俺の家は、爺さんの親父さんの代から始まる創業八十ン年の履物屋です。
店の三代目である父は、俺が物心つく前から病院の入退院を繰り返しています。
ある日、俺が小学校から帰宅すると店には病院にいるはずの父が俺を出迎えてくれました。
『こうじ。お帰り』戸惑う俺。ここ2年ほど病院でしか会う事のなかった父が俺を呼びます。
父が病院にいる時、俺はおこずかいが無くなっては父のいる病院へ足を運びました。
病院に行けば父はお小遣いをくれるから・・・。
父と俺の関係はいつしかそれだけの関係になっていたような気もします。
『・・・いいもの見せてやる』
父は裏の駐車場に俺を連れて行き、自転車置き場にある大きな布を無造作に剥ぎ取りました。
『・・うわぁ・・・』思わずのけぞる俺。そこにはピカピカのスーパーカブがあったのです。
『後ろに乗るか?それとも運転するか?』
父は口元を緩めながら俺に優しく問い掛けました。
『後ろに乗る!乗ってみたい!』
『よし。』父は俺を軽く抱えあげると、そのままカブの荷台に乗せる。
『ガチョン、シャコッ・・・ドロロロロロ』
父のキックにより目覚めたカブは、父と幼い俺を乗せて初めてのドライブに出発しました。
それから父は休日はもちろん、食事の後などにも俺を連れ出してはカブの後ろに乗せて
近所のちょっとしたドライブに連れていってくれました。
『バイクはいいだろ。こうじが大きくなったら一緒に走ろうな』
そして・・・ある日学校から帰宅してすぐ父の姿を探す俺。
(今日は九十九島を巡る遊覧船の着水式に連れていってもらうんだ)
でも店に父の姿はありませんでした。父はまた病院へ戻ったのです。
月日は流れます冬から春、春から夏へと。
俺は学校から帰ると真っ先に家の裏に行きカブをタオルで磨いていた。
毎日毎日磨きました。いつこのバイクの主が帰ってきてもいいように。
ある夏の暑い日、テレビを見てると飛行機の墜落事故のニュースが放送されていました。
その事故で坂本九さんが亡くなったそうです。
そんな時、ニュースを見ている俺の所へ親戚のおばさんが涙目でかけより小声で『こうじ君・・・病院へ・・・行きなさい』そう言いました。タクシーに乗せられ病院へ向かう。そして父の個室へ。
鼻からチューブの出ている父が、半分しか開いてないその目で俺を見ています。
『お父さん。毎日バイク磨いてるよ。また乗せてよね?』
父の耳に自分の顔を近づけ小さな声で俺はそう伝えました。
『・・こうじ・・ごめんな・・ごめんな』
父はただそれだけしか言ってはくれませんでした。
そして翌日の朝4時ごろ父は亡くなりました。
父が亡くなっても不思議と悲しくなかった。
またいつか帰ってそうな気がして。
季節はあっという間に過ぎ、いつしか父のスーパーカブも磨かなくなった。
そして今俺は家庭を持ち、幸いにして二人の子供にも恵まれた。
俺は父と交わした約束を守る為、今もりバイクに乗りつづけている。
バイクだけが俺と父とを繋ぐ細い糸のような気がして。
お父さんこの間、三つになる長男を初めてブラックバードの後ろに乗せたよ。
乗りたいとせがむからさ。そしたら何て言ったと思う?
『パパ、ゆうやはね~大きくなったらパパと一緒にバイクのるんだよ』
『そいでね。いっぱい色々走ってね。そいでね。そいでね。』
息子にわからないようにバイク用のウエスで涙を拭くと
『ゆうや。船見にいこっか。』
俺はエンジンをかけると、あの日貴方と行けなかった港へ向かったよ。
遊覧船を見に行くために。
ありがとう。パパ。
俺がまだ厨房だったころ、家は自営業で、俺自身も家の仕事を手伝う事があたりまえだと思ってた。
けっして裕福というわけでもなく、どちらかといえば、楽な生活ではなかったと思う。
だけど、それでも、笑いが絶えない家だったなぁ。
それでも、仕事がうまくいかない日が続き、母も泣く日が増えて行った。
そして、結局、会社は倒産してしまい、親父はタクシーの運転手に職を変えた。
俺は、それが悔しくて、情けなさを感じてた。
タクシーの運転手を否定するわけではない。
なぜ、今までの仕事をあきらめてしまったのか、そのときは、親父に対して、軽蔑すら感じていた。
あれから、15年がたち、俺にも娘ができた。
サラリーマンを経て、今は少ない従業員ながら、小さな会社を経営している。
そして、はじめて、親父の気持ちがわかった。
生きていくことの難しさと、守るものができたとき、生活を守って行くためには、攻めることと、守る事の両立が必要だということを。。。
あのとき、家族の生活を守るために、自分の夢を犠牲にしてしまったんだね。
自分が会社を維持し、従業員と家族の生活を守るためには、苦渋の決断をしなければいけないこと。
昔から、晩酌もせず、無口で多くを語らなかったね。
先日、2人で寿司をつまみながら、日本酒を飲んだとき、俺が仕事愚痴を話しても、ただ、ニコニコとしているだけだったけど。最後に言ってくれた
「まぁ、思ったこと信じてがんばれ」
小さい声だったけど、忘れられない。
同じ経営者の先輩であり、勢いでやってきた俺に、ひとことにこめられた、大きな意味が理解できた。
なんとか、俺もピンチは乗り越えたよ。
親父があきらめたこと、俺が達成するから。
このスレがあることに感謝合唱、そして、熱き親父たちに乾杯
けっして裕福というわけでもなく、どちらかといえば、楽な生活ではなかったと思う。
だけど、それでも、笑いが絶えない家だったなぁ。
それでも、仕事がうまくいかない日が続き、母も泣く日が増えて行った。
そして、結局、会社は倒産してしまい、親父はタクシーの運転手に職を変えた。
俺は、それが悔しくて、情けなさを感じてた。
タクシーの運転手を否定するわけではない。
なぜ、今までの仕事をあきらめてしまったのか、そのときは、親父に対して、軽蔑すら感じていた。
あれから、15年がたち、俺にも娘ができた。
サラリーマンを経て、今は少ない従業員ながら、小さな会社を経営している。
そして、はじめて、親父の気持ちがわかった。
生きていくことの難しさと、守るものができたとき、生活を守って行くためには、攻めることと、守る事の両立が必要だということを。。。
あのとき、家族の生活を守るために、自分の夢を犠牲にしてしまったんだね。
自分が会社を維持し、従業員と家族の生活を守るためには、苦渋の決断をしなければいけないこと。
昔から、晩酌もせず、無口で多くを語らなかったね。
先日、2人で寿司をつまみながら、日本酒を飲んだとき、俺が仕事愚痴を話しても、ただ、ニコニコとしているだけだったけど。最後に言ってくれた
「まぁ、思ったこと信じてがんばれ」
小さい声だったけど、忘れられない。
同じ経営者の先輩であり、勢いでやってきた俺に、ひとことにこめられた、大きな意味が理解できた。
なんとか、俺もピンチは乗り越えたよ。
親父があきらめたこと、俺が達成するから。
このスレがあることに感謝合唱、そして、熱き親父たちに乾杯
うちの親父は阪神ファンだったらしい。
「らしい」というのは、葬儀の際に親父の同僚の人に聞いて初めて知ったから。
後で確認したら当然お袋は知っていたが。
ひとりでに巨人ファンになっていた小学生時代の俺を連れて行ってくれたのは後楽園の巨人戦。
しかし今思うと対阪神戦は一度もなかった。
当然親父も巨人ファンだと思いこんでいたのだが・・・
中学くらいからは殆ど親父と会話していなかったので、ずっとそう思い込んでいた。
野球を好きになりだした俺のために時間を割き、自分は我慢して巨人戦ばかり見せてくれたんだな。
お袋によると定年したら一度甲子園に阪神戦を見に行くのが夢だったらしいがそんなささやかな夢さえ叶わず逝ってしまった。
たったそれだけのことなんだけど、何故か無性に
「この親父を超えるのは並大抵なことじゃできない」と思った。
「らしい」というのは、葬儀の際に親父の同僚の人に聞いて初めて知ったから。
後で確認したら当然お袋は知っていたが。
ひとりでに巨人ファンになっていた小学生時代の俺を連れて行ってくれたのは後楽園の巨人戦。
しかし今思うと対阪神戦は一度もなかった。
当然親父も巨人ファンだと思いこんでいたのだが・・・
中学くらいからは殆ど親父と会話していなかったので、ずっとそう思い込んでいた。
野球を好きになりだした俺のために時間を割き、自分は我慢して巨人戦ばかり見せてくれたんだな。
お袋によると定年したら一度甲子園に阪神戦を見に行くのが夢だったらしいがそんなささやかな夢さえ叶わず逝ってしまった。
たったそれだけのことなんだけど、何故か無性に
「この親父を超えるのは並大抵なことじゃできない」と思った。
俺は今年二十歳で高校卒業後、上京し専門学校に行っていた。
高校時代はあまり家にもいない学校も嫌いな、世間一般で言う不良のようなものだった。
家族の仲はそれなりに良かったが母親とは喧嘩ばかり。
上京してからも1ヶ月に一度連絡をするくらいでろくに親の事なんか考えてなかった。
初めての夏を迎える頃右足の付け根に痛みを感じ出した。
医者に行くと「股関節の炎症。」
しかし何度医者に行ってもいっこうに良くならずむしろ痛みは強くなるばかり・・。
11月になると痛みの余り学校に行けなくなることもあった。
そしてある朝起きると痛くて動けない。
立てない。パニックになった俺は親に電話をしたところ
「救急車を呼びなさい!!」と。
俺は人生初の救急車を体験し近くの病院に運ばれた。
母は心配し、来ると言っていたが大したことは無いと断った。
1週間ほど入院をすると痛みも薄れてきてそろそろ退院かなと思った頃、
母から電話が来た。
「先生に呼ばれたから明日朝一の飛行機で行くから。」
次の日母は俺の前に心配そうな顔をして現れた。
「大丈夫だって。」俺がそう言うと母は
「元気そうだね。安心した。」そう言った。
その後、母は医者に「お話があります」と呼ばれた。
「じゃあ行って来るね」
20分位たつと、俺も看護婦さんに連れられ母と医者の待つ部屋に呼ばれた。
そこには顔が引きつった顔の母がいた。
一生懸命に平静を装っている。
そこで俺は医者に次のようなことを言われた。
・足に腫瘍がある
・ここではその腫瘍について分からないから大きい病院に移って検査しなくてはいけないこと。
・それには故郷の大学病院に行くのがいいということ
俺は唖然とした。
母は「とりあえず帰ろう」と言う。結局、説得され帰ることになった。
俺は「腫瘍」というものが何かよく分かっていなかった。
だから軽く検査してまた1ヶ月位したら戻ってこれるな。と思っていた。
しかし転院後、すぐ検査をし主治医に言われた言葉は
「良性とも悪性とも言えない。だけれど3ヶ月点滴をして無くさなければならない」
俺にはそれだけで大ショックだった。
しかし家族の「3ヶ月頑張ろう!」と言う言葉に励まされて頑張った。
母は実家から1時間半もかかる病院まで毎日来てくれた。
吹雪の日でもいつも笑顔で来てくれた。
治療の点滴の副作用は強く、激しい嘔吐、髪は抜け、体力も落ちた。
もうお気づきの方もいるかもしれないが抗がん剤治療である。
しかし無知な自分は何も気づかずに3ヶ月間頑張った。
気づかないというより気づかせられなかった。
家族が隠しとうしたのである。
そう。俺は悪性だったのだ。
体中に転移し、医者から家族に言われた言葉は「3ヶ月持つかわかりません。」だった。
その事を聞いたのは2月だった。
奇跡とも言う位に薬が効き、転移していた所は全て消え元の腫瘍も5分の1まで小さくなっていた。
それで母は俺に癌の告知をした。俺は涙が止まらなかった。
自分の病気のことよりも今まで俺にばれないように隠してくれた母のやさしさに気づいたからだった。
父も妹にもそうなのだが、何より余り仲の良くなかった母に申し訳なかった。
いつも隣にいて、たわいも無い話をするのがどんなに大変だったのだろうか。
しかも東京の病院から隠したのである。
治療がつらく母に当たっても何一つ文句を言わずただひたすら励ましてくれた。
俺は初めて家族の愛を知った。
それからも治療はうまく進み、ついに「完治します」という言葉が医者の口からでた。
あと3ヶ月ほど治療が続くが、俺はそれを乗り超えたときに両親にに言いたい言葉がある。
「俺を生んでくれてありがとう。」
高校時代はあまり家にもいない学校も嫌いな、世間一般で言う不良のようなものだった。
家族の仲はそれなりに良かったが母親とは喧嘩ばかり。
上京してからも1ヶ月に一度連絡をするくらいでろくに親の事なんか考えてなかった。
初めての夏を迎える頃右足の付け根に痛みを感じ出した。
医者に行くと「股関節の炎症。」
しかし何度医者に行ってもいっこうに良くならずむしろ痛みは強くなるばかり・・。
11月になると痛みの余り学校に行けなくなることもあった。
そしてある朝起きると痛くて動けない。
立てない。パニックになった俺は親に電話をしたところ
「救急車を呼びなさい!!」と。
俺は人生初の救急車を体験し近くの病院に運ばれた。
母は心配し、来ると言っていたが大したことは無いと断った。
1週間ほど入院をすると痛みも薄れてきてそろそろ退院かなと思った頃、
母から電話が来た。
「先生に呼ばれたから明日朝一の飛行機で行くから。」
次の日母は俺の前に心配そうな顔をして現れた。
「大丈夫だって。」俺がそう言うと母は
「元気そうだね。安心した。」そう言った。
その後、母は医者に「お話があります」と呼ばれた。
「じゃあ行って来るね」
20分位たつと、俺も看護婦さんに連れられ母と医者の待つ部屋に呼ばれた。
そこには顔が引きつった顔の母がいた。
一生懸命に平静を装っている。
そこで俺は医者に次のようなことを言われた。
・足に腫瘍がある
・ここではその腫瘍について分からないから大きい病院に移って検査しなくてはいけないこと。
・それには故郷の大学病院に行くのがいいということ
俺は唖然とした。
母は「とりあえず帰ろう」と言う。結局、説得され帰ることになった。
俺は「腫瘍」というものが何かよく分かっていなかった。
だから軽く検査してまた1ヶ月位したら戻ってこれるな。と思っていた。
しかし転院後、すぐ検査をし主治医に言われた言葉は
「良性とも悪性とも言えない。だけれど3ヶ月点滴をして無くさなければならない」
俺にはそれだけで大ショックだった。
しかし家族の「3ヶ月頑張ろう!」と言う言葉に励まされて頑張った。
母は実家から1時間半もかかる病院まで毎日来てくれた。
吹雪の日でもいつも笑顔で来てくれた。
治療の点滴の副作用は強く、激しい嘔吐、髪は抜け、体力も落ちた。
もうお気づきの方もいるかもしれないが抗がん剤治療である。
しかし無知な自分は何も気づかずに3ヶ月間頑張った。
気づかないというより気づかせられなかった。
家族が隠しとうしたのである。
そう。俺は悪性だったのだ。
体中に転移し、医者から家族に言われた言葉は「3ヶ月持つかわかりません。」だった。
その事を聞いたのは2月だった。
奇跡とも言う位に薬が効き、転移していた所は全て消え元の腫瘍も5分の1まで小さくなっていた。
それで母は俺に癌の告知をした。俺は涙が止まらなかった。
自分の病気のことよりも今まで俺にばれないように隠してくれた母のやさしさに気づいたからだった。
父も妹にもそうなのだが、何より余り仲の良くなかった母に申し訳なかった。
いつも隣にいて、たわいも無い話をするのがどんなに大変だったのだろうか。
しかも東京の病院から隠したのである。
治療がつらく母に当たっても何一つ文句を言わずただひたすら励ましてくれた。
俺は初めて家族の愛を知った。
それからも治療はうまく進み、ついに「完治します」という言葉が医者の口からでた。
あと3ヶ月ほど治療が続くが、俺はそれを乗り超えたときに両親にに言いたい言葉がある。
「俺を生んでくれてありがとう。」
小学4年の時に母が死んだ。
小学6年の時に北海道から東京へ転校。
中学の時は片親しかいないことでイジめられた。
高校では父が一時過労で入院、晩御飯が食えないことはよくあることだった。
大学生の時、はじめて恋人が出来るが父の病気の関係から入院し恋人どころではなくなったので別れた。
翌年、車にはねられ足を骨折。
父に心配かけまいと病院から電話して毎日元気だよと言った。
3ヶ月後父は病状が回復し退院、その1ヶ月後に自分が退院。
退院して家に帰ると父がいなかった。
次の日の朝、父は帰ってきた。
「すまない時間がかかった」父はそう言ってスーパーの袋から高級な肉をどさどさ出した。
びっくりした、最初は正直盗んできたのかと思ったがちゃんと買った物だ。
僕が疑っていたのを知っていたかのように購入した証拠のレシートを出した。
次に親父に殴られた。
入院していたのを黙っていたこと、そして親父は言った「俺を殴れ」と。
こんな頼りにならない親父だ、お前は俺を殴る権利がある。
お互いに殴り合い、疲れたところで肉を焼いた。
ごはんと肉と野菜の簡単な組み合わせだったけど、とても美味しかった。
時計を見ると午後8時だった。
同時に親父も時計を見ていた「もうそろそろか」と親父は言った。
何がもうそろそろ何だ?と聞いたら「すぐ分かる」と親父が言った。
10分ほどしてインターホンが鳴った。
親父が出ろと言うので、玄関のドアを開けてみた。
すると恋人がいた。泣いてた。俺も泣いた。親父だけが笑ってた。
それから現在に至るまでずっと楽しい生活を送ってる。
小学6年の時に北海道から東京へ転校。
中学の時は片親しかいないことでイジめられた。
高校では父が一時過労で入院、晩御飯が食えないことはよくあることだった。
大学生の時、はじめて恋人が出来るが父の病気の関係から入院し恋人どころではなくなったので別れた。
翌年、車にはねられ足を骨折。
父に心配かけまいと病院から電話して毎日元気だよと言った。
3ヶ月後父は病状が回復し退院、その1ヶ月後に自分が退院。
退院して家に帰ると父がいなかった。
次の日の朝、父は帰ってきた。
「すまない時間がかかった」父はそう言ってスーパーの袋から高級な肉をどさどさ出した。
びっくりした、最初は正直盗んできたのかと思ったがちゃんと買った物だ。
僕が疑っていたのを知っていたかのように購入した証拠のレシートを出した。
次に親父に殴られた。
入院していたのを黙っていたこと、そして親父は言った「俺を殴れ」と。
こんな頼りにならない親父だ、お前は俺を殴る権利がある。
お互いに殴り合い、疲れたところで肉を焼いた。
ごはんと肉と野菜の簡単な組み合わせだったけど、とても美味しかった。
時計を見ると午後8時だった。
同時に親父も時計を見ていた「もうそろそろか」と親父は言った。
何がもうそろそろ何だ?と聞いたら「すぐ分かる」と親父が言った。
10分ほどしてインターホンが鳴った。
親父が出ろと言うので、玄関のドアを開けてみた。
すると恋人がいた。泣いてた。俺も泣いた。親父だけが笑ってた。
それから現在に至るまでずっと楽しい生活を送ってる。