第12回 そして「Beep」の編集長になった
初代の編集長だった豊田さんが会社を辞め、次に引き継いだ人もすでに編集長を辞めたがっているということだった。
あとでわかったことだが、「Beep」は創刊以来赤字で、編集長は会議のたび社長に責められていたので、社内で編集長のなり手がいなかったのだ。たぶん。
その数日後、結局「Beep」の編集長を引き受けることになるのだが、それからが大変だった。
編集長になってすぐ、経費とスタッフ削減の上、赤字の雑誌をどうやって立て直すのかプランを考えろ、とのお達しが会社からあった。黒字化の見通しがたたなければ「Beep」は即休刊だという。
それはないだろう、と正直そのときは思った。
その時点で私も編集長を辞めることはできたが、せっかく引き受けた雑誌だし、しかも企画がなかなかおもしろい雑誌だったので、なんとか建て直しは出来ないものか。そう前向きに考えることにした。
その後の「Beep」の内容が変わったという読者も多いと思うが、そういう余裕がないくらい、当時は継続か休刊かという危機的な状況だった。
ともあれ「Beep」再建案を作るために、ほかの雑誌の動向を調べることにした。
第11回 HitBit
「セガ・ハイテク図鑑」などの編集の前に、私は「Oh! HitBit」という雑誌の最終号の編集を担当していた。その当時会社の編集者の大半が大挙して退社していたので、入社当時は人手不足のため何でもやらされた。
HitBitは、ソニーが発売していたMSXという規格のPCで、松田聖子を起用した「人々のヒットビット」というTVコマーシャルが懐かしい。
ソニーは、このほかにSMC-777というPCを発売していたが、当時としては珍しく3.5インチのフロッピーディスクドライブを搭載した画期的なマシンだった。個人的にはNECや富士通、シャープのPCより私は気に入っていた。
ちなみにMSXのCPUは、ザイログ社のZ80だった。同じCPUをセガマークⅢとゲームボーイも使っている。実はそれぞれ兄弟のマシンなのである。
「Oh! HitBit」の編集を手伝っているとき、MSX版の「ドラゴンクエスト」をプレイしたのだが、このゲームに限らずMSXのゲームはスクロールがガクガクしていて、それでゲーム専用機のスクロールのスムーズさを再認識したユーザーは多かったのではないだろうか。MSX対応のゲームの中では、コナミが健闘していた。
当時のMSXのユーザーは、勉強のためにPCを買うという名目で実はゲームをプレイしたくてマシンを購入した人も多かったと思う。
MSXマシンの情報誌には、べーしっ君が連載されていた「MSX通信」や「MSX・FAN」があった。「MSX通信」は、よく出来ていた雑誌で、「ログイン」「BUG NEWS」同様後日いろいろと編集上の参考にさせてもらった。
第10回 ムーグ・ノイマン・バッハと電子ゲームの「快楽」
「GS倶楽部」と同時期に、私はもう一冊音楽関連の書籍を企画・編集している。
COMPUTOLOGY BOOKSというコンピュータをテーマにした対談シリーズで、その中の一冊に「ムーグ・ノイマン・バッハ」というコンピュータと音楽をテーマにした書籍がある。
当時「ゲーデル、エッシャー、バッハ」というゲーデル(数学)とエッシャー(美術)、バッハ(音楽)をテーマにした書籍が発売されていたので、ムーグ(ムーグ・シンセサイザー/電子楽器)ノイマン(コンピュータの動作原理の考案者/コンピュータ)、バッハ(音楽)というタイトルを考えた。
この本では、ムーンライダーズの鈴木慶一さんや細野晴臣さんというお気に入りのミュージシャンに出ていただいたが、お二人のファンだった私にとって思い出に残る対談だった。
また、冨田勲さんのインタビューも興味深かった。自宅と同じマンションの一室をシンセサイザーのために借りているという話、富士山の近くでUFOをよく見かけるという話など今でもよく覚えている。
同シリーズの書籍には「電子ゲームの「快楽」」というコンピュータゲームをテーマにした本もあった。
この書籍には、遠藤雅伸さんや安田均さんというゲーム業界の著名人、哲学者の中沢新一さんなどに対談していただいた。
遠藤さんは、ゲームファンなら誰でも知っている「ゼビウス」「ドルアーガの塔」などを作ったクリエイターだが、対談の会場に革ジャンを着て大型バイクで乗り付けたのは印象的だった。ちなみに遠藤さんとは、いまだにお付き合いしていただいている。
「ムーグ・ノイマン・バッハ」は、対談者のお陰でとても楽しい仕事をさせてもらった。
ちなみに対談を収録したのは、ムーンライダーズが「DON’T TRUST OVER THIRTY」をリリースした後である。