今だったら本当、捕まってるぐらいの暴 力親父。
テレビの世界にだってこんなヤツいないよってぐらいにうっとうしい親父だった。
母は耐え切れずに俺と兄貴を置いていったらしく、物心ついたときにはいなかった。
くる日もくる日も殴るける。灰皿を投げつけられて病院行った事もあった。
中学何年生かは忘れたけど、大喧嘩して家を出てったの。
女つれこんでるのは知ってた事だったから親父は俺を探そうとしないだろうから嬉しいのか悲しいのか複雑な思いでふらついてて結局友達の家に一日だけ泊まって帰るという約束で入れてもらったんよ。
でも、その夜、親父が俺の友達の家にとびこんできて何もいわずに俺を引っ張ってつれて帰ったの。
そのときはやっぱ「またブン殴 られるのかな」「また病院逝きかな」「今日で俺死ぬのかな」とか思ってた。
ところが家に帰っても何も言わずにずっと黙ったままで。
んで気まずくて息もできないくらいで早く時間過ぎろって思ってて。
そしたらいきなり「俺が死んだら泣いてくれるか」なんて言ってて「はぁ?」って風にしどろもどろしてたの。
んで淡々と今までの事とか親父の子供のころとか
喋って、最後に「今までごめんよ」って言って。その間俺身動き一つできなかった。
何をいきなりこんな事言ってるんだって。
親父が憎いとかそんなこと思う余裕なくて考えてたの。
もちろん兄貴も話を聞いてたらしくて後から話し合ったけど、結局わからなくて。
その三日後に親父が死んじゃったの。ほんとにコロっと。
病院の先生からよれよれの手紙を手渡されてね。
兄貴と二人でよんだ。ひたすらに謝ってる手紙。
アルコー ル中毒で手も思うように動かせない汚い字で。
その手紙の最後に
「玄関の梁の下に酒がある。あと十年後、おまえ達が大人になったら俺の仏壇の前で飲んでくれ。」
って書いてあった。
その時なぜか涙が出て、恨みこそすれあんなに殺 したがっていた親父が死んじまったって。
明日、ちょうど約束の十年目。兄貴は俺が十八のときに肺炎で死んだ。
一人身の俺は明日、三人で酒を酌み交わす。
私も弟も所帯を持って家を出て、田舎に両親を二人きりにしてしまっていた。
小さな会社を経営していた親父は何よりも仕事優先で遊びも仕事関係の仲間とばっかりだった。
そんな親父が二人きりになってからは母とあちこち出かけていたらしい。
でも1年前、親父が心臓発作であっけなく逝ってしまってから母は大きな家にずっとひとりだった。
おそらく母の60数年の人生で初めてのひとり暮らしだろう。
今年の節分の翌日、用があって実家を訪ねたとき窓の外に節分の豆が落ちていた。
母が夜、たったひとりで豆まきをしていたんだと思った途端突然涙が出てしまった。
数粒の豆を見下ろしながら、涙が止まらずなかなか家に入れなくて困った。
小さな会社を経営していた親父は何よりも仕事優先で遊びも仕事関係の仲間とばっかりだった。
そんな親父が二人きりになってからは母とあちこち出かけていたらしい。
でも1年前、親父が心臓発作であっけなく逝ってしまってから母は大きな家にずっとひとりだった。
おそらく母の60数年の人生で初めてのひとり暮らしだろう。
今年の節分の翌日、用があって実家を訪ねたとき窓の外に節分の豆が落ちていた。
母が夜、たったひとりで豆まきをしていたんだと思った途端突然涙が出てしまった。
数粒の豆を見下ろしながら、涙が止まらずなかなか家に入れなくて困った。
二十歳になった時、母と買い物の帰り、駅裏の寂れた焼き鳥屋に入りました。
「二人でこうして飲むなんて初めてね~」
母はほぼ下戸なので、レモンサワー。私はビール。
大学進学の為東京で暮らしていた私にはそのショボイ焼き鳥屋は小汚く、貧乏臭い店に見えました。
何を話したかはあまり覚えていません。
東京の話や、大学の話なんかつれづれに語って、私は杯を煽り、母はただニコニコしていました。
後日家族団欒の折、何かの拍子で
「私達もいい店見つけたよねー。また行こうね」と母がはしゃいで私に言いました。
私はあんな小汚い店、と内心思いましたが、笑って同意しました。
その半年後に母が骨癌で倒れました。
ずっと前から知らされていたのですが、それまでの母があまりに元気だったので、
「このままずっと母はいる」と無条件に信じていたんでしょうね。衝撃でした。
私は単位的にも卒業は危ぶまれていたので、そのまま休学届を出して、(妹と交代で)24時間体勢で病院に泊まり込み、母を看病しました。
モルヒネで意識がすっかり飛んでしまった母は、天井に向かって「田中さん、どこ行くの?」といった幻影を見るようになりました。
そのうち、そばについている私のことがわからずに、「うちの娘ね、いい娘なのよ」と私の自慢をはじめました。涙が出ました。
父には愛人がおり、妹はプチ家出の繰り返し。
食道楽の父のおかげで、外食というと高級とされている店にしか行かなかった母が、あんな小汚くてマズイ焼き鳥屋に「また行こうね」と言った意味。
お母さん、今になって思うよ。もう一度行きたいよ、あの焼き鳥屋。
来年母の7回忌です。
「二人でこうして飲むなんて初めてね~」
母はほぼ下戸なので、レモンサワー。私はビール。
大学進学の為東京で暮らしていた私にはそのショボイ焼き鳥屋は小汚く、貧乏臭い店に見えました。
何を話したかはあまり覚えていません。
東京の話や、大学の話なんかつれづれに語って、私は杯を煽り、母はただニコニコしていました。
後日家族団欒の折、何かの拍子で
「私達もいい店見つけたよねー。また行こうね」と母がはしゃいで私に言いました。
私はあんな小汚い店、と内心思いましたが、笑って同意しました。
その半年後に母が骨癌で倒れました。
ずっと前から知らされていたのですが、それまでの母があまりに元気だったので、
「このままずっと母はいる」と無条件に信じていたんでしょうね。衝撃でした。
私は単位的にも卒業は危ぶまれていたので、そのまま休学届を出して、(妹と交代で)24時間体勢で病院に泊まり込み、母を看病しました。
モルヒネで意識がすっかり飛んでしまった母は、天井に向かって「田中さん、どこ行くの?」といった幻影を見るようになりました。
そのうち、そばについている私のことがわからずに、「うちの娘ね、いい娘なのよ」と私の自慢をはじめました。涙が出ました。
父には愛人がおり、妹はプチ家出の繰り返し。
食道楽の父のおかげで、外食というと高級とされている店にしか行かなかった母が、あんな小汚くてマズイ焼き鳥屋に「また行こうね」と言った意味。
お母さん、今になって思うよ。もう一度行きたいよ、あの焼き鳥屋。
来年母の7回忌です。
うちの父は田舎の人で亭主関白で、私たち子供が朝にトーストを食べていても、必ず朝はご飯と味噌汁がないと文句を言う人だった。
誕生日に花を買うくらい母とは仲がよかったけれど、一度だけ母が朝寝坊したのを「朝ごはん作ってくれなかった」とよく冗談めかして言っていた。
そんな父だけど料理はよく作ってくれた。
笹切りにしたジャガイモを炒めて塩コショウで味付けしたのとか、とり肉を同じように調理したのとか。単純だけど、おいしかった。
それから、夜飲んでいる父のつまみは毎晩毎晩決まって湯豆腐。
豆腐とキノコとちくわとねぎが具で、刻んだねぎやミョウガを薬味にしょうゆをつけて食べていた。
一年中、毎晩毎晩。
私もたまに付き合って食べたけれど、正直、よく飽きないものだと思っていた。
また、父は昔魚屋にいたとかで、魚をさばくのはいつも父の役目だった。
去年の年末、母に「多分家族そろうのは今回が最後だから」と言われ、父のリクエスト通り、築地で刺身と(名前は忘れたけれど)2㎏くらいの魚を買って、実家へ帰郷した。
父は嬉しそうに魚をさばき、
「命がなくっちゃ、こんなおいしいものは食べられないよな」
と夕飯の席で何度も言っていた。
年末か正月かにやっていた、癌で死んだ有名人の特集を自分で選んで観ながら、「これは俺と同じ治療法だ」とか「この薬は……」なんて私たちに自慢めいて話していたのもこの時だった。
最後に記憶に残っている父の食事風景は病院のベッド。
ナースステーションの前の個室で、母も私も弟も床に布団をひいて泊まりこんでいた。
食欲もなくなって二日ほど点滴だけで過ごしていた時、突然、「かりんとうが食べたい」と言った。すぐに売店で買って食べさせると「おいしい」と子供のように笑ってくり返した。
バナナも食べたいと言ってニコニコしながら食べた。
そしてまた容態が悪くなって、しばらく点滴だけになって、今度は「アイスが食べたい」と言い出した。
前の年に祖母が死んだ時も直前に「アイスが食べたい」と言っていたので、私は多分もうダメなんだとこの時に思った。
父の最期の食事は「たまごかけごはん」
白いご飯に生卵をかけて、しょうゆをたらしただけのもの。
私が作って食べさせると「味が薄い」と文句を言った。
「お父さんはしょっぱいのが好きだから」
と母がしょうゆをたっぷりにして食べさせると「おいしい。おいしい」といって平らげた。
母の言った通り、今年の正月に父はいない。
けれど私の父は世界で一番素晴らしい人だった。
病気のことも全て知っていて、治療法も自分で決めた。
最期には自分や母の兄弟に後を頼むと挨拶をして。
主治医にも看護婦さんにもお世話になったと手を合わせた。
私と弟にはお母さんと頼むと言った。
財産はなかった代わり、遺言に「家族仲良く」と何度もくり返した。
父は53才でなくなったけれど、どうしていい人ほど、要領の悪い人ほど早く亡くなるのかと思う。
今でも、そんな不条理が悔しい。
趣旨がズレて、父の作ったもの食べ物の話とは違ってしまってごめんなさい。
それと最後に。両親が健在の人は、今のうちに親孝行してあげて下さいね。
誕生日に花を買うくらい母とは仲がよかったけれど、一度だけ母が朝寝坊したのを「朝ごはん作ってくれなかった」とよく冗談めかして言っていた。
そんな父だけど料理はよく作ってくれた。
笹切りにしたジャガイモを炒めて塩コショウで味付けしたのとか、とり肉を同じように調理したのとか。単純だけど、おいしかった。
それから、夜飲んでいる父のつまみは毎晩毎晩決まって湯豆腐。
豆腐とキノコとちくわとねぎが具で、刻んだねぎやミョウガを薬味にしょうゆをつけて食べていた。
一年中、毎晩毎晩。
私もたまに付き合って食べたけれど、正直、よく飽きないものだと思っていた。
また、父は昔魚屋にいたとかで、魚をさばくのはいつも父の役目だった。
去年の年末、母に「多分家族そろうのは今回が最後だから」と言われ、父のリクエスト通り、築地で刺身と(名前は忘れたけれど)2㎏くらいの魚を買って、実家へ帰郷した。
父は嬉しそうに魚をさばき、
「命がなくっちゃ、こんなおいしいものは食べられないよな」
と夕飯の席で何度も言っていた。
年末か正月かにやっていた、癌で死んだ有名人の特集を自分で選んで観ながら、「これは俺と同じ治療法だ」とか「この薬は……」なんて私たちに自慢めいて話していたのもこの時だった。
最後に記憶に残っている父の食事風景は病院のベッド。
ナースステーションの前の個室で、母も私も弟も床に布団をひいて泊まりこんでいた。
食欲もなくなって二日ほど点滴だけで過ごしていた時、突然、「かりんとうが食べたい」と言った。すぐに売店で買って食べさせると「おいしい」と子供のように笑ってくり返した。
バナナも食べたいと言ってニコニコしながら食べた。
そしてまた容態が悪くなって、しばらく点滴だけになって、今度は「アイスが食べたい」と言い出した。
前の年に祖母が死んだ時も直前に「アイスが食べたい」と言っていたので、私は多分もうダメなんだとこの時に思った。
父の最期の食事は「たまごかけごはん」
白いご飯に生卵をかけて、しょうゆをたらしただけのもの。
私が作って食べさせると「味が薄い」と文句を言った。
「お父さんはしょっぱいのが好きだから」
と母がしょうゆをたっぷりにして食べさせると「おいしい。おいしい」といって平らげた。
母の言った通り、今年の正月に父はいない。
けれど私の父は世界で一番素晴らしい人だった。
病気のことも全て知っていて、治療法も自分で決めた。
最期には自分や母の兄弟に後を頼むと挨拶をして。
主治医にも看護婦さんにもお世話になったと手を合わせた。
私と弟にはお母さんと頼むと言った。
財産はなかった代わり、遺言に「家族仲良く」と何度もくり返した。
父は53才でなくなったけれど、どうしていい人ほど、要領の悪い人ほど早く亡くなるのかと思う。
今でも、そんな不条理が悔しい。
趣旨がズレて、父の作ったもの食べ物の話とは違ってしまってごめんなさい。
それと最後に。両親が健在の人は、今のうちに親孝行してあげて下さいね。
プチタンファンの「読んでくれてありがとう」という本より。
長いので適当に中略して書きます。
4歳、2歳、生後三ヶ月の3人の子供の母です。(中略)
私は自宅で添削の仕事をしており、いつもいつも時間に追いまくられストレスは溜まる一方でした。
主人には「早く帰ってきてよ!」と文句をいい、子供にも当たってしまったりしました。
でも、休みになれば主人も子供の相手をしてくれ家族で出かけることも多く、平凡ですが小さな幸せは続いていたのです。
けれど、その平凡な日々が幸せだったと気付いた今、それは刻々と終りに近づいているのです。
私はストレスからくる体調不良が一年前から続いていました。
多忙なため、病院に行くのを延ばしているうち、3人目の妊娠がわかり、産後一ヶ月健診のついでに消化器科を訪れたのが最初の受診でした。
病院中あちこち検査にまわされ、案の定、即入院・手術と言う事になりました。(中略)
そして手術。恐くはありませんでした。だってつらいお産を3回も経験してきたんですから。(中略)
手術は胃の摘出で4時間ほどの予定でした。
ところが実際には2時間ほどで終わってしまったのです。 何故か。
それは切除不可能だったからです。
開腹してみるとすでに手の施しようが無いほどガンが進行していたのです。
手術前主人は「後数ヶ月の命だろう」と宣告されていたそうですが
手術後には「もう時間が無い」そうキッパリと言われたというのです。
手術後、病名の告知を希望していた私に真実が告げられました。
「スキルス胃癌」あの逸見政孝さんと同じ病気だったのです。
2ヶ月前は同じ病院の産科病棟で幸せに浸っていたのに突然絶望の底に突き落とされたのです。
今、私は入院しています。
手術から2週間経ち、心の整理は出来ています。
何故か死ぬ事は恐くありません。
ただ、幼い子ども達を残していく事だけがつらいのです。(中略)
子供達のかたわらにはいつも私と主人がいたのです。
なのに、突然私だけがいなくなってしまったら・・。
母親のいない子供、といわれるのは不憫です。子供達は幼すぎて私の死を理解できないでしょう。
でも保育園で、母の日にお母さんの絵を描く時、遠足にお弁当を持っていくとき・・・。
これから先、母親を恋しいと思う瞬間が必ずくると思うのです。
泣いても、叫んでも、もう自分の側に母親が戻ってくる事はないのだ、と子ども達が気づく時、その幼い心はどんなに痛むでしょう。(中略)
なくしかけて分かったのです。育児は戦争です。
イライラして子供に当たる事があっても、それは仕方のない事。
完璧な母親を目指す必要はないのです。
子供にとって一番うれしいのは母親がいつも元気で、必要な時にはいつもそばにいてくれることです。
いいえ、極端に言えば生きていてくれさえすれば、十分なのではないでしょうか。(中略)
皆さん、怒ったり、泣いたり、笑ったり、子供達と一緒に命いっぱい生きてください。
そして誰よりも自分の健康には気をつけて。(後略)
子ども達に心を残して
33歳と2ヶ月の短い生涯を閉じた彼女に合掌。
長いので適当に中略して書きます。
4歳、2歳、生後三ヶ月の3人の子供の母です。(中略)
私は自宅で添削の仕事をしており、いつもいつも時間に追いまくられストレスは溜まる一方でした。
主人には「早く帰ってきてよ!」と文句をいい、子供にも当たってしまったりしました。
でも、休みになれば主人も子供の相手をしてくれ家族で出かけることも多く、平凡ですが小さな幸せは続いていたのです。
けれど、その平凡な日々が幸せだったと気付いた今、それは刻々と終りに近づいているのです。
私はストレスからくる体調不良が一年前から続いていました。
多忙なため、病院に行くのを延ばしているうち、3人目の妊娠がわかり、産後一ヶ月健診のついでに消化器科を訪れたのが最初の受診でした。
病院中あちこち検査にまわされ、案の定、即入院・手術と言う事になりました。(中略)
そして手術。恐くはありませんでした。だってつらいお産を3回も経験してきたんですから。(中略)
手術は胃の摘出で4時間ほどの予定でした。
ところが実際には2時間ほどで終わってしまったのです。 何故か。
それは切除不可能だったからです。
開腹してみるとすでに手の施しようが無いほどガンが進行していたのです。
手術前主人は「後数ヶ月の命だろう」と宣告されていたそうですが
手術後には「もう時間が無い」そうキッパリと言われたというのです。
手術後、病名の告知を希望していた私に真実が告げられました。
「スキルス胃癌」あの逸見政孝さんと同じ病気だったのです。
2ヶ月前は同じ病院の産科病棟で幸せに浸っていたのに突然絶望の底に突き落とされたのです。
今、私は入院しています。
手術から2週間経ち、心の整理は出来ています。
何故か死ぬ事は恐くありません。
ただ、幼い子ども達を残していく事だけがつらいのです。(中略)
子供達のかたわらにはいつも私と主人がいたのです。
なのに、突然私だけがいなくなってしまったら・・。
母親のいない子供、といわれるのは不憫です。子供達は幼すぎて私の死を理解できないでしょう。
でも保育園で、母の日にお母さんの絵を描く時、遠足にお弁当を持っていくとき・・・。
これから先、母親を恋しいと思う瞬間が必ずくると思うのです。
泣いても、叫んでも、もう自分の側に母親が戻ってくる事はないのだ、と子ども達が気づく時、その幼い心はどんなに痛むでしょう。(中略)
なくしかけて分かったのです。育児は戦争です。
イライラして子供に当たる事があっても、それは仕方のない事。
完璧な母親を目指す必要はないのです。
子供にとって一番うれしいのは母親がいつも元気で、必要な時にはいつもそばにいてくれることです。
いいえ、極端に言えば生きていてくれさえすれば、十分なのではないでしょうか。(中略)
皆さん、怒ったり、泣いたり、笑ったり、子供達と一緒に命いっぱい生きてください。
そして誰よりも自分の健康には気をつけて。(後略)
子ども達に心を残して
33歳と2ヶ月の短い生涯を閉じた彼女に合掌。