SHOKEI 'S TIMES -44ページ目

見えすぎちゃって 困るの~♪  12/5

 [ 私の好きな絵 ]

$shokei's time-aaaブランコ 横山操『ブランコ』
日本画家の横山操氏の なんでもないようなブランコの素描
夕方、ついさっきまで子供が遊んでいたような温もりを感じます。
学生の頃から 好きな1枚です。




   手に取るな
   やはり 野におけ
   蓮華草


これは志ん生の落語に出てくる都々逸(どどいつ)で
< 野に咲いている花は 摘み取って家に持ち帰って眺めるより
自然の中で見るべきだ >と歌いながら、その意味は
< 遊郭の女を嫁にするな >ということのようです。

外国の薄暗い美術館(想像だけど)から名画を数点、
まるで野の花を摘むように 借りてきて、
照明ギンギラギンのデパートで陳列するのは、
あまりいいコトだと思いません。

本物が見れるという点はいいのですが
見せ方に問題があると思います。

昨今、何でもハッキリクッキリがいいような風潮がありますが、
絵は一部を除き 醸し出す味わいを楽しむモノなので
無影灯のような明るさは必要ないと思います。

表面がよく見えてしまうと部分や技法ばかり目立ち
内面や存在そのものが 見ずらくなってしまいます。

それに昔の画家は職人ですから依頼主が、
どこに(明るい部屋とか)絵を飾るか、
その場所によってキャンバスの布目の粗さまで考慮したそうです。


彫刻家/画家のジャコメッティは、
昼からずっとデッサンをしていて夕方になっても電灯をつけず、
アトリエ内が暗くてほとんど見えないぐらいになった頃
「やっと見えるようになった!」と言って描き続けたそうです。

$shokei's time-おとこの頭部          ジャコメッティ『男の頭部』



普通、デッサンをする時、
対象をあちこちから観察して 形を把握したら
「目を細めて見る」ことを勧めています。

目を細めると 細部が よく見えなくなった分、
全体が見えるようになるし 
生物学的にも脳が、暗くなることで
色で見るより明暗モードに切り替わり、
形を見ようとするそうです。

展覧会場は暗い方がいいと言っているのでは    
ありません。                                             
                  
作品が作られた時のような自然光に近い状態か、
あるいは元あった美術館の雰囲気も再現してもらえたら…と思うのです。

休息したい居間の照明みたいに明るさを少しおとした中で
ゆっくり向き合いたいと思います。

山田太一の小説『見えない暗闇』というのがあり、
現代の都会の夜は,明るくなり、昔のような暗闇が
無くなってしまったことを意識させてくれます。

街だけでなく すべてのこと(精神的なコトも)に
暗闇は必要だというテーマで書いてあります。

人間関係や子育てに於いても秘密や影があって当然なのに、
重箱の隅々まで光を当ててしまう今日の風潮は、
逆に多くの問題を生み出してしまうようです。


谷崎潤一郎の著書に『陰翳礼讚』があります。

今となっては時代遅れな論考もありますが、
金屏風と羊羹の面白い話が書かれています。

金屏風はケバケバしいですが あれは
暗い家の奥の方に置き 闇の中の僅かな光を集めて
幽かに光っているもののようです。

こういう物も明るすぎる展示室で見ると
アリガタミも深みもなくケバケバしく感じられてしまいます。

昔の日本の家屋は暗いので 漆器の美しさは、
燭台の薄明かりの中で見た方が よくわかると言います。
和菓子の羊羹も 部屋の中の暗闇の下で
食べることをすすめていました。

「~羊羹の色あいも、あれを塗り物の菓子器に入れて、
肌の色が辛うじて見分けられる暗がりへ沈めると、
ひとしお瞑想的になる。
人はあの冷たく滑かなものを口中にふくむ時、
あたかも室内の暗黒が一箇の甘い塊になって
舌の先で融けるのを感じ、
ほんとうはそううまくない羊羹でも、
味に異様な深みが添わるように思う。」

羊羹の名前に「夜の梅」とか 闇に因んだ名前が多いのも
そのせいかもしれません。

なるほどー って思って夜、暗い部屋で羊羹を食べましたが
う~ん~  谷崎潤一郎の気持ちもわからんではないが
これは 少し明るい方がよろしいですな。


月天心   12/3


今夜は、0時過ぎにアパート(アトリエとして使用)に向かう為に
家を出たら、頭の真上に満月が煌々と輝いていました。

$shokei's time-月と私 『月と私』F6号


月を見る時、月も同時に自分を見ているのだろうと考えます。


「月天心 貧しき町を 通りけり」(蕪村)



与謝野蕪村の句です。

今晩のように夜空の真ん中を月が通っていくのを見る度に
この句を思い出します。

この句は 自分が夜の町を通りながら
月を見ているというのでは なく、
貧しい町自体が 自分の心を表しているようです。



$shokei's time-ルオー ルオー『郊外のキリスト』

そう思うと 
月夜を描いたルオーのこの絵を鑑賞する際に 
自分を 町の建物の目線になって(後ろの建物が顔みたい)
キリストの孤独を包むような気持ちで見ると
面白いです。 


蕪村が描いた
月の絵があります。

蕪村の水墨は気韻があり
凄くいいです。
(かなり横長な絵ですので
部分だけアップします。)
『嵋峨露頂図巻』より


$shokei's time-蕪村 
蕪村

ヘンな月だけどリアリティ(説得力)があります。

「月」は昔、文学や絵の対象にならなかったそうです。
民族信仰が強く、平安時代には不吉なシンボルで
月光に照らし出されることを避ける風習があったそうです。

民間行事としての「月見」は、近世以降で
「月」を神として招いてお祭りをしているようです。

いつの時代も特別な存在でした。

蕪村の月を見ていたら
好きな版画家の
清宮質文氏の月を思い出しました。


$shokei's time-清宮『深夜の蠟燭』

ね  ちょっと似てるでしょ
どちらも面白い!

清宮の木版画は 現実と幻想の境がなくて
お化けなんか いて当然っていう世界があります。
この人の目には こう見えていたんだろうなって
思えてきます。

$shokei's time-星占清宮質文『星占』


$shokei's time-コップの中の蝶
清宮質文『コップの中の蝶』

午前3時過ぎ 自宅に帰りました。
月はまだ 高く輝いていますが
雲が だいぶ多く出てきました。

夜と雨の匂い



松田正平展DM   12/1

$shokei's time-案内状松田正平展の案内状「農夫」
       2009・12/5(土)-12/19(土)フォルム画廊  銀座5-7-10
                              ニューメルサ7階

昨日、届いた個展案内状の中に
フォルム画廊から『松田正平展』がありました。
銀座5丁目ニューメルサの7階にある小さな画廊ですが
格調高い作品の展示が多く、時々フラリと見に行きます。

先日は閉店後に外から覗いていたら、
わざわざオーナーが開けて 電気をつけてお話してくれました。
私の風体から見ても 絵を買う客には絶対見えないのに
丁寧に対応してくれました。

松田正平氏という画家は
いい絵を描かれます。
下の犬の絵は画文集『風の吹くまま』(求龍堂)に
載っていましたが この表情がたまりません。
こういう犬を見たことあるような気がします。
しょうもない顔している

$shokei's time-犬


こちらは松田氏の自画像。
笑っている自画像(それも歯が抜けている)は
見たことない。
どことなく上の
犬に 似ています。
$shokei's time-自画像

こういう絵を見ていると
心が素直になれると言うか
絵は面白いって思います。



ビル・エバンスを聞きながら   11/30


学生の頃は、クラシックよりジャズやロックをよく聴いていました。

友人の家でビル・エバンスの『ワルツ フォー デビー』のLPを聴いて
スコット・ラファロのベースに惚れ込み、
ウッドベース(コントラバス)をちょっとだけでも
いいから 弾いてみたいと思いました。
私は、すぐ その気になってしまいます。

ここをクリックすると<ワルツ・フォー・デビー>
http://www.youtube.com/watch?v=LD_IxNosGDs

探していたら、大学の友人が「うちの部にあるょ。」と言って
マンドリンクラブに連れていかれました。

マンドリンやクラシックには当時、あまり興味はないけど、
ボ~ッとしていたら入部させられ、
そのまま演奏旅行の為の山中湖強化合宿にも参加、
スパルタ訓練の日々が始まりました。

全くの初心者なのに演奏旅行の為
「1ケ月でマスターしろ。」と言われました。
指にマメができ、そのマメが潰れ血が出ると、
その上からセロテープを巻き、練習を続けました。
弓を使ったボーイングは弓の持ち方も教えてくれず、
かなり苦労をしました。

基本的な4ビートのブルースコードだけでいいのに
ヨハン・シュトラウスの「青きドナウ」や「真珠取りのタンゴ」等を
演奏しました。 こりゃ スコット・ラファロじゃないぞーッ。

でも ベースに慣れてくると、演奏中の全体の音が聞こえるようになってきて、
いろいろな面白さを発見しました。

弦楽オーケストラの後ろの方で一番低音パートを弓で弾いていると、
オーケストラ全体の音を根底から支えているような手応え・錯覚を感じ、
これはこれで かなりの快感でした。他の楽器では味わえないでしょう。

でも楽譜に書いてあることの忠実な再現のみを追う
サークルの姿勢に疑問を持ちました。

ベースは普通、和音のルート音と5度の音を入れて弾いていますが
( C だとドミソのドがルート ・・・専門知識はないが   )
ビル・エバンスはベースのスコットラファロに 
その主音を省くよう指示したと聞きました。

ルート音がないと カタチが不安定になりますが、
その分 自由になれると思います。
絵で考えると輪郭線をボカしてしまい曖昧にして
抽象化していくのと似ていると思いました。

ビル・エバンスも従来のコードを代理コードにしたりして即興するので 
どんどん広がっていく感じです。
ベースが通奏低音やリズムキープの役割から解放され、
個として同時進行する・・・


絵を描いていて 内容ではなく
技術的な面で 一番、大切だと思うのは
ヴァルール(色価)だと思います。

輪郭の意味が弱まり色面と線の意味が問われ始めると
ヴァルールの操作が必然になります。
オーケストラに於ける指揮者の必要性なみたいな感じです。
全体の構造を再構築する為には必須なポイントだと思います。

形を崩して「わからない絵」にしていくことで
短絡的に納得してもらわず、疑問をもったまま
全体を見て 全体から感じてもらおうとします。

個として存在するのではなく
関係の中で生きているという 認識論みたいな感じ。

とにかく輪郭線を弱め個々の意味を少なくすることは
全体としての意味が重要視されることになります。

レンブラントやフェルメールの絵の一部分と
抽象画のモンドリアンやロスコの一部分では
全く意味や価値が違うということです。

$shokei's time-フェルメールフェルメール


$shokei's time-ロスコマーク・ロスコ

$shokei's time-モンドリアンモンドリアン

抽象的な絵に向かおうとすることは、
(形を崩し、不安定にし、ドラマトゥルギー的な意味を省くことには)
現実の再現から縁を切り離し、絵は平面でしかない前提の元に
全体性を重んじた 詩的制作だと考えています。


話が また少し逸れてしまった・・・・かな。


ビル・エバンスが作り出した世界は
所謂モダンジャズから脱却した抽象的な独自な世界だと思います。

マイルス作曲の『ナーディス』を最晩年、頻繁に演奏しています。
それも15分以上かけた演奏も多く、
この曲を大切にしていたことがよくわかります。

一般的には、ビル・エバンスというとお洒落で知的で
美しく繊細というイメージがありますが、
肝硬変で冒され浮腫んだ指で弾きまくる姿は凄まじいと思います。

亡くなる2年前の動画。1978年。



妻子とも別れ
仲間からの入院の勧めを断りつづけ
死ぬ3日前までライヴでピアノを弾き続けた・・・

1980年亡くなる数日前の演奏。ベースのマーク・ジョンソンも頑張っている。


エバンスはいつも青白く燃えていましたねぇ
私も少しは 燃えたいです~



<

曖昧    11/29


   「ひとつの大きな真実のための
      無数の小さな嘘」


                              (ボナール)




昨日まで学校で 学生作品の採点に追われていました。
(この学校は11月末が二期終了の為) 

子供の頃に「迷い小僧」と呼ばれた私にとって、
採点はとても苦手で疲れる作業です。

下手だけど努力している作品や上手だけれど手を抜いた作品などを 
どう評価すべきか…とか 
個人的には 好きだが客観的には否定されそうな作品とか……など
共通感覚的な問題です。

誰が見ても Aランクだとかハッキリ区別が出来そうな作品や学生は、
あまり問題ないのですが…
実際はAとBの中間とか、
BとCの間になってしまうような作品が多いのです。

数年前 大学の入試に関わったことがありますが
実技試験の採点に於いても 、
やはり合格と不合格の境目あたりの作品の採点が曖昧になります。
「この子は伸びるかもしれない」とか
「きっと頭がカタそう」とか言う教員の根拠のない憶測も入ってしまいます。
それで ほんの1~2点足らなければ不合格。
その子の人生が変わってしまうかもしれません~

曖昧で 損をする人もいれば
逆に得をする人もいます。

私は、曖昧さの恩恵を受けて
ここまで生きてこられたような感じがしています。

学校の成績評価は一講師の価値観ではなく、
本来は、その学校の理念から評価基準を捻出すべきだと思いますが、
絵の評価を統一させることは難しいし、
また絵画でなくなってしまう弊害も出てくるでしょう。

ある程度の含みを持った方法でするしかないでしょう。

やっぱり 曖昧になってしまった。


ボブ・ディランじゃないけれど

「答えは風の中」→いつまでも「揺れていて定まらない」ものであってほしいです。






答えは、たぶん 外にあるのではなく
自分の内側か 
自分と外の間の曖昧な部分に
隠れているのだと思います

中原中也は いいなぁ    11/28


マックさんのブログを見たら
中原中也の詩がのっていました。
『在りし日の歌』から「秋の日」。

無形の筏・・・陽かげ・・・中也の心の翳り
くちびる結んで・・・・軽い憂愁・・・
う~~~~ん  いいんですよ ね。

中原中也の詩集(文庫)を鞄に入れて
よく 持ち歩いています。

汚れちまった悲しみに・・・も好きだが
学生の頃から好きなのは
『蛙声』
このスピード感や広がり・・・
疎外感、終末感・・・
また 荘子の冒頭みたいに
イメージの大きさに
まいってしまいました。

( 荘子は、アジア大陸ぐらいの 
  巨大な鳥が飛び立ち
  宇宙まで行くと 地球が青く見えたと
  飛行機すらない時代に書いている。
  イマジネーション。こちらも凄い・・・ )


私のブログの8/11  8/18  8/20 あたりには
中也の詩『月夜の浜辺』をイメージした
というか もとにした絵を
恥ずかしながら 描いてのせました。

この詩も好きで いいけれど
「月夜の浜辺がいい」と先に言ったのはBERUK
なんで~
ここは やっぱ「蛙声」をマネしてアップしておこうっと

中也の子供時代、
裏庭が田んぼに囲まれていたので
梅雨前から夏の終わりまで続く
無数の蛙声を恐れたとか・・
何かで読んだことがあります。

そんな原体験と 
東京に出て来てからの感じた終末感・・・・
それに世俗の噂声や批判などが入り交じって
ひとつの核(心象風景)が出来上がってきて
それが どんどん大きく育って巨大な世界(宇宙)に
なっていく感じがします。


   蛙声

天は地を 蓋ひ(おおい)

そして、地には偶々(たまたま)池がある。

その池で今夜一と夜さ蛙は鳴く・・・・

ーーーあれは、なにを鳴いてるのであろう?



その声は、空より来り(きたり)、

空へと去るのであろう?

天は地を蓋ひ(おおい)

そして蛙声は 水面に走る。



よし此の地方が(このくにが)湿潤に過ぎるとしても、

疲れたる我等が心のためには、

柱は猶(なお)、余りに乾いたものと感はれ、



頭は重く、肩は凝るのだ。

さて、それなのに夜が来れば蛙は鳴き、

その声は水面に走って暗雲に迫る。

         (中原中也)


シューマンが好き  11/26


個人的な持論ですが、 ジャズやロックは漫才、
クラシックは古典落語と似ていると思います。

ジャズは、ノリとスピード感、即興性、掛け合い、独創性…
クラシックは古典の解釈 間合い テンポ 構造性… 。

落語と言っても 呂律が廻らないフリーな志ん生と 
ハッキリクッキリ正統派の円生のような方向性があり、
中間を行く文楽みたいなやり方もあります。

私は志ん生の落語を聞いていると、
その自由さから元気づけられます。

クラシックの演奏にもキッチリ正統派と
演奏家の解釈を全面に出した演奏があります。



シューマンの音楽ってクラシックの中でも
ちょっとヘンだと思います。

小さなピアノ曲を20曲も集めて作った『謝肉祭』には
自分の分身や妻クララやショパンなど登場させるし
「スフィンクス」という小曲の楽譜は音列だけしか書いてなくて
演奏家が自由に弾く・・・弾かなくてもいい・・・という。

『ダヴィッド同盟舞曲集』もヘンだし
アマチュア作曲家の旋律から作った『交響的練習曲』
文学的な小品集『幻想小曲集』などなど
構成も発想も 自由さがあちこちに感じられます.


シューマン自身もヘンな人で
ピアニストになりたくて 指を鍛える為に
1832年に当時の開発された?ピアニストの為の指の訓練器
「カイロプラスト」で右手の人差し指と中指を麻痺させてしまい
ピアニストの夢を断念したそうです。(星 飛雄馬の大リーグ養
成ギブスみたい)


$shokei's time-シューマンb



ペンネームを使い文筆家としても活躍し、
ショパンを世に紹介もしました。

11才のクララに恋をして10年かけて結婚。(9才違い)
面倒をみていた若いブラームスと妻クララがデキてしまい・・
ライン川に身投げしたり精神病院に入ったり・・・

常に新しいことや
形式の枠からはみ出すようなモノを求めていたようです。

演奏するのにも ひとクセ必要みたい~
ちょとズレたり、ユレたりする方が面白いみたいです。
演奏家の腕次第でいろいろ変化するようです。


シューマンの音楽的自画像と言われる『クライスレリアーナ』
という8曲からなるピアノ組曲は
作家ホフマンが作り出した「クライスラー楽長」になぞられた曲集。

私はこの最後の曲の終わり方を聴くと
自分が死ぬ時のことを考えてしまいます。

淡々とテンポ良く歩いているうちに フっと終わりが来ます。

マーラーの第9やチャイコフスキーの第6「悲愴」の最後も
静かに消えていきますが
シューマンのこの終わり方が リアルだと思います。




学生の頃  11/23


大学院の頃、1つの教室を二人で
アトリエとして使わせてもらっていました。

私の相棒はシナリオライターになりたいと言って
学校に来なくなったので 、
私は 教室をほとんど一人占めして絵を描いていました。

ある時、知らない おじさんがフラリと入ってきて、
いろいろ話かけてきました。


$shokei's time-のみ


外国と日本の空間意識の違いや
絵について面白い話をたくさん聞かせてくれました。

後で友人に言うと
「野見山暁治先生を知らんのか~!」と馬鹿にされました。

芸大の教授でしたが 多摩美の大学院にも少し来られていたそうです。
あの日以後、大ファンになりました。

野見山先生は「画家にはマティス型とピカソ型がある」と言います。
ニーチェが『悲劇の誕生』で
アポロンとディオニソスに分けた論考に似ていると思いました。

しかしマティスが アポロン的というのは一般論であって
実物を直に見ると多くの葛藤や躊躇の痕跡が伺え、
何度も消した線を残すデッサンなど 一見静かですが
ディオニソス的とも言えると思います。
(注=野見山先生はアポロンなんて言っていません。私の勝手な解釈です。)

晩年の切り絵シリーズに於いても 画集や画像で見れば
知的でなんの迷いもなく制作されたように見えますが
実物は 試行錯誤しながら 貼り合わせていく過程がはっきりわかり、
まるで意図的に残されたかのようです。

$shokei's time-マティス1マティス『青い裸婦』
$shokei's time-マティス2マティス『青い裸婦』




反対にピカソは自由奔放に描いているように見えますが
構図や技法は かなり古典的だし、発想はグラフィックな感じもするので
アポロン的な要素も感じられます。


私はマティスが20世紀の中で一番、画家らしいと思っています。

$shokei's time-ロシア
マティス『青い瞳』(1935年)
(私は このロシアの女性の絵が 昔から好き)

$shokei's time-リディア
(マティスはこのリディア・デレクトルスカヤが好き)



要するに大切なのは作品には 
リアルな相反する要素(矛盾)が同時に内在すべきなのでしょう。


音楽の演奏で
演奏家が 一人、感極まって 
涙して弾いた演奏に いいものがない と言います。
泣かせるのは自分でなくて観客のはず・・・
ホットな演奏をする人は
同時に クールでなければなりません。

画家スーチンは 筆が折れるほど 
感情的に描いたように言われますが
誇張され ねじ曲がったフォルムは
レンブラント等の構図法に添って
歪められていたりします。

絵は 本音であればあるほど
見せたくない けれど見せたい
ものだと思います。

とにかく作品の価値は 広い意味で
内在するその矛盾率の高さだと
言えるかもしれません。


ショウケイ


大学に入る前に李禹煥氏の著書『出会いを求めて』を読み
かなり刺激を受けました。(悟り?の<場>との出会い) 
表象化(オブジェ思考)批判の中で引用されるメルロ・ポンティに
興味が出てきて メルロ・ポンティ著書『眼と精神』に挑みました。

当時、短い論考なのに一人で読んでも理解出来ず
いろいろな人たちと合計4回も自主的な勉強会を開いて
一字一句ずつ読み進めた覚えがあります。(でも わからん)

メルロ・ポンティと共に読み進めた
西田幾多郎や鈴木大拙の『即非の論理』(絶対矛盾の自己同一性)は
絵を描いていく上での 自分の基盤になったと思います。

大学に入って暫くすると
李禹煥氏が学科の講師として来られるようになりました。
その後、李先生には大学院のゼミでも お世話になりました。
「便利は不便ですから~」とか
「一は即、多ですから~」とか
禅問答のような授業が続き その即非の考え方が
キタエられたように思います。



え~
引き技(ここだと言う時、強く弾かずに
弱音で演奏したり・・・)のうまいジェフ・ベックを見ながら
今宵はズブロッカで~  晩酌
この酒は 和菓子(柏餅/サクラ餅)みたいな味ね。




ジェフ・ベックが来日した時、有楽町のライヴを見に行きました。
歳をとっても キレのあるイイ演奏でした♪。








言葉と絵(中間部改訂版)   11/22

$shokei's time-星の王子



    努めなければならないのは、
    自分を完成することだ。
    試みなければならないのは、
    山野のあいだに、ぽつりぽつりと光っている
    あの ともしびたちと、
    心を通じあうことだ。
                   サンテク・ジュペリ「人間の土地」



好きなフレーズなので 引用しました。
表現者のひとつの有り様にも思えます。


堀口大学の和訳は堅苦しくて嫌いですが、
この『人間の土地』に於いては 部分的に 
なんか納得しています。

最近の新和訳では 

   たがいに結びつくように試みなくてはならない。
   田園のなかにぽつんぽつんと燃えているそれらの灯の
   いくつかと通じ合うよう努力しなければならない。
                    
                     (山崎庸一郎訳)

・・・と わかりやすい言葉で書いてあります。
でも堀口の旧和訳に馴染んだ脳みそには
なんか 物足りなく感じてしまいます。

本文の内容は新和訳の方が
ずっと 理解しやすくて、面白く読めます。

原文のニュアンスを訳すというのは難しい問題ですが、
単に「言葉」の在り方だけを考えても
面白いと思いました。

サンテクジュペリの『人間の土地』と『X将軍への手紙』は
画家の(故)末松正樹先生からの勧めで読みました。
飛行機が自分の手で直せる「道具」だった時代が終わり
「機械」になっていくことを悔やむ『X将軍への手紙』は
末松正樹先生の遺書のようにも感じられました。


      ショウケイ




大学を出た直後、公立中学の美術教師をしました。

その際、人員不足から美術以外に
国語の授業も持たされました。

国語の免許は取得していないので 
今なら大問題になると思います。


$shokei's time-学校


その中で「詩の鑑賞」を教える際に 
どう説明したらよいか困り
黒板いっぱいに 
いろいろなイメージ画を描いて説明しました。

生徒は国語のノートに絵を描き写し・・・
後日、ノートに落書きをしていると 
父兄から苦情がきました。


「詩」は言葉を使って 
「言葉じゃ表せないモノ」を作り出しますが
それを また「言葉で説明しなければならない」・・・???
私のようなシロウトにはかなりムズカシかったです。



ですから 美術評論家っていう仕事もムズカシイと思います。

画家は 言葉で言えないモノを絵にするのでしょう。
その「言葉では言えない」ものを理解し また言葉に翻訳して
自分の意見を書くのですから 大変な仕事だと思います。

そのせいか 昔は 詩人の方が、美術評論を書いていました。

しかし最近の評論家の多くは 本人の目で見たと思えないものや
過去の文献からの引用が多いように感じることがあります。

NHKの日曜美術館に於いても
ゲスト出演者の中には、私的な感情論だけを振りかざし
まるでワイド・ショーになってしまっていることもあります。

ちょっと美術を知っている人達が
井戸端会議のように集まって、
言い尽くされた感想を述べあい、
絵の見方まで決め付けてしまうような
あの感じです。

プリンスのGOLDという曲の歌詞に
「誰もが すでに語られたことを語りたがる。」という
フレーズが出てくるのを思い出します。

絵の見方なんて自由に見れるから面白いのに~。

ただ「絵は文化」ですから 
ある程度のルールを理解すべきだと思います。


「絵は 好き嫌いでいい」なんてのは
素人向けの方便だと思います。

サッカー選手のベッカムの容姿がカッコいいので
サッカーに興味がないのに 
ベッカムは好きと言うファンがいます。
サッカーのルールを覚え、試合の面白さがわかれば、
ベッカムのスゴさがわかり、もっと好きになれるでしょう。

絵も同じです。

小さな子供に 突然 ピカソやポロックを見せて
「心で見ろ!」なんてバカげています。
つい さっきまで
「キレイに はみ出さないように
よ~く見て そっくりに描きましょう。」と言っていた先生が
急に 違うことを教えても わからないのは当然でょう。

歴史的な順序(意味)も考えず やみくもに
レンブラントとピカソを見せられたら
誰だって「好き嫌い」の判断しか言えません。
いわゆる『植民地的価値観』になってしまいます。

印象派と後期印象派は正反対の思想から生まれているのに
日本のデパート等では 一緒に混同して
(「儲かればいい式」だけなので~)
キレイさや珍しさばかり強調し、
作者の制作意図など関係ないように陳列されます。

たとえば 写真作品を鑑賞する際でも
カメラマンが なぜ、そこでシャッターを押したのか
を考えながら見たいと思います。

(話が 逸れそうなので 戻します)

とにかく
NHKなどの教育番組!では
文化としての最低限のルールや
その作家や作品世界への入り口を
紹介してほしいと思います。

表現行為の報道を 若者に媚びたりせず
刹那的なファッションにしてほしくありません。

また 某老詩人の美術評論などは 
絵なんか関係なくなってしまっているようで 
言いたいこともなく、以前の持論を繰り返したり
ただ ご自分の「言葉の羅列」に ただ酔っているだけ
そんな「言語の自慰症」傾向がみられます。

(問題外だけれど)


そんな中・・・
坂口安吾は 言葉について面白いことを書いています。

 「言葉には言葉の 音には音の
  そして又 色には色の 各々代用とは別な
  もっと 純粋な 絶対的な領域が有る筈である。」

               坂口安吾「FARCEに就て」

なるほどな と思いました。
日常生活の中で使っている言葉と
詩などで使う言葉は
言葉自体は同じでも 全く違う・・・

絵を何かの目的に使用したり
絵でいろいろなことを表そうとする人がいますが
坂口安吾の真似をすると

  「絵画には絵画の純粋な領域がある。」

・・・と思います。(芸術至上主義じゃないけれど)

画家の斉藤義重氏が
 
  「絵画は唖なんです。」

というのも同様かな。

つい 絵に多くの何かを語らせようと
してしまいがちですが
禁欲的に できるだけ説明を省き「提示するだけ」
のような絵を描いていきたいと思います。




「Straight, No Chaser -」にしようか迷ったけれど
こっちの方が今の気分なので~

でも Straight, No Chaser と言い切るモンクはカッコイイ。
アルコール度の強いお酒をストレートで飲んで
後からの「追い水」(チェイサー)はいらない! って
自分の後継者はいらないよって意味みたい。




小銭狼   11/19


小高い丘の城跡の
くずれかけたアパートで
その人は 絵を描いていた
この日の朝には描き終える絵であった が
それが
三つ目の朝となり
四つ目の夜が来て
五つ目の朝でも
ダメだった

$shokei's time-小銭狼





涙かくして 筆をとる

売れりゃ いいが

売れない時にゃ

この絵も ボツになり
ゴミになる

この絵も ボツになり
ゴミになる

あぁ あぁ 大誤算

また 徹夜 ~とくらぁ



て感じの日でした。

以前、日暮里の「夕焼けだんだん」の絵を
コツコツダラダラと真面目に描きましたが
届いた掲載誌には おまけに持参した
「富士見坂」の絵の方が採用されていました。

これはこれで嬉しいのですが
「夕焼けだんだん」が使われると
勝手に思い込んでいたので・・・

一生懸命、描いたのにボツになれば
上記のように ♪~ゴミにぃなるぅ~ なので
ここで ちょっと お披露目。
(やっぱ 暗かったのかなぁ)

$shokei's time-ゆうやけ

ついでと言っては・・・
「一枚の繪」12月号には この富士見坂の絵が
p.15 に掲載していただきました。

$shokei's time-富士見坂

「二人で歩く」<添付したコメント>
冬に向かう澄み切った冷たい大気の中を歩く
傾いた日差しは 街や壁をほんのり酔わし
静かな時間が流れる。
晴れた日には富士山が見えるという
東京の谷中にある「富士見坂」は、
喧騒から離れて
ひっそり 息づいている。