SHOKEI 'S TIMES -43ページ目

過去の自己作品など(そのうちホームページを)  12/31

 

 

 

ホームページを作ろうとしてブログを始めましたが
しかしPC.初心者なので 未だに方向が決まらず、
資料集めも中途半端になっているままです。

いずれ作品を集めて、まとめて
私の ホームページを完成させたいと思っています。

今回は、今年最後のブログだし(たぶん)、
自己紹介を兼ねて、ここで過去の作品を少しだけ載せてみます。

初めて念願の油彩を描いたのは15歳の時でした。
高校の頃ボナールと斎藤義重氏の作品を見て油絵を描こうと思いました。

スーチンに憧れ、クラーベやド・スタールに憧れました。
大学院を出た時は抽象的な絵を描こうとしていました

その後、体調を崩してしまい具象画を描きました。
(具象の方が当時、私は悩まず速く描けたので)
$shokei's time-原形への思索a『原形への思索a』F130号

半年の入院生活の後
なんか暗い絵になっていました。



$shokei's time-原形への思索b『原形への思索b』






故)末松正樹先生に出会い、
それまでの自分の絵画観を反省。

元気になってきたので
丘の上からの写生を元にして
風や光に揺らめく大気を描きたいと思いました。


$shokei's time-やわらかな日々『やわらかな日々』

自宅近くの小高い丘の上にある
弘法寺の雑木林の中で写生を続けました。


$shokei's time-風に動く水彩画『風に動く』



$shokei's time-風のかたち『風のかたち』

風の中の樹々をモチーフにしていました。



$shokei's time-風の韻『風の韻』

樹よりも空気の動きが面白いので・・・



$shokei's time-森の響き『森の響き』

森の中の音や夕方の斜陽・・日々の想い等も・・




$shokei's time-聖なる森『聖なる森』

夕方、薄暗くなった森が一瞬、輝いた。






近くの江戸川は 子供の頃からのモチーフで
一番、好きな風景
写生をしていると夕方になり
川だけが光る


$shokei's time-とき『とき』80号×2 (1120×2910cm)





流れる大きな時間・・・

$shokei's time-見えそうな時『見えそうな時』80号×3(145.5×336.0cm)










今年をふり返ってみると すごくハッピーな一年でした。

 


 

 

 

 

その2 〜Lesieur と KahnとMordstein 色彩画家

今回はちょっと好きで 
気になっている画家です。


まずは Pierre Lesieur ピエール・ルシュール(1922~?)
フランス的で明るくお洒落な作品・・・
平面的な色面空間は ちょっと日本的な感じもします。


$shokei's time-Les1『Fenetre la nuit』(1983)



う~ん♪
トレヴィア~ン
美しい青い室内

$shokei's time-Les『Outremer』(1991)

油彩ですが かなり薄塗り・・・です。



この画家は 猫と女性も描くし・・・
現代版ボナールみたいですね。
室内の絵が多いです。


$shokei's time-Les2『Leparavent』(1991)


$shokei's time-Les3『Lat theiere blanche』(1990)





堀田善衞(ほった よしえ)氏の著書『ゴヤⅣ』(朝日文芸文庫)に

『 絵画も、詩も、美という、
現実の意味機能を剥奪し逆転させる機構を通じて、
無意味(ナンセンス)という、
もっとも意味深いものと自らを化するのである。』


と書いてありました。これは至言だと思います。

ナンセンスっていうと何かニュアンスが違うようだけれど
よく考えると やっぱりナンセンスなんでしょう~。



次は Wolf Kahn ウルフ・カーン(1927~ )
この画家の作品を見る度に
色彩は自由に使って よかったんだ
と当たり前なことに気付きます。


$shokei's time-w1                          『River Bend』(1978)


$shokei's time-w2                         『Over All Tree』(1992)


ん~!   現実の風景を体全体で見て(心の目?)いるような~。
画面の焦点を無くすことで 全体の色で謳う感じがします。

こんな風に 色彩の力を発揮させ、もっともっと自由に
拘りなく 色を使えたら気持ちいいだろうな って思います。



$shokei's time-w3              『The Connecticut River at Dusk』(1977)





3人目は Karl Mordstein カール・モードスタイン(1937~)

静物画なのに まるで工場の風景画のように
描いてしまいます。幻想的な静物画?。



$shokei's time-m1                             『Stilleben』(1978)



ちょっと病んでる感じもするけれど・・・

$shokei's time-m2 『Torso』(1979)






パリ→ジャンゴ・ラインハルト(ギタリスト)→『ジャンゴ』
MJQよりピアニストのジョン・ルイスが好きでしたが いいのないので~




愛すべき B級絵画を考える。 その1〜クラーベ讃 12/26


好きな画家の中で B級グルメ的に好きと言ったら
失礼になってしまいますが(主観的ニュアンスですので許して。
二流と言う意味ではなくて、一般的な知名度的~ )

まず筆頭に思いつくのが スペインの
アントニー・クラーベ(1913年~?)です。


$shokei's time-c3
『Noir-rou-bleu』(1960)テーブルの上の静物?バックの赤 ん~ スペインだな



1960年代の抽象画ブームの頃、一部でクラーベが流行りました。
私は大学の頃、友人の画集でクラーベを知りました。
ピカソとボナールとルオー、グレコを合わせて抽象的に描いたような絵だと
思いました。(ナント捻くれた見方をしていたことか)

その後、画廊でクラーベの版画や沢山の油彩作品を見て、
ますますファンになりました。


$shokei's time-c2『もう一人の戦士』(1970)



しかし クラーベの絵には「これ」といった強いテーマが感じられませんし、
代表作もわかりません。
モチーフに対する愛着も感じられませんし、思想的な背景もあまりないようです。

画面空間的にも技法的にも特に目新しいモノはないみたいのですが
・・・魅かれてしまうのです。


ただ子供みたいに「絵を描くのが好き!」というのは
ガンガン伝わってきます。
実物を見ると 描いたり削ったり貼ったり
子供が 遊ぶようにいろんな事をしています。


$shokei's time-c1『王様ーRoi ouvrant la porte』(1959)


数多く見ると 物語性を感じたりする作品もありました。


「個人的な記憶」からフォルムを抽出し
画面上で発展させているのだろうと思いました。

そう考えて行くと一概に 
B級だと決めつけていたのは間違えだったかもしれません。


$shokei's time-魚                『Poisson』(1959) ←毒じゃなくて『さかな』



私の中で「主題=テーマ」ということを考える時、
文学的主題やロマン主義的なニュアンス
(感情や思想に訴えてくるような~)が
過多だったような気もしてきました。

ベートーヴェン以降ロマン派が表そうとしたテーマと
バッハ等の純音楽?が考えていたテーマは、
根本的に種類がちがうように・・・


この問題は かなり長引くので また後日、
気が向いたら 考えてみます。


$shokei's time-c4

                 『Plusieurs feuilles』(1963)





「子供みたいに・・・」つながりで ハービー・ハンコック懐かし



第9 の季節

$shokei's time-韻
                               松波照慶『韻』


最近は 年末恒例の第9公演が一時期よりも
騒がれなくなってきたように思えます。

以前、年末の第9は特に好きでなく むしろ 
キューブリックの『時計じかけのオレンジ』で
挿入歌として使われていたシンセサイザーの第9を
面白がって聴いていた頃はありました。
(映画としてはそれほど面白いと思いませんでした。
『2001年宇宙の旅』の方が好き。特にラストの方)

 
25年以上前だと思いますが、
チェコの指揮者ヴァーツラフ・ノイマンが来日した時
NHKホールで演奏したのを聴き 好きになりました。

ノイマン (1920~1995)は元ヴィオラ奏者だったせいか
曲の主旋律よりも内声部というか 
普段、脇役的な旋律を強調して
演奏されたように記憶しています。

聴き慣れていた第9が すごく新鮮に聴こえました。
(CDで聴くノイマンは ちょと地味な感じ)

  ベートーヴェンというと『運命』ですが
  作曲者の命名ではないし、外国では「勝利の交響曲」とか
  呼ばれているそうです。

  聴きどころは1楽章冒頭♬ジャジャジャジャーンではなくて 
  むしろ 3楽章から4楽章に傾れ込む瞬間だと思います。
  ティンパニーがドロドロと50小節ぐらい続き 小さくなっていき・・
  タメてタメて・・・緊張感がピークになった所で ユニゾンで
  なり振り構わず『ドー ミー ソー・・』とドミソの和音の王手!。
  後は このハ長調で明るく走り抜けて行きます。

第9もスコアを見ると すっごくヘンでイイ感じです。
曲の冒頭から第1主題の提示までの
16 小節も全楽器が ラとミ しか弾いていない。
Vn.2のラとミの上にVn.1がミラーラミー ラミーミラーと・・
和音は3つ以上ないと決まらないので
この16小節の間 観客は何調なのかも また
長調か短調かもわからずに 次の展開を待つしかない・・・
引っ張るだけ引っ張って ニ短調(Dm)だぞっ!と 
レ ファ ラ が出てくる。

  文学などでは よく、冒頭を曖昧にしたまま 始まる話も
  多いですが(カミュ「異邦人」やカフカ「審判」など)
  音楽では意外と少ないと思います。

2楽章のスケルツォではティンパニーも
音階を奏でる楽器として使われているし

コンサートでは眠くなりやすい3楽章のアダージョは
メロディーラインを覚えておくと気持ちいいです。
ベートーヴェンのアダージョ楽章は珍しく暗くならない・・・
いつもどこかで希望の光があるのが面白いと思います。

一見、気難しそうだけれど かなり「ネアカ」な人だと思います。

第4楽章になって 歓喜の歌の登場。
このシラーの詩に曲を付けようとしたのが
なんと23才の時だというから 
約30年間も 暖めていたことになります。

第9の初演後、この合唱の部分を省いてしまい
純器楽だけの交響曲として作り変えようと考えていたそうです。




古い朝日新聞に『日本語で歌える~』が
ありましたので 引用してみます。(合唱から)


台寝 津会うベル ビン出ん 微出る
(ダイネ ツァウベル ビンデン ヴィーデル) 
バス出ぃ 詣で 酒取れん 下駄いると
(ヴァスディ モーデー シュトゥレン ゲタイルト)
ああ冷 麺支援 ベル出ん 鰤うでる
(アーレー メンシェン ヴェルデン ブリューデル)
暴大ん 残ふてる 風流げる 場いると
(ヴォーダイン ザンフテル フリューゲル ヴァイルト)
矢 ベル 青穂 塗る 合い寝 図入れ
(ヤーヴェル アオホ ヌル アイネ ズィーレー)
座居ん 寝んと 会う夫 出夢 得る
(ザイン ネント アウフ デム エル)
出んルンと 運飛 べ留守 兄 下来んと
(デンルント ウント ヴェルス ニー ゲコント)
出る 酒手入れ 倍寝んと 実費 合う酢
(デル シュティーレ ヴァイネント ズィッヒ アウス)
出い膳 文と
(ディーゼン ブント)
急瀬 合符 字 運す 運と
(キュッセ カップ ズィー ウンス ウント)
利便 愛念
(リーベン アイネン)

風呂入んと 月賦流太 い武
(フロイント ゲブリューフト イーム)
藤飛 ぼう
(トート ヴォー)
留守泊ると 出む ブル無 下 技便
(ルストバルト デム ブルム ゲ ギーベン)

※うんと出る 毛得るぷ 首手ぃと
(ウントデル ケールプ シュティート)
歩折る 碁っと※
(フォル ゴット)
首手ぃと 歩折る 碁っと 歩折る 碁っと
(シュティート フォル ゴット フォル ゴット)
歩折る 碁っと
(フォル ゴット)
風呂出で 詩へ寝る 月輝る
(フロイデ シェーネル ゲッテル) 
粉健 とホテル
(フンネン トホテル)
会う末 理事生む ビルベと0点
(アウスエ リージウム ヴィルベトレーテン)
夫追い得る
(フオイエル)
取るん健 貧無理死へ 台ん
(トゥルンケン ヒンムリッシェ ダイン)
入り人産む
(ハイリヒトウム) 
※台寝 津会うベル ビン出ん 微出る
(ダイネ ツァウベル ビンデン ヴィーデル) 
バス出ぃ 詣で 酒取れん 下駄いると
(ヴァスディ モーデー シュトゥレン ゲタイルト)
ああ冷 麺支援 ベル出ん 鰤うでる
(アーレー メンシェン ヴェルデン ブリューデル)
暴大ん 残ふてる 風流げる 場いると※
(ヴォーダイン ザンフテル フリューゲル ヴァイルト)

座糸 生む 種るん元 
(ザイト ウム シュルンゲン )
ミリ大年 出ぃ膳
(ミリオーネン ディーゼン)
楠出る 癌つ縁 ベルト
(クスデル ガンツェン ベルト)
鰤うでる いいベル無
(ブリューデル イーベルム)
捨てるねん 津得ると
(シュテルネン ツェルト)
蒸す 愛ん 利減る 
(ムス アィン リーベル)

負当てる 忘年
(ファーテル ヴォーネン)
入ーる 酒手入る つと 
(イール シュテイル ツト)
兄出る ミリ大年
(ニーデル ミリオーネン)
あ姉スト ドゥー電 
(アーネスト ドゥーデン)
子ぇぷ増える ベルト
(シェプフェル ベルト)
図符 印 二位ベル無 
(ズーフ イン ニーベルム)
捨てるねん 津得ると
(シュテルネン ツェルト)
※いいベル 捨てるねん 蒸す得る 忘年※
(イーベル シュテルネン ムスエル ヴォーネン)
       (中略)
※台寝 津会うベル 台寝 津会うベル
ビン出ん  微出る※

ビン出ん  微出る
バス出ぃ 詣で 酒取れん 下駄いると

※ああ冷 麺支援※

ベル出ん 鰤うでる 暴大ん 残ふてる
風流げる 場いると
バス出ぃ 詣で 酒取れん 下駄いると
座糸 生む 種るん元 ミリ大年 出ぃ膳
楠出る 癌つ縁 ベルト
鰤うでる いいベル無 捨てる
ねん 津得ると
蒸す 愛ん 利減る 負当てる


静物画-2(坂本繁二郎)   12/19

$shokei's time-砥石
              坂本繁二郎『砥石』1949



坂本繁二郎(1882-1969)というと馬を描いた絵が有名ですが
晩年に描いた なんでもないような日常の静物が
面白いと思っています。

上の作品は 戦後間もない昭和24年に制作された
F4号大の小品です。
坂本は 昭和14年頃から身近な静物を
よくモチーフに選ぶようになりました。


$shokei's time-毛糸                     坂本繁二郎『毛糸』1960



絵の解釈学として ゴッホの『靴』のことを
哲学者ハイデッガーが書いた有名な文章がありますが
(絵の中の靴を見ていると貧しい農民の生活が見えてくる・・・)

日本の哲学者の谷川徹三氏(谷川俊太郎の父)が
これらの坂本の静物画について書いた文がありました。

「一つ、二つ、せいぜい数個の組み合わせで どことも知らぬ空間に
わびしく、ひっそりと、つつましく置かれている。
しかし その空間の深さ。その空間の深さは、
その深さによってたしかに大宇宙の空間に通じている。
そしてそこに、わびしく、ひっそりとつつましく置かれている
その俎板も、包丁も、鍋も、瓦も、卵も、豆腐も、砥石も、
その大宇宙の中に確かに一つの位置を確保している存在として
われわれに対する。そのような存在の
そのような存在として在るという、
最も自明にして最も不可解な事実を、
一個の画面の中に端的に感ぜしめる点において、現代、
坂本さんに比ぶべき人を私は知らない。」


$shokei's time-植木鉢
      坂本繁二郎『植木鉢』1960

何も入っていない植木鉢だけをモチーフに
選んだ画家は坂本以外に知りません。
どこにでも転がっているような物でも
厳として存在することを気付かせてくれます。

一つの仕事を終えた植木鉢達が
次の仕事の準備に取りかかる前の
ちょっとした休憩中。庭の隅の日だまりの会話のようです。




静物画のモチーフを選ぶ際に私が大切に思うのは、
そのモチーフが身体性をもっているのかを見ます。

買って来たばかりの既製品のグラスは割れてしまっても
また買ってくれば、代わりはいくつでもあります。
割れても割れても出てくるお化けのようなグラスを
描くのは どんな意味があるのだろう。

たとえば 形見のグラスや愛着のあるグラスのような
自分にとって かけがえのない1個の存在は
モチーフになると思います。

岸田劉生にしても坂本繁二郎にしても
その人の生活の中で一緒に暮らしてきた物に
愛着や感謝の念をもって眼差していると思います。

日本のお化けに「傘(からかさ)のお化け」がいます。
物は100年大事にすると魂が入ると言われていました。
昔、傘は貴重品で大事にされて その魂が入った傘が
祖末に扱われたので お化けになった訳です。

そんな物をモチーフに選びたいと思います。

ま  コーヒーでも飲みながら
考えましょ

$shokei's time-時の香り
                    松波照慶『時の香り』

ボナール讃   12/13

$shokei's time-犬
                        ボナール



< 私の好きな絵 >

$shokei's time-ボナ木
         『花ざかりの杏の木』ボナール 1946~47


ボナールが最晩年、妻にも友人にも先立たれ 
病床に臥してしまいます。
その時、この絵を仕上げ、左下にサインをしますが
その部分の緑色が気に入らず、甥に頼んで 
黄色い色の絵の具をのせてもらいました。
その数日後に亡くなったそうです。


失意と病気の中であっても こんなに明るい光に包まれた
生命感のある幸せそうな作品が描けたなんて不思議です。


(でも よく見ていると いつものボナールと違って・・・
 生きものの姿はなく、明るいけれど どこか虚無的で悲しい。)
 

$shokei's time-老ボナ夫婦





好きな画家ははたくさんいますが
筆頭は マティスとボナールです。
私の中では マティスは 憧れですが
ボナールは すごく身近な感じがします。



私は 高校に入ってすぐに デザインと油絵のどちらを専攻するか
迷いました。その時、西洋美術館で『ボナール展』が開催され
「サーカスの馬」という 50号ぐらいの油絵から衝撃を受けました。



$shokei's time-馬                  『サーカスの馬』ボナール ~1946


どこに魅かれたか自分でもわかりませんし、
それから40年以上、実物に会っていないのですが
かなり鮮明に覚えています。

白馬の白い色が薄塗りで背景の方が厚く描かれていました。

$shokei's time-自画像
後から聞いたのですが この馬の絵は
1934年にデッサンをし、1936年から
死の前年の1946年まで この作品を
手元において加筆しつづけたそうです。

晩年の自画像と どこか似ています。
現実の馬ではなく この馬の絵も
ボナールの『自画像』と言えると思います。

虚ろなまなざしは、心の現れでしょう。


とにかく このボナールの絵と斉藤義重氏の
『作品R』で油絵を専攻していくことを決めました。                          『自画像』ボナール 1945                         
                         



ボナールの奥さんは身体が弱く
その為にも南仏ル・カンネに住んだそうだし
奥さんが年老いてからも少女のように 描き続けました・・・

友人のマティスとの往復書簡などを読むと
かなり前衛的、先進的な考えを持っていたようです。

歳をとってからもデッサンと堅固な構造、構図、色彩を
研究し続けました。

静物画の影を黄色や赤で違和感なく描ける画家が
ほかにいただろうか?            
$shokei's time-食卓の一隅

室内の家具の側で 気配を消している猫(気がつくとそこにいる・・みたいな)
や同化している人物・・・ボナールの目になって 
作品をよく見ていると いろいろ見えてきます。


一般的に知られている ホンワカしたアンチミスト(日常的なものへの親密派)
ではなく                     『食卓の一隅』ボナール
とても知的で                
思慮深く 繊細で
ちょっとヘンなフランス人
だと思いました。        




$shokei's time-若ボナ
             23才ぐらいの青年ボナール

詩と真実と絵   12/12

$shokei's time-雨                                  松波照慶(水彩画)と森圭子(詩)



以前、私の水彩画に森圭子の詩をプリントして
チョロっと発表したことが あるのですが
想像していた以上の大反論、大反発を受けました。

「水彩画」に文字をプリントするなんて  とか
「詩」は詩として 別に読みたいとか・・・

まぁ それほど大胆なことじゃないんですけれど・・・
いろいろ難しいなと思いました。


第三者が勝手に編集するのは いいとは思いませんが
本人同士が同意しているなら いいんじゃない?

何か新しいコトが見つかるかと思ったのに

でも100%否定されちゃったので
この場で再度、日の目を見せておきます。



$shokei's time-想い
                松波照慶(水彩画)と森圭子(詩)



ゲイジュツはこうあるべき!っていう常識が
巷には強いですよね。
(ま その恩恵の上澄み液を啜って辛うじて生きてる
 アメンボーみたいな私が言っちゃなんだけど・・・)

抽象的な絵って 敬遠される場合が多いけれど
何かとコラボすると違和感がなくなる・・・
難解な現代音楽が、映画の中やバレエの音楽として
効果をあげていることを考えると
そんなに悪いことじゃないように思えます。

スティーヴ・ライヒの手拍子の音楽や
一つのフレーズを繰り返す(ズレていくけど)だけの音楽なんか
CDで聴くと 途中で飽きて来ちゃうけれど
コンテンポラリー・バレエの『ローザス』などで聴くと
とても面白く聴けたことがあります。
(ライヒは どう思っているかしらないけれど。)




現代画家のフランク・ステラの抽象的な絵の
Tシャツもなかなかステキ(川村美術館で売っている)



ゲーテの自叙伝の表題が
『詩と真実』です。

自叙伝ならば「真実」でいいのに・・・

一見、詩は創作だから「嘘」みたいですが
詩(嘘)を使わなければ伝えられないホントの真実というか
とにかく「より真実」という・・・ 
逆説的な使い方だと思います。



 「人間にとって真実は詩ではないが
  詩は真実なのである」


とかいう言葉を聞いたことがありますが~

絵も同様だと考えたいです。





静物画   12/9

$shokei's time-松田

                             松田正平

今日は先日ブログで紹介をした『松田正平展』を見に
銀座「フォルム画廊」に行ってきました。
DMに使われていた『農夫』はM30号(910×606mm)で
想像していたより厚塗りでゴツゴツ描いてありました。

              
                  
松田正平 農夫
 

その他「イカ」や「さより」を描いた静物小品が展示されていました。
こちらも油彩なのですがクレヨンで描いたようなマチエールで
「詩」を感じさせてくれます。
絵でも音楽でも根底には、詩的衝動感(ムジケー)があるものだと思います。


逆に「絵」から「詩」ができる場合もあるようです。

$shokei's time-浅井忠
          『収穫』浅井忠

 掛稲にイナゴ飛びつく夕日かな (正岡子規)

は水彩で有名な浅井忠の『収穫』を見て吟じたと言われています。



静物画のことを Still Life スティル ライフ(静止した生命)と
英語では言うそうです。英語が得意な友人が言うには
スティルというのは「静止」というより
交差点で信号待ちをしている自動車みたいな「止まる」だそうです。

面白いと思いました。

人間が目を逸らしたら、動き出してしまうかもしれない静物たち。
見られている「今」は一時停止しているだけかもしれません。

前回アップしたニコラ・ド.スタールの『壜のある静物』も
いまにも動き出しそうに見えます。



$shokei's time-ド・スタール                    『壜のある静物』ニコラ・ド・スタール1952

まるでお芝居が終わった後、赤い幕の前に出演者が並び
カーテンコールの舞台挨拶をしている3人組みたいです。



20世紀の静物画家と言えば
イタリアの ジョルジョ・モランディがいます。

写真家でもあったモランディの初期の静物は
光を意識したちょっと古くさい宗教画みたいで
形も輪郭もハッキリしていました。

モチーフはほとんど瓶や壷類や水差しで
それらに演技を付け演出をしているみたいです。

その後、だんだんと光も外光の表現ではなくなり
精神的というか絵そのものが光を持つようになります。
物と物との境目が曖昧になり輪郭も無くなっていきます。

 

ちょっと抽象的でもあります。


$shokei's time-モランディ
                             『静物』モランディ1963

実物を見ると かなり薄塗りで驚いてしまいます。
画面の上で悩んだりせず、一発でヴァルールのあった色調を出しています。
考え抜かれた構図は一見、記念写真のようでもあり
その僅かに揺れているような空間は、静謐で とても上品な感じがします。
しかし モランディの作品は よく見ると ただの綺麗な静物画ではなく、
非日常的なテーマを追った形而上絵画だということに気がつきます。




日本にも金山康喜(1926~1959)という素敵な画家がいました。
33才で亡くなってしまったので作品数はあまりないようです。
この人の静物画は存在感をもたない危うさのようなものを感じます。
ちょっとベン・シャーンを思わせますが もっと突き放したような
不思議なクールな味があると思います。




$shokei's time-天秤のある静物『天秤のある静物』金山康喜1958



下の絵は未完成の作品ですが 好きな絵なのでアップしました。
これからテーブルの上にいろいろ役者が出てくるのでしょうが
まだ描き始めなのか まるで崖っぷちの二人みたいです。
不思議な静けさや広がりを感じ・・・
作品の完成というのは 何なのだろうか?
と考えさせられる1枚でもあります。




$shokei's time-未完『未完』金山康喜

 

ド・スタールなどなど    12/7

              [ 私の好きな絵 ]

   ニコラ・ド・スタール『かもめ』F120号(195×120cm) 1955年


$shokei's time-かもめ


      『 絵画空間とはひとつの壁だ。
     が、そこには世界中の鳥と言う鳥が
     自由に飛んでいる。』


                    (ニコラ・ド・スタール)

     チェーホフの「かもめ」を娘のアンヌに読んで聞かせた後、
     ド・スタールは この2m近い大作を描き上げたそうです。

       この年(1955)の3月16日、アンチーブのアトリエで自殺。
    


ゴダールの映画『気狂いピエロ』の最後のシーンに使われていたのが 
このド・スタールのアンチーブにあったアトリエだそうです。

高校生の頃に この『気狂いピエロ』が大好きで何度も映画館で見ました。

映画で使われた小道具を探したり、シナリオを読んだり
最後に引用される ランボーの『地獄の一季節』を暗唱したりしました。

ゴダールの初期の映画『勝手にしやがれ』のラストシーンの部屋も
パリ時代のド・スタールのアトリエのようです。
背景に少しド・スタールの作品があったように記憶しています。
主人公がモーツァルトの最晩年のクラリネット協奏曲のレコードをかけ
死を匂わせて・・・ド・スタールのアトリエでも死を暗示させる展開。

映画にどんどんハマっていき毎週、映画館に行っていました。
ゴダール、パゾリーニ、フェリーニなど


演劇では唐十郎、や寺山修司、早稲田小劇場・・・などなど
そのころ有名になりつつあったカルメン・マキ(伊藤マキ)さんとは
同じ美術研究所(芝美)でしたので
カルメン・マキの曲の中でも好きな
『昨日酒場で見た女』~






その後、大学に入り貧乏下宿生活が始まりました。
加川良の『下宿屋』を当時も聞きながら
貧乏学生を楽しんでいました。





遠近法を考える  12/6

  [ 私の好きな絵 ]

  山口 薫 『水田の上を飛ぶカーチス式軽飛行機』油彩  F100号        1964

$shokei's time-水田Ⅱ

  この絵は山口薫の100号の大作です。
  ただ写実に描くことしかしらなかった中学生の頃の私は
  この作品の実物を見て、大変 カルチャーショックを受けました。
  空気感、平面的処理、色彩、大きさ、ストレートな抽象表現など。
  山口薫氏は詩も書かれるけれど こちらは面白くありません。
  絵の方が充分に詩になっていると思いました。


$shokei's time-カラオケ


私は かなりの音痴です。

絶対音感がある人を羨ましく思うことがよくあります。

悔しいので反論。
絶対音感というのは絶対じゃないという話があります。

音階というものは大昔からあったわけではありません。
楽譜らしきモノは13世紀頃から(四角い音譜のネウマ譜)ありますが
平均率(ピアノのような鍵盤楽器)は16世紀頃からだそうです。

基準になるA(ラ)の音程を決め(赤ちゃんの泣き声はAだとか)
ラと共鳴する音を探すとミの音が決まり
ミに響く音はシ。シはファ♯。ファ♯はド♯。ド♯はソ♯。ソ♯は・・・
と続けていきラに戻って来て12音の音階が出来たそうです。

こうやって出した音の周波数を調べると、
音と音の間隔が均一ではないそうです。
均一でなくては 秩序が作れず
和音や転調など 不便になってしまうので
細かな端数は切り捨てて 間隔も統一したそうです。
つまり 絶対音は人間の都合によって少しねじ曲げられた音。
この音でピアノが出来たので
絶対音感のある人はホントの絶対音ではなく ピアノの音を
小さい頃からの訓練で身につけた人ということなんですねぇ。
(周波数まで聞き分けられる天才もいるらしいが・・)

これと似ているのが
マルクスの『資本論』の貨幣価値の話。
1個100円のリンゴを10個で1000円。
でもリンゴは1個ずつ味も大きさも違うけど
細かな端数的なものは切り捨ててしまい 
人間に都合良く合理的にしてしまう・・・

絵の世界ではもっと以前から
細かな違いを無視してきたと思います。 
「遠近法」が発明されたのが15世紀ごろです。

人間の眼球は丸いので網膜は曲面になります。
遠近法的機材である「カメラ」のフィルムは平面。
映し出される画像は違う筈なので
写真は見えているとおりに写ってはいないはずです。

それに目は二つだし、上下左右反対に映っているはずだし
錯覚もあれば 残像もある。経験や心理的なコトも加わると
もう「遠近法」は万能な方法論じゃなくなってしまいます。
遠近法を使っていない日本の昔の絵や子供の絵の方が
リアルに感じる時があるのは そのせいかもしれません。

遠近法がただのルールってことや音階が人工的産物ってことの
屁理屈をこねて 音痴を正当化しようとしましたが
無理そうなので 
おしまいっ。

こたつでCD聞いて丸くなって寝ちゃお~






ボブ・ディランの「クリスマス・イン・ザ・ハート」を
添付しようとしたけれど You Tubeにないみたいなので
学生の頃に流行っていた「かりそめのスウィング」
歌のうまい人が 羨ましいコト