第9回 ピンボールグラフィティ
私が、企画・編集した書籍に「ピンボール・グラフィティ」がある。
ピンボールに関するアメリカの書籍は結構あったが日本の本はなく、自分でピンボールの写真集のような本が読みたかったので、自ら企画して東京とその近郊にあるピンボールマシンをいろいろと撮影して回った。
タイトーの海老名倉庫には、店舗から引き取られた「ハイスピード」「コメット」「ピンボット」などのウィリアムスやバリーのマシンが置いてあり、朝から夕方まで出来る限り撮影させてもらった。
「ピンボール・グラフィティ」の表紙の写真が「パラゴン」なのは、私が1970年代によくそのマシンをプレイしていたからだ。
撮影後ピンボール愛好者のサークルTPOの人たちと知り合うことになり、彼らに原稿を依頼したので、編集はスムーズに進んだ。というのも、それまでは私がひとりで、アメリカのピンボールの本を翻訳しながら原稿を書きつつ編集していたので、作業はなかなかはかどらなかった。
そういう状況だったので、TPOの人たちの力は大きかったが、TPOのメインメンバーのひとりが、その後データイーストのピンボール事業部で働くことになる堀口さんである。
すぎやまこういちさんが1960年代にピンボールをプレイしていたので原稿を依頼し、またカメラマンの知り合いが偶然村上春樹さんのジャズ喫茶でウェイトレスをしていたので、その人に依頼し村上さんを紹介してもらった。
私が電話で村上さんに原稿を依頼すると、意外にすんなりと引き受けてもらった。出来上がった村上さんの原稿は、自分でピンボールを所有していた頃のエッセイで、もちろん本のテーマに合ったすばらしいものだった。
「ピンボール・グラフィティ」は5,000部ほど売れたが、少々売れ残ったので会社から続編刊行の依頼はなかった。
その後個人的にピンボールマシンの撮影を続けていたので、機会があればもう一度出版したいと考えている。
ピンボールに関するアメリカの書籍は結構あったが日本の本はなく、自分でピンボールの写真集のような本が読みたかったので、自ら企画して東京とその近郊にあるピンボールマシンをいろいろと撮影して回った。
タイトーの海老名倉庫には、店舗から引き取られた「ハイスピード」「コメット」「ピンボット」などのウィリアムスやバリーのマシンが置いてあり、朝から夕方まで出来る限り撮影させてもらった。
「ピンボール・グラフィティ」の表紙の写真が「パラゴン」なのは、私が1970年代によくそのマシンをプレイしていたからだ。
撮影後ピンボール愛好者のサークルTPOの人たちと知り合うことになり、彼らに原稿を依頼したので、編集はスムーズに進んだ。というのも、それまでは私がひとりで、アメリカのピンボールの本を翻訳しながら原稿を書きつつ編集していたので、作業はなかなかはかどらなかった。
そういう状況だったので、TPOの人たちの力は大きかったが、TPOのメインメンバーのひとりが、その後データイーストのピンボール事業部で働くことになる堀口さんである。
すぎやまこういちさんが1960年代にピンボールをプレイしていたので原稿を依頼し、またカメラマンの知り合いが偶然村上春樹さんのジャズ喫茶でウェイトレスをしていたので、その人に依頼し村上さんを紹介してもらった。
私が電話で村上さんに原稿を依頼すると、意外にすんなりと引き受けてもらった。出来上がった村上さんの原稿は、自分でピンボールを所有していた頃のエッセイで、もちろん本のテーマに合ったすばらしいものだった。
「ピンボール・グラフィティ」は5,000部ほど売れたが、少々売れ残ったので会社から続編刊行の依頼はなかった。
その後個人的にピンボールマシンの撮影を続けていたので、機会があればもう一度出版したいと考えている。
第8回 すぎやまこういちさん
すぎやまさんと私がお付き合いするようになったきっかけは、やはり「Beep」である。
ゲーム音楽についての取材で「Beep」の編集者とライターがすぎやまさんのお宅にうかがったときのこと。
スタッフが取材から帰ってきてしばらくすると、すぎやまさんのお宅から編集部に電話があった。
電話に出てみるとすぎやまさんの奥さんからだった。「誰か私のスニーカーを間違えて履いて帰っていませんか?」という。調べてみるとそのとおりだったので、私が奥さんの靴を携えてすぎやまさん宅に謝りに行ったことがそもそもの始まりだった。
その後お付き合いさせていただいているうちに、すぎやまさんはゲームが大好きなのに、まだ本を出版されていないということがわかったので、お願いして作らせていただいた。
すぎやまさんは、私たちの世代の人から言わせるとグループサウンズの歴史を作った方で、私も中学生時代大ファンだった。そういう方といっしょに仕事ができることが、とてもうれしかった。
その後すぎやまさんには、私が編集長をしていた「ザ・スーパーファミコン」という雑誌では、隔週でいろいろな方と対談していただいた。
例えば、ゲーム大好きな歌舞伎役者中村勘三郎さん、将棋のゲームをプレイされていた棋士の羽生善治さん、「スーパーマリオブラザーズ」が気に入っていたジャズミュージシャンの渡辺貞夫さんなど、すぎやまさんの知り合いの方々に登場していただいた。
もちろん、ゲーム業界の著名人、任天堂の宮本茂さんや当時スクウェアの坂口さんと植松さんのコンビ、広井王子さんなどの豪華なゲストにも登場していただいた。
最近プレイしている「カセキホリダー」。シリーズものが多いDSタイトルの中ではオリジナルで健闘している。
第7回 GS倶楽部
「Beep」にはときどきゲームミュージックが収録されたソノシートが付録に付いていた。
このアイデアは、初代編集長豊田さんの発想だと思う。
当時自社タイトルのゲームミュージックに商業的価値があると考えているゲーム会社は、
それほど多くなかった。もちろん社会的な文化的価値などほとんど認められていなかった。
ゲームミュージックのソノシートを制作する場合、ゲームタイトル別に音源データがあるわけではなかったので、ゲーム基板やチップの端子にクリップを付けてダイレクトに録音していた。
話は変わるが、1980年代末まではゲーム画面の撮影は、アナログカメラで行っていた。
ゲームの攻略ともなると36枚撮りのフィルムで数本以上になることはざらで、マップ作りともなると、現像所から届けられた写真を1枚ずつ切り取りそれを繋げていく作業になった。作業はおもにライターや編集者が行っていたが、彼らのことを通称マッパーと呼んでいた。
雑誌や攻略本で掲載されていたマップが曲がっていたりしたのは、マッパーの未熟な技術のせいである。
さて、ゲームミュージックに話を戻すと、私が企画・監修した書籍に「GS倶楽部 」(ゲームサウンド倶楽部の略)という本があった。
編集作業は、「Beep」の編集スタッフだった白勢さんが行ったが、この本は、おそらく日本初のゲームミュージックに関する書籍だったのではないだろうか。
ゲームミュージックに関して原稿が書けるあらゆるライターに原稿を依頼し、編集部でそれらを継ぎ接ぎしながら一冊にまとめた。
ちなみに「すぎやまこういちのゲーム大博覧会」や「RPG幻想辞典・日本編」も私が企画・監修、白勢さんが編集した書籍である。
このアイデアは、初代編集長豊田さんの発想だと思う。
当時自社タイトルのゲームミュージックに商業的価値があると考えているゲーム会社は、
それほど多くなかった。もちろん社会的な文化的価値などほとんど認められていなかった。
ゲームミュージックのソノシートを制作する場合、ゲームタイトル別に音源データがあるわけではなかったので、ゲーム基板やチップの端子にクリップを付けてダイレクトに録音していた。
話は変わるが、1980年代末まではゲーム画面の撮影は、アナログカメラで行っていた。
ゲームの攻略ともなると36枚撮りのフィルムで数本以上になることはざらで、マップ作りともなると、現像所から届けられた写真を1枚ずつ切り取りそれを繋げていく作業になった。作業はおもにライターや編集者が行っていたが、彼らのことを通称マッパーと呼んでいた。
雑誌や攻略本で掲載されていたマップが曲がっていたりしたのは、マッパーの未熟な技術のせいである。
さて、ゲームミュージックに話を戻すと、私が企画・監修した書籍に「GS倶楽部 」(ゲームサウンド倶楽部の略)という本があった。
編集作業は、「Beep」の編集スタッフだった白勢さんが行ったが、この本は、おそらく日本初のゲームミュージックに関する書籍だったのではないだろうか。
ゲームミュージックに関して原稿が書けるあらゆるライターに原稿を依頼し、編集部でそれらを継ぎ接ぎしながら一冊にまとめた。
ちなみに「すぎやまこういちのゲーム大博覧会」や「RPG幻想辞典・日本編」も私が企画・監修、白勢さんが編集した書籍である。