8月6日広島原爆投下の日 | 泣けるBLOG

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泣ける話を集めました。

うざさは承知の上で今日だけは真面目なレスをつけたいと思う。
今日が何の日かご存知であろうか。知識としての説明は必要ないだろう。
だが1歩その先へ、
それが、自分の経験であったかもしれないことを想像して頂きたい。
向こう70年草木も生えないだろうと噂された広島の
その被害の大きさとその恐ろしさを想像して欲しい。そして更にもう1歩、
その苦しみがいつでも自分のものになり得ることを想像して頂きたい。


何もわからぬままに火に巻かれ体が溶けている自分を想像して欲しい。
妻が、子が、親が家の下敷きになったのを横目に、見捨てて逃げる
自分を想像して欲しい。自分だけ逃げるその恐怖と悔しさを想像して欲しい。

また、祖国から無理矢理に連れて来られ、家族と引き離され
強制労働させられるうちに被爆した自分を想像して欲しい。
差別故にその後の治療も施しも受けられず死ぬしかなかった自分を想像して欲しい。

筆舌に尽くしがたい生き地獄の中を
ようように生き延びた自分を想像して欲しい。
ようやく生き延びた自分に同朋から浴びせられる
『化け物!死ね!』という言葉を想像して欲しい。

死と隣合わせの健康状態でようやく見つけた就職先を
「ピカの毒がうつる」と否やもなくクビになる自分を想像して欲しい。
苦しみの中に明るさと幸せをもたらした恋人との結婚を
「毒の血が伝わる」と有無を言わせず破談にされる自分を想像して欲しい。

業火の恐怖と家族を見捨てた罪悪感と、死と隣り合わせの体と
そこに降り注ぎ続ける差別の苦しみと怒りと悔しさと孤独の中で
ようように、伴侶を得た時の類稀なる喜びを想像してみて欲しい。


忘れることさえできない苦しみの連続の中で
希望と夢をもたらした、我が子の誕生を想像してみて欲しい。
やっと手に入れた幸せ。ごく普通にあるべきそれが希望、喜び、
そんな言葉で表すことさえできない幸せであることを想像して欲しい。

そして、その喜びがまたしても奪われる自分を想像して欲しい。
原爆症・白血病で日増しに弱っていく我が子に
何もしてやれない悔しさを想像して欲しい。
泣きながら荼毘にふし、骨を拾ってやろうと思ったら
その骨さえ残っていなかったことを
ーそれ程に我が子が病に傷め付けられていたことをー想像して欲しい。

次の子も育たないかもしれない。
そんな恐怖の中で子供が成人した喜びを想像して欲しい。
やっと得られた至上の宝が、健康に恵まれたにもかかわらず
2世、ということでまたしても同じ差別を受ける悔しさを想像して欲しい。
苦しみの連続の50年を経て、孫が生まれた喜びを想像して欲しい。
息子は健康だったのに孫が白血病になった憤りを想像して欲しい。
これらの苦しみが3世、4世へと受け継がれ
未だ終わることのない事実だという現実を心の隅に落して欲しい。



あれから65年。被爆1世の数は減りつづけ人々の記憶は薄れていった。
しかし今、広島市内には約9万人の被爆者がいる。65年前のことではない。
現在の認定された被爆者だけの数で9万人。原爆投下から65年経てなお、
これだけの数の被爆者がいる、ということは、当時名も知れず看取られることもなく
死んでいった人間の数はこの比ではない、ということに思いを馳せて頂きたい。

最後にもう1つ。
被爆者認定の基準が年々厳しくなり、原爆症に苦しむ2世以降の
被爆被害者らが「関連性が認められない」と医療補償などを前に
拒まれ続けている事実も付け加えておく。

これが自分の経験であったとしたら、
もしかして未来の自分の経験であるとしたら、忘れていられるだろうか。



今この時間広島ならしない全体が静寂につつまれている。
全てのテレビ番組が中継をしている。
今、私の住んでいる地で、中継はNHKだけだ。

黙祷




私は小学生の時同級生が死んだよ。中学の音楽担任と教頭も原爆症で休みがちだった。
高校の時、暮らすに禿の女の子がいたよ。オランウータンのような頭だったが
痛々しすぎて誰も話題にすることがなかった。かつらを被ることもなく、その頭で登校し続けた
彼女は勇気ある女性だったが25歳で生涯を終えた。指の爪の黒い同級生がいたよ。
気持ち悪いといじめられていた。3世であることを明かせば広島ではいじめられなかった
だろう。だが、彼女は3世であることをひた隠しにした。差別に苦しみ続けた祖父母の
固いいいつけだったそうだ。年を経て彼女は結婚し、生まれた子供を6歳で亡くした。
裏手に住んでいたおばあさんは花火を怖がる。そして蛍光灯をつけるたびに
身をすくめ顔を手で覆う。あの日の瞬間を忘れることができないのだと語った。
彼女の息子は某大手の電気メーカーに就職内定し、直前で取り消された。

私が身近で見聞きしただけでも数えあげればきりがない。
それだけたくさんの悲劇が、未だ残存し続ける。目をすむけてはならない事実だ。



8月6日8:15 もの心ついて依頼20数年かかすことなく
1分間の黙祷をささげてきた。広島に生まれ広島に育った者としては
ごく普通の当然の行為である。運行中のバスや電車の中でさえ
人々は黙祷を捧げる。通行中の者は足をとめ、ドライバーは警笛をならす。
しかし後に広島を離れ他の地で暮らすようになって
愕然とした。8月6日を忘れていたのだ。広島に住み広島に生きる限り
忘れられるはずのないその認識は共通であり、常識であり
おしゃべりと化粧に余念のない女子高生でさえも一瞬手と口をとめ
厳粛な顔をするものだったのに、である。

「裸足のゲン」を知らない人がいることにカルチャーショックを受けた。
だが無理もない。私とて長崎における原爆の捉えかたは知らない。
投下時刻も記憶してない。国内でさえ所変るとこれだけ違うのだ。
国外ともなればどうだろう。
人が人を害する愚かしさとそれを容認し理由だてる者が国を動かす
恐ろしさを、それぞれがそれぞれに考えねばならない。
そして恐ろしさを想像できる者はわずかでも、それをまた誰かに
伝えねばならない。20数年を生きた、広島を離れてから数年経って
考えるようになった。これは広島で生まれ育ったものの義務である、と。