終末の唄_067
わたしは半信半疑ながらも、世の中のことが心配になり、意を決してその日仕事にいくことにしました。
押し入れの中から大きなマスクを探し出して、それをはめて工場へいきました。
少しの間仕事を休んでいたこともあり、みんなはわたしの大きなマスクを見て、えらくひどい風邪をこじらせたもんだな、と呑気なことを言っていました。
午前中はとくに何事もなく、平凡に過ぎました。
なんだ、やはり取り越し苦労だったんだな、とほっとして、わたしは食堂でカレーライスを食べました。マスクを取ることができないので、食べ終えるまでにひどく時間がかかりました。
昼休みが終わるサイレンが鳴り、またラインにつくと、わたしは突然身体の不自由を感じました。
意識ははっきりとしています。けれど、身体の自由がまったくきかないのです。
わたしはだれかに操られるように、不意にマスクを顎のあたりまでずらし、何かを話しだしました。
だれにもわからない言語で、だれにも聞こえない声で――。
すると突然、由加の替わりに入ったという新人の男が、由加と駆け落ちした鬼班長の替わりにこれまた新しく班長に昇格した男(この男も、鬼班長に負けないくらいに口うるさい性格だ)に、襲いかかったのです。
新人の男は大柄で、ちからだけは人一倍あったので、小さな新班長を軽々持ち上げると、プレス機へと続いているベルトコンベアの上に叩きつけました。
新班長は気を失ったまま、ベルトコンベアの上を一個の部品のように流れていきます。
そして、そのまま、彼はプレス機に潰されてしまいました。
わたしははじめ、日頃の鬱憤が積もりに積もって、男がキレたのだ、と思っていました。なぜなら、この男はわたしと同じくらい手先が不器用で、わたしが休んでいる間にも、新班長にこっぴどく痛めつけられていたと聞いたからです。
けれど、どうもただそれだけのことではなかったのだということが、あとになってだんだんとわかってきたのです。
それは、こういう事件が、わたしのまわりで何度も起こりはじめたからなんです。
わたしの身体が勝手に動き、マスクをずらし、醜く裂けた口で、だれにもわからない、聞こえない言葉を口にすると、まわりの人間が狂いだすのです。
これが、あの〈銀色の男〉が言っていたことなのか、とわたしは怖くなりました。
それ以来、わたしは仕事にもいかずに、部屋にじっと閉じこもってしまいました。
わたしが動けば、ひとが死ぬ。
けれど、そんなわたしの意志とは関係なく、次第に足までもが勝手に動きだし、部屋からふらっとどこかへ出ていってしまうのでした。
そうはいっても、そのときのわたしは、世界を、すべての人間を呪っていたので、だれが狂おうが、だれが死のうが殺されようが、どうでもいいとも思っていました。
どうせこのわたしも、そのうち〈銀色の男〉に身体を乗っ取られて消えてしまうんだから、と。
そんなある日のこと、突然由加からの書留が届いたのです。
その中には、消えた通帳と印鑑が入っていました。
そして、彼女からの手紙が、添えられていました。
To be continued.
押し入れの中から大きなマスクを探し出して、それをはめて工場へいきました。
少しの間仕事を休んでいたこともあり、みんなはわたしの大きなマスクを見て、えらくひどい風邪をこじらせたもんだな、と呑気なことを言っていました。
午前中はとくに何事もなく、平凡に過ぎました。
なんだ、やはり取り越し苦労だったんだな、とほっとして、わたしは食堂でカレーライスを食べました。マスクを取ることができないので、食べ終えるまでにひどく時間がかかりました。
昼休みが終わるサイレンが鳴り、またラインにつくと、わたしは突然身体の不自由を感じました。
意識ははっきりとしています。けれど、身体の自由がまったくきかないのです。
わたしはだれかに操られるように、不意にマスクを顎のあたりまでずらし、何かを話しだしました。
だれにもわからない言語で、だれにも聞こえない声で――。
すると突然、由加の替わりに入ったという新人の男が、由加と駆け落ちした鬼班長の替わりにこれまた新しく班長に昇格した男(この男も、鬼班長に負けないくらいに口うるさい性格だ)に、襲いかかったのです。
新人の男は大柄で、ちからだけは人一倍あったので、小さな新班長を軽々持ち上げると、プレス機へと続いているベルトコンベアの上に叩きつけました。
新班長は気を失ったまま、ベルトコンベアの上を一個の部品のように流れていきます。
そして、そのまま、彼はプレス機に潰されてしまいました。
わたしははじめ、日頃の鬱憤が積もりに積もって、男がキレたのだ、と思っていました。なぜなら、この男はわたしと同じくらい手先が不器用で、わたしが休んでいる間にも、新班長にこっぴどく痛めつけられていたと聞いたからです。
けれど、どうもただそれだけのことではなかったのだということが、あとになってだんだんとわかってきたのです。
それは、こういう事件が、わたしのまわりで何度も起こりはじめたからなんです。
わたしの身体が勝手に動き、マスクをずらし、醜く裂けた口で、だれにもわからない、聞こえない言葉を口にすると、まわりの人間が狂いだすのです。
これが、あの〈銀色の男〉が言っていたことなのか、とわたしは怖くなりました。
それ以来、わたしは仕事にもいかずに、部屋にじっと閉じこもってしまいました。
わたしが動けば、ひとが死ぬ。
けれど、そんなわたしの意志とは関係なく、次第に足までもが勝手に動きだし、部屋からふらっとどこかへ出ていってしまうのでした。
そうはいっても、そのときのわたしは、世界を、すべての人間を呪っていたので、だれが狂おうが、だれが死のうが殺されようが、どうでもいいとも思っていました。
どうせこのわたしも、そのうち〈銀色の男〉に身体を乗っ取られて消えてしまうんだから、と。
そんなある日のこと、突然由加からの書留が届いたのです。
その中には、消えた通帳と印鑑が入っていました。
そして、彼女からの手紙が、添えられていました。
To be continued.
終末の唄_066
「わたしはそのまま、だれにも言わずにアパートへ帰りました。
それから何日か、仕事にもいかずに、わたしはひとりの部屋で、じっとうずくまっていました。
わたしのこころはずたずたに傷ついていました。
やっと掴むことができた希望の光が、また暗黒の中へと消え去ってしまったのです。
おわかりですか? 一度掴んだはずの希望が崩れ落ちてしまうときの絶望は、それを手にする前の絶望よりも、さらに深く、さらに陰険で、さらに呪われているのですよ?
わたしはもう、何もかもが、どうでもよくなりました。
ただ、わたしのこころをこんなにした由加が、憎かった。
彼女を含むこの世界のすべてが、憎かった。
わたしはすべてを呪った。
この呪いで、この世をすっかり消し去りたかった――。
そしてその夜、あいつが、〈銀色の男〉が、現れたんです」
「〈銀色の男〉?」
チェン先生の指が、一瞬止まった。
「〈銀色の男〉はどこからともなく現れて、しらぬ間に、わたしの背後に立っていました。
そして彼は、わたしにある提案を持ちかけてきたのです。
『よう、どうだい? オレ様と契約しないかい?
オレ様がこの世界を地獄におとしめて、おまえの無念を晴らしてやるぞ。
そのかわり、おまえのその身体を、オレ様によこせ。
どうだい、いい話だろう?
オレ様にはおまえのこころが読める。
おまえはもうどうせ死んだっていいって、思ってるんだもんな。
さあ、どうだい?』
わたしは、これはきっと夢だな、と思いました。
それに、ヤツの言うとおり、そのときのわたしは、死んだっていいからこの世界を呪いで破滅させたい、と思っていたんです。
だからわたしはすぐに、いいさ、と答えてしまったんです。
『よしきた!』
〈銀色の男〉は、契約の証だと言って、おもむろにわたしの口の両端に尖った人差し指を突っ込み、それからちから任せに左右に引っ張り、わたしの口を耳元までべりべりっと裂いたんです。
わたしはそこで、気を失いました――。
朝、目を覚まし、鏡を見てわたしは、全身からちからが全部抜けるぐらい驚きました。
わたしの口が、現実に、実際に、大きく裂けていたのです。
これは何かの間違いなんだ、とわたしは思い込もうとしました。
けれども何度見直しても、やはり間違いなく、わたしの口はみごとに裂けていたのです。
わたしは身震いしました。
これは、大変なことになった、と直感しました」
To be continued.
それから何日か、仕事にもいかずに、わたしはひとりの部屋で、じっとうずくまっていました。
わたしのこころはずたずたに傷ついていました。
やっと掴むことができた希望の光が、また暗黒の中へと消え去ってしまったのです。
おわかりですか? 一度掴んだはずの希望が崩れ落ちてしまうときの絶望は、それを手にする前の絶望よりも、さらに深く、さらに陰険で、さらに呪われているのですよ?
わたしはもう、何もかもが、どうでもよくなりました。
ただ、わたしのこころをこんなにした由加が、憎かった。
彼女を含むこの世界のすべてが、憎かった。
わたしはすべてを呪った。
この呪いで、この世をすっかり消し去りたかった――。
そしてその夜、あいつが、〈銀色の男〉が、現れたんです」
「〈銀色の男〉?」
チェン先生の指が、一瞬止まった。
「〈銀色の男〉はどこからともなく現れて、しらぬ間に、わたしの背後に立っていました。
そして彼は、わたしにある提案を持ちかけてきたのです。
『よう、どうだい? オレ様と契約しないかい?
オレ様がこの世界を地獄におとしめて、おまえの無念を晴らしてやるぞ。
そのかわり、おまえのその身体を、オレ様によこせ。
どうだい、いい話だろう?
オレ様にはおまえのこころが読める。
おまえはもうどうせ死んだっていいって、思ってるんだもんな。
さあ、どうだい?』
わたしは、これはきっと夢だな、と思いました。
それに、ヤツの言うとおり、そのときのわたしは、死んだっていいからこの世界を呪いで破滅させたい、と思っていたんです。
だからわたしはすぐに、いいさ、と答えてしまったんです。
『よしきた!』
〈銀色の男〉は、契約の証だと言って、おもむろにわたしの口の両端に尖った人差し指を突っ込み、それからちから任せに左右に引っ張り、わたしの口を耳元までべりべりっと裂いたんです。
わたしはそこで、気を失いました――。
朝、目を覚まし、鏡を見てわたしは、全身からちからが全部抜けるぐらい驚きました。
わたしの口が、現実に、実際に、大きく裂けていたのです。
これは何かの間違いなんだ、とわたしは思い込もうとしました。
けれども何度見直しても、やはり間違いなく、わたしの口はみごとに裂けていたのです。
わたしは身震いしました。
これは、大変なことになった、と直感しました」
To be continued.
終末の唄_065
「彼女は――由加は、やさしいだけじゃなかった。
見た目にも――決して華やかではなかったけれど――控えめな美しさをもっていました。
わたしはとくに、彼女の八重歯が気に入っていました。
わたしはもう、熱病にでもかかったようでした。
なにせいままでに一度も、こういう気持ちになったことがなかったものですから、免疫がぜんぜんなかったんでしょうね。
わたしはクリスマスイヴに、勇気を振り絞って、とうとう彼女に告白しました。
失恋するということが、いったいどれだけの痛手を伴うものなのかは、わたしにはぜんぜん想像がつきませんでしたが、失敗や挫折には慣れっこでしたから、おおかた同じようなものだろうと、変な勇気を持っていたんです。
けれどそんな心配はよそに、彼女はすぐにわたしの申し出を受け入れてくれたんです。
クリスマスプレゼントだと渡したピンク色のマフラーを、ふわりと首に巻き、彼女はやさしく微笑んでくれました。
わたしは有頂天でした。
なにしろ、人生において、はじめて自分の願いが叶ったのですから」
チェン先生の指先は、深い海の底でゆるやかな流れにたゆたう海藻のように、男の頭の上でやさしく踊っていた。
「二月になると、貧しいわたしたちは、少しでも節約するために、いっしょに暮らすことにしたんです。
彼女もじつは、家族を助けるために、地方から出稼ぎに出てきたような境遇だったんですよ。
彼女は自分のアパートを引き払い、両手で間にあうほどのほんの少しの荷物を持って(実際これが、彼女の持ち物のすべてだった)、わたしの狭いアパートに越してきました。
わたしたちは、つつましくも、平和で静かな生活を手に入れたのです。
ところが、それから一ヶ月ほどたったある夜、わたしが仕事から帰ると――いやね、少しでも生活を楽にするために、わたしは毎日できるだけ残業するようにしていたんですよ――、由加が部屋にいなかったんです。
玄関のドアの鍵は開いていました。
台所のテーブルの上には、高菜のチャーハンがひとり分だけ、用意されていました。
流しには、それを作ったあとのフライパンが、洗われないままつっこんでありました。
そのとき気づいたことは、部屋の中がいくぶん散らかっているな、ということぐらいでした。
わたしは仕方なく、チャーハンののったテーブルの前に座って、テレビをぼんやりと眺めながらしばらく彼女の帰りを待ちました。
けれども、いくら待っても、彼女は戻ってはきませんでした。
こんなことははじめてのことでした。
高菜のチャーハンはすっかり冷めて、かぴかぴになってしまっています。
わたしはいよいよ心配になってきて、メモだとか、何か手がかりになるようなものがないか、もう一度部屋の中を探してみることにしたんです。
心境的には、母親が死んだときほど心細かったのです。
そしてしばらくして、わたしは、わずかな蓄えである通帳と印鑑が、タンスの引き出しの中から消えていることを発見しました。
まさか、ね。
そんなこと、あるはずがない。きっと、何か事情があってのことに決まっている。
わたしはそう自分に言い聞かせて、もうすぐに布団に入り、その夜を何とかひとりでやり過ごしました。
それでも結局、夜明けまで一睡もできませんでしたけれどね。
朝がきて、わたしはいつもより早く工場に出勤しました。
由加がいるかもしれないと思ったからです。
けれど体操の時間になっても、始業のサイレンがなっても、彼女は姿を現しませんでした。
そして、驚いたことに、いままで一度たりとも仕事を欠勤したことがない、我々のラインの鬼班長が、その日無断欠勤をしたのです。
昼休憩の時間になって、その理由がわかりました。
食堂で、だれかが話しているのが聞こえたのです。
その班長は妻子を捨てて、由加と駆け落ちしたのだ、と――」
To be continued.
見た目にも――決して華やかではなかったけれど――控えめな美しさをもっていました。
わたしはとくに、彼女の八重歯が気に入っていました。
わたしはもう、熱病にでもかかったようでした。
なにせいままでに一度も、こういう気持ちになったことがなかったものですから、免疫がぜんぜんなかったんでしょうね。
わたしはクリスマスイヴに、勇気を振り絞って、とうとう彼女に告白しました。
失恋するということが、いったいどれだけの痛手を伴うものなのかは、わたしにはぜんぜん想像がつきませんでしたが、失敗や挫折には慣れっこでしたから、おおかた同じようなものだろうと、変な勇気を持っていたんです。
けれどそんな心配はよそに、彼女はすぐにわたしの申し出を受け入れてくれたんです。
クリスマスプレゼントだと渡したピンク色のマフラーを、ふわりと首に巻き、彼女はやさしく微笑んでくれました。
わたしは有頂天でした。
なにしろ、人生において、はじめて自分の願いが叶ったのですから」
チェン先生の指先は、深い海の底でゆるやかな流れにたゆたう海藻のように、男の頭の上でやさしく踊っていた。
「二月になると、貧しいわたしたちは、少しでも節約するために、いっしょに暮らすことにしたんです。
彼女もじつは、家族を助けるために、地方から出稼ぎに出てきたような境遇だったんですよ。
彼女は自分のアパートを引き払い、両手で間にあうほどのほんの少しの荷物を持って(実際これが、彼女の持ち物のすべてだった)、わたしの狭いアパートに越してきました。
わたしたちは、つつましくも、平和で静かな生活を手に入れたのです。
ところが、それから一ヶ月ほどたったある夜、わたしが仕事から帰ると――いやね、少しでも生活を楽にするために、わたしは毎日できるだけ残業するようにしていたんですよ――、由加が部屋にいなかったんです。
玄関のドアの鍵は開いていました。
台所のテーブルの上には、高菜のチャーハンがひとり分だけ、用意されていました。
流しには、それを作ったあとのフライパンが、洗われないままつっこんでありました。
そのとき気づいたことは、部屋の中がいくぶん散らかっているな、ということぐらいでした。
わたしは仕方なく、チャーハンののったテーブルの前に座って、テレビをぼんやりと眺めながらしばらく彼女の帰りを待ちました。
けれども、いくら待っても、彼女は戻ってはきませんでした。
こんなことははじめてのことでした。
高菜のチャーハンはすっかり冷めて、かぴかぴになってしまっています。
わたしはいよいよ心配になってきて、メモだとか、何か手がかりになるようなものがないか、もう一度部屋の中を探してみることにしたんです。
心境的には、母親が死んだときほど心細かったのです。
そしてしばらくして、わたしは、わずかな蓄えである通帳と印鑑が、タンスの引き出しの中から消えていることを発見しました。
まさか、ね。
そんなこと、あるはずがない。きっと、何か事情があってのことに決まっている。
わたしはそう自分に言い聞かせて、もうすぐに布団に入り、その夜を何とかひとりでやり過ごしました。
それでも結局、夜明けまで一睡もできませんでしたけれどね。
朝がきて、わたしはいつもより早く工場に出勤しました。
由加がいるかもしれないと思ったからです。
けれど体操の時間になっても、始業のサイレンがなっても、彼女は姿を現しませんでした。
そして、驚いたことに、いままで一度たりとも仕事を欠勤したことがない、我々のラインの鬼班長が、その日無断欠勤をしたのです。
昼休憩の時間になって、その理由がわかりました。
食堂で、だれかが話しているのが聞こえたのです。
その班長は妻子を捨てて、由加と駆け落ちしたのだ、と――」
To be continued.