うざさは承知の上で今日だけは真面目なレスをつけたいと思う。
今日が何の日かご存知であろうか。知識としての説明は必要ないだろう。
だが1歩その先へ、
それが、自分の経験であったかもしれないことを想像して頂きたい。
向こう70年草木も生えないだろうと噂された広島の
その被害の大きさとその恐ろしさを想像して欲しい。そして更にもう1歩、
その苦しみがいつでも自分のものになり得ることを想像して頂きたい。
何もわからぬままに火に巻かれ体が溶けている自分を想像して欲しい。
妻が、子が、親が家の下敷きになったのを横目に、見捨てて逃げる
自分を想像して欲しい。自分だけ逃げるその恐怖と悔しさを想像して欲しい。
また、祖国から無理矢理に連れて来られ、家族と引き離され
強制労働させられるうちに被爆した自分を想像して欲しい。
差別故にその後の治療も施しも受けられず死ぬしかなかった自分を想像して欲しい。
筆舌に尽くしがたい生き地獄の中を
ようように生き延びた自分を想像して欲しい。
ようやく生き延びた自分に同朋から浴びせられる
『化け物!死ね!』という言葉を想像して欲しい。
死と隣合わせの健康状態でようやく見つけた就職先を
「ピカの毒がうつる」と否やもなくクビになる自分を想像して欲しい。
苦しみの中に明るさと幸せをもたらした恋人との結婚を
「毒の血が伝わる」と有無を言わせず破談にされる自分を想像して欲しい。
業火の恐怖と家族を見捨てた罪悪感と、死と隣り合わせの体と
そこに降り注ぎ続ける差別の苦しみと怒りと悔しさと孤独の中で
ようように、伴侶を得た時の類稀なる喜びを想像してみて欲しい。
忘れることさえできない苦しみの連続の中で
希望と夢をもたらした、我が子の誕生を想像してみて欲しい。
やっと手に入れた幸せ。ごく普通にあるべきそれが希望、喜び、
そんな言葉で表すことさえできない幸せであることを想像して欲しい。
そして、その喜びがまたしても奪われる自分を想像して欲しい。
原爆症・白血病で日増しに弱っていく我が子に
何もしてやれない悔しさを想像して欲しい。
泣きながら荼毘にふし、骨を拾ってやろうと思ったら
その骨さえ残っていなかったことを
ーそれ程に我が子が病に傷め付けられていたことをー想像して欲しい。
次の子も育たないかもしれない。
そんな恐怖の中で子供が成人した喜びを想像して欲しい。
やっと得られた至上の宝が、健康に恵まれたにもかかわらず
2世、ということでまたしても同じ差別を受ける悔しさを想像して欲しい。
苦しみの連続の50年を経て、孫が生まれた喜びを想像して欲しい。
息子は健康だったのに孫が白血病になった憤りを想像して欲しい。
これらの苦しみが3世、4世へと受け継がれ
未だ終わることのない事実だという現実を心の隅に落して欲しい。
あれから65年。被爆1世の数は減りつづけ人々の記憶は薄れていった。
しかし今、広島市内には約9万人の被爆者がいる。65年前のことではない。
現在の認定された被爆者だけの数で9万人。原爆投下から65年経てなお、
これだけの数の被爆者がいる、ということは、当時名も知れず看取られることもなく
死んでいった人間の数はこの比ではない、ということに思いを馳せて頂きたい。
最後にもう1つ。
被爆者認定の基準が年々厳しくなり、原爆症に苦しむ2世以降の
被爆被害者らが「関連性が認められない」と医療補償などを前に
拒まれ続けている事実も付け加えておく。
これが自分の経験であったとしたら、
もしかして未来の自分の経験であるとしたら、忘れていられるだろうか。
今この時間広島ならしない全体が静寂につつまれている。
全てのテレビ番組が中継をしている。
今、私の住んでいる地で、中継はNHKだけだ。
黙祷
私は小学生の時同級生が死んだよ。中学の音楽担任と教頭も原爆症で休みがちだった。
高校の時、暮らすに禿の女の子がいたよ。オランウータンのような頭だったが
痛々しすぎて誰も話題にすることがなかった。かつらを被ることもなく、その頭で登校し続けた
彼女は勇気ある女性だったが25歳で生涯を終えた。指の爪の黒い同級生がいたよ。
気持ち悪いといじめられていた。3世であることを明かせば広島ではいじめられなかった
だろう。だが、彼女は3世であることをひた隠しにした。差別に苦しみ続けた祖父母の
固いいいつけだったそうだ。年を経て彼女は結婚し、生まれた子供を6歳で亡くした。
裏手に住んでいたおばあさんは花火を怖がる。そして蛍光灯をつけるたびに
身をすくめ顔を手で覆う。あの日の瞬間を忘れることができないのだと語った。
彼女の息子は某大手の電気メーカーに就職内定し、直前で取り消された。
私が身近で見聞きしただけでも数えあげればきりがない。
それだけたくさんの悲劇が、未だ残存し続ける。目をすむけてはならない事実だ。
8月6日8:15 もの心ついて依頼20数年かかすことなく
1分間の黙祷をささげてきた。広島に生まれ広島に育った者としては
ごく普通の当然の行為である。運行中のバスや電車の中でさえ
人々は黙祷を捧げる。通行中の者は足をとめ、ドライバーは警笛をならす。
しかし後に広島を離れ他の地で暮らすようになって
愕然とした。8月6日を忘れていたのだ。広島に住み広島に生きる限り
忘れられるはずのないその認識は共通であり、常識であり
おしゃべりと化粧に余念のない女子高生でさえも一瞬手と口をとめ
厳粛な顔をするものだったのに、である。
「裸足のゲン」を知らない人がいることにカルチャーショックを受けた。
だが無理もない。私とて長崎における原爆の捉えかたは知らない。
投下時刻も記憶してない。国内でさえ所変るとこれだけ違うのだ。
国外ともなればどうだろう。
人が人を害する愚かしさとそれを容認し理由だてる者が国を動かす
恐ろしさを、それぞれがそれぞれに考えねばならない。
そして恐ろしさを想像できる者はわずかでも、それをまた誰かに
伝えねばならない。20数年を生きた、広島を離れてから数年経って
考えるようになった。これは広島で生まれ育ったものの義務である、と。
あなたは22歳の誕生日を迎えてから4日で逝ったね。
私は22歳になっちゃったよ。
あなたの年を追い越そうとしてる。
おかしいよね。私はあなたの、妹なのに。
ねぇMちゃん。
4年が経ったんだね。
もうMちゃんに、4年も会ってないんだね。
今でも信じたくない。もう、会えないなんて。
たまらない虚無感が、押し寄せる。
当たり前の存在だったんだ。
「大好きだったんだね」
そう、慰められても。
知らない。そんなこと、意識したことなかった。
どうしていないの?…ああ、死んでしまったんだ。
いつも、忘れていたかのように思い出す。
あなたがいないことに気づいて。
祈ってたんだよ。ずっと。
叶うなら、もう何ひとついらなかった。
欲しいものなんかなかった。
消えてはくれない絶望感。
人を見るたび静かに沸きあがる醜い感情。
当たり前の幸せに、気づきもしない人たち。
みんな、奪われてしまえばいいのに。
そう思わずにはいられない。
病院、あなたが死んだ場所。
むせ返るような花の香りは、あなたの遺体を思い出す。
ドライアイスで凍った頬に気づき、私は泣いた。
4年前。
「お母さんのこと、よろしくね」
ああ、ちゃんと生きなきゃいけない。
しっかりしなくちゃ。
明日、私はあなたの年を追い越す。
私は22歳になっちゃったよ。
あなたの年を追い越そうとしてる。
おかしいよね。私はあなたの、妹なのに。
ねぇMちゃん。
4年が経ったんだね。
もうMちゃんに、4年も会ってないんだね。
今でも信じたくない。もう、会えないなんて。
たまらない虚無感が、押し寄せる。
当たり前の存在だったんだ。
「大好きだったんだね」
そう、慰められても。
知らない。そんなこと、意識したことなかった。
どうしていないの?…ああ、死んでしまったんだ。
いつも、忘れていたかのように思い出す。
あなたがいないことに気づいて。
祈ってたんだよ。ずっと。
叶うなら、もう何ひとついらなかった。
欲しいものなんかなかった。
消えてはくれない絶望感。
人を見るたび静かに沸きあがる醜い感情。
当たり前の幸せに、気づきもしない人たち。
みんな、奪われてしまえばいいのに。
そう思わずにはいられない。
病院、あなたが死んだ場所。
むせ返るような花の香りは、あなたの遺体を思い出す。
ドライアイスで凍った頬に気づき、私は泣いた。
4年前。
「お母さんのこと、よろしくね」
ああ、ちゃんと生きなきゃいけない。
しっかりしなくちゃ。
明日、私はあなたの年を追い越す。
なぜ今まで父の偉大さに気付かなかったのか、自分が恥ずかしい。
仕事人間といってしまえばそれまでなのかもしれないが、どんなときでも父は仕事のグチをこぼさなかったし、漏れたち子供はそれを一度も見たことがない。
今考えるとちょっとした休日出勤だったのだろうが、日曜によく漏れと兄貴を会社に連れて行ってくれて遊んでくれた。会社の芝のあるグラウンドでキャッチボールをよくやった。
それで兄とふたりで120円渡されて、1カップ60円のジュースを飲むのが楽しみだった。
仕事がこんなに大変だったなんて、今ごろ気付いた自分が情けない。
今は無職だが、父にはぜったいに恩返しをしたいと思っている。
仕事人間といってしまえばそれまでなのかもしれないが、どんなときでも父は仕事のグチをこぼさなかったし、漏れたち子供はそれを一度も見たことがない。
今考えるとちょっとした休日出勤だったのだろうが、日曜によく漏れと兄貴を会社に連れて行ってくれて遊んでくれた。会社の芝のあるグラウンドでキャッチボールをよくやった。
それで兄とふたりで120円渡されて、1カップ60円のジュースを飲むのが楽しみだった。
仕事がこんなに大変だったなんて、今ごろ気付いた自分が情けない。
今は無職だが、父にはぜったいに恩返しをしたいと思っている。
小学のとき修学旅行で鎌倉に行った。
大好きなおばあちゃんに薔薇の匂い袋を買った。
たいした物じゃなかったけどすごく喜んでくれた。
電話する度にありがとうと言っては肌身はなさず持ち歩き私を思い出すと言う。
だから嬉しくて自分用に買ったやつもあげた。
本当に気に入ってたらしく香りが消えそうな頃何処で買ったか聞かれた。
本当に鎌倉まで行くと思ってなかったので(おばあちゃんは北海道の人)適当に店の名前を作っていった。
”境内にあるばばあの店だよー”
たしか本当の名前はおばあちゃんの何とかだった。
1週間後おばあちゃんが遊びに来た。
鎌倉に行って来たとのこと。
でも一生懸命に店を探したけど見つからなかったと…
もうその店潰れたんじゃないの?と笑いながら言っていた。
一緒に言った叔母さんの話によると。
不自由な足でツアーの自由時間中ずっと探し回っていた。
行く人皆にこの辺にばばあの店はありますか?
と必死に聞きまわっていたそうでその話を後から聞いて部屋でワンワン泣いた。
おばあちゃんが帰る日今度私が鎌倉に言ったら必ず買ってくるからと約束した。
一年に一回くらいの割合でこの次はいつ鎌倉にいくか聞いてくる。
今度今度といって3年が過ぎた。
ある日地震で帰らぬ人となった。
突然でサヨナラも言えなっかた。
去年日本に帰った際鎌倉に立ち寄った。
名前は違ったがその店はあった。
店内で同じような商品とおばあちゃんの年頃の定員さんを見ておもわず泣いてしまった。
おばあちゃんゴメンネ。
大好きなおばあちゃんに薔薇の匂い袋を買った。
たいした物じゃなかったけどすごく喜んでくれた。
電話する度にありがとうと言っては肌身はなさず持ち歩き私を思い出すと言う。
だから嬉しくて自分用に買ったやつもあげた。
本当に気に入ってたらしく香りが消えそうな頃何処で買ったか聞かれた。
本当に鎌倉まで行くと思ってなかったので(おばあちゃんは北海道の人)適当に店の名前を作っていった。
”境内にあるばばあの店だよー”
たしか本当の名前はおばあちゃんの何とかだった。
1週間後おばあちゃんが遊びに来た。
鎌倉に行って来たとのこと。
でも一生懸命に店を探したけど見つからなかったと…
もうその店潰れたんじゃないの?と笑いながら言っていた。
一緒に言った叔母さんの話によると。
不自由な足でツアーの自由時間中ずっと探し回っていた。
行く人皆にこの辺にばばあの店はありますか?
と必死に聞きまわっていたそうでその話を後から聞いて部屋でワンワン泣いた。
おばあちゃんが帰る日今度私が鎌倉に言ったら必ず買ってくるからと約束した。
一年に一回くらいの割合でこの次はいつ鎌倉にいくか聞いてくる。
今度今度といって3年が過ぎた。
ある日地震で帰らぬ人となった。
突然でサヨナラも言えなっかた。
去年日本に帰った際鎌倉に立ち寄った。
名前は違ったがその店はあった。
店内で同じような商品とおばあちゃんの年頃の定員さんを見ておもわず泣いてしまった。
おばあちゃんゴメンネ。
うちの父はダンプの運転手です。
なので、雪の降る前に(北海道です)東北の方に出稼ぎに行きます。
私が物心付いた時からずーっとそうでした。
11月に入ってすぐに行き、お正月だけ帰り、そしてまた帰ってくるのは5月の連休明けだったんです。
そんな訳で、1年の内半分しか一緒にいられない父は、私の事をネコっ可愛がりしてくれていました。
結婚して8年、2度の流産が続き、そろそろ子供は諦めようと話をしていたときにポッとできた子供であるという事も理由の一つだったとは思います。
ご飯を食べる時は必ず父の膝の上。
お風呂に入るのは必ず父と。
寝る時はいつも父の隣で腕枕。
4つ下に妹が生まれ、母に
『お前はしっかり下の子の面倒をみてやれ。上の子は、お前があまりかまってやれない分俺がずっと可愛がっていてやるから。寂しい思いをさせない様にするから。』
と言って、毎日母の作った二人分のお弁当を持って、ダンプに乗せて行ってくれた父。
ずっとずっと父が一番大好きでした。
でも、毎年毎年、寒くなってくると父はダンプに乗って手を振って行ってしまう。
あれは3年生くらいの時だったかな。
父の出発前日、思わず泣きながら父に訴えた事がありました。
『お父さんはなんで行っちゃうの?行って欲しくないよ。一緒に雪だるまつくったりしたいよ。一緒にお姉ちゃん(私)のお誕生日パーティーしたいよ。大好きだから行かないでよぉぉぉ』
父は、黙ってうん、うん、ごめんな、と頷きながら泣いていました。
それを見てまた何故か私ももっと泣きました。
本当は父も、半年も家族と離れたくなんかなかったんだよね。
でも、私達の為に行かざるをえなかった。
今ならわかるけど、あの時はそんな事まで気を回すことができなかった。ごめんね、お父さん。
そんな父は、去年からやっと冬場でもこちらで仕事が出来る状況になった。
先月、新しいダンプも買った。
私の二人の子供達は、『ジジのダンプかっこいいねーーー』と言って、時々平日の幼稚園の休みの日や、昼に帰って来て、父の時間の都合が付く日にはダンプに乗ってついていく。
昔私達がそうだった様に、景色を見渡してはしゃぎ、父の歌う調子はずれの歌を聴いて笑い、それを見て父が笑う。
私は色々な事を父に教えられてきたと思う。
年頃になっても父が大好きな気持ちは変わらなかったし、今でも大好きな父であり、ジジです。
なので、雪の降る前に(北海道です)東北の方に出稼ぎに行きます。
私が物心付いた時からずーっとそうでした。
11月に入ってすぐに行き、お正月だけ帰り、そしてまた帰ってくるのは5月の連休明けだったんです。
そんな訳で、1年の内半分しか一緒にいられない父は、私の事をネコっ可愛がりしてくれていました。
結婚して8年、2度の流産が続き、そろそろ子供は諦めようと話をしていたときにポッとできた子供であるという事も理由の一つだったとは思います。
ご飯を食べる時は必ず父の膝の上。
お風呂に入るのは必ず父と。
寝る時はいつも父の隣で腕枕。
4つ下に妹が生まれ、母に
『お前はしっかり下の子の面倒をみてやれ。上の子は、お前があまりかまってやれない分俺がずっと可愛がっていてやるから。寂しい思いをさせない様にするから。』
と言って、毎日母の作った二人分のお弁当を持って、ダンプに乗せて行ってくれた父。
ずっとずっと父が一番大好きでした。
でも、毎年毎年、寒くなってくると父はダンプに乗って手を振って行ってしまう。
あれは3年生くらいの時だったかな。
父の出発前日、思わず泣きながら父に訴えた事がありました。
『お父さんはなんで行っちゃうの?行って欲しくないよ。一緒に雪だるまつくったりしたいよ。一緒にお姉ちゃん(私)のお誕生日パーティーしたいよ。大好きだから行かないでよぉぉぉ』
父は、黙ってうん、うん、ごめんな、と頷きながら泣いていました。
それを見てまた何故か私ももっと泣きました。
本当は父も、半年も家族と離れたくなんかなかったんだよね。
でも、私達の為に行かざるをえなかった。
今ならわかるけど、あの時はそんな事まで気を回すことができなかった。ごめんね、お父さん。
そんな父は、去年からやっと冬場でもこちらで仕事が出来る状況になった。
先月、新しいダンプも買った。
私の二人の子供達は、『ジジのダンプかっこいいねーーー』と言って、時々平日の幼稚園の休みの日や、昼に帰って来て、父の時間の都合が付く日にはダンプに乗ってついていく。
昔私達がそうだった様に、景色を見渡してはしゃぎ、父の歌う調子はずれの歌を聴いて笑い、それを見て父が笑う。
私は色々な事を父に教えられてきたと思う。
年頃になっても父が大好きな気持ちは変わらなかったし、今でも大好きな父であり、ジジです。