終末の唄_021
突然、ぼくの背後で、鳥を絞め殺したようなぞっとするような叫び声がおこり、同時に黒い何かが風を巻き込むように勢いよく、しゃがみ込んだぼくの頭上をかすめた。
驚いて足下から視線を上げると、その黒い何かは、ぼくの前に並んでいた女性の背中にぐさりと突き刺さっていた(そこではじめて、それが傘だとわかった)。
彼女の薄いピンク色のブラウスが、傘の先を中心にして見る見る赤く染まっていく。
彼女は短いうめき声をあげると、そのまま傘に押し出されるようにホームから落ちた。
そこへ、加速度をつけた通過電車が入ってくる。警笛を鳴らそうが、火花を散らして急ブレーキをかけようが、もう何もかも遅すぎた。
やがて、ボコっという鈍いくぐもった音がする。
その瞬間、ぼくは目を閉じたかった。けれどそれはぼくの意志に反して、どうしても閉じようとはしなかったのだ。ぼくはそのとき、どこかとても広いホールの中で、たったひとりで、悲惨な過去のできごとを映した記録映画のワンシーンでも見ているような、そんな錯覚に陥った。
すぐに、ごった返したホームはパニック状態になった。
近くにいたひとたちは、巻き添えをくいたくないと押し合いへしあいでその場から逃げ出した。転んで彼らに踏みつけられるひとも大勢いた。あちらこちらから、いくつもの悲鳴や泣き声が聞こえてくる。
それでも勇敢に、傘で刺した男(ぼくのうしろに並んでいた、あのキツネ目の男だ)を取り押さえるひとたちもいた。四人がかりで男の手足をつかみ、ちからまかせにホームの上に押さえ込んだ。キツネ目の男の顔の左側半分が、濁った浅い水溜まりの中に浸かった。
彼は押さえつけられてもなお、しばらくは何かを叫びながら暴れ続けていた。その暴れる男の足に蹴られて、ぼくは両手を地面につけ、よつんばいになってしまった。犯人の男も、取り押さえたひとたちも、そしてぼくも、みなどろどろに汚れていた。
男のメガネは乱闘の際に踏みつけられて、レンズが割れてフレームが曲がっていた。女を刺した凶器の傘も、すでに骨がぐにゃぐにゃに折れ曲がっていた。
しばらくして数人の駅員が駆けつけてきた頃には、男の形相は急激に変化し、一転して静かになっていた。
おとなしくなった男は駅員に両腕を押さえつけられ、駅事務所の方へと連行されていった。
倒れ込んだままのぼくのまわりには、ぽっかりとした空間が口を開けていた。
ぼくはそこでようやく目を閉じることができた。ちからなくホームに両手をついたまま、しばらくの間、ぼくはそのまま深く目を閉じていた。
ダイヤが復旧するまでの間、バスによる代替輸送を行うとのアナウンスが流れ、何人もの駅員が総出で、ホームに溢れているひとたちや脱線した車両から降ろされた乗客たちをテキパキと手際よくホームから駅構内へと誘導した。
激しさを増した雨が、みなの気分をなおさら重く暗くしていた。
犯人の近くに居合わせたぼくを含む数人の乗客は現場検証に協力してほしいということで、そのまま残され、駅事務所に案内された。
事務所に入ると、簡易なパイプイスに座らされ、熱いほうじ茶が入った湯呑みが配られた。ぼくはからからに乾いた喉を、そのお茶で癒した。
事務所の中はしんと静まり返っていて、先ほどまでの騒ぎがまるで別の星でのできごとのように思える。ストーブが二台焚かれていて部屋の中は暖かかったけれど、石油の匂いが少し気になった。
湯呑みを両手で持ちながら、ぼくはぼんやりと先ほどの事件について考えていた。
いったい、いま目の前で起こった事件は、何だったんだろうか?
To be continued.


驚いて足下から視線を上げると、その黒い何かは、ぼくの前に並んでいた女性の背中にぐさりと突き刺さっていた(そこではじめて、それが傘だとわかった)。
彼女の薄いピンク色のブラウスが、傘の先を中心にして見る見る赤く染まっていく。
彼女は短いうめき声をあげると、そのまま傘に押し出されるようにホームから落ちた。
そこへ、加速度をつけた通過電車が入ってくる。警笛を鳴らそうが、火花を散らして急ブレーキをかけようが、もう何もかも遅すぎた。
やがて、ボコっという鈍いくぐもった音がする。
その瞬間、ぼくは目を閉じたかった。けれどそれはぼくの意志に反して、どうしても閉じようとはしなかったのだ。ぼくはそのとき、どこかとても広いホールの中で、たったひとりで、悲惨な過去のできごとを映した記録映画のワンシーンでも見ているような、そんな錯覚に陥った。
すぐに、ごった返したホームはパニック状態になった。
近くにいたひとたちは、巻き添えをくいたくないと押し合いへしあいでその場から逃げ出した。転んで彼らに踏みつけられるひとも大勢いた。あちらこちらから、いくつもの悲鳴や泣き声が聞こえてくる。
それでも勇敢に、傘で刺した男(ぼくのうしろに並んでいた、あのキツネ目の男だ)を取り押さえるひとたちもいた。四人がかりで男の手足をつかみ、ちからまかせにホームの上に押さえ込んだ。キツネ目の男の顔の左側半分が、濁った浅い水溜まりの中に浸かった。
彼は押さえつけられてもなお、しばらくは何かを叫びながら暴れ続けていた。その暴れる男の足に蹴られて、ぼくは両手を地面につけ、よつんばいになってしまった。犯人の男も、取り押さえたひとたちも、そしてぼくも、みなどろどろに汚れていた。
男のメガネは乱闘の際に踏みつけられて、レンズが割れてフレームが曲がっていた。女を刺した凶器の傘も、すでに骨がぐにゃぐにゃに折れ曲がっていた。
しばらくして数人の駅員が駆けつけてきた頃には、男の形相は急激に変化し、一転して静かになっていた。
おとなしくなった男は駅員に両腕を押さえつけられ、駅事務所の方へと連行されていった。
倒れ込んだままのぼくのまわりには、ぽっかりとした空間が口を開けていた。
ぼくはそこでようやく目を閉じることができた。ちからなくホームに両手をついたまま、しばらくの間、ぼくはそのまま深く目を閉じていた。
ダイヤが復旧するまでの間、バスによる代替輸送を行うとのアナウンスが流れ、何人もの駅員が総出で、ホームに溢れているひとたちや脱線した車両から降ろされた乗客たちをテキパキと手際よくホームから駅構内へと誘導した。
激しさを増した雨が、みなの気分をなおさら重く暗くしていた。
犯人の近くに居合わせたぼくを含む数人の乗客は現場検証に協力してほしいということで、そのまま残され、駅事務所に案内された。
事務所に入ると、簡易なパイプイスに座らされ、熱いほうじ茶が入った湯呑みが配られた。ぼくはからからに乾いた喉を、そのお茶で癒した。
事務所の中はしんと静まり返っていて、先ほどまでの騒ぎがまるで別の星でのできごとのように思える。ストーブが二台焚かれていて部屋の中は暖かかったけれど、石油の匂いが少し気になった。
湯呑みを両手で持ちながら、ぼくはぼんやりと先ほどの事件について考えていた。
いったい、いま目の前で起こった事件は、何だったんだろうか?
To be continued.

終末の唄_020
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やはり、雨はポツリポツリと降りだした。
カフェを出て、かをりと別れたあと、ぼくはもう家へ帰ろうとJRのG市駅に向かって歩きだしていた。雨はすぐに、ポツリポツリとは言っていられないくらいに激しい勢いで降りだした。
ぼくはあわてて肩に掛けたトートバッグの中から折りたたみ傘を取り出して、差した。それでももどかしく傘を広げている間に、すでにぼくは相当濡れてしまっていた。
それほど雨は激しく降りだしていたんだ。
時刻はちょうど帰宅のラッシュ時で、駅のコンコースはひどく混み合っていた。
この近くには、私立の女子校と男子校がそれぞれ一校ずつあるし、市の官公庁街で公務員も多い。みんな少なからず髪や肩を濡らしながら、うんざりとした顔をして急ぎ足で歩いていた。
大嫌いな雨と人混みとが重なって、ぼくももちろんうんざりしていた。もう少し早く帰るか、あるいは遅らせていればよかったな、といまさら後悔していた。
プラットホームの上も溢れんばかりの人混みだった。
もうすっかり暗くなった空から降り注ぐ銀色の雨は、その頃にはもう庇の下にいても濡れるくらいの激しい降りになっていた。
ぼくのベージュ色のチノーズの裾とベロアの靴も、ひどく濡れて黒く変色していた。
どこからか、携帯電話の着信メロディーが聞こえてくる。その曲はぼくが気になっている、あの曲だ。
ぼくはぐっしょりと濡れた傘をふるふると降って水気を払い、湿気を含んで少しカールしかけた前髪を掻き上げたあと、だれも出ない携帯の曲を聴きながら、目を伏せて電車がくるのをじっと待った。
ぼくのうしろには、ひどくくたびれた中年のサラリーマン風の男が並んでいた。
彼は今日会社で何か嫌なことでもあったのか、苦虫を噛み潰したようなひどく苦々しい顔つきをして、傘でしきりに地面をイライラと突っついていた。
その彼のぐっしょりと濡れた傘が、先ほどからぼくの足に何度もあたってきて、ぼくはそれが気になって仕方がなかった。
これだけ混み合ったホームに並んでいるのだから、多少のことは我慢しなければならないということはぼくにもわかってはいるけれど、彼の場合は少しひどすぎる。ひとに対する気遣いがなさ過ぎた。
次に傘があたったとき、ぼくは反射的にうしろを振り向いた。けれども男はメガネの奥のキツネのように細い目をなおさら細くして、「仕方ないだろう?」という表情をしただけで、少しも申しわけないという風ではなかった。
ぼくはあきらめ気味に小さくため息をついて、前を向き直った。
通過の電車が間もなくぼくらの並んでいるホームに入ってくるという注意のアナウンスが、降りしきる雨の音と、ざわざわとした喧噪をかいくぐってスピーカーから聞こえてきた。
ちょうどそのとき、ホームの少し向こうの方で、悲鳴や罵声をともないながら、人波が波紋のようにうねっているのが見えた。
いったい何だろう? とぼくは思った。
そのうねりがだんだんとぼくの並ぶ列の方へ近づいてくるにつれて、それが、溢れんばかりに混雑したホームを、だれかが無理やり縦断しようとしているためだということがわかってきた。
汚れた作業着を着て、大きなボストンバックを背負ったその男は、ひとの迷惑などかえりみず、まわりの非難など気にも留めずに、人混みをぐんぐんかき分けて、ただホームの前方を目指していた。
彼によって列から押し出されたり、ボストンバッグに背中を殴られたりしたひとたちは、みな眉をひそめ口を尖らせて迷惑がっていた。
その作業着の男がとうとうぼくのうしろを通り過ぎようとしたとき、ぼくの肩に掛けたトートバッグが彼のボストンバッグに引きずられてどさりと足下に落ちてしまった。その拍子に、バッグの中から先ほど買ったばかりの本が、いくつもの濡れた靴に踏みつけられてぐしょぐしょに汚れてしまったホームの上に飛び出した。
男はそれに気づきもしないでぐいぐいと先を進み、そのまま人混みの中に消えてしまったのだ。
取り残されたぼくは、ますます憂鬱になるばかりだった。けれども何とか気を持ち直し、本を拾おうとその場にしゃがみ込んだのだった。
事件は、そのとき起こった――。
To be continued.


やはり、雨はポツリポツリと降りだした。
カフェを出て、かをりと別れたあと、ぼくはもう家へ帰ろうとJRのG市駅に向かって歩きだしていた。雨はすぐに、ポツリポツリとは言っていられないくらいに激しい勢いで降りだした。
ぼくはあわてて肩に掛けたトートバッグの中から折りたたみ傘を取り出して、差した。それでももどかしく傘を広げている間に、すでにぼくは相当濡れてしまっていた。
それほど雨は激しく降りだしていたんだ。
時刻はちょうど帰宅のラッシュ時で、駅のコンコースはひどく混み合っていた。
この近くには、私立の女子校と男子校がそれぞれ一校ずつあるし、市の官公庁街で公務員も多い。みんな少なからず髪や肩を濡らしながら、うんざりとした顔をして急ぎ足で歩いていた。
大嫌いな雨と人混みとが重なって、ぼくももちろんうんざりしていた。もう少し早く帰るか、あるいは遅らせていればよかったな、といまさら後悔していた。
プラットホームの上も溢れんばかりの人混みだった。
もうすっかり暗くなった空から降り注ぐ銀色の雨は、その頃にはもう庇の下にいても濡れるくらいの激しい降りになっていた。
ぼくのベージュ色のチノーズの裾とベロアの靴も、ひどく濡れて黒く変色していた。
どこからか、携帯電話の着信メロディーが聞こえてくる。その曲はぼくが気になっている、あの曲だ。
ぼくはぐっしょりと濡れた傘をふるふると降って水気を払い、湿気を含んで少しカールしかけた前髪を掻き上げたあと、だれも出ない携帯の曲を聴きながら、目を伏せて電車がくるのをじっと待った。
ぼくのうしろには、ひどくくたびれた中年のサラリーマン風の男が並んでいた。
彼は今日会社で何か嫌なことでもあったのか、苦虫を噛み潰したようなひどく苦々しい顔つきをして、傘でしきりに地面をイライラと突っついていた。
その彼のぐっしょりと濡れた傘が、先ほどからぼくの足に何度もあたってきて、ぼくはそれが気になって仕方がなかった。
これだけ混み合ったホームに並んでいるのだから、多少のことは我慢しなければならないということはぼくにもわかってはいるけれど、彼の場合は少しひどすぎる。ひとに対する気遣いがなさ過ぎた。
次に傘があたったとき、ぼくは反射的にうしろを振り向いた。けれども男はメガネの奥のキツネのように細い目をなおさら細くして、「仕方ないだろう?」という表情をしただけで、少しも申しわけないという風ではなかった。
ぼくはあきらめ気味に小さくため息をついて、前を向き直った。
通過の電車が間もなくぼくらの並んでいるホームに入ってくるという注意のアナウンスが、降りしきる雨の音と、ざわざわとした喧噪をかいくぐってスピーカーから聞こえてきた。
ちょうどそのとき、ホームの少し向こうの方で、悲鳴や罵声をともないながら、人波が波紋のようにうねっているのが見えた。
いったい何だろう? とぼくは思った。
そのうねりがだんだんとぼくの並ぶ列の方へ近づいてくるにつれて、それが、溢れんばかりに混雑したホームを、だれかが無理やり縦断しようとしているためだということがわかってきた。
汚れた作業着を着て、大きなボストンバックを背負ったその男は、ひとの迷惑などかえりみず、まわりの非難など気にも留めずに、人混みをぐんぐんかき分けて、ただホームの前方を目指していた。
彼によって列から押し出されたり、ボストンバッグに背中を殴られたりしたひとたちは、みな眉をひそめ口を尖らせて迷惑がっていた。
その作業着の男がとうとうぼくのうしろを通り過ぎようとしたとき、ぼくの肩に掛けたトートバッグが彼のボストンバッグに引きずられてどさりと足下に落ちてしまった。その拍子に、バッグの中から先ほど買ったばかりの本が、いくつもの濡れた靴に踏みつけられてぐしょぐしょに汚れてしまったホームの上に飛び出した。
男はそれに気づきもしないでぐいぐいと先を進み、そのまま人混みの中に消えてしまったのだ。
取り残されたぼくは、ますます憂鬱になるばかりだった。けれども何とか気を持ち直し、本を拾おうとその場にしゃがみ込んだのだった。
事件は、そのとき起こった――。
To be continued.


