ゲーム黄金時代 ゲームが熱かった日々そして業界の人たち -4ページ目

第6回 セガ・ハイテク図鑑のおまけ

 「セガ・ハイテク図鑑」に収録したゲーム中に「R‐TYPE」があった。
 これは、アイレムの名作アーケード・シューティングゲームだが、マークⅢの移植版はハードの機能を考えると移植度がそこそこに高かった。
 「これは社内で作ったんですか?」とセガの広報部長に聞いたところ、「アレスタ」というシューティングゲームをおもに制作している広島のコンパイルという会社が開発しているという。
 その後コンパイル社長の仁井谷さんと知り合うことになったが、コンパイルは、1983年にセガのゲーム「トランキライザーガン」の移植版「サファリハンティング」(SG-1000)を制作して以来、「魔王ゴルベリアス」「ファミリー・ゲームズ」などマークⅢのタイトルを手がけていた。
 仁井谷さんは、SG-1000の頃はセガに泊り込んで、中さんたちと社員と一緒にゲーム制作していたそうだ。
 マークⅢ対応のゲームを制作している外部の会社は当時それほどなく、またサードパーティーに至っては、「アルゴスの十字剣」を販売していたサリオぐらいしかなかった。
 ファミコンが圧倒的なゲーム市場のシェアを占めていた時代、二番手のゲーム機(PCエンジン登場まで)とはいえそういうレベルだったのである。


コンプリート・コンパイル


私が企画・編集を手がけた「コンプリートコンパイル」。倒産したコンパイルを称える意味で刊行した。

第5回 セガ・ハイテク図鑑

 「セガ・ハイテク図鑑」は、5巻まで発売された。
 攻略を掲載したゲームは、だいたいセガの広報と打ち合わせをして彼らの要望を入れていたが、ときどきユーザーもあまり喜ばないようなゲームの攻略もお願いされていた。
 例えば、「エンデューロレーサー」や「熱球!甲子園」などがそうである。
 掲載するゲームは、編集のプランが決まった時点で完成していないゲームが多かった。そういう事情だったので、ライターは、ゲームのβ版をプレイしながら原稿を書き始め、写真撮影はマスター版の完成まで待ち最後に原稿を完成させる、というのがだいたいの制作プロセスだった。
 掲載したゲームの中にはβ版とマスター版が変わりなく、ユーザーの期待を裏切るゲームもあった。アーケード版は人気があったが、マークⅢ版は4メガという当時において大容量のゲームだったにもかかわらず、ゲーム内容が単調になってしまった「アフターバーナー」などはその部類に入るかもしれない。
 このゲームは、「セガ・ハイテク図鑑Vol.3」に掲載されたが、ゲームの完成に先行して数週間前にイラストレーターにイラストを発注していたため、堂々と表紙を飾ることになった。
 後日私自身自戒の念もあり、ライターが「Beep」の原稿で「アフターバーナー」のことを「アウ○ー○ー○ー」と揶揄する表現もやむを得ないとパスさせて、そのまま雑誌に掲載したのも今となっては懐かしいエピソードだ。
 「セガ・ハイテク図鑑」の装丁をした土井野さんは私のお気に入りで、そのほか「GS倶楽部」「ピンポールグラフィティ」「ムーグ・ノイマン・バッハ」などの書籍も彼に担当してもらった。



第4回 セガの旧社屋にて

 セガの宣伝部の部長とのミーティング後、彼は社内を案内してくれた。
 宣伝部の近くにある広いスペースには車の形をした赤いボディが置いてあり、作業着の男たち数人がそのに乗って筐体に乗って陽気に騒いでいた。
 彼らは遊んでいるわけではなく、あれこれと筐体のチェックをしている様子だった。
 それが「アウトラン」だということは、後日わかるのである。
 大鳥居行きの数週間後、私は「セガ・ハイテク図鑑」という攻略本の企画書を持参して、
再びセガを訪れることになる。
 この攻略本の企画は、「ファンタジーゾーン 北斗の拳 極悪同盟ダンプ松本 セガマークⅢ」という攻略本を少し前に発売したものの、いまだに売れ残っている会社としては、決して歓迎できるものではなかった。
 とはいえ、マークⅢを抽選でプレゼントというセガのサポートもあり、何とか企画を通してもらった。
 「セガ・ハイテク図鑑」は、当時の攻略本は小学生を対象した子供っぽい体裁のものが多かったので、中高生でも読めるようにちょっと大人っぽくアメリカンコミック調にした。
 第1巻は、1987年7月に刊行された。刊行後、ハガキでの問い合わせや感想はそこそこだったが、その中でもセガ初の本格的アドベンチャーゲーム「ロレッタの肖像」に関する問い合わせが一番多かった。ときどき編集部にも謎解き質問(地下室への行き方)の電話があったが、どうしてもという人にだけは私が答えていた。