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泣けるBLOG

泣ける話を集めました。

小学生の時の話。
うちは共働きでよく俺はおじいちゃんに預けられていた。
そんな時、たまにおじいちゃんは俺をゲーセンに連れていってくれたのさ。

コインゲームで11クレ100円の時代。
おじいちゃんは俺に100円玉をくれるんだけど、ガキだから下手ですぐ終わっちゃう。
もう100円、もう100円という内に、いつもおじいちゃんの小さな財布を空にしてしまった。

そんなに無駄遣いしたって事がばれたとき、いつもおじいちゃんは俺の親父に凄く怒られた。
大柄な親父とやせたおじいちゃん。
おじいちゃんはずっとへこへこ謝っていた。
それでもおじいちゃんは俺をゲーセンに連れて行ってくれた。
そしてまた怒られる、その繰り返し。

何故こんな事を今日まで忘れていたんだろう。
ごめんねおじいちゃん。
おじいちゃんが死んだ時、何もしてあげられなかった。
そばで手を握っていることもできなかった。
俺は。感謝の言葉たった一つさえ、最期に伝えられなかった。
ごめんね。本当に大好きだよ。心からそう思う。







彼との結婚を私(25歳)の父と母は猛反対していました。
彼は昔両親を亡くして、祖父母に育てられていました。
そして4年前祖父が亡くなり、彼は32歳になる今まで84歳の祖母と二人暮しでした。
それが反対の理由でした。

「何も結婚してすぐに介護が目の前にあるような結婚をする事はない」と。
結婚を申し込みにきた彼と彼の祖母ににもそう言い放ったんです。その2日後でした。
彼の祖母が置手紙を残していなくなりました。
仕事から帰った彼からの電話で、私達は必死で探しました。

探して探して探して
空が明るくなりかけた頃、彼の祖父の眠るお墓の前に座りこんでいる祖母を見つけました。
歳も歳だったので衰弱し、そのまま即入院になりました。

その事がきっかけで、私の両親も私達の結婚を許してくれ結婚式はせず、すぐに籍だけをいれました。
もう10年近く前の話です。祖母は入院後1ヶ月ほどで亡くなりました。
その時の手紙です。

●●へ(彼の名前)
ばあちゃんは本当に貴方がかわいかった。
貴方のお父さんとお母さんが死んだ時私のこの先の人生は貴方の為に使っていこうと心に誓いました。
ばあちゃんは年であるしお金もない。
何も何も持ってはおりません。
貴方への愛情だけです。
そして貴方はばあちゃんの事をとてもとても大切にしてくれた。
とてもとても良い子に育ってくれました。
そして人生の伴侶となるべき相手を見付けました。
でもばあちゃんがそれをじゃましているんだね。
幸せになってください。
ばあちゃんは貴方を育てる事が出来た事がとてもうれしいです。
とてもとても幸せでした。
妙子ちゃん(私)と、どうかどうか幸せになってください。





小学生の時、両親が共働きで所謂「鍵っ子」だった俺。
風呂を洗っておいたり、玄関の掃除をしなくてはいけなかったので友人達とは中々遊べなかった。
ある日親父が仕事から帰ってきた時にFC本体と「ドラクエ3」を買ってきてくれた。
仕事から帰ってきた両親と夕飯を食った後3人でそれをやるのが俺の最大の楽しみだった。

中学生に上がって反抗期を迎えた俺は毎日両親とケンカばかりしていた。
ある日いつもの様に両親とケンカになり消防の時買ってもらったFCと唯一のカセット「ドラクエ3」を投げつけた。その時はなんとも思わなかった・・・・。

中学卒業後、俺は高校にいかずペンキ屋に就職する事になった。
両親は中学卒業前に既に離婚していた。
俺はどちらにもついて行かず父方の祖母の家に祖母と二人で住む事になった。

現在、祖母の家に住み始めて7年目。
先日祖母に頼まれて物置を整理していた。
奥の方にボロボロになったダンボールを見つけたので中を開けてみた。
そこにあった物は粉々になったFC本体とカセットの中身が剥き出しの「ドラクエ3」。
不器用に接着剤で修理しようとした痕がみられるが修復出来なかったらしい・・・
俺達家族の絆と一緒だ。おいおい、プレステがある時代に「ドラクエ3」かよ、と思った。

だが心とは裏腹に「ドラクエ3」がやりたくなりニューFCを買ってきてTVと繋げ電源を入れてみた。
懐かしい。勇者の名は俺の名前、戦士に親父、僧侶にはお袋の名前。
3人パーティでプレーしてたのだ。

忘れ様としていたあの頃の思い出が頭を駆け巡り涙が止まらなくなった。
3人パーティはイシスの町で止まっていた。クリアは当時の俺には難しくて出来なかったのだ。
父母とはあれから会っていない。今どこで何をしているのかも知らない。

そして俺は今ドラクエ3をやっている。なんとしてもクリアしたくなったのだ。
もちろん4人目は入れない。3人パーティでだ。





もう、すごく昔の話。
小学2年のとき父が交通事故で逝ってしまったので、弁当がそれからしばらく白飯に梅干とか漬物とかそんなんばっかりだったときがあった。
でも子供ながら事情はなんとなくわかっていたので、別に気にしていなかった。

運動会の時、ウチの母は仕事で来れなかったんだけど、
「遅くなるけど迎えにいくからね」と運動会の後の片付けが終わった夕方頃、迎えに来たんだけど、そのとき、クラスのコがそのコのママに「私も○○ちゃんみたいなご飯のお弁当がいい」って言ったのを聞いて母は真っ赤になっていた。

そのコには悪気はなかったんだけど、母は恥ずかしかったんだと思う。
何日かたってから、大根煮たのとかサトイモとか質素だけどおかずが入るようになった。

でもね、近所の農家で深々と頭を下げてお礼を言っている母を見つけたときは、つい隠れてしまった。
それから帰って母に「お漬物のお弁当がいい」って言ったのを覚えてます。母は泣いてしまいました。

そんな母を3年前くらいですが、銀座の道場六三郎さんのお店に連れて行ってあげました。
「美味しい、美味しい」って言いながら食べてました。
私はそんな母を涙を浮かべながら心の中で「ありがとう、ありがとう」といいながら見つめてました。





母にお弁当を作ってもらったのは高校3年間だった。
友人には、学食でお昼を食べる子も多くてうらやましいと思っていた。
「お弁当いらないからお金ちょうだい 学食で食べるから」
っていう日もあった。

ある日、仕事に行く前の母のお弁当を見た。
おかずが卵焼きであとは白ごはんだけだった。
「おかずはこれだけ?」と聞くと
「あんた達(姉妹3人)のは色々入れるけどお母さん自分のお弁当はどうでもいいもん」と答えた。
何だかとてもせつなくなってしまった。私たちのために作ってくれてるんだなと感じた。

卒業して1人暮らしを始めて、自分でお弁当を作るようになった。
めんどくさい・・・と感じることがよくある。

たまに帰省したときも母は仕事に行く事が多い。
私たちのお弁当を作らなくなった母のお弁当は相変わらずおかず一品だ。

今度は私が母にお弁当を作ってあげる番だと思った。
お母さん、喜んでくれるかな・・・