終末の唄_061
「彼女は――かをりは、ぼくがしりうる限りの人間の中で、最もまじめで、つよく、潔くて、潔白で、清らかで、正しく、迷いのない人間です。
ぼくが四歳のときに、彼女の通う幼稚園に転園してきて以来、ずっと彼女のそばにいて、彼女を見てきたぼくが言うんだから、間違いはありません」
男は、二歩ほど長谷ににじり寄った。
「彼女が何かの事件に関わっている? まったくばかげた話だ。
騙すんなら、もうちょっとマシな騙し方をしたらどうです?
だいたい、あなた、だれなんですか? 何のためにこんなことをしているんですか?
あなた、先日もかをりの会社に現れて、こんな風にひとを騙して、いろいろとかをりのことを探っていたそうですね?
いったい、彼女の何がしりたいんですか?」
そのとき、隣の部屋のドアが開き、中から住人の女が出てきた。
彼女は隣人である男と、もうひとりのしらない男を交互に見て、それから隣人の男の方に軽く会釈をして階段を下りていった。そして自転車置き場から自分の自転車を引きずり出して、それに乗ってどこかに消えた。
長谷は口をつぐんだまま、黙っていた。
「まあいい。
とにかく、あなたがだれであれ、何のためにかをりのことを調べているにせよ、いまぼくがかをりについて言ったことは、ぜんぶ真実です。
それが、ぼくがかをりについてしっているすべてです。
さあ、もう帰ってくれませんか? ぼくはいま、ひどく疲れているんですよ」
「わかりました。そうしましょう。
ただ、最後に――もうこうなったからには、すべてをお話してから帰りましょう。
じつはわたし、私立探偵なんです。ある依頼人から、かをりさんについて調べて欲しいと依頼がありまして、それで彼女についていろいろと調べさせていただいておりました」
「かをりについて、調べてくれ?
その依頼人って、いったいだれなんです?」
「さあ? それはわたしにもよくわかりません。
変な変装をしていて、顔もわかりません。
ですが、どうぞご心配なく。あなたが最後の調査対象だったんですが、かをりさんはあなたが言うとおり、非の打ち所のないひとでした。だれに訊いても、どの場面を見ても。
だからわたしは、調査報告書に、そのように書きます。どこに出したとしても、彼女に不利益な報告ではありません。まったく問題なしです。
それではこれで、わたしは失礼させていただきます。いろいろとお騒がせしました」
長谷は帽子を少し上にあげて、男に背を向けた。
そして階段を二、三段下りたところで、もう一度男の方を向いた。
「まったく問題なし、と言いましたが、もしひとつ、問題があるとすれば――いやこれは、あくまで私見なんですが――彼女は完全過ぎる、ということでしょうか」
「完全過ぎる?」
「完全な状態というのは、裏返して言えば、とても不安定な状態なんですよ。
変に聞こえるかもしれませんが、あらゆるものは、常に、壊れたがっているんです。
それをみんな苦労して、なだめて、すかして、バランスを保っているんですよ。
けれどどうしても、いつかは、どこか小さな部分で、何かが壊れてしまいます。
するとそれはもう、完全ではなくなります。完全というのは、そういう脆い状態のことなんです。
完全を保とうとすると、ひどくエネルギーがいります。強靱な精神力も必要とされます。
だから、それに疲れて、バランスが崩れたときが、一番こわい。
わたしはかをりさんを見ていて、それがとても心配になりました。
できたら、その辺のところを少し気にしてあげてはどうかな、なんて思いました。
わたしが言いたかったのは、それだけです。いや、これは蛇足でしたな」
長谷はそう言って、また階段の続きをカンカンカンと下りていった。
オレは、アカの他人にそんな偉そうなことを言って、自分はいったいどうなんだ? 理子のことを、少しでも理解してやっていたというのか? バカヤロー!
と、長谷はこころの中で呟いた。
To be continued.
ぼくが四歳のときに、彼女の通う幼稚園に転園してきて以来、ずっと彼女のそばにいて、彼女を見てきたぼくが言うんだから、間違いはありません」
男は、二歩ほど長谷ににじり寄った。
「彼女が何かの事件に関わっている? まったくばかげた話だ。
騙すんなら、もうちょっとマシな騙し方をしたらどうです?
だいたい、あなた、だれなんですか? 何のためにこんなことをしているんですか?
あなた、先日もかをりの会社に現れて、こんな風にひとを騙して、いろいろとかをりのことを探っていたそうですね?
いったい、彼女の何がしりたいんですか?」
そのとき、隣の部屋のドアが開き、中から住人の女が出てきた。
彼女は隣人である男と、もうひとりのしらない男を交互に見て、それから隣人の男の方に軽く会釈をして階段を下りていった。そして自転車置き場から自分の自転車を引きずり出して、それに乗ってどこかに消えた。
長谷は口をつぐんだまま、黙っていた。
「まあいい。
とにかく、あなたがだれであれ、何のためにかをりのことを調べているにせよ、いまぼくがかをりについて言ったことは、ぜんぶ真実です。
それが、ぼくがかをりについてしっているすべてです。
さあ、もう帰ってくれませんか? ぼくはいま、ひどく疲れているんですよ」
「わかりました。そうしましょう。
ただ、最後に――もうこうなったからには、すべてをお話してから帰りましょう。
じつはわたし、私立探偵なんです。ある依頼人から、かをりさんについて調べて欲しいと依頼がありまして、それで彼女についていろいろと調べさせていただいておりました」
「かをりについて、調べてくれ?
その依頼人って、いったいだれなんです?」
「さあ? それはわたしにもよくわかりません。
変な変装をしていて、顔もわかりません。
ですが、どうぞご心配なく。あなたが最後の調査対象だったんですが、かをりさんはあなたが言うとおり、非の打ち所のないひとでした。だれに訊いても、どの場面を見ても。
だからわたしは、調査報告書に、そのように書きます。どこに出したとしても、彼女に不利益な報告ではありません。まったく問題なしです。
それではこれで、わたしは失礼させていただきます。いろいろとお騒がせしました」
長谷は帽子を少し上にあげて、男に背を向けた。
そして階段を二、三段下りたところで、もう一度男の方を向いた。
「まったく問題なし、と言いましたが、もしひとつ、問題があるとすれば――いやこれは、あくまで私見なんですが――彼女は完全過ぎる、ということでしょうか」
「完全過ぎる?」
「完全な状態というのは、裏返して言えば、とても不安定な状態なんですよ。
変に聞こえるかもしれませんが、あらゆるものは、常に、壊れたがっているんです。
それをみんな苦労して、なだめて、すかして、バランスを保っているんですよ。
けれどどうしても、いつかは、どこか小さな部分で、何かが壊れてしまいます。
するとそれはもう、完全ではなくなります。完全というのは、そういう脆い状態のことなんです。
完全を保とうとすると、ひどくエネルギーがいります。強靱な精神力も必要とされます。
だから、それに疲れて、バランスが崩れたときが、一番こわい。
わたしはかをりさんを見ていて、それがとても心配になりました。
できたら、その辺のところを少し気にしてあげてはどうかな、なんて思いました。
わたしが言いたかったのは、それだけです。いや、これは蛇足でしたな」
長谷はそう言って、また階段の続きをカンカンカンと下りていった。
オレは、アカの他人にそんな偉そうなことを言って、自分はいったいどうなんだ? 理子のことを、少しでも理解してやっていたというのか? バカヤロー!
と、長谷はこころの中で呟いた。
To be continued.
終末の唄_060
♯12
午後一時半。
探偵の長谷は、午前中からもうかれこれ三時間以上、そのアパートの前で男の帰りを待っていた。
かをりが、電話で映画に誘った男の帰りを、だ。
長谷は、刑事に扮してかをりの会社に聞き込みにいった際に、彼女の異性との交友関係についても質問し、複数の人間からある男の名前を聞きだしていた。
その男は、かをりの同僚で、いま病気療養のため会社を休職中だと聞き、長谷はその男が映画の男だと特定したのだった。
それから長谷はその男の住所を調べ、この男に対する聞き込みを、かをりについての一連の調査の最終調査にしようとして、こうして男のアパートの前で彼の帰りを待っているのだった。
それから三十分ほどが過ぎた。
通りから少し奥まったこのアパートのまわりは、人通りもほとんどなく、しんと静まり返っていた。
ときどき、電車が通り過ぎるかすかな音が聞こえてくるだけだ。
空を見上げると、いつの間にか、分厚い雲間から太陽が顔をのぞかせていて、じわじわと気温が上昇しはじめていた。
その眩しい空をスパッと切るように、ツバメが横切った。
ぬるくなった缶コーヒーを片手に、長谷はコートと帽子がうざったいな、と思う。
そして彼の足元には、三時間分のタバコの吸い殻が山となっていた。
長谷が腕時計を見て、いい加減にしてくれよ、もう二時になるぞ、と思ったとき、ある男がふらりと現れた。
男はひどくおぼつかない足取りで、アパートの二階へと階段を上った。
右端の部屋の前で止まったら、ヤツが例の男だ。
長谷は男の動きをじっと目で追った。
そのとき、男はまさにその部屋の前に立ち、鍵を取り出そうとジーンズのポケットをあさった。
長谷は隠れていたブロック塀の陰からすかさず飛び出し、階段を駆け上った。
「すみません」
と、長谷は男に声をかけた。
その声に、男はにぶく振り向いた。
その男の顔はひどく痩せこけ、無精髭がだらしなく中途半端に伸び、目は落ち込み生気がなかった。
ほんと、まさにこれは病人だわ、と長谷は思った。
「何でしょう?」と男が、答えた。
「ちょっと、お聞きしたいことがありまして。少し、いいですか?」
長谷は、偽物の警察手帳を見せながら、そう言った。
「はい」と言って、男は長谷の方をまっすぐ向き直した。
「足立かをり、ご存知ですよねえ?
聞くところによると、かなり、親しくされているとか?」
「ええ、しっています。友人です。
あなたの言う、かなり、というのが、どれほどのものを指すのかは、ぼくにはわかりませんが、確かに、つきあいの長い、親しい友人です」
「そうですか。
じつは、その足立かをりがですね、残念ながらある事件に関わっている可能性がありまして、いま聞き込み調査中なんですよ。そこで、あなたにも彼女についていくつかお聞きしたいと思いまして――」
To be continued.
午後一時半。
探偵の長谷は、午前中からもうかれこれ三時間以上、そのアパートの前で男の帰りを待っていた。
かをりが、電話で映画に誘った男の帰りを、だ。
長谷は、刑事に扮してかをりの会社に聞き込みにいった際に、彼女の異性との交友関係についても質問し、複数の人間からある男の名前を聞きだしていた。
その男は、かをりの同僚で、いま病気療養のため会社を休職中だと聞き、長谷はその男が映画の男だと特定したのだった。
それから長谷はその男の住所を調べ、この男に対する聞き込みを、かをりについての一連の調査の最終調査にしようとして、こうして男のアパートの前で彼の帰りを待っているのだった。
それから三十分ほどが過ぎた。
通りから少し奥まったこのアパートのまわりは、人通りもほとんどなく、しんと静まり返っていた。
ときどき、電車が通り過ぎるかすかな音が聞こえてくるだけだ。
空を見上げると、いつの間にか、分厚い雲間から太陽が顔をのぞかせていて、じわじわと気温が上昇しはじめていた。
その眩しい空をスパッと切るように、ツバメが横切った。
ぬるくなった缶コーヒーを片手に、長谷はコートと帽子がうざったいな、と思う。
そして彼の足元には、三時間分のタバコの吸い殻が山となっていた。
長谷が腕時計を見て、いい加減にしてくれよ、もう二時になるぞ、と思ったとき、ある男がふらりと現れた。
男はひどくおぼつかない足取りで、アパートの二階へと階段を上った。
右端の部屋の前で止まったら、ヤツが例の男だ。
長谷は男の動きをじっと目で追った。
そのとき、男はまさにその部屋の前に立ち、鍵を取り出そうとジーンズのポケットをあさった。
長谷は隠れていたブロック塀の陰からすかさず飛び出し、階段を駆け上った。
「すみません」
と、長谷は男に声をかけた。
その声に、男はにぶく振り向いた。
その男の顔はひどく痩せこけ、無精髭がだらしなく中途半端に伸び、目は落ち込み生気がなかった。
ほんと、まさにこれは病人だわ、と長谷は思った。
「何でしょう?」と男が、答えた。
「ちょっと、お聞きしたいことがありまして。少し、いいですか?」
長谷は、偽物の警察手帳を見せながら、そう言った。
「はい」と言って、男は長谷の方をまっすぐ向き直した。
「足立かをり、ご存知ですよねえ?
聞くところによると、かなり、親しくされているとか?」
「ええ、しっています。友人です。
あなたの言う、かなり、というのが、どれほどのものを指すのかは、ぼくにはわかりませんが、確かに、つきあいの長い、親しい友人です」
「そうですか。
じつは、その足立かをりがですね、残念ながらある事件に関わっている可能性がありまして、いま聞き込み調査中なんですよ。そこで、あなたにも彼女についていくつかお聞きしたいと思いまして――」
To be continued.
終末の唄_059
「ひとつ、訊いてもいいかな?」
ぼくは自転車をこぎながら、言った。
「どうぞ」とアリスは、言った。
「月兎さんや、マリリンさんは、あのおとなしい人格の子を、アリスだと言って、ぼくに友だちになってやってくれって、言ったんだ。
きみが言うように、彼女がアリスではないとしたら、彼らはどうしてそんな嘘を言ったんだろう?」
「決まってるじゃない。そんなこと。
ヤツら、おおかたわたしの身体を乗っ取ろうとでも思ってんのよ」
「乗っ取る?」
少し上り坂になって、ぼくは力んだ声で、訊き返した。
「わたしはね、もともと双子なんだ。こころ、がね。精神的双子。
その一方がわたしで、もう片方が、あのおとなしいアリス――裏アリス、ね。
わたしは、普段は何の問題もない、こんなに活発ないい子なんだけれど、ふとした瞬間、何かのきっかけで、急激に、加速度的に落ち込むことがあるの。
こころが、どこか、壊れているのね。
そうすると、わたしの前にあの子がでてくるの。そして、わたしはうしろにまわる。
あ、そこ左」
ぼくはアリスの言う通り、ハンドルを左にきる。
「それでも、最初はふたりだから、何とか誤魔化しながらでも、日常生活を送ってこられたわ。
でも段々と、こころの故障がひどくなってきちゃってさ、いつの間にか、人格がいくつもわたしの中に生まれてきたのよ。もう手に負えないくらいに。
こうなると、もう普通の生活はできないわよね。美容学校も、アルバイトも、全部いけなくなっちゃった」
「そうだったんだ」
「そして、あいつらにとっては、わたしよりも、裏アリスの方が都合がいいわけ。なぜなら、あの子は気が弱いから。何でもあいつらの言いなりになるからね。
あいつら、裏アリスを利用して、あたしをここから追い出して、この身体を自由にしようとしてるのよ」
「そんなこと、できるのかい?」
「さあ? でも最近、段々と、記憶にない時間が増えてきているのよ。
たぶん、わたしの中の、わたしのシェアが、減ってきているんだわ。わたしがわたしである時間、が――」
ぶ厚い雲に隠されていた太陽が、その隙間からゆっくりと顔をのぞかせ、道路のアスファルトがきらきらと輝きだした。
寒さに震えていたぼくの身体も、自転車をこぎ続けることで心地よく暖まっていた。
「でも、わたしは負けないわ、あんなヤツらに。
まあともかく、何とかなるんじゃないのって、なんとなく、軽く思ってるのよ?
だって、こころが壊れていないひとなんて、ほんとうは、ひとりもいないような気がするから。
あんたも、そう思わない?
わたしの場合は、ただそれが、ちょっと極端なだけなんだよ」
「そうだね。きっと、チェン先生が治してくれるよ。きみも、ぼくも」
「気長に治しましょう?」とアリスが、言った。
「うん」とぼくは、言った。
「ところで、もうひとつ訊いてもいいかな?」
「ええ。さて、今度は何かしら?」
「きみの胸の、十字架の刺青。あれは、きみが自分でいれたの?」
「あんた、見たの?」
「う、うん。ちょっとだけ、見えただけだよ。成り行き上」
「サイテー!」
アリスはぼくの腰の辺りをぎゅっとつねった。
「ごめん」
「あはは、嘘よ」アリスは、笑った。
「そうよ、わたしが、自分でいれたの」
「そうなんだ?」
「そう。自分の身体を守るための、おまじないに、ね」と彼女は、言った。
《霊と病に対する魔術的な防御》――と、ぼくは思う。そして《十字という絵柄自体が、人間そのものを示している》――と、続けてぼくは思う。
きっと、アリスはアリスなんだ、と彼女は言いたいのだ。
「ところで、お昼は何が食べたい?」とアリスが、訊いた。
「そうだなあ」ぼくはしばらく考えてから、言った。
「ホットケーキが食べたいな」
「ホットケーキ!
ちびくろさんぼのトラのみたいにおいしいバターと、くまのプーさんがよだれを垂らしそうに甘いはちみつをたっぷりかけたヤツ!
決まりね」
To be continued.
ぼくは自転車をこぎながら、言った。
「どうぞ」とアリスは、言った。
「月兎さんや、マリリンさんは、あのおとなしい人格の子を、アリスだと言って、ぼくに友だちになってやってくれって、言ったんだ。
きみが言うように、彼女がアリスではないとしたら、彼らはどうしてそんな嘘を言ったんだろう?」
「決まってるじゃない。そんなこと。
ヤツら、おおかたわたしの身体を乗っ取ろうとでも思ってんのよ」
「乗っ取る?」
少し上り坂になって、ぼくは力んだ声で、訊き返した。
「わたしはね、もともと双子なんだ。こころ、がね。精神的双子。
その一方がわたしで、もう片方が、あのおとなしいアリス――裏アリス、ね。
わたしは、普段は何の問題もない、こんなに活発ないい子なんだけれど、ふとした瞬間、何かのきっかけで、急激に、加速度的に落ち込むことがあるの。
こころが、どこか、壊れているのね。
そうすると、わたしの前にあの子がでてくるの。そして、わたしはうしろにまわる。
あ、そこ左」
ぼくはアリスの言う通り、ハンドルを左にきる。
「それでも、最初はふたりだから、何とか誤魔化しながらでも、日常生活を送ってこられたわ。
でも段々と、こころの故障がひどくなってきちゃってさ、いつの間にか、人格がいくつもわたしの中に生まれてきたのよ。もう手に負えないくらいに。
こうなると、もう普通の生活はできないわよね。美容学校も、アルバイトも、全部いけなくなっちゃった」
「そうだったんだ」
「そして、あいつらにとっては、わたしよりも、裏アリスの方が都合がいいわけ。なぜなら、あの子は気が弱いから。何でもあいつらの言いなりになるからね。
あいつら、裏アリスを利用して、あたしをここから追い出して、この身体を自由にしようとしてるのよ」
「そんなこと、できるのかい?」
「さあ? でも最近、段々と、記憶にない時間が増えてきているのよ。
たぶん、わたしの中の、わたしのシェアが、減ってきているんだわ。わたしがわたしである時間、が――」
ぶ厚い雲に隠されていた太陽が、その隙間からゆっくりと顔をのぞかせ、道路のアスファルトがきらきらと輝きだした。
寒さに震えていたぼくの身体も、自転車をこぎ続けることで心地よく暖まっていた。
「でも、わたしは負けないわ、あんなヤツらに。
まあともかく、何とかなるんじゃないのって、なんとなく、軽く思ってるのよ?
だって、こころが壊れていないひとなんて、ほんとうは、ひとりもいないような気がするから。
あんたも、そう思わない?
わたしの場合は、ただそれが、ちょっと極端なだけなんだよ」
「そうだね。きっと、チェン先生が治してくれるよ。きみも、ぼくも」
「気長に治しましょう?」とアリスが、言った。
「うん」とぼくは、言った。
「ところで、もうひとつ訊いてもいいかな?」
「ええ。さて、今度は何かしら?」
「きみの胸の、十字架の刺青。あれは、きみが自分でいれたの?」
「あんた、見たの?」
「う、うん。ちょっとだけ、見えただけだよ。成り行き上」
「サイテー!」
アリスはぼくの腰の辺りをぎゅっとつねった。
「ごめん」
「あはは、嘘よ」アリスは、笑った。
「そうよ、わたしが、自分でいれたの」
「そうなんだ?」
「そう。自分の身体を守るための、おまじないに、ね」と彼女は、言った。
《霊と病に対する魔術的な防御》――と、ぼくは思う。そして《十字という絵柄自体が、人間そのものを示している》――と、続けてぼくは思う。
きっと、アリスはアリスなんだ、と彼女は言いたいのだ。
「ところで、お昼は何が食べたい?」とアリスが、訊いた。
「そうだなあ」ぼくはしばらく考えてから、言った。
「ホットケーキが食べたいな」
「ホットケーキ!
ちびくろさんぼのトラのみたいにおいしいバターと、くまのプーさんがよだれを垂らしそうに甘いはちみつをたっぷりかけたヤツ!
決まりね」
To be continued.