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泣けるBLOG

泣ける話を集めました。

母方の祖母が倒れた為、母は田舎へ看病に出かけてしまい、家に残されたのは義父と私。

小学生の頃から一緒に暮らしてはいるものの、私は彼を「お父さん」と認める事も呼ぶ事も出来ません。
母が田舎に帰った日、私が仕事から帰ってみると、義父は私に料理を作ってもらえるとは全く思っていなかったらしく、不揃いに切ったかまぼこと、黄身と白身のしっかり混ざっていないパサパサした卵焼きをつまみにビールを飲んでいました。

実際作る気のなかった私は申し訳ないような気分になってしまい、帰って来たそのままの格好でまた買い物に出かけて材料を調達し、簡単な夕食を作りました。
おみそ汁とご飯と炒め物だけの。
母の料理の腕前が天下一品である為、普段は私の出番はなく、よって私の料理の腕前も全く大したコトはありません。それでも義父は「美味いよ」と嬉しそうに食べながら、会話が続かないせいかナイター中継をずっと見ていました。

母が帰って来る迄の一週間程、いろいろ作りましたが、どう考えても普段食べている母の料理には及ばなかったハズです。それでも義父は何を食べても「美味いよ」しか言いませんでした。

今はもう結婚して、私は実家から遠く離れた場所に住んでいます。
たまに電話しても、あの時と変わりないぎこちなさで「元気か?」と「たまには帰っといでよ」しか言わない義父。血の繋がらない娘を10年以上も養ってくれた義父。

ごめんね、ほんとは「お父さん」って呼んであげたいんだけど。
呼ぼうって思っても、いざ顔を見るとどうしても呼べない。
実の親父よりも、遙かに私を大事にしてくれたのにね。ごめんね。






母が用事で家を空けたとき、父がご飯の用意をしてくれたことがあった。普段、父が台所に立つことはなかったので、「ご飯作れるのかな」と小学生だった俺と兄は、見ててちょっと不安だった。

その時作ってくれた料理が何だったか、もうほとんど思い出せなくて、フライパンの上でぼろぼろになってる卵焼き(ようなモノ)ぐらいしか憶えてない。
味もそれほどおいしくなかった気がする。
結局、父が台所に立ったのはその一回きり。

高校卒業して進学のため一人暮らしを始めた。
生活する大変さを知って、今まで文句も言わず家事をこなしてきた母に感謝した。
働き始めて、お金を稼ぐ大変さを知った。父に飯をおごりたいと思った。
実家に帰るたびに、俺は「メシおごるよ。何食いたい?」と聞くんだけど、父は「いらない、まだお前にはおごってもらいたくない」と断られる。

どうやら、子供に金を出させるわけにはいかないという親の意地があるらしい。
すでに髪も薄くなり背だって俺に負けてるくせに、親の威厳は一向に衰えていない。
その意地に、かなりの悔しさと少しの尊敬。

いつか父を認めさせ、美味い飯をおごる。
それが俺の父を越えた証になるんだと思った。




私は幼い頃から、すっごいお父さんっ子だった。
中学高校ぐらいになったら、よく女の子供はお父さんと話さなくなったり、一緒に洗濯物洗うのイヤがったりするって言うけど、私はむしろ勝手にお父さんのパンツを自分の洗濯物と一緒に洗ったりして、お父さんが逆にビックリしてるくらいだった(笑)。

大きくなったらお父さんみたいな人と結婚したいなって、思ってたよ。ホント。
さすがにお父さんの前では、さすがに言えなかったけど。

ウチのお父さんは仕事一徹の堅物で、趣味といえるものは晩酌とテレビでプロ野球見るぐらい。
当然料理なんてサッパリで。
普段は感情がほとんど外に出ない人なんだけど、お酒飲むときだけ饒舌になった。
そのお父さんの夢って言うのが、後からお母さんに聞いたんだけど、
「娘と一緒にビール飲みながらテレビで野球を見ること」(笑)。

高校生の時にお父さんと一緒に飲み始めてから(汗)、晩酌の相手は私になって。
料理はさっぱりなお父さんなんですが、この晩酌の時だけはお父さんが台所に立つんですよ。
酒のおつまみ、「枝豆」と「スルメ」を作るために。
枝豆の塩加減とか、すっげー上手で。美味かったです。
スルメの上にマヨネーズかけて、七味ゴバーってのせて、辛過ぎで私は食べれなかった(笑)。

でも私は20の時、仕事の都合で家を出てきちゃいました。
一緒に飲んだのも、私が家を出る前日の夜が最後。
お父さん、今年は巨人優勝できるかな?

天国で応援してて下さい。今日は勝ったよ~!






うちのオヤジも例に漏れず、不気味なモノよく作った。
煮魚入りラーメン(カレイ)とか、材料すらよくわからなくなってる不気味な半固形物とか。

でも、スキヤキだけはうまかった。
母親もスキヤキだけは手を出そうとしなかったな。

漏れが就職して家を出てすぐにガンが見つかって、それからは入退院の繰り返しで、もう末期でどうしようもない状態になっても、オヤジもそれを知っていたけど、またオヤジのスキヤキを食わせてくれと頼んだら、元気になったら食わせてやるといってたんだよね。
だって、本人は最後まで絶対にあきらめてなかったから。

奇跡を起こしてやるって最後まで言って、食道、肺、胃、肝臓にガンが転移してからも、ガンに勝つんだって言って体力の続く限り食事をあきらめなかった。
最後に家族みんなで、無謀にも病室で鍋をした。
といっても一人鍋で、みんなでつついたんだけど。

兄貴が鍋と固形燃料買ってきて、病室で鍋作り出したときはびびった。
でも、オヤジは食う体力もなかっただろうに、すごくうれしそうだった。
兄貴は遠くで働いてたから、それから手紙を残して帰っていった。

『僕はお父さんの子供であることを誇りに思ってます。ラガーマンだったお父さんから学んだことは、ノーサイドの瞬間まで決してあきらめないということです。お父さんも僕たちの為に頑張ってください。』という趣旨の内容だったと思う。

オヤジはそれを読んでボロボロ泣いて、それから1ヶ月くらいして、家族みんなが見てる中で、死んじゃったんだけどね・・・。







16からバイク乗り始めてはや10年、バイクに乗ることもバイク便の仕事をすることも断固として反対していた家族の中、唯一人俺の味方になってくれたばあちゃん、ありがとう。

γ50から始まりBUELLに乗る現在にいたるまで新しい単車を買っては友達に見せるより真っ先にばあちゃんにみせにいったなぁ。

ばあちゃんは目をまんまるにして驚いて、そして『かっこええ!』と言ってくれたやん。
今も変わらずおとんやおかんは反対してるけどさ、悪いけど俺はバイクは降りへんからな!
『じいちゃんもバイクごっつ好きやったんやろ?』って聞いたら、そしたらばあちゃん
『アホ、じいちゃんはワシが一番好きやったんや、単車は2番目や』やて。

顔知らんじいちゃんやけどうちの家系やからそない男前でもないと思うけどばあちゃんの目にはごっつい男前やったんかなと思うわ。

81歳やからもうええ歳やけどまだまだ元気やからさ、しゃーないわ、今度俺の愛車の後ろ乗したるわ。
メットもお揃いのシンプソンやな!だからさ、まだ元気で居てよ、ばあちゃん。

いつもありがとうな、ばあちゃん。