わたしにはこのふたりの意見、対立してないようにおもえるんだけど、どうなんでしょう?
松本さんの
「人間が生まれてくるなかで、どうしても不良品っていうのは何万個に1個、絶対に。これはしょうがない」と話し、「それを何十万個、何百万個に1つくらいに減らすことはできるのかな、みんなの努力で。こういう人たちは居ますから、絶対数。もう、その人達同士でやり合ってほしい」
という意見、不良品という言葉や、その人達同士でやり合ってほしい、という賛同できない箇所はあるけれど、彼は犯罪の数を減らしてゆくことに関して反対はしていないよね。救われる人がいる可能性を否定した訳でもない。
わたしは松本さんの考えていることを聞くのが好きです。その道を極めた人だからというのもあるし、嘘がないから。これは浜田さんにも感じていることだけど、ダウンタウンって表面的なことでごまかしたりしない。そこに多少の偏見があるのはしょうがない、ごまかさないんだから。そして偏見のない人なんていない。
だからこの回のワイドナショーも見たけれど、みんなで努力して減らすことへの反対なんてしてなかったようにおもう。ましてや太田さんのような意見を否定した訳でもないし。
わたしはあらゆる犯罪者に対して、懲罰的な側面を重視するのではなく、更生へと開かれてゆくことがこれからのあり方として理想だと考えています。犯罪ってトラウマ的な傷や認知の歪みが大きくなりすぎていることが原因だとおもうから、それを癒したり更生するプログラムの導入とかね。被害にあわれた方へのそういうプログラムもあるといい。
遺族ならまだしも、世間が懲罰感情を強めたところで犯罪はなくならないじゃない?もうそのことはこれまでに散々経験してきてる。無理だってことを認めて、方向転換する時期だとおもう。海外では社会復帰や再犯防止に力を入れて再犯率の減少に効果あった、という記事も読んだことがあるよ。(ソース見つけられず…)
被害者遺族の気持ちを無視しようというのとはちがっていて。光市母子殺人事件のときの遺族の死刑を求める気持ちや葛藤はとても響いた。そのためにも、とおもう。
そして、太田さんはそんなことを言ってないけれど、この二人を対立させる考え方のひとつに、「愛をもって接すればすべての人を救うことができる」という思想が流れているような気がした。
「ひきこもり」ではなく「たてこもり」なのだ。(田口ランディ)
「救いを望んでない人」というのがいる。深い深いところでは望んでいるのかもしれないけれど、救われることを拒絶する人。
ピカソの絵が救いの手を差しのべたとき、太田さんがそれを受け入れることができたのは、救われたいという気持ちがあったからだろう。
松本さんの”不良品”というのは、救われることを望まず、自ら周囲の助けを拒み、どんどん孤立して世間を恨むようになる人をゼロにすることはできない、という意味のようにおもう。人間だもの。すべての人を救えるなんて傲慢だ。
救いたい・助けたいという想いは尊いけれど、本人が望んでいなければ周りはどうしようもない。たとえ家族や福祉であっても、それらを拒絶するバリアを破ってまで救うことはできない。領域侵犯だ。
どうしようもない、でも放ってもおけない。
こういうときわたしは、自分を救うことからはじめなくては、とおもう。悲しく、やるせないニュースを見て心が痛むなら、救いが必要なのはわたしたちも一緒だ。社会の成熟とか倫理観の底上げは、ひとりひとりの救いの上にしか成り立たないんじゃないかな、とおもってる。
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