち」での言葉。
法律家は情に流されてはいけませんが、人情味のない法律というのは死んだ法律だと思うんです。人情というものが法に盛り込まれなければならない。まして、裁判の場面で人情味というものがないような裁判は、私は法を殺すものだと思うんです。殺人剣であってはならず、活人剣でなければならないですね。同じ法を殺人剣にするか活人剣にするかは、裁判官の心構えによると思います。
解釈論として、成り立たないことは無論いけませんが、大阪空港事件なんかでも、あの差止請求を民事訴訟として適法と認める解釈論はゆうに成り立つと私は思うのです。多数意見のような不適法論も成り立つでしょうけれども、我々のような適法論も成り立つ。私は、こういうときは適法論で行くべきだと、むきになって議論したのです。
人情味のある法律(家)。
確かに条文は無機質かもしれませんが
法律家は血を通わすことができると思いますね。
続いて「2 青年の日」より。
民事訴訟法の兼子一先生の難しい講義の話。
わからなくてもいいから、ああいう難しい講義というのはいいですね。いまの学生とそのころの学生と違うのは、いまの学生はわかりいいほうがいいと思っているのではないですか。それに対し、そのころの学生はわかりにくいのにかじり付くような、意地みたいなものをもっていたのです。書物でも、あまりわかりやすい書物などは駄目で、わかりにくい難しい書物と取り組んだものです。もちろん、本当の大家になって、完全に練り上げられ、こなされた理論というものは、わかりいいはずです。ですから、わかりやすいのがいけないということは絶対ない。本当はわかりやすいのが一番いいのですが、解説みたいな形のわかりやすさというのはいけません。本当のわかりやすさは、これは大家にならなければできないのです。むしろ若手の教授は、一種の研究発表みたいな形で講義をするのが、学生に一番いい刺激を与えるのではないでしょうか。学生も一緒に研究するつもりで聞くのが一番いいのです。
本書が書かれたのが20年少し前(S63年)ですから
「いまの学生」というのも2012年現在の学生と
違うのでしょうが、現在のがぅせいのほうが
そういった意地みたいなものがないのでしょうか。
法律を勉強するのは堪え性は必要だと思います。
さて、最後です。
「12 最高裁判所での九年」より。
私は、法学、ことに刑法学というものは、体系的なものでなければならない、したがって、考え方も、体系的思考が基本にならなければならない、という頭を持っているんです。
これに対して実務には、…問題思考が重要です。しかし、実務というのも、実務としての…大きな体系を持っているのです。それは、最高裁判所の判例を根幹とし、下級審の裁判例、あるいは昔の大審院判例を含めた広い意味のはんれいと、それに、実務のしきたりとが結びついて、一つの体系をなしているわけです。それは、学者が個人として持つ体系とはむろん違うものでして、実務家として裁判をやるときには、必ずこの実務上の体系の下で裁判をするわけで、そこにまず、自分個人の学問的体系との間に性質上の違いが出てくるんです。
けれども、その場合、ここの裁判官は、ただ実務的にでき上がっている判例を中心とした体系の中に浸り込んで、それに追随していけば良いのかといえば、むろん、そうではない。法というものは社会が動いていく以上、絶えず発展するものですから、判例を中心とする実務の体系というものも当然に動いていかなければならない、あるいは、動かしていかなければならないのです。どういう方向に動いていくようにするべきか、動かしていくべきか、ということは、各裁判官がそれぞれに考えるべきことです。
そういうことで、私が最高裁判事として実務を行う場合も、自分というものはむろんなければなりません。その場合の自分というものは、一方では学者でもあるところの自分なので、いわば主観的-客観的、
あるいは、主体的-客体的な、両極を持ったものとして、そこに存在するわけです。
…そういう裁判官の自己矛盾的なものを根本に意識しながら、裁判のあるべき姿を描こうとしたものでして、いまおっしゃる問題は、それに触れてくるわけです。従って、簡単に学者としてはこうだ、裁判官としてはこうだというふうに、図式的に割り切ることは決してできない。両方結びついている。良心というものは根本において一つであって、しかし、それがある場合には学者的良心となって現れ、ある場合には裁判官的良心となって現れるといったような、非常に複雑な、立体的な、体験的なものなんです。
学者判事は少ないですから
こういった方の言葉は貴重ですよね。
わかったようなわからないようなところもありますが
また、読み直してみたいですね。
引用も長いのでこれだけで。
既修者試験まで残り8日。
わが心の旅路/有斐閣

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気になったセンテンスをいくつか紹介したいと思います。
まずは「1 生い立ち」での言葉。
法律家は情に流されてはいけませんが、人情味のない法律というのは死んだ法律だと思うんです。人情というものが法に盛り込まれなければならない。まして、裁判の場面で人情味というものがないような裁判は、私は法を殺すものだと思うんです。殺人剣であってはならず、活人剣でなければならないですね。同じ法を殺人剣にするか活人剣にするかは、裁判官の心構えによると思います。
解釈論として、成り立たないことは無論いけませんが、大阪空港事件なんかでも、あの差止請求を民事訴訟として適法と認める解釈論はゆうに成り立つと私は思うのです。多数意見のような不適法論も成り立つでしょうけれども、我々のような適法論も成り立つ。私は、こういうときは適法論で行くべきだと、むきになって議論したのです。
人情味のある法律(家)。
確かに条文は無機質かもしれませんが
法律家は血を通わすことができると思いますね。
続いて「2 青年の日」より。
民事訴訟法の兼子一先生の難しい講義の話。
わからなくてもいいから、ああいう難しい講義というのはいいですね。いまの学生とそのころの学生と違うのは、いまの学生はわかりいいほうがいいと思っているのではないですか。それに対し、そのころの学生はわかりにくいのにかじり付くような、意地みたいなものをもっていたのです。書物でも、あまりわかりやすい書物などは駄目で、わかりにくい難しい書物と取り組んだものです。もちろん、本当の大家になって、完全に練り上げられ、こなされた理論というものは、わかりいいはずです。ですから、わかりやすいのがいけないということは絶対ない。本当はわかりやすいのが一番いいのですが、解説みたいな形のわかりやすさというのはいけません。本当のわかりやすさは、これは大家にならなければできないのです。むしろ若手の教授は、一種の研究発表みたいな形で講義をするのが、学生に一番いい刺激を与えるのではないでしょうか。学生も一緒に研究するつもりで聞くのが一番いいのです。
本書が書かれたのが20年少し前(S63年)ですから
「いまの学生」というのも2012年現在の学生と
違うのでしょうが、現在のがぅせいのほうが
そういった意地みたいなものがないのでしょうか。
法律を勉強するのは堪え性は必要だと思います。
さて、最後です。
「12 最高裁判所での九年」より。
私は、法学、ことに刑法学というものは、体系的なものでなければならない、したがって、考え方も、体系的思考が基本にならなければならない、という頭を持っているんです。
これに対して実務には、…問題思考が重要です。しかし、実務というのも、実務としての…大きな体系を持っているのです。それは、最高裁判所の判例を根幹とし、下級審の裁判例、あるいは昔の大審院判例を含めた広い意味のはんれいと、それに、実務のしきたりとが結びついて、一つの体系をなしているわけです。それは、学者が個人として持つ体系とはむろん違うものでして、実務家として裁判をやるときには、必ずこの実務上の体系の下で裁判をするわけで、そこにまず、自分個人の学問的体系との間に性質上の違いが出てくるんです。
けれども、その場合、ここの裁判官は、ただ実務的にでき上がっている判例を中心とした体系の中に浸り込んで、それに追随していけば良いのかといえば、むろん、そうではない。法というものは社会が動いていく以上、絶えず発展するものですから、判例を中心とする実務の体系というものも当然に動いていかなければならない、あるいは、動かしていかなければならないのです。どういう方向に動いていくようにするべきか、動かしていくべきか、ということは、各裁判官がそれぞれに考えるべきことです。
そういうことで、私が最高裁判事として実務を行う場合も、自分というものはむろんなければなりません。その場合の自分というものは、一方では学者でもあるところの自分なので、いわば主観的-客観的、
あるいは、主体的-客体的な、両極を持ったものとして、そこに存在するわけです。
…そういう裁判官の自己矛盾的なものを根本に意識しながら、裁判のあるべき姿を描こうとしたものでして、いまおっしゃる問題は、それに触れてくるわけです。従って、簡単に学者としてはこうだ、裁判官としてはこうだというふうに、図式的に割り切ることは決してできない。両方結びついている。良心というものは根本において一つであって、しかし、それがある場合には学者的良心となって現れ、ある場合には裁判官的良心となって現れるといったような、非常に複雑な、立体的な、体験的なものなんです。
学者判事は少ないですから
こういった方の言葉は貴重ですよね。
わかったようなわからないようなところもありますが
また、読み直してみたいですね。
引用も長いのでこれだけで。
既修者試験まで残り8日。