ゲーム黄金時代 ゲームが熱かった日々そして業界の人たち -5ページ目
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第3回 京浜急行に乗って

 「Beep」の初代編集長豊田さんは、彼が会社を辞める前に羽田の近くにあるゲーム会社に私を連れて行ってくれた。
 この会社は、広報の人がよくしてくれるんだけど、まだたいした付き合いができていないんだよね。何か取っかかりになるような企画があったら考えてくれないかな。
 と豊田さんに言われていたので、京浜急行に乗って大鳥居に出かけた。ちなみに「レンタヒーロー」的にはオートリーである。
 その大鳥居の改札を出て、歩いて数分のところにめざす会社はあった。完成したばかりの新社屋の横にある、2階建ての町工場風の建物。入り口横のプレートには、株式会社セガ・エンタープライゼスと書かれていた。
 私たちが玄関に入ると、すぐに薄暗くて閑散とした事務所に通された。
 そこでは、町工場ふうのジャンパーを着たネクタイ姿の男たちが、デスクに向かって黙々と働いていた。やがて、眼鏡をかけた男が近寄って来て、名刺を差し出した。
 その宣伝部の部長は、「うちにマスコミの人が来るのは珍しくてね。電波新聞社と徳間書店で攻略本をやってる編プロ、それにお宅ぐらいなんだよ。これからちょくちょく遊びに来てよ」とぶっきらぼうに言った。
 徳間書店のテレビランドわんぱっくシリーズの「セガ・マークⅢ大作戦」。この攻略本を編集していたワークハウスというプロダクションは当時セガの常連だった。


マーク3

第2回 ゲーム雑誌全盛の頃

 「Beep」発刊当時ゲームをプレイする環境は、おもにPC-8801、X1、FM-7、MSX(1987年からX68000が加わる)などのパソコン、ファミコンやセガマークⅢ(1987年からはPCエンジンが加わる)などのゲーム機だった。
 ゲームファンは、いろいろな選択肢の中から、親にパソコンを勉強するという言い訳をしてMSXを購入したり、近所の玩具店にファミコンが売ってなかったので仕方なくマークⅢを買ってしまったとか、それぞれの事情でマシンを購入し、それに対応したゲームソフトを購入してゲームをプレイしていた。
 各マシンには、それぞれ専門の情報誌が発行されていて、とくにパソコン情報誌の数は多かった。
 その中で「Beep」というコンピュータゲーム雑誌が1985年の1月に創刊された。
 それまでソフトとハードの情報を掲載するハード専門誌は発行されていたが、ゲームというカテゴリーに絞り機種を問わず情報を掲載する雑誌はなかった。
 その半年後に「ファミリーコンピュータマガジン」が創刊され、ゲーム専門誌で初めて100万部を突破することになるが、これ以降多くの出版社から続々とゲーム雑誌が発行されるようになる。
 中には「ハイスコア」「ファミコンチャンピオン」「MSX応援団」などのように1990 年代になると消えてしまう短命で、しかも懐かしい雑誌もあった。
 余談だが「ハイスコア」の編集者だった福島さんは、その後有名美少女ゲーム誌の編集長になった。  「ハイスコア」は、自社タイトル「ゾンビハンター」の攻略にどの雑誌よりもページを割いていた。音声入りの珍しいファミコンゲームだったが・・・。


ハイスコア

第1回 プロローグ

2007年はいろいろな縁に恵まれた1年だった。


ちょうど1年前の2006年12月。

知人に連れられて新宿ゴールデン街にあるゲームと80年代ファンが集うバー、プラスチックモデルに行った後、そこが縁でいろいろな世代のゲームファンに会うことができた。


この「オレゲー!」もそうした人たちが、それぞれの知識と技術、そしてゲームに対する愛情を持ち寄って作られている。度重なるミーティングのお陰で高円寺の飲み屋街が気に入ってしまったというオマケもあったが。


さて、以前ドリームキャストユーザー向けのコミュニティサイト上で「ドリキャス」で連載していた「大鳥居日和」。これは、私がゲーム雑誌の編集をしていたころのエピソードを寄せ集めたものだが、縁あって再開することになった。私自身「大鳥居日和」の存在をすっかり忘れていたが、「オレゲー!」の制作スタッフが発見してくれたのである。


改めて読み直してみると、もっといろいろなことを思い出してきた。
そういうわけで、「ゲーム黄金時代」は、「大鳥居日和」をベースにゲームにまつわる昔話を再度書き綴ることにした。
「女神転生」ふうに、これからもよろしく。


プラスチックモデル

マスターの関根さんは、8、16ビット時代のゲームのみならず80年代カルチャー、日本のロックにも精通しています。
http://www.plastic-model.net/

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