あなたの知らない沖繩と琉球舞踊 -3ページ目

あなたの知らない沖繩と琉球舞踊

観光や日常生活では気づかない知っているようで知らない沖繩や琉球の歴史や文化、華やかな琉球舞踊の事を徒然と書いていきます。

 

『もっと確実で身近なパワースポットに気付くべきです。自分自身の微笑みが、それです。』  美輪明宏

 


少し前までは「パワースポット」と言っても何の意味か分からずにキョトンとした表情をされる事が多かったですが今は旅行でも欠かせないジャンルになりましたね。

 

 

元来、日本人は八百万神(やおろずのかみ)と言っていろんな物や場所に神が宿ると考えていました。ですからパワースポットという単語は知らなくてもそのような場所に流れる雰囲気を感じたりして畏怖の念を自然に持っていました。

 

 

●パワースポットの定義

 

パワースポットという言葉は、実は和製英語です。この言葉を初めて使ったのは、スプーン曲げ少年として有名になった、日本を代表する超能力者の清田益章氏でした。彼が1990年代に著者のなかで「大地のエネルギーを取り入れる場所」としてパワースポットを紹介しています。また、地理風水では、パワースポットとは「大地のエネルギーが溢れているところ」としています。

 


かつて、江戸時代ではパワースポットは、弥盛成地(いやしろち)と呼ばれ、神聖な場所・清浄な場所・神や仏がやどる所・草木が育つ元気の出る場所とされていました。尚、反意語は気枯地(けがれち)と呼ばれ、植物が育たない土地・元気を吸い取られる薄気味悪い所・汚れ地のことを指します。

 


私は、自分が学んだことや経験したことに基づいて言うなら

「パワースポット」=「気が高い、気が強い、元気になる、気持ちが良い、癒される、願いが叶うなどの特徴が顕著に感じられる場・空間」であると考えています。

 

つまり、「その土地や建物の気(エネルギー)」と密接な繋がりがあると捉えています。

 


八百万神(やおろずのかみ)の考えがあった事も影響していると思いますが日本人は「場の空気感の違い」に敏感です。ですからパワースポットのような場所と普通の場所の違いも敏感に感じる事が出来るのだと思います。

 


今回、この記事を書くにあたってパワースポットの科学的な分析をしたデータを探しましたがほとんどありませんでした。ただ、目に見えないからと言って否定するともしかしたら大事な事を見落とす事もあると思います。

パワースポットが結果として人々を気持ち良くさせたり、癒やしたり、元気になるならそれだけで十分だと思います。

語るよりも感じろ!という訳でこれからは独断で選びました世界のパワースポットを見て行きましょう!
 

 

 

●世界のパワースポット


・ギリシャのデルフィ

ギリシャのパルナッソス連山のふもとにある「デルフィ」は、古代ギリシャにおいて「世界の中心」とも言われ、ギリシャ中の信仰を集めていたそうです。

山の斜面に築かれた神々しい古代遺跡の周りには、各国から奉納された宝の数々が納められた宝庫が並んでいます。大地の女神ガイアの神域の上部に建てられたアポロン神殿の中には、当時巨大なアポロン像があったそうです。

そして、地下にある神聖な石「オンファロス」の上で、アポロンの信託が行われました。その歴史だけでもパワースポットですよね。

 

・ルルドの泉



ここはご存知の方も多いと思います。
スペインの国境に近い、南フランスにルルドの泉はあります。

 


聖母マリアの言葉通り、小さな泥水の湧いていた場所から滾々と清流が湧き出し、心身を浄め病気を治してくれる泉となった、という歴史が残されています。

 

 


その後、この地には聖母マリアが何回か現れたようで聖母マリアが現われたという場所にはマリア像が設置され、多くの人々の巡礼の地とされています。<
実際、この泉の水を飲めば難しい病気も奇跡的に治癒するといった、カトリック教会も認めた数多くの逸話が残されているのです。宗教を超えたパワースポットですね!

 

 


・ストーンヘンジ


イギリスにある有名なパワースポットです。

巨大な遺跡でつくられたこのストーンサークルは、紀元前2500~2000年頃に作られたと言われています。小さい物でも4トンもある岩を、どうやって400kmも離れた丘から運んできたのかは謎に包まれたままです。

 


ストーンヘンジは人間のエネルギーを上げると考えられ古代より癒やし効果があると考えられていたそうです。



ここからは勝手な推測ですが、これらのパワースポットでは「岩」や「石」が重要な役割を果たしているように感じます。あなたはどう感じますか?現代でもパワーストーンが珍重されたり、そもそも宝石は石ですよね?石は不思議なパワーがあるのかもしれないですね。


さていよいよ沖縄のパワースポットを見ていきます。

 

 

 


●沖縄のパワースポット
 

 

 

今回も独断でセレクトさせて頂きます。でも間違えなくどこもパワースポットなのでオススメです!



・久高島

説明は要らないですよね?(笑)文字通りの「神の島」なのが久高島です。なぜ「神の島」なのか?というと沖縄では古来から死んた後の世界をニライカナイと考えていました。その途中にあるのが久高島と位置づけていたのです。島全体が神聖な土地とされており、コンビニや娯楽施設もこの島にはありません。石ひとつ持ち帰ってはいけないという徹底ぶりです。

 


近年では後継者不足でずっと中止されているイザイホーは、沖縄県南城市にある久高島で12年に一度行われる、久高島で生まれ育った三十歳以上の既婚女性が神女(神職者)となるための就任儀礼です。基本的にその要件を満たす全ての女性がこの儀礼を通過します。現在進行系の神の島なのです。







・斎場御嶽

御嶽とは、南西諸島に広く分布している「聖地」の総称で斎場御嶽は琉球開びゃく伝説にもあらわれる、琉球王国最高の聖地です。

 

 

御嶽の中には、六つのイビ(神域)がありますが、中でも大庫理・寄満・三庫理は、いずれも首里城内にある建物や部屋と同じ名前をもっています。当時の首里城と斎場御嶽との深い関わりを示すものでしょう。
はるかなる琉球王国時代、国家的な祭事には聖なる白砂を「神の島」といわれる久高島からわざわざ運び入れ、それを御嶽全体に敷きつめました。その中でも、最も大きな行事が、聞得大君の就任式である「お新下り」でした。斎場御嶽は、琉球国王や聞得大君の聖地巡拝の行事を今に伝える「東御廻り」(アガリウマーイ)の参拝地として、現在も多くの人々から崇拝されています。
(南城市HPより引用)

 


斎場御嶽は周辺整備されてからかなり行きやすくなりました。世界遺産にしてされた事もあり観光客も増加しています。そのために斎場御嶽の休息日がもうけられています。その日は入れないのでもし行かれる時は注意が必要です。

 


足を踏み入れた時から特別な雰囲気を感じる人もいる事でしょう。では動画をぜひご覧下さい。

 





・聖地・安須杜(アシムイ)

大石林山がある安須杜には40を超える御願所(拝所)があります。断崖絶壁や立穴の洞窟など非常に危険な場所にもつくられています。その信仰の深さがうかがえます。

 


17世紀に編集された琉球最初の歴史書『中山世鑑』(ちゅうざんせいかん)では、祖神アマミキヨによって一番に安須杜が創られたと琉球開びゃく神話を伝えています。 また、12〜17世紀に琉球王府がまとめた沖縄最古の歌謡集『おもろさうし』には、国王の命で安須杜の湧水が王家の長寿を祈る若水として用いられたと詠われています。(大石林山公式HPより引用)

 





・普天間宮洞窟

宜野湾市にある普天間宮内にある洞窟です。洞穴は、全長280m、洞口が2カ所、大きな広場が三カ所あり、過去の水流の痕跡を示す洞穴ノッチも見られます。

 


洞穴の形成規模等からして地域の地形地史を知るうえでも貴重なものです。洞窟内及び東洞口付近は遺跡となっており、沖縄貝塚時代前期後半以後(約3000年前)の遺物が多数発掘されています。

 


また、約2万年前の琉球鹿、琉球昔キョン、イノシシなどの化石も発見され「普天満宮洞穴」は平成3年8月1日付で、宜野湾市文化財「名勝」に指定されました。(普天間宮HPより引用)

 





・ワカリジー(為朝岩)

浦添城跡の裏側にあるワカリジー。映画「ハクソー・リッジ」で有名になった前田高地にある大岩です。この岩は不思議な岩で近くまで行った経験のある方は分かると思いますがそれほど大きく感じないです。

 


しかし遠くから見ると目立つし、存在感があるのでとても大きく見えます。普通は逆ですよね?離れれば小さく見える。個人的にはものすごくパワーを感じる場所になっています。

 


沖縄戦時には「ニードルロック」と米軍から呼ばれて攻撃目標にされたそうですが、今でも堂々とした威厳を保っているのはやはりパワースポット!

 


 

 


●琉球舞踊はパワースポット

 

 

琉球舞踊は元来、冊封使という中国からの遣いを歓待するためのものでした。琉球という小国にとっては国家の存亡にかかる一大事業に関係していた訳です。

琉球舞踊を一度でも観た経験のある人は分かると思いますが琉球舞踊はゆったりと流れるような動きをします。それは大地とエネルギーを交換しているようにも見えます。

本土の空手の師範が琉球舞踊を体験するという興味深い動画があります。これを観ると琉球舞踊と空手が同じ土地で生まれた事を痛感します。

「沖縄はどこもパワースポット」とも言われます。武器を持たずに諸外国と貿易をしてきた琉球で必然的に生まれたのが空手と琉球舞踊です。違う見方をすれば空手と琉球舞踊があったから琉球王国は生き永らえてきたと言えるのではないでしょうか?

では動画をじっくりとご覧下さい。




パワースポットとは場所を指す事が多いです。
でも一番のパワースポットは人であり、あなたです。あなたが常に良い気持ちで、笑顔を絶やさずにいてくれれば周りも幸せになります。そんな人が一人、二人と増えていく事で社会が明るくなります。人が人を照らし明るくなる。それが昔から変わらないパワースポットとしての「人」ではないでしょうか?

 

 

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偉大な思想は胃袋から生れる。
ヴォーヴナルグ 「省察と格言」

 

 

写真引用元:©OCVB


「食」は文化に影響すると思います。
食べる事は生活に密接していますし生活は文化につながります。文化は歴史になります。

 


沖縄の歴史は「食」にも色濃く反映しています。
かつて沖縄は琉球という約450年続く独立国家でした。王国だったので宮廷料理もありました。

 


ですから沖縄の食は「宮廷料理」と「庶民の料理」に大別できるのかもしれません。
まずは沖縄の料理の全般を見ていきたいと思います。
 

 

●沖縄の料理のオーバービュー


沖縄県は亜熱帯の気候なので本土と較べて気温が高いです。そのために暑いか寒いしかない曖昧な季節です。ですから四季折々のある本土とは食材も異なり、食にも影響を与えていると思います。

 

写真引用元:©OCVB

 


特徴的だと思うのは一般的に他国では亜熱帯の気候だと香辛料を多様した料理が多くなるのですが沖縄では香辛料はあまり使用しないです。基本的な味付けは塩、味噌、鰹節、昆布を多用します。ですからカテゴリーとしては日本料理になると思います。

 


特徴的なのは豚を料理でよく使う事です。肉を食べる事もそうですが料理の出汁としてもをよく利用します。反面、島国の割には手が込んだ魚の料理が意外に少ない事も特徴的だと思います。

 


日本本土では律令時代から江戸時代に至るまで米に基く租を安定的に確保する関係上、獣肉食を禁止・制限する命令が何度も出されたことにより、米が貨幣にもなる神聖な作物として位置付けられていました。

 


本土では肉食が稲作農耕に害をもたらす穢れとされ、長らく禁忌とされてきた歴史があります。しかし、沖縄は米を税の中心として位置付ける日本本土の政権の統治下になく、肉食が穢れと見なされなかったためにブタ、ヤギなどの家畜を肥育して食用とすることに抵抗のない食文化になったようです。

 


そして沖縄の食に影響を与えたのは第二次大戦です。この戦争で敗れた日本から、沖縄は切り離されアメリカの領土になりました。食もアメリカの影響を強く受ける事になります。
 


● 琉球の宮廷料理

 

 

琉球の宮廷料理は、大交易時代に中国からの冊封使や薩摩の役人をもてなすために発展したものです。ですから中国的な特徴と日本的な特徴をバランスよく兼ね備えています。

 


琉球料理は現在も脈々と受け継がれています。幸いな事はあなたもそれを食する事が出来るのです。

主な琉球の宮廷料理を挙げてみます。

 


1,らふてぃー(豚の角煮)
2,みぬだる(らふてぃーの上に胡麻)
3,とうふよう(泡盛にに漬けた豆腐)
4,みみがー (豚の耳の和え物)
5,てびち (豚の足)
6,中身汁 (豚の内臓の汁)
7,じーまみどうふ (ピーナッツからできた豆腐)
8,はないか (開いたイカ)
9,しらあえ (ヨモギをきざんだサラダ)

 


いかがですか?あなたも一度や二度は口にした事があると思います。

琉球料理の特徴は例えば外国ならフォアグラやトリュフなどの高級食材を使うのではなく語弊を恐れずに言うなら庶民でも手に入る食材を丹念に調理するのが特徴です。

 


個人的に面白いなと思うのは中継貿易で栄えた琉球ですがそれらの交易で得たであろう外国の食材を使っていないところです。どこでも手に入る食材を究極の味に仕立て上げるところが和食とも通じるものだと思います。

 



 

 


●琉球料理と琉球舞踊


琉球の宮廷料理は、大交易時代に中国からの冊封使や薩摩の役人をもてなすために発展したものです。
特に冊封使は琉球にとって大切な行事でした。

 

 

冊封使とは,一大大国である中国皇帝に各国はその存在を認定してもらう制度です。琉球においては国王が変わり即位式をとりおこなう際に中国皇帝の命をうけた冊封使が派遣されました。認証と同時に中国との関係性を世界に示す事が出来たのです。今で言えば安保条約や通商条約みたいな感じなんでしょうね。

 


また冊封使一行は多数の中国商品を持参してきたようです。琉球王府はそれらを入手することで、東アジアにおける中継貿易国としての仕組みを確立しました。冊封使の制度はお互いに利益のあるものだったのです。

 


すごいのはその規模です。冊封使の一行は総勢400人にもおよび、琉球に約半年間滞在したそうです。その雰囲気を現代に再現したものが首里城祭の「琉球王朝絵巻行列」です。

 

 

そしてその、おもてなしの場所で料理と共に絶対に欠かせないものが琉球舞踊です。踊奉行というおもてなしをするための役職があった琉球ですので琉球料理と琉球舞踊がコラボして贅沢なおもてなしの空間を創っていったのでしょう。

 

 

 

 

●沖縄の庶民料理について


現在、沖縄の一般家庭で食べる日常食も特徴があります。いくつか見ていきましょう。

 

 

1)鰹節の消費量が日本一
沖縄県民の鰹節好きはずば抜けています。その消費量は全国1位でそれも全国平均の約4倍とずば抜けています。
※総務省統計局家計調査平成24年度より

 

 

沖縄のスーパーに行くと大容量パックに入った花かつおに、血合い入り、血合いぬき、ざっくり削った厚削りなど、種類も数もとにかく豊富です。一説によると沖縄の鰹節は一般的なものに比べて、相当に香りが強い物が納品されているようです。

 


2)加工食品を使う
今では本土でもすっかり認知されたポーク(豚肉)の缶詰やツナ缶を料理でよく使います。しかしこれらの食材は美味しいのですがカロリーや栄養が偏る可能性もあるので今後、見直しが必要になるかもしれません

 


3)あじくーたーが好まれる
沖縄は高温多湿なので食材がすぐに痛みます。ですから揚げ物や炒めものなど熱を通す料理が多いです。一般的に油っぽく味の濃ゆい食べ物を「あじくーたー」と沖縄の人は呼びます。本土の人からすると味覚の好みの別れるところだと思います。

 


4)豆腐をよく食べる
チャンプルーなどに始まり、沖縄の人は豆腐をよく食べると言われています。豆腐も島豆腐とよばれる固い豆腐から、ゆし豆腐と呼ばれる柔らかい豆腐まで色々とあり製造所も県内で多くあります。14世紀頃、中国から豆腐の製法が伝わり、貴重なたんぱく源として豆腐は沖縄の食文化には欠かせないものになったのです。

 

写真引用元:©OCVB 

 

 

5)本土でみかけない調味料など
ホリデーマーガリン、エゴーサラダドレッシング、A1ステーキソース、ピーナツバターなど独特なものが今でも普通に使われています。またあまり知られていない事ですが沖縄の塩は以前から天然塩です。本土では専売公社が販売する「食塩」しかありませんでした。実はその「食塩」は「イオン交換膜法」という生成法で作られた化学物質とも言えるものだった事が今では知られていますが沖縄では家庭用・業務用の区別なくほぼ全てが県内で加工された自然塩が使われてきました。本土復帰後も県民の強い要望によって塩専売法の対象外とされたという経緯があります。

 


●私の好きな沖縄の家庭料理

 

 


・チムシンジ
これはレバーのお味噌汁です。栄養のバランスが良いので体調を崩したり、病み上がりなどによく食します。
 

 

 


・アシティビチ
これは豚足の煮込みです。食わず嫌いするなかれ!とっても美味なのです。

動画4



私の祖母はお料理を作るのがとても上手かったです。そして料理も含めて何かを教えてくれる時はいつも沖縄の諺や名言などをよく話してくれました。

 

「ティーベーサ、ヂュラサ」
*意味:手早く綺麗に!

 

 

ゆっくり丁寧に仕上げるのは誰でもできる、常に手早くきれいにを心がけなさいと言われてました。今でも心に残っています!

写真引用元:©OCVB 

 

 

こんな小さな島国なのに沖縄の食は意外にバリエーションがあります。それは歩んできた歴史は大きく影響しています。

 

 

 


現在、「長寿社会」だった沖縄はもう存在しません。私の祖母の頃のような糖質の少ない食事をしていれば健康長寿になるのでしょうが飽食の時代なのでなかなか昔のように戻る事は難しいでしょう。

 

写真引用元:©OCVB 

 


でも少しづつ今の流れを変えていかないと子どもたちの世代に大変な事になると感じています。沖縄の食がこれからどうなるのか?これからの私達の選択肢には責任がありますね。

 

 

写真引用元:©OCVB

 


写真引用元:©OCVB

 

 

 

 

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「人生は祭りだ。一緒に楽しもう」
フェデリコ・フェリーニ (映画監督)

 

写真引用元:©OCVB

 


●そもそも祭りって?

 

「祭り」という言葉は世代で捉え方がずいぶん変わります。

若い人に聞けば
・出店
・デート
・花火

中年に聞けば
・おみこし
・山車
・盆踊り

シニアに聞けば
・町おこし
・出会いの場

 


民俗学を生んだ柳田國男は、祭りを「ハレ(非日常)とケ(日常)」のハレと言記しています。世代の違いに関わらず昔から祭りという非日常の時間は特別なものだったのでしょう。

 


現代では「祭り」はイベントと同義になっている事も多いですが本来は本来は神を「祀る」ことつまり「祀る」→「祭り」から来ていると言われています。

 


他にも「祭り」は「奉り」は、奉る(たてまつる)から派生している意味もあるという説もあります。神や上の位に者に献上や召し上げる事を指す事もあるようです。

いづれにしても(特に昔は)一般人にとってはハレ(非日常)の日であった事は間違いなさそうです。

 


●全国の祭り


2015年に発表された日本建築学会技術報告書によれば全国の祭り・イベントに対するアンケート調査をWeb上で実施したところ全国の「知っている祭り」のランキングは以下のとおりです。


引用:日本建築学会技術報告書

 

 

 


青森のねぶた祭りがダントツの認知度1位の祭りですね~。

 


ちなみに青森のねぶた祭りの由来は七夕祭りの灯籠流しの変形であろうといわれていますが、その起源は定かではありません。
奈良時代(710年~794年)に中国から渡来した「七夕祭」と、古来から津軽にあった習俗と精霊送り、人形、虫送り等の行事が一体化して、紙と竹、ローソクが普及されると灯籠となり、それが変化して人形、扇ねぶたになったと考えられています。

 


最初の頃のねぶたは京都の祇園祭の山車に似ていたとも言われています。いづれにしても大きな変化を経て現代に続いているのです。

 

このアンケートで沖縄県の祭りでランクインしているのが「那覇ハーリー」と「全島エイサー祭り」です。

 

 

●沖縄の祭り


エイサーについてはこのブログでも『エイサー「変わる事」と「変わらない事』で採り上げていますので今回はハーリーについて少し見ていきたいと思います。

 

写真引用元:©OCVB

 


ハーリーとは「爬竜」と書きます。毎年旧暦の5月4日に沖縄県各地の漁港で行われる爬竜船(はりゅうせん)競漕とその祭りです。爬竜船(はりゅうせん)を漕ぎ競い合うことで航海の安全や豊漁を祈願するものです。「ハーレー」「ハーリー」と地域によって呼び名が違います。

 

 


基本的には「航海の安全」や「豊漁」を祈願する御願(ウガン)を主旨とした海の神事であるため、伝統に則り旧暦の5月4日に行いますが、近年ではハーリーシーズンの日曜日や祝祭日・ゴールデンウィークなどにずらして催し、観光化する地域もあります。(wikipediaより引用)

 

 


ちなみに「那覇ハーリー」は観光客にも見てもらいたいという意図もあり、ゴールデンウィークと重なる新暦の5月3日~5月5日の間に行われています。

 


初日は那覇市内の中学生による学校対抗戦と一部の職域対抗戦がおこなわれ、中日には「ハーリー一般体験乗船」が、そして最終日には職域対抗戦のほか御願バーリーと本バーリーがおこなわれます。

 


ハーリー競漕のほかにも、お笑いステージやライブ・相撲大会・打ち上げ花火など、さまざまなイベントを催しています。青森のねぶた祭りと同様に観光イベントとして近年は発展しているようです。ちなみに2018年の那覇ハーリーの人出は16万人だったそうです。沖縄県最大級の祭りですね。

 

 


●祀りとしての祭り

 

那覇ハーリーや青森のねぶた祭りは観光イベント化してしまい、少し残念な事に「祀り」としての性格は薄れてきています。しかしながら沖縄には「祀りとしての祭り」がまだ数多く残されています。

 


・小浜島結願祭(こはまじまきつがんさい)
毎年旧暦8月の己亥(つちのとゐ)の日から3日間(新暦9月~11月頃)、八重山諸島の小浜島内の神聖な御嶽で行われる伝統行事です。豊年祭と並ぶ島の大きなお祭りでその年の豊作への感謝と翌年の五穀豊穣を願って行われます。国の重要無形文化財に指定されており、島では伝統行事の伝承に積極的に取り組んでいます。

 

写真引用:竹富町HP

 

 

小浜島の年中行事の中で豊年祭と並ぶ大きな祭りで、人々は祭りに参加することで、心をひとつにしています。今年一年の豊作と健康、祈願成就に感謝し、一年の願解きと、来年の五穀豊穣と無病息災を祈願する祭事です。結願祭のメインは2日目のショウニツ(正日)。嘉保根御嶽(カフニワン)のザー(神庭)において、20数演目のさまざまな芸能が奉納されます。芸能を奉納するというのが素晴らしい伝統です!

 


そして小浜島の結願祭は、地謡(じかた)の演者もいっさいマイクや音響を使わないそうです。全員がすべて地声でやるのだとか。イベントしてではなく「祀りとしての祭り」を感じられます。相手は観客ではなく神様。何百年も前から続いているこの「あたりまえの風景」に伝統を守り続けている人々の想いを感じます。


プリミティブで、おごそかな、このお祭りを貴重な映像でご覧下さい。

 

 

 


さて、もうひとつ沖縄の「祀りとしての祭り」を見てみたいと思います。

 


・宮古島のパーントゥ

宮古島のパーントゥは平成5年(1993年)に重要無形民俗文化財に指定されました。島内の2ヶ所で行われている奇祭だが、それぞれ形式は異なっています。

 

写真引用元:©OCVB


島尻地区では旧暦9月上旬、仮面をつけて全身に泥を塗り、シイノキカズラの蔓草を巻きつけた3体の仮装神が出現します。パーントゥは厄払いの神として、泥をぬりつけることで、新築の家のお祓いや子供の無病息災を祈願します。ンマリガー(産まれ井戸)と呼ばれる井戸の底の泥を身に付けて奇声を発しながら各家を回ります。誰かれかまわず泥をなすりつける姿に、子供たちや観光客は悲鳴と笑い声を上げながら逃げ回ります。一般に有名なのはこちらのパーントゥです。

 


一方、上野野原(うえののばる)地区では旧暦12月最後の丑の日に行われます。男子小学生1人が仮面をつけ、その後ろに太鼓を叩く人、ほら貝を吹く人、クロツグとセンニンソウを頭や腰に巻き両手にヤブニッケイの小枝を持った女性たちが続き、鳴り物入りで陽気に集落を回り厄払いをします。

 


宮古島のパーントゥには神に対する尊敬の念と畏怖の念が現れていると感じます。特に泥を塗られた子どもたちはそのリアルな感触が一生忘れないものになるはずですし、それを自分が大人になり子どもが生まれたら、自然に同じ体験をさせる・・・これが途切れる事なく続いてきたのでしょう。

 


動画でぜひご覧下さい。

 

 


もうひとつ沖縄の祭りを見ていきましょう。

 


・多良間島の八月踊り

宮古島と石垣島の中間に浮かぶ人口1100人余りの多良間島。その多良間村は、日本で最も美しい村といわれています。この島で毎年、旧暦の8月8日~10日にこの島の豊年祭で演じられる「八月踊り」は、国の重要無形民俗文化財に指定されており、この時期には多くの観光客や研究者が島を訪れます。

 

写真引用:youtube

 


1600年代、首里王府が宮古・八重山に課した人頭税、その重税に苦しめられた島民が、税金完納のお礼と次年の豊作祈願のために行った八月御願(バチュガツウガン)での奉納踊りが八月踊りの起源とされています。元々は、祝い酒に浮かれての踊りだったものが、島で創作された民俗踊りへと変化し、さらに明治時代になって本島から古典踊りや組踊が伝わり、現在の形となりました。

 


多良間島の八月踊りは、当時その八月御願が行われていた仲筋地区の土原御願と塩川地区のピトゥマタ御願で開催されます。仲筋地区では「忠臣仲宗根豊見親組」と「忠孝婦人村原組」が、塩川地区では「忠臣公之組」と「多田名組」が演じられます。本島に伝わる古典の組踊と比べ、八月踊りで演じられる組踊は、野趣で優美さに欠けるとの意見もありますが、これはプロと半ば素人の演者の技量の差や、多良間土着の民俗芸能の影響でもあります。中央とは異なる伝統と捉え、素直に楽しみましょう。また、組踊以外の演目である「狂言座」という民俗踊りは、多良間の人々の喜怒哀楽をコミカルに演じ、多良間方言がわからない人でも楽しむことができます。

 


その様子をぜひ動画でお楽しみ下さい。

 

 



多良間島の八月踊りは島の苦難の歴史や綿々と続く伝統の中で育まれたその地域ならではの素晴らしい祭りだと感じます。ぜひ、一度生で見てみたいですね。

 

 


●衰退する祭り

 

沖縄の祭りに限らない事ですが、祭りは王や貴族から出たものと庶民から出てきたものがあります。しかし、祖先崇拝や神への尊敬と畏怖という事は変わらないと思います。

 


イベントとしての祭りは盛隆ですが、本来の「祀りとしての祭り」はだんだんと衰退しているように感じます。

 


崇高過ぎて「祭り」と読んでいいのか?迷いますが久高島のイザイホーはまさしくその現実が突きつけられています。

 


イザイホーとは
沖縄県南城市,久高島で 12年に一度,午年の旧暦 11月15~18日の 4日間行なわれる大祭です。

 

島で生まれ育った女性は,30歳を過ぎると 70歳になるまで,島の神々の祭祀に携わる神女として生きます。

 

イザイホーは,前回の祭り以降に 30歳以上になった女性を新たに神女とする祭りで,先輩の神女に導かれつつ森に入るなどして神女としての資格を得ます。

 

初日の夕刻,ナンチュと呼ばれる新入りの神女が,唱え詞(となえことば)をしながら祭場の拝殿を 7度回り,「七つ橋」と呼ばれる仮設の橋を渡って森に入る儀式がありますが,この際に橋から落ちる者は日頃の素行が悪く,神女の資格がないとされます。

 

最終日には,神女全員が男性と綱引きをして東方の海上にあるとされる異郷,ニライカナイの神を迎えてまつり,最終的に神女としての資格を得られます。

 

だが,1990年以降,新たに神女となる若い女性がいなくなったことから,行なわれていないのです。   


イザイホーの貴重な様子をご覧下さい。



 

もしかしたらイザイホーはこれから先も復活する事はないかもしれません。

 

しかし、本来「祭り」が「祀り」であったとしたら残念ですがその現実を静かに受け入れる事が自然なのかもしれません。

 

 

 

●琉球舞踊と祭り

芸能が奉納される祭りをさきほど紹介しました。奉納とは、神仏や精霊などに対して供物を捧げる宗教的な行為です。神に喜んでもらい、その代わりに人々の繁栄や安全、豊作をお願いするものです。

 


神に喜んでもらうには最上級の物が必要です。それが踊りなどの芸能という事はとても素晴らしい事だと思います。

 


動画を観てもらえば分かりますが踊っている人々の表情は誇らしげです。神様も喜んでいると思います。

 


祭りではありませんが2017年に沖縄全戦没者追悼式前夜祭が沖縄県糸満市摩文仁の沖縄平和祈念堂で開かれました。

 


高さ12メートルの沖縄平和祈念像の前で歌三線や琉球舞踊を奉納し、恒久平和を誓い、み霊を慰めました。その光景はまさしく「奉納」でした。見ていて涙が溢れました。

 


琉球舞踊は、ルーツをたどれば沖縄各地に古くから伝承されている祭祀舞踊が母体です。それが、やがて琉球王国の儀式として王や中国からの使者の前で披露されることにより、より洗練された舞台芸能として進化してきました。

 


祭祀舞踊という事は古来から神に奉納されていたのでしょう。その価値や意味合いが少しも変わる事なく今も日常生活や祭りに息づいている事は奇跡に近い事だと思います。



祭りは歴史そのものです。だからこそ祭りは「今を」楽しむ、かけがえのないものなのです。
 

 

 

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用と美が結ばれるものが工芸である
柳宗悦

 

 

写真引用:喜如嘉の芭蕉布

 

 

●駆逐される文化

 

沖縄に限らず、古来から鉄は古今東西問わず貴重品でした。

農業から戦争まで鉄無しでは成り立たないほど鉄は重要な物です。

 


鉄をどれだけ持っているか?が国力を示した時代もありました。

近代的な溶鉱炉が出来るまで、鉄は貴重で価値のあるものだったのです。

 


それは沖縄でも例外ではありませんでした。島国の沖縄では鉄は貴重なものでした。

沖縄では「食」に絶対に必要な包丁の種類が少なかったようです。

 


本土では、その用途に応じて様々な形状の包丁が製作されたようですが、沖縄ではそれほど多くの種類は無かったようです。

 


おそらく、鉄は貴重品であった事と沖縄独自の文化が関係しているのでは?と思います。

 


沖縄県宜野座村で刃物づくりをしているカニマン鍛冶工房さんというお店があります。

 

 

ただの鍛冶屋ではなく、自動車のスプリング等の剛材から刃物製作をしています。実は自動車のスプリングは良質な鋼材で作られており刃物の素材に向いているそうです。

 


そのカニマン鍛冶工房さんが、昔の沖縄の伝統的なカツオさばき用のウミボゥチャー(海包丁)を再現しているのをブログで拝見しました。

 

昔のウミボゥチャー

写真引用:カニマン鍛冶工房さんブログ

 

 

カニマン鍛冶工房さんの創ったウミボゥチャー

写真引用:カニマン鍛冶工房さんブログ

 

 

それは、道具として凛としており気品すら感じられるものでした。

 


話変わって・・・

民藝運動を起こした思想家の柳宗悦さんは沖縄は離島で経済的に貧しい地域なのに素朴で明るい沖縄の人々や工芸品に魅了され多数の著書でその事を採り上げています。

 

 


民芸運動(民藝運動、みんげいうんどう)とは、1926年(大正15年)、「日本民藝美術館設立趣意書」の発刊により開始されました。日常的な暮らしの中で使われてきた手仕事の日用品の中に「用の美」を見出し、活用する日本独自の運動です。21世紀の現在でも活動が続けられています。wikipediaより引用)


先程のウミボゥチャーはそんな日常の暮らしの中で育まれた「美」だと思います。しかしながら例えば先程の包丁などは海外で安価に作られる製品との闘いや、その価値を人々が認知していないため希少な存在になり歴史の1ページになりかけています。

 


大量生産、大量消費という資本主義経済の考え方は文化を駆逐し続けているのではないでしょうか?

 



●生き残る文化


第二次世界大戦の講和条約で、1951年に署名されたサンフランシスコ講和条約で沖縄は、アメリカ合衆国の施政権下に置かれるものとされました。それから20年後の、1972年に5月15日に、沖縄の施政権がアメリカ合衆国から日本国に返還されました。

 

*730前の沖縄。右側通行で現在の逆。

 


日本→アメリカ→日本という激動を経験した沖縄は「日本化」という新しい波と闘う事になります。沖縄の伝統文化は低く評価され代わりに日本本土の文化を沖縄に定着させるような流れが加速しました。

 

 


方言は野蛮なもの、沖縄の伝統芸能は価値が低いものという、誤った歴史の見方を沖縄の人は刷り込まれてしまいました。

 

 

ウルトラマンシリーズの企画立案、脚本家だった金城哲夫氏はその作品の中で沖縄への差別の葛藤などをモチーフに描いた話があるのは有名な話です。

 


しかし、元々、芸能の島である沖縄の文化を消す事は出来ませんでした。
沖縄弁はもはや、恥ずかしものではなく、沖縄の芸能も誇るべき宝と認識が変化してきました。三線が、歌が、踊りが日常にある昔からの風景を沖縄から消し去る事は出来なかったのです。
 

 


●日常なのか?日常でないのか?


沖縄では今でもお祝いの席では「かぎやで風」が踊られ、旧盆にはエイサーが地域を周り、ラジオをつければミーウタ(新唄)と呼ばれる沖縄民謡の新曲が生まれ続けています。子ども達は琉舞道場に通い。大人は琉舞の新人賞を目指します。日常の中に伝統が息づきそれが世代を超えて受け継がれています。

 

 

 


しかし、そんな継承が危ぶまれているものもあります。それは織物です

 

 

日本人の生活様式が欧米化し洋服を着るのが普通になった社会情勢やバブル崩壊以後の長引く景気の低迷、海外からの安価な生活品の輸入の増加、生産従事者の高齢化の進展と後継者の確保難、原材料価格の高騰や良質な原材料の入手難などの要因から沖縄の織物にとどまらず全国的に厳しい状況が続いていると言われています。

 

ここからはさらに時代の波にもまれながらも現在も生き続けている沖縄の織物を詳しく見ていきましょう。

 

 

 

●大宜味村喜如嘉の芭蕉布

写真引用:伝統工芸青山スクエア

 

 


■大宜味村喜如嘉の芭蕉布■

 

バショウ科の糸芭蕉(いとばしょう)という多年草から繊維を取り出し、それを糸にして織られる織物です。
芭蕉布は、軽くてさらりとした肌触りの良さが人気となっています。風通しが良いので夏の衣服として沖縄全域で着られてきました。

 

芭蕉布は、多くの織物がある沖縄でも最古の織物とされ、13世紀頃には織られ始めていました。第二次世界大戦の際には壊滅的な被害を受け、存続の危機を迎えますが、現在人間国宝に指定されている平良敏子さんを筆頭とする職人たちの尽力により、現在まで伝統が繋げられています。

 

現在、喜如嘉の芭蕉布は重要無形文化財(1974年~)、経済産業省指定伝統的工芸品(1988年~)に指定されています。    資料引用:四季の美

 

 

 

●宮古の宮古上布

写真引用:伝統工芸青山スクエア

 

■宮古の宮古上布■

 

沖縄県の宮古島で主に生産されている宮古上布は細い糸で精緻なかすり模様を織り出す麻織物で、まるでロウを引いたかのようになめらかです。

一反が250グラム程の軽さで生地も薄い為に夏の高級着物として人気が高く、「東の越後、西の宮古」とも言われる程で、上布の中でも最高級品とされています。また、その精緻なかすり模様と光沢感のある生地も特徴です。

宮古上布は、14世紀頃から宮古島に自生する苧麻を用いて織られ始め、16世紀頃に宮古上布として完成したと言われています。

 

現在、宮古上布は重要無形文化財(1978年~)、経済産業省指定伝統的工芸品(1975年~)に指定されています。  資料引用:四季の美 

 

 

 

●八重山の八重山上布

写真引用:伝統工芸青山スクエア

 

■八重山の八重山上布■
沖縄県の石垣市、八重山郡竹富町で主に生産される八重山上布。
白地に赤茶色の染料で絣模様を捺染したもので、色上布などでも知られる麻織物です。

南国らしい模様を、手括りによる絣糸で手織りしていきます。
その肌触りの良い着心地で、夏の織物としても人気となっています。
歴史と成り立ち

八重山上布の詳しい起源は不明とされていますが、17世紀には琉球王府に納められていたことが記録に残っています。
その後、明治時代に組合が結成されると産業が盛んになりました。

現在、八重山上布は経済産業省指定伝統的工芸品(1989年~)に指定されています。

資料引用:四季の美 

 



他にも久米島紬、読谷山花織、読谷山ミンサー、琉球絣、首里織、与那国織、八重山ミンサー、琉球びんがた、知花花織、南風原花織など美しく気品のある織物が沖縄にはたくさん現代に残っています。でもこんな小さい島にこれだけ多くの織物があるって驚きですね?何と、伝産法で指定された染織物が平成26年現在で12品目あります。その品目数は、日本一です。

 


なぜ、こんな狭い島国にこれだけの織物があったのか?については諸説あるようです。琉球王国の時代に文化の守護者たる琉球王家がいて、文化的に周辺地域を従属させていたからこそ、他の文化圏に対する「部品」の供給基地にならず、多様な染織技法が併存して残ったのではと言われています。

 

 

 

●想像を超える手間のかかる製作

 


今回は芭蕉布を採り上げてみたいと思います。制作過程は文字や写真よりも動画が分かりやすいので伝統工芸青山スクエアさんがyoutubeで公開している「喜如嘉の芭蕉布」の作製過程の動画を見て下さい。

 

 


ご覧になると分かるように芭蕉布は素材や染料などもすべて自然の素材を使用しています。100年以上の歴史をもち、国の重要無形文化財にも指定されています。

 


戦前に大宜味村の喜如嘉以外でも芭蕉布は多く作られていましたが沖縄戦の影響やその後の生活様式の欧米化、技術を継承出来る人の減少などによりかつてのような生産数ではなくなってしまいました。

 


しかし、奇跡的にも大宜味村喜如嘉は戦争の難を逃れました。そしてこれも奇跡的なのですが1939年、当時の平良真次区長が東京三越で開かれた特産品即売会に芭蕉布を出品し、一躍脚光を浴びたのでした。

沖縄戦での大きな被害を免れた喜如嘉では、1945年7月末に芭蕉布の生産を再開。芭蕉布のさらばる復興に大きな仕事をしたのが先の平良真次区長の娘の敏子さんでした。

 


彼女の作品は高く評価され「喜如嘉の芭蕉布」というブランドを築き上げたといっても過言ではないでしょう。また喜如嘉の女性の織り手達をまとめあげてしっかりと生活できる仕事として基盤と作っていったのも喜如嘉の芭蕉布が今日まで生き延びたポイントかもしれません。

 



●琉球舞踊の中の芭蕉布

 


琉球舞踊でも芭蕉布を着て踊る演目があります!「谷茶前」や「むんじゅるー」という演目です。

 


その中でも「むんじゅるー」は私のは好きな踊りの一つです。芭蕉布の着物を右片袖を抜き短く着て、素足で軽やかに17、8歳の若き乙女の踊りです。芭蕉布の清涼感と素足の躍動感が素朴さの中にさわやかな色香を感じます。芭蕉布の軽やかさが生きる演目だと思います。

 

ただ、少し残念なのは実際の芭蕉布を舞台で着て踊っている事は大変少ないです。

 

 

舞台用の芭蕉布風の衣装で踊っているのが大半です。客席からだと本物の芭蕉布なのか、芭蕉布風の衣装なのか?見分けはつかないと思います。

 

 

しかしながら

「用と美が結ばれるものが工芸である」という柳宗悦先生の言葉にもあるように本物の工芸品である芭蕉布を本物の琉球舞踊で用いる事は見栄などではなく必然だと感じます。

 

 

琉球舞踊は幾多の苦難を乗り越え、現代も生き延びています。芭蕉布も、元々はアジア各国にありましたが、もはや世界中で沖縄の喜如嘉にしか残っていません。

 

 

そして、両者は演目によってはお互いが必要不可欠な存在です。

いつくしみながら「琉球舞踊」と「芭蕉布」ひいては沖縄のの織物を『日常的』にする事が後世にこれらを残していく唯一の方法ではないかと思うのです。

 

 

 

 

 

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「自覚しない存在は悲惨である」  伊波普猷

 

 

沖繩には宝物がたくさんあります。それに気づけないのはもったいないと思います。

今回はエイサーから紐解いていきたいと思います。

 

 

 

 

モノは変わる

 

 

「昔の電話はかけたい相手に直接電話をかけられなかったんですよ」
という話をすると若い人はキョトンとした表情になります。中には「それじゃぁ、どうやってかけるんですか??」と納得のいかない人もいます。

 


その昔の電話は受話器をとると「電話交換室」というところにかかり、そこで相手の電話番号を告げるとつないでくれるという仕組みです。

 


現在、電話は個人個人で所有するものになっていますが昔は会社か大金持ちの家にあるくらいのものでした。

 


形も木で出来た箱に小さな拡声器みたいな器具が取り付けてあるものでした。現在はスマホに代表されるように薄い四角い箱が電話です。形も大きさも性能もその意味合いすら変化してしまいました。

 

 


時の流れで変化したものと言えば・・・

 

 

もしもタイムマシーンがあったなら古(いにしえ)の人が現代のエイサーを観たらどんな感想を持つでしょう?

 


今でこそ「エイサー」と言えば沖繩!というイメージがすっかり定着しました。

 

写真引用:世界の民謡・童謡

 


30年位前だと「沖繩にはエイサーという旧暦のお盆の最終日に太鼓を叩きながら踊り集落を練り歩く風習があるんです」という説明をいちいち挟まなくてはいけませんでした。

 


そうしないと“何それ?”という質問攻めに遭う事も少なくなかったものです。

 


まず、エイサーという呼び名はいつ頃から使われるようになったのでしょうか?調べてみると諸説あり地域によってはヤイサー、エンサー、七月舞(しちぐゎちもーい)、念仏廻り(にんぶちまーい)とも呼ばれます。


その中でも有力だと思われる説は、浄土宗系念仏歌に挟まれる囃子の一つ「エイサー、エイサー、ヒヤルガエイサー」から来ているとされるという説です。たしかに無理がない説ですね~。

 

 

 


次にエイサーそのものの由来ですが、これもやはり諸説あります。その中でも有力な説は東北出身の袋中上人が1603年から3年間首里に滞在して浄土宗を布教したのを契機に、沖縄では王家や貴族の間を中心として念仏が広まったという説です。

 

 


18世紀中頃には、托鉢や芸事を行なう「念仏にゃー」(念仏屋、にんぶちゃー)をお盆に招いて先祖の供養を行なう風習が、首里の屋敷町などで存在していたそうです。

 

 

 

 

オリジンに近いエイサーの姿は?

 


注目すべきは当時は現代のエイサーと形式が異なり、門付歌と念仏歌だけで踊っていたという事です。明治以降になると、念仏の詠唱を村の若人が代行する形で庶民の間にエイサーが普及していったと言われています。

 


それが沖縄本島中北部から県内全域へ拡がる中で、民謡などを取り込む例も増え現代の形に近づいたと考えられているそうです。

 


当時のエイサーの原型に近いものとされている、那覇市の国場の念仏保存会による念仏(にんぶち)です。



そしてこの国場の念仏保存会のごく最近の動画です。

 

現在のエイサーでも演奏されている「花ぐらん」という念仏歌です。現代のエイサーと似ていますが雰囲気が全く違いますよね。

 

 


エイサーのルーツを探して

 


もうひとつ、エイサーの源流に近いと言われているのがうるま市の平敷屋のエイサーです。

 


このエイサーの特徴は近年のエイサーの動きが大きく派手なのに対して淡々としたシンプルなものです。しかし燃えるような熱を感じる事が出来る素晴らしいものです。

 


うるま市の公式動画がありますのでご覧下さい。その違いが分かりますよ。

 

 

 

変わらないという事は「変えない」と選択する事
 

士族からの流れのエイサー

「嘉手納町千原エイサー保存会」という長い伝統のある会があります。

 

 

千原エイサーの「千原」は、西暦1800年頃、首里、那覇、久米村 等から移住してきた士族によって形成された 集落だったそうです。後に字千原 として独立しました。戦前は農業で発展していたそうです。

 

 

しかし戦後、集落は基地に接収されてしまい現在の嘉手納町を中心に 離れて住むことになりました。

しかし1960年に千原郷友会 を結成し先祖伝来の有形無形の伝統文化を承継し、現在まで伝統を受け継いでいます。

 

 

千原エイサーの特徴は、男性だけで踊るダイナミックな エイサーです。空手の型を取り入れた力強い豪快な踊りです。

 

 

千原エイサーをよく知る人は空手の型が入っているのはハッタリではなく昔は実際の他の部落とのケンカなどにも立ち向かえるようにマジで練習したそうです。腰を落とし、半身に構え、締太鼓を水平にしての踊りは実は実戦も意識してのものなのです。そう考えるとまた違って見えますね。



 

 


言葉が文化を引き留める

 


創作エイサーについては、色んな見方があるのですが私はエイサーの一部だと思います。

現在、伝統エイサーと呼ばれているものでも実は昔の人から見れば大きく変容しているものも多いです。そんな中で始めから創作としてスタートしているエイサーは今までとは違う価値を表現していると思います。

 


そして、私が思うに沖繩の方言が分からない世代や分からない地域の人が創作エイサーを好んでしていると感じています。(批判ではないですよ)

 


エイサーは踊り、音楽が一体になった芸能です。ですから音楽の中の歌詞が理解できないと魅力も半減してしまいます。逆に歌詞の意味が理解出来るとその魅力は倍増するはずです。

 


難解な昔の歌詞に行くより、すぐに自分も歌える現代の曲にエイサーをのせて踊るというのはむしろ自然の流れをいえるかもしれません。

 

 

 

琉球舞踊の歌詞が理解できると・・・

 


琉球舞踊でも沖繩の方言で歌詞が構成されています。もしもですがこの歌詞を日本語に替えて歌ったとしたら、多分味わい深さがなくなると思います。

 


琉球舞踊は衣装、音楽、踊りが揃って始めて成り立つ総合芸術です。でもそんな特性が敷居の高さになったり、とっつきにくさに繋がっているとしたら残念な事です。

 


私は好きな演目に「加那ヨー天川」という曲があります。男女で踊りますが、軽快なメロディーとリズム感があり特に後半の「天川」のアップテンポは心が弾みます。

 


もし、歌詞の内容がわからないと踊りの意味も全く分からないです。しかしこの動画を観て下さい。歌詞の字幕が出ているので方言ですが内容が少し理解できます。それだけで踊りが活き活きと伝わります。

「加那ヨー天川」~「島尻天川節」



やはり言葉は文化を繋ぐものだという事をエイサーと琉球舞踊を見ると痛感します。

 

 


花 ~すべての人の心に花を~



ここまで書いてきた事を覆すようですが(苦笑)言葉と伝統を超えるものもあります。

 


喜納昌吉さんの「花」という曲です。世界的に有名な曲なのであなたもご存知かと思います。

 

 

 


あの「花」という曲は方言ではありません。そして琉球音階を使っている訳でもありません。でもしっかり琉球の心が伝わります!

 


これはいつも不思議に感じている事なのですがなぜ琉球の心が伝わるのでしょうか?今日この記事を書きながら思ったのは踊りも、歌詞も実はただのツールにすぎないのでは?という事です。


こんな事を言うと関係者に怒られそうですが(苦笑)

 


琉球という国が争いを好まず色んな国と交易をしていた歴史が目には見えないけれど脈々と受け継がれているのでは?と思いました。

 


この普遍的な価値観を沖繩はこれからも伝えていく立場にあるのかもしれません。

そう考えると琉球舞踊は今後大きな役割があると思います。

『本当の世界平和のために』

 

 

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