ベースボールは、アメリカでのとあるミ
ーティングの余興から発展していったも
のだということを書きました。

そして、「打つ」ことが民主主義国家アメ
リカにおける

「自分がプレーする権利を表明する」

行為だということでしたね。


そこには、周囲からやいのやいの言わ
れながら、「やらされる」という意識はみ
じんもありません。

それぞれの「個」がクローズアップされ
、自らの意思で「やる」ことが奨励され
ているのです。



しかし、日本の社会は自分の存在をア
ピールしにくい環境にあるのかもしれま
せん。

特に体育会系に代表されるように、そ
の世界は上意下達が前提にあります。

そして、監督は絶対的な存在です。

ゆえに自ら考えること、判断すること、
それに基づき自発的に行動することが
許され難い環境にあります。

だから、基本的には監督が「右」と言え
ば「右」、「左」といえば「左」を向かなけ
ればなりません。

それは先輩・後輩の関係もしかりです。



そういった権威によって、個々の考えを
主張できない、強く押さえつけられた状
況下で生活しているとどうなるでしょうか

恐らく完全な思考停止状態に陥り、個々
の創造性は育たないでしょう。

また、考えること自体が面倒で厄介なこ
とに感じてくると思います。

それに慣れてしまうと、自ら考えるよりも
服従している方が楽に感じられる・・・。

敷かれたレールに乗っかっている方が
心地よくなるのではないでしょうか



そういう人が、困難な場面に遭遇したと
き、どうなるでしょうか

自分が苦しみ悩むより、他人の指示に
従ってている方が心理的負担が少ない
ですから、指示を待つようになります。

いわゆる「指示待ち族」の誕生ですガーン



うちのチームにも、

「どうしたらいいですか

って、聞いてくる子が多数います。

言われなければ行動に移せない・・・。

今はそういう子の方が多いような気が
します。


また指示待ち族というのは、自ら責任を
負うのは極端に嫌がるので、上手くいか
ないと人のせいにしがちになります。

極端に自己責任の意識が低い人間が
出来上がることでしょう。

自分の非を認めない

言い訳が多くなる

自分に甘く他人に厳しい


そんな人間に成り下がってしまうのがオ
チです。

そういう思考パターンが一度潜在意識に
植え付けられてしまったら、そこから抜
け出るのは簡単ではありません。



よく、子供たちはこんな言い訳をしませんか

「それはまだ習ってないから・・・」

って・・・。

何か質問したりしたて、分からなかったり、
答えに困ったとき、こんな反応をする子は
いないでしょうか

この時点で既に思考が停止し、責任転嫁
をしている状態です。



未知なことを問われたときに「どうして
「なぜ」という観点ではなく、「習ってい
るかどうか」で判断します。

挙句の果ては、習っていないことを聞いて
くる方が悪いと逆ギレすらする場合もある
でしょう。

これは、知識や技術は

「大人に教えてもらえるもの」

「人から習うもの」

という前提にあるからだと思います。

つまり、受身状態ということ。

教えてもらうという「安心」、あるいは「安
易」というレールに乗っかている証拠だ
と言えます。

自ら考える、あるいは調べるということが
前提にあれば、こんな言い訳は絶対な
いはずなのです。

日本の上意下達という風習が作り出した
残念な人間像と言えます。



野球のルーツから外れてしまいましたが、
当時のアメリカ人が、もし現代の日本の
野球の現状を見たらどう思うでしょうか

恐らく思い描いていた理想とは大きく違
い、呆然とすることでしょうね。



当時のアメリカ人たちは、

自ら考える

自らの意思で行動する

自らの考えを主張をする

その中でも相手を思いやる

・・・

そういう人間形成をベースボールに託し
ていたようにも感じます。

勝ち負けや私利私欲が優先事項では、
ただの「戦争」ではありませんか

ましてや、そこにしか興味がないという
人間はあまりにも寂しすぎます。

「心豊かに生きる」とは、それを超えた
先にあるような気がしてなりません。



野球とはもっと素晴らしいもの、楽しい
ものであるはず。

大人はそこを教えずして、何を教える
のでしょうか

私はつくづくそう思っています。



原点回帰は、時として新たな気づきを
与えてくれるきっかけになります。

アメリカの当時の人たちの思いに、心
を馳せててみるのも、よいのではない
でしょうか