「一生懸命(いっしょうけんめい)」かお

私が大好きな言葉の一つです笑1

全力で物事に取り組む姿勢というのは
やはり美しい。

人の心を打ちますよねキラキラ



ただ、この「一生懸命」は本来は

「一所懸命(いっしょけんめい)」

らしく、戦国時代の武士たちがご先祖の所
領を命懸けで守ったことに由来するそうで
、切羽詰まった状態にも使われたそうです。

その後、「命懸けでやる」という意味だけが
残り、「一所」が「一生」になったとのこと。

どちらを使っても意味としては間違いでは
ないようです。

いずれも、いわゆる「頑張る」ってこと。



これはあくまでも私の勝手な解釈という
前提で、以下に書いていきます。



敢えて「一所」と「一生」の違いを言うなら
ば、視野の違いではないかと私は思います。



「一所」は視野は狭い。

とにかく、目の前のことに全力を尽くすと
いうイメージです。

「一生」は視野が広い。

先を見通して、生涯にわたって尽くしていく
ことだと思うのです。



子供たちは今の段階では「一所」の方の懸
命でよいと思います。

この「一所」が、そのうち「一生」に変わって
いくはず。

一方、経験もあり見識もある大人は「一所」
の懸命もありつつ、「一生」の方の懸命であ
るべきだと思います。



よって子供たちには、今の段階で多くを要求
しては「一所」についても懸命になれなくなる
ことでしょう。

集中力と創造性を奪ってしまう可能性があ
るからです。



まずは大好きな目の前のことを懸命にやる
こと。

そう、好きではないと一所懸命にはなれない
のです。

だからこそ、大人が必要以上にあれこれ言っ
てはいけないのです。

子供たちの「大好き」と「やる気」を取り上げて
しまうと、もう一所懸命にはなれなくなります。



例えば、こんなことを子供たちに言ったり
しないでしょうか

「そんなことじゃ中・高じゃ通用しないぞ

とか

「今からたくさん練習しないとプロには
なれないぞ



まずネガティブな言葉の時点でアウトで
すが、

「先がたいへんだから、今がんばれ」

っていう意味の言葉では、子供の背中を
押しているのではなく、結果足を引張っ
ているにすぎないと思うのです。



一見、子供の幸せを願っているがゆえの
思いや激励にもみえるのですが、私はそ
うは思えません。

実は言っている大人自身の幸せではな
いのかと・・・。

それが、本当に子どもにとって最高の幸
せの形なのかと・・・。

夢や希望を押し付けてやしないかと・・・。

子供としっかりコミュニケーションが取れ
ていて、子供自身の夢でもあるならばよ
いのです。

ただ、結果的に子供にそう言わせている
ということがなければよいのです。



子供にとっての本当の幸せとは、親が無
理に敷いたレールの上を走ることではあ
りません。

自分自身で主体的に選んだ道を歩むこ
とだと思うのです。

主体的に選ぶ道は、その子が好きなこと
、やりたいことなのです。



好きなことは誰でも一所懸命になるわけ
で、その状況こそがまさに「幸せ」であり、
至福の証しではないでしょうか

まさに「夢中」の状態ですよね。

そのきっかけを与えてあげるのが大人な
のだと思うのです。

偉そうに指図するのが大人ではありません。



この「一所懸命」の積み重ねが、子供自
身の夢を育て、やがて「一生懸命」になっ
ていくのだと思います。

そのためには、大人はヤジ将軍ではなく、
心からのサポーターであって欲しいのですかお



子供たちの「一所懸命」を見守り、失敗に対
して

「そんなの、どってことないよ

「次はできるよ

って、「一生懸命」に背中を押してあげて欲し
いのです。

そうすれば、子供たちは失敗を糧にしていけ
るはず。

その必要がなくなったときは、子供たちは既
に自分の本当の幸せ(夢)に向かって自律し
て進む人間になっていることでしょうおぉ!
春のセンバツ行進曲もAKBの曲に決ま
り、出場校の選考会議まであと10日
ほどになりました笑2

ホント球春が待ち遠しくて仕方がないですきゃぁ~



以前ブログでも書きましたが、私はバカ
が付くほどの高校野球好き高校野球

甲子園で死ねたら本望とまで考えている
ほどの人間です甲子園



大学生~社会人(独身)時代は、よく一
人で甲子園に行きました。

春も夏も・・・。

一日いても飽きなかった・・・笑2

甲子園名物、甲子園カレーカレーや焼き鳥焼き鳥
を食べながら、観戦するのが定番でした笑2



そんな私が、たまたま球史に残る試合を
観戦することになりました。

これです。





第66回大会センバツ1回戦 金沢高校
(石川)vs江の川(島根)戦。

金沢のエース中野正博投手が史上2人目
の完全試合を達成しました!

私はこの試合を銀傘の下で観戦していま
したが、球場全体が何とも言えぬ異様な
雰囲気に包まれたことを憶えています。

なんか、ザワザワ感というか、ものすご
い緊張感というか・・・あせ

8回あたりからそんな雰囲気が球場全体
を包んでいました。



動画はダイジェスト的になっています
が、出てくるファインプレーの数々は、
全て最終回でのことだったと記憶しています。

選手たち、特に守っている金沢のナイン
が一番緊張していたと思います。

特に最終回は1個のボールを一生懸命さ
ばき、そのたびにエースに声をかけるナ
インの姿には言い知れぬ感動を覚えました。

金沢のナインは間違いなく一体となって
いました。



完全試合ともなると、投手ばかりがクロ
ーズアップされがちです。

でも、選手一人一人の協力があってこそ
達成されるものなんだと、この時改めて
感じました。



野球は一人ではできません。

みんなで協力し、それぞれは微力である
けれども、それぞれの力を結集してこ
そ、よりよい形が創り上げられていきます。



1個の白球を全員で追う・・・

その1個のボールが人と人とをつなげ
ていきます。

志を同じくした仲間同志で白球を懸命に
追う姿は美しい・・・。

それが野球の魅力であり、子供たちに感
じて欲しい部分だと私は思っています。



そんな仲間と会うのが楽しいグランドで
あって欲しい・・・。

少なくとも行くのが憂鬱で、しかも異様
な緊迫感が漂うグランドであって欲しく
ないと思っています。



勝敗を超えた友情に満ち溢れた、子供た
ち自身が主体となる野球が理想だと私は
考えます。

そのためには、大人が必要以上に介入し
てはいけない。

子供たちが主体的に動けるようになるた
めには、否定せずに認めてあげること。

子供たちを1人の人間と認めて、背中を
押して上げることだと思うのです。

その瞬間の勝ちにこだわらなければ、子
供たちの純粋な成長を第一に考えるなら
ば、自然にできる行為ではないでしょうかはてなマーク



金沢のナインは緊張は見て取れました
が、野球を楽しんでいる感じがありました。

だから、ああいった場面でも自分たちの
力を発揮できたのでしょう。

怒鳴られ、ミスを必要以上に責められて
野球をやってきたならば、恐らく完全試
合もなかった思います。



金沢ナインはホントに素晴らしいチーム
でしたし、いろいろと気づかされた試合
でもありました笑2
昨日のブログの続編です。

野球ボール名古屋のバッティングスクール「Count23」野球ボール

名和コーチのブログ

ご支援ありがとうございます

多くの方々からの反響があるようです笑1



名和さんは特定の方への支援を呼びか
けることに躊躇されていたようです。

しかし、私は一向に構わないと思っています。



前回の私のブログでも書きましたが、こう
いうことは氷山の一角。


私も被災県に住んでいますので知り合い
の方々から大変な現状についてよく耳に
します。

しかし、メディアが伝えきれていないことが
多くあるのです。



行政などの機関が表立って各地で支援
していることが頻繁に報道されます。

しかし、今回のこの親子の原発の影響云
々しかりですが、支援の手が回っていな
いところが多くあるのが現状なのです。

だからこそ、そういうところには気づいて
いる人たちが率先して手を差し延べるこ
とが必要だと思うのです。

「がんばれ日本、がんばれ東北」がお
題目にならないようにしたいものです。



ゆえに特定の人への支援だとしても

「あの人たちばかり・・・」

なんて妬んだり、異を唱えたりするよ
うなことはないでしょう。



少なくとも同じく被災されている方々は、
それぞれがその苦しみを分かっています。

相手の苦しみは、自分の苦しみでもあ
るし、逆に相手の喜びは、自分の喜び
でもあるのです。

恐らく異を唱えるような人は、そういった
現状が分かっていないか、物事を四角
四面にしか捉えられていないと思います。



この親子の支援の輪がもっと広がってい
けばよいなと私も思っています。

やっぱり、野球少年が思う存分野球を楽
しむ笑顔を見たいですからね笑1
まず、この2つのブログ記事をご覧ください。

野球ボール名古屋のバッティングスクール「Count23」野球ボール

名和コーチのブログ

新しい仲間

みなさんにお願いがあります




この記事に登場する親子は、私の住むと
ころの近隣地区に住んでいる親子です。

被災地の現状はあらゆる地域にメディア
を通じて紹介されていますが、氷山の一
角にすぎません。

その氷山の一角が、このブログでご紹介
されています。



私はなによりも、この男の子二人の母親
の強い愛情と行動力に感動しましたキラキラ

また、コーチの名和さんの何とかしたい
という思いにも心動かされましたおぉ!

そして同じ被災県に住む私としても微力
ながら、この親子の力になりたいと考え
ていますかお



この2つのブログを読んで、一人でも多く
の方が、支援していただけることを私も
望んでいます。

私の過去ログで、葛藤の末現状のチーム
の理不尽な環境を受け入れることについ
て書きました。

一筋の光が見えました(^^♪【第3章(最終章)】



私は他の方の考えに触れることで、頑固
者の監督を変えるのではなく、自らを変え
ることで道は開けることに気づいたのでした。

それは間違いなく私の財産となりました宝



私はそれでも一方では、理不尽を受け入れ
ることは現状に屈してしまうことでもあるの
ではと正直疑心暗鬼にもなりましたが・・・。

しかし最近出会った本によって、その迷い
は完全に一掃されました。

こちらの本です本

笑顔で光って輝いて/小林 正観
¥1,500
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古本屋の105円コーナーで何気なく手
にとった本でしたが、内容に釘付けにな
ってしまいましたきらきら


この中に「理不尽」というタイトルの章が
あります。


少し長くなりますが、その本文をシェア
したいと思います。


野球ボール野球ボール野球ボール野球ボール野球ボール野球ボール野球ボール野球ボール


第3章「楽になる」・・・「理不尽」


こちらの側に落ち度がないのに、一方的
にひどいことを言われた、されたことを
「理不尽」と言います。


だんだんと理不尽が増していき、それで
もああじゃこうじゃと言わずにいると、神
様は「合格」と判を押してくれます。


理不尽度10で文句を言わずにいると、理
不尽度20の現象が起きます。


だんだんと増していって、最後は理不尽度
100%の現象が起こります。




ある人が5千坪の敷地の中に100坪の
建物の一室を借りて、キャンドル体験工
房をしています。


もともとその場所では、大家さんが観光
協会から建物を借りて喫茶室を経営して
いたのですが、喫茶室だけでは広すぎる
ということで一角をまた貸しして、そこで体
験工房をやっていました。




キャンドル工房は繁盛していて、そのお
客が隣の喫茶室に流れていたので、そ
れなりに喜ばれているとキャンドル工房
の経営者は思っていたそうです。


しかし、ある日突然、大家さんから呼び
出され、「明日には出ていって欲しい」
と言われました。


お客さんがたくさん入っていたので、もっ
と家賃をあげたいと思ったのかもしれま
せん。




普通だと、「家賃を多く払うのでなんとか
して欲しい」という話になりますが、たまた
まその経営者は、私の「理不尽が増す」
という話を聞いていました。


それまでにも、理不尽度が高いことがど
んどん来ていたそうです。


その時に文句も言わずに受け入れてい
ると、より好転していくという事実が積み
重なっていたので、今回も一言も文句を
言わずに受け入れました。


そして、明日には出ていかなければと思
いながら、家に帰ったそうです。




その翌日、観光協会から電話があり、大
家さんがタンを喉に詰まらせて亡くなった
という報告を受けました。


その後、葬儀などが落ち着いてから、観
光協会より、「5千坪の敷地全部をあなた
が好きに使ってください」と言われたそう
です。



五戒(不平不満・愚痴・泣き言・悪口・
文句)を言っている間は、理不尽なこ
とは起こりません。


人格が向上していくと、理不尽なことが
起こるようになります。


理不尽度が高まってきたら、神様に見込
まれたということ。


自分が成長しているという証明になります。



最後の理不尽度100%の現象の時も、
戒を言わずに受け入れていくと、神様
から
合格の判をいただいて、人生がラク
に楽し
くなっていきます。


野球ボール野球ボール野球ボール野球ボール野球ボール野球ボール野球ボール野球ボール


この内容を聞いて、共感する、しないあ
ると思います。


でも、私は共感します笑1




確かに今の私のチームの環境は子供
たちにとっては、決して適切な環境で
はありません。


今の監督のやり方は、どう考えても適
切ではない・・・。




でも、私の場合何事に対しても正義感
が強く、頑張るけどれども、必ずしもそ
れで上手くいってはいませんでした。


それは本文の五戒のレベルで終わって
いたのかも知れません。


つまり、敵対の関係で終わっているとい
うことだったと思うのです。


そもそも屈する・屈しないという程度でし
か物事を考えていないこと自体、ズレて
いるということが自分でも分かってきました。




大切なことは理不尽だろうが、一旦は受
け入れること。


そしてその相手との目線の高さを合わせ
、かつ感謝の意を持って接していくこと。


そうすることで、気に入らないところはあれ
ど、お互いに理解し合い、ハッピーになれ
ばその後の展開も変わっていくのではと・・・。


逆にこちらの考えも受け入れてもらい安く
なると思うし、その方が賢明な行動だと考
えるようになりました。




これはこのチームで、子供たちと一緒に野
球を楽しむために必要な処世術のようなも
のだと思っています。


表立って正義感を振りかざす今までのスタ
ンスではなく、静かに燃える「静燃」が今の
私のテーマになっていますかお




この本にこんなことも書いてました。


人間は「ありがとう」を言うだけで、出
会う人
100%全部を味方につけられる。


努力して、頑張っている人が上手くいか
ないのは「感謝」が足りないからなのだ
そうです。


物事が上手くいっている人は感謝してい
る人。


毎日の「ありがとう」が、よい流れを運ん
でくるようです。




だから、私も昨年のセンバツ行進曲にも
なった、いきものがかりの「ありがとう」は
大好きな曲の一つ。


私が影響を受けたブロガーの一人、くうさ
んのオススメの曲でもあります笑1


くうさんのブログご紹介します笑1


おかあさん。いつも笑顔で ママから子供達へおかあさん。


ありがとう♪



ちなみに、私も過去ログで「感謝」につい
て書いています。


「野球が上手くなりたい

野球をする誰もが思っていることだと
思います。

子供たちほど、純粋にそれを思っている
ことと思います。

そして、その思いは

「野球が好き」

というこれまた純粋な思いからくるもの
であると思います。



それがきっかけで子供たちは野球を始
め、そしてその先に

「上手くなりたい」

という欲求があり、さらにその先に

「勝ちたい」

という欲求があるのだと思います。

少なくとも「勝ちたい」が最初のきっか
けではないはず。

以上が子供たち側の欲求です。



それでは、大人側の欲求にどんな
ものがあるでしょうか

子供当時は、野球をやるにつれて上述
のような欲求が順を追って生まれてい
ったのだと思います。

野球をやっていく中で、「勝ちたい」と
いう次の欲求が生まれていったと思いま
すが違うでしょうか

でも、今は子供ではなく大人(指導者)
の立場であるわけですから、当然子供
レベルの欲求とは違いますよね。

「子供たちが人間的に成長して欲しい」

「子供たちを上達させたい」

「チームを強くしたい」

「勝ちたい」

これはどんな指導者でも思うこと。



低堕落な指導者は上記に加えて、

「名誉・名声を得たい」

「地位を確立したい」

などという、身勝手な私利私欲も絡んで
きます。

むしろ、こういう類の指導者は子供たち
の人間的成長などは建前で言ってるこ
との方が多いかも知れません。

そんなことより、自分の損得を優先する
ので、思っているフリをしているに過ぎ
ません。



低堕落な指導者のどうでもよい欲求は論
外ですが、私は上記に加えてもっと強い
欲求があります。

それは、

「もっと野球が上手くなりたい

です。

これは、子供時代のそれとは少し違います。

プレーヤーではないので、厳密に言うと

「野球(の指導)が上手くなりたい」

ということです。



大人になると子供たちばかりに上手くな
ることを要求しますが、自らを高める
ことについては尻込みしていないでしょうか

理想の指導を遂行していくには、子供た
ち以上に勉強することが不可欠だと思います。

野球の技術やルールはもとより、コーチン
グや最低限の医学的な知識、あるいは一
件野球と関わりのないようなこともです。

幅広く、いろいろなことに触れることで見
識を深め、自分の引き出しを増やしてい
くことが重要だと思うのです。

ゆえに、こうやってたくさんのブロガーさ
んの考えに触れることも、私にとっては
大きな学びになっています勉強



それでは、なぜ学びが必要でしょうか

それは、長年生きてきて培われた自分の中
にある偏見や常識を排除するためです。

今を生きるためには、そんな偏見や常識は
邪魔になるだけ。

それが邪魔している以上、適切な判断など
できるわけがありません。



やはり勉強していない人間は了見が狭いで
すし、柔軟な思考は持ち合わせていません。

発展的な考えもなく、過去に固執します。

ゆえに、考えも何かにとらわれた一つのこ
としかなく、子供たちを型にはめようとします。

それでは、適切な指導はできるはずもなく
、結果「死導」になってしまうのです。



もし、「少年野球指導でそこまで考えなく
てもいいんじゃないか」なんてと思ってい
るとしたら・・・。

そういう人は今すぐ指導者を辞めてください!!

そういう人こそが害を及ぼしている指導者なんです!!

淘汰されるべき指導者なんです!!

結果は残したい、欲求を満したいという思
いはあるのに、学ぼうとしないというのは
ムシが良すぎやしませんか



自分の置かれている立ち場や責任を全く理
解していない人は、指導者としてグランドに
立つべきではないと私は思っています。

なんたって、子供の将来がかかっているの
ですからねかお

それくらいの自覚は当たり前に持って欲し
いと思います。



子供だけでなく、大人も純粋に野球と向き
合うべきだと思うのです。

そして、純粋な向上心を持つべきだと考えます。

そういう大人の真摯な態度が子供たちの心
を動かすのではないでしょうか

それこそが、子供たちへ見せるべき大人の
背中のような気がしますかお
ベースボールは、アメリカでのとあるミ
ーティングの余興から発展していったも
のだということを書きました。

そして、「打つ」ことが民主主義国家アメ
リカにおける

「自分がプレーする権利を表明する」

行為だということでしたね。


そこには、周囲からやいのやいの言わ
れながら、「やらされる」という意識はみ
じんもありません。

それぞれの「個」がクローズアップされ
、自らの意思で「やる」ことが奨励され
ているのです。



しかし、日本の社会は自分の存在をア
ピールしにくい環境にあるのかもしれま
せん。

特に体育会系に代表されるように、そ
の世界は上意下達が前提にあります。

そして、監督は絶対的な存在です。

ゆえに自ら考えること、判断すること、
それに基づき自発的に行動することが
許され難い環境にあります。

だから、基本的には監督が「右」と言え
ば「右」、「左」といえば「左」を向かなけ
ればなりません。

それは先輩・後輩の関係もしかりです。



そういった権威によって、個々の考えを
主張できない、強く押さえつけられた状
況下で生活しているとどうなるでしょうか

恐らく完全な思考停止状態に陥り、個々
の創造性は育たないでしょう。

また、考えること自体が面倒で厄介なこ
とに感じてくると思います。

それに慣れてしまうと、自ら考えるよりも
服従している方が楽に感じられる・・・。

敷かれたレールに乗っかっている方が
心地よくなるのではないでしょうか



そういう人が、困難な場面に遭遇したと
き、どうなるでしょうか

自分が苦しみ悩むより、他人の指示に
従ってている方が心理的負担が少ない
ですから、指示を待つようになります。

いわゆる「指示待ち族」の誕生ですガーン



うちのチームにも、

「どうしたらいいですか

って、聞いてくる子が多数います。

言われなければ行動に移せない・・・。

今はそういう子の方が多いような気が
します。


また指示待ち族というのは、自ら責任を
負うのは極端に嫌がるので、上手くいか
ないと人のせいにしがちになります。

極端に自己責任の意識が低い人間が
出来上がることでしょう。

自分の非を認めない

言い訳が多くなる

自分に甘く他人に厳しい


そんな人間に成り下がってしまうのがオ
チです。

そういう思考パターンが一度潜在意識に
植え付けられてしまったら、そこから抜
け出るのは簡単ではありません。



よく、子供たちはこんな言い訳をしませんか

「それはまだ習ってないから・・・」

って・・・。

何か質問したりしたて、分からなかったり、
答えに困ったとき、こんな反応をする子は
いないでしょうか

この時点で既に思考が停止し、責任転嫁
をしている状態です。



未知なことを問われたときに「どうして
「なぜ」という観点ではなく、「習ってい
るかどうか」で判断します。

挙句の果ては、習っていないことを聞いて
くる方が悪いと逆ギレすらする場合もある
でしょう。

これは、知識や技術は

「大人に教えてもらえるもの」

「人から習うもの」

という前提にあるからだと思います。

つまり、受身状態ということ。

教えてもらうという「安心」、あるいは「安
易」というレールに乗っかている証拠だ
と言えます。

自ら考える、あるいは調べるということが
前提にあれば、こんな言い訳は絶対な
いはずなのです。

日本の上意下達という風習が作り出した
残念な人間像と言えます。



野球のルーツから外れてしまいましたが、
当時のアメリカ人が、もし現代の日本の
野球の現状を見たらどう思うでしょうか

恐らく思い描いていた理想とは大きく違
い、呆然とすることでしょうね。



当時のアメリカ人たちは、

自ら考える

自らの意思で行動する

自らの考えを主張をする

その中でも相手を思いやる

・・・

そういう人間形成をベースボールに託し
ていたようにも感じます。

勝ち負けや私利私欲が優先事項では、
ただの「戦争」ではありませんか

ましてや、そこにしか興味がないという
人間はあまりにも寂しすぎます。

「心豊かに生きる」とは、それを超えた
先にあるような気がしてなりません。



野球とはもっと素晴らしいもの、楽しい
ものであるはず。

大人はそこを教えずして、何を教える
のでしょうか

私はつくづくそう思っています。



原点回帰は、時として新たな気づきを
与えてくれるきっかけになります。

アメリカの当時の人たちの思いに、心
を馳せててみるのも、よいのではない
でしょうか
野球ボール野球バット野球が手元にあるとします。

人数や好みによって違いはあると思いま
すが、みなさんなら初めに何をしますか

まずキャッチボールからという方が多い
と思いますが、いかがでしょうか

親子でやるのも、野球をするとなるとま
ずはキャッチボールからというイメージ
ですよね。



まっ先にバッティングからというイメー
ジってありませんよね。

なぜでしょうか

キャッチボールは野球の基本だから・・・。

あるいは、打つとなると広い場所が必要・・・。

などといういろいろな理由が考えられま
すが・・・うーん



日本のスタイルは「キャッチボールか
ら」という意識があるようですが、野球
発祥の地アメリカは違うようです。

アメリカは、まずは「打つ」ことから始
めるようなのです。

野球、いやベースボールとは「守る」よ
り「打つ」という考えが中心になってい
るスポーツだということのなのです。


賢いスポーツ少年を育てる―みずから考え行動できる子にするスポーツ教育/永井洋一
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この本に、ベースボールの原点について
興味深いことが書かれてありましたので
、シェアしたいと思います笑1


この本に以下のようなことが書かれてあ
りました。




野球のルーツは開拓期に実施されてい
た「タウンミーティング」という地域の自
治会の後の余興である


「タウンボール」


にあるそうです。


タウンミーティングはアメリカ人にとっ
て非常に大きな意味を持つもののよう
で、そのミーティングで重視されたことは


「個人の意思をはっきり主張する」


ことだったようです。



そして、余興であるタウンボールにおい
ても、参加者の個々の権利を主張する
という意識は続いていたようです。


そのため、タウンボールはバッターが
「打つ」ことでしかプレーが連続しない
ルールになっていた・・・。


つまり、バッティング=プレーへの参加
の権利を主張するという意識・・・。


いわゆる民主主義へ参加しているに等し
いという意識の元、参加者はプレーして
いたというのです。



そして、タウンボールがベースボールと
いう形に進化していっても、打つことは


「自分がプレーする権利の表明」


という精神は脈々と受け継がれていった
ようです。




例えば、「ストライク」というコール。


これはもともと「グットボールストライク」。


つまり


「良い球だから打つべきだ


という積極的にバットを振っていくこと
を奨励するコールだそうです。




逆に「ボール」というコール。


これはもともと「アンフェアボール」。


つまり投手が打者に対して打ちにくいボ
ールを投げるという行為自体がアンフェ
アだという意味で


「もっと打ちやすいボールを投げろ


と投手に要求するためのコールだそうです。




つまり、ベースボールの名投手の条件と
は当時は打ちやすいボールを投げること
だったそうですピッチャー

今では考えられないことですよね汗



このようにアメリカ発祥のベースボール
は、打つことが大前提にあったということ野球


そして、打つことにより民主主義の中で
の自分を意識し、「個」の存在をアピール
したのです。

This is baseball!!ですね野球



ところが日本の野球はどうでしょうか


「個」の存在のアピールなど皆無です。


むしろそういった行為は御法度とされて
います。


投球のたびごとに、打者は監督のサイン
を覗き込みますじー・・・


野球をやっているのではなく、監督にや
らされている典型的な図です。


そこには、自らの意思など介入の余地
などあるはずがありません。


自分たちで考え、自分たちの意思で動く
姿
は見る影もありません。


まさに野球ロボットです。



確かに司令塔の存在は必要かと思います。


しかし、その司令は全て監督からではや
はり違和感があります。


選手たちは自ら考えて行動できる人格を
持った一人の人間であるという考えが欠
落していないでしょうか




日本のやり方とアメリカのそれとは違う
、ここは日本だなどと主張する方もいる
かと思います。


あるいは、きれい事だと思う方もいるこ
とでしょう。


でも、それは大人の逃げ、言い訳に過ぎ
ないのではないかと私は思うのです


理解していないだけ、いや理解しようと
していないだけなのです




物事の本質に、国の文化や流儀の違い
などあるでしょうか


単に自分の都合の良いように野球を解釈
してはいないでしょうか


指導者は逃げずに、この問題と向き合う
べきだと思うのです


誰のための野球なのかを。




次回もう少し、この件について書いてみ
たいと思います。

高校野球ファンなら誰でも知っている
あまりにも有名な出来事です。

現オークランド・アスレチックスの松
井秀喜選手は高3夏、2回戦の明徳義
塾戦で5打席連続敬遠されました。

漫画「ドカベン」で4打席連続敬遠と
いうのがありましたが、まさか現実に
起ころうとは思ってもいませんでした。




※YouTubeの動画のタイトル(野球の高
等戦術)が、少し気に入らないですが汗

ちなみに、松井を敬遠した明徳・河野
は故障のエースの代役でした。



結果、星稜が3-2の僅差で敗れたので
なおさら松井への同情の声が全国各地で
上がりました。

と同時に、明徳に対する大バッシングが
日本中で沸き起こりました。



マスコミもかなり派手に取り上げ、社
会問題にもなったこの一件。

当然賛否ありましたが、みなさんはど
う思うでしょうか!?



私はやはり反対派です。

これは選手たちの意思ではなく、明徳
馬渕監督の徹底した勝利至上主義から
くるドライな戦術です。

試合後のインタビューで監督は

「高知代表として初戦で負ける訳には
いかなかった」

と答えていたようですが、正に自分の価
値観ありきのコメントです。

己の価値観のために、選手たちを、ある
いは高校野球を利用しているとしか思え
ません。

選手たちにとっては監督は絶対的な存在
ですから従わざるを得ませんが、選手た
ち自身も本意ではなかったでしょう。

仮に心底、監督の指示は正しいと思った
ならば、監督の洗脳に毒された、まさに
「監督のロボット」です。

「ロボット」を育ててしまっているのに
もかかわらず、「人間形成」が聞いて呆
れます汗2


確かにルール違反ではありませんし、一
つの作戦と言ってしまえばそれまでです。

しかし、勝つためには手段を選ばないや
り方は私は違和感を感じます。

スポーツの意義や本質はどこぞやといっ
た感じです。



松井は中学時代も敬遠された経験がある
ようです。

その時は勝負してもらえないことに腹を
立て、バットを投げつけて相手投手に怒
りを露わにしたとのこと。

それを見ていた自チームコーチが、一塁
に歩く松井に向かってビンタを食らわし
たそうです。

松井の驕った態度を戒めたんだと思います。



こういった中学・高校の敬遠された経験
が逆に松井を人間的に大きくさせるきっ
かけとなったのでしょう。

松井は5打席連続敬遠の際は表情一つ変
えることなく、一塁へ歩きました。

そして試合後のインタビューで、

「勝負して欲しかったけど、それも作戦
の一つだから、それについては何も言え
ない」

と我慢のコメントを残しています。



勝負事はきれい事だけでは片付けられな
い問題もあると思います。

しかし、少なくとも子供たちに話す場合
は、「悪い見本」と紹介せざるを得ない
と私は感じています。



特定の選手に対して、ここまでするとい
うことは滅多にないことですが、少年野
球レベルでも

「勝つことありき野球」

をやってくるチームがあります。



バント攻め、待球戦法、四球狙い・・・。

ゴロ打ちの奨励や、ノースリーから無条
件で1球見送るというのも、ある意味勝
利を優先するがゆえの指示に思えます。

作戦と言えばそれまでです。

しかし、往々にして勝つことを優先にし
た野球は見ていて面白くありません。

野球の醍醐味とは何か、楽しさとは何か
ということが分かっていれば、大人もそ
んな指示は出さないはずです。



そもそも「スポーツ」の語源は、ラテン
語では

「苦楽を離れて楽しむ」

という意味だそうです。

楽しくなければ「スポーツ」とは言わな
いのです。


ちなみに松井は、敬遠した明徳の投手、
河野と7年後に再会を果たしました。



松井は人間が出来ていますね。

本心か分かりませんが「ありがとう」と
はなかなか言えません。

これも時間の経過がそうさせたのでしょ
うが、松井の器の大きさを感じます。



それから8年後の河野



インタビューでは、試合後の監督がイン
タビューで言った言葉がそのままコメン
トとして本人の口から出ています。

確かに甲子園に出場できたのも、明徳義
塾というチーム、馬渕監督との出会いが
あったからこそなのでしょう。

それで、良い思いをしたというのも事実
なのかも知れません。

でも自分の息子にも

「勝たなければ意味がない」

というようなことを教えていくのでしょうかはてなマーク

末代まで続くというのはこういうことを
言うのかと・・・。

何か虚しさを感じます汗
子供たちはネガティブな結果を恐れ、
本来持っている野球の楽しさを実感
できずにプレーしています。

私も過去ログで書いてきましたが、
これはまぎれもなく

「勝利至上主義」

を方針としたチーム作りを優先する
大人の責任であることは間違いあり
ません。



人間がやることだからミスは日常的
に起こるものであるはずです。

勝ち負けだって、1対1での勝負だから
どちらかが勝って、どちらかが負けるわ
けです。

だから、どちらになるか確率は50%。

高い確率ですよね。

なのにそれが許されない環境下で育
ってきた子供たちは、負けることやミ
スに対して厳しく叱責されてきました。



勝つことが全てと考える指導者は全く
容赦はありません。

負けやそれに繋がるミスをしたことに
対し、厳しく戒め、挙句の果ては体罰
を与えます。

勝利至上主義者は、そうやって自らの
指導の稚拙さを棚に上げ、やりたい放
題・・・。

これって、ある意味子供という弱者を
よいことにいじめ、あるいは虐待をして
いるのと同じですよねむっ



そういう経験を繰り返してきた子供たち
はどういう行動を取るでしょうか

自分が戦犯扱いされるのは耐え難い
わけですから、自然に「保身」へと心
は働きます。

ゆえに極力失敗を避けるような思い切
りのないプレーをするような思考回路
ができあがります。

怒鳴られるくらいなら、初めから無難
に済ませた方がよい。

すでに、自分のための野球ではなく、
監督・コーチが満足する都合の良い
野球に成り下がっています。

これでは、子供たちは一人の人格あ
る人間としてではなく、奴隷やロボット
に等しい扱いをされているも同然。



子供たちから野球の楽しみを取り上
げ、勝ちたいという薄っぺらい自己
満足のためにそれを利用する大人。

そんな独善的な指導者が未だに多
く存在しているという現実。

それこそが、日本のスポーツ界を衰
退させてしまっている原因の一つに
なっているような気がしてなりません。



オリンピックなどの国際大会でのここ
一番の日本人アスリートの勝負弱さ。

これは幼い頃から勝つこと、結果を残
すことこそ全てという環境の中で育っ
てきた弊害ではないかと思うのです。

本来はスポーツをして感じる達成感や
、もっと上手くなりたいという向上心を
醸成していって欲しいはずなのです。

でも、そういう環境で育ってきた子に
とっては、スポーツとは

「辛く、苦しい人生修行」


という価値観しかありません。

大人がそういう価値観を植え付けてし
まっているのです。

だから心の底から楽しめず、大舞台
では

「負けたら、ミスしたらどうしよう・・・」

という呪縛に苛まれ、いざというところ
での勝負弱さを露呈してしまうのです。



だからこそ大人はスポーツとは楽しい
もの、心からワクワクするものだという
ことを子供たちに伝えなければなりません。

大人が目先の勝利にこだわり、リスクを避
けるような戦術に終始することで、子供たち
もそういう術を自ずと身に付けていくのです。

つまり、前回書いたような「逃げる」子供
たちが出来上がっていくということなのです。


逃げていては何も始まりません。

まずは大人が大きく方針転換する必要が
あります。

勝利至上主義から

「挑戦奨励主義」


への転換です

失敗に寛容になり、チャレンジすることを
奨励する考えです。

そうすることで子供たちが自ら考え、自ら
の意志で決断し、勇気を持ってプレーす
る・・・。

結果はどうであれ、チャレンジしたことを
評価する環境こそが、子供たちにとって
の最良の環境だと思っています。



ここで私が述べているのは、決して勝つ
ことを目指すことがよくないということで
はありません。

勝つことを目指すということは、大きなモ
チベーションになることは確かですし、そ
れもまたスポーツの本質だと思っています。



あくまでも、勝つことを目指す中で、失敗を
恐れずにチャレンジすることを奨励してあげ
て欲しいということなのです。

そして、チャレンジが失敗に終わったとして
も、そのことを認めてあげて欲しいのです。

そうすることで、子供たちは失敗を糧にして、
さらに飛躍していくのだと思っています。