100年以上続く沖縄の織物の秘密 | あなたの知らない沖繩と琉球舞踊

あなたの知らない沖繩と琉球舞踊

観光や日常生活では気づかない知っているようで知らない沖繩や琉球の歴史や文化、華やかな琉球舞踊の事を徒然と書いていきます。

 

用と美が結ばれるものが工芸である
柳宗悦

 

 

写真引用:喜如嘉の芭蕉布

 

 

●駆逐される文化

 

沖縄に限らず、古来から鉄は古今東西問わず貴重品でした。

農業から戦争まで鉄無しでは成り立たないほど鉄は重要な物です。

 


鉄をどれだけ持っているか?が国力を示した時代もありました。

近代的な溶鉱炉が出来るまで、鉄は貴重で価値のあるものだったのです。

 


それは沖縄でも例外ではありませんでした。島国の沖縄では鉄は貴重なものでした。

沖縄では「食」に絶対に必要な包丁の種類が少なかったようです。

 


本土では、その用途に応じて様々な形状の包丁が製作されたようですが、沖縄ではそれほど多くの種類は無かったようです。

 


おそらく、鉄は貴重品であった事と沖縄独自の文化が関係しているのでは?と思います。

 


沖縄県宜野座村で刃物づくりをしているカニマン鍛冶工房さんというお店があります。

 

 

ただの鍛冶屋ではなく、自動車のスプリング等の剛材から刃物製作をしています。実は自動車のスプリングは良質な鋼材で作られており刃物の素材に向いているそうです。

 


そのカニマン鍛冶工房さんが、昔の沖縄の伝統的なカツオさばき用のウミボゥチャー(海包丁)を再現しているのをブログで拝見しました。

 

昔のウミボゥチャー

写真引用:カニマン鍛冶工房さんブログ

 

 

カニマン鍛冶工房さんの創ったウミボゥチャー

写真引用:カニマン鍛冶工房さんブログ

 

 

それは、道具として凛としており気品すら感じられるものでした。

 


話変わって・・・

民藝運動を起こした思想家の柳宗悦さんは沖縄は離島で経済的に貧しい地域なのに素朴で明るい沖縄の人々や工芸品に魅了され多数の著書でその事を採り上げています。

 

 


民芸運動(民藝運動、みんげいうんどう)とは、1926年(大正15年)、「日本民藝美術館設立趣意書」の発刊により開始されました。日常的な暮らしの中で使われてきた手仕事の日用品の中に「用の美」を見出し、活用する日本独自の運動です。21世紀の現在でも活動が続けられています。wikipediaより引用)


先程のウミボゥチャーはそんな日常の暮らしの中で育まれた「美」だと思います。しかしながら例えば先程の包丁などは海外で安価に作られる製品との闘いや、その価値を人々が認知していないため希少な存在になり歴史の1ページになりかけています。

 


大量生産、大量消費という資本主義経済の考え方は文化を駆逐し続けているのではないでしょうか?

 



●生き残る文化


第二次世界大戦の講和条約で、1951年に署名されたサンフランシスコ講和条約で沖縄は、アメリカ合衆国の施政権下に置かれるものとされました。それから20年後の、1972年に5月15日に、沖縄の施政権がアメリカ合衆国から日本国に返還されました。

 

*730前の沖縄。右側通行で現在の逆。

 


日本→アメリカ→日本という激動を経験した沖縄は「日本化」という新しい波と闘う事になります。沖縄の伝統文化は低く評価され代わりに日本本土の文化を沖縄に定着させるような流れが加速しました。

 

 


方言は野蛮なもの、沖縄の伝統芸能は価値が低いものという、誤った歴史の見方を沖縄の人は刷り込まれてしまいました。

 

 

ウルトラマンシリーズの企画立案、脚本家だった金城哲夫氏はその作品の中で沖縄への差別の葛藤などをモチーフに描いた話があるのは有名な話です。

 


しかし、元々、芸能の島である沖縄の文化を消す事は出来ませんでした。
沖縄弁はもはや、恥ずかしものではなく、沖縄の芸能も誇るべき宝と認識が変化してきました。三線が、歌が、踊りが日常にある昔からの風景を沖縄から消し去る事は出来なかったのです。
 

 


●日常なのか?日常でないのか?


沖縄では今でもお祝いの席では「かぎやで風」が踊られ、旧盆にはエイサーが地域を周り、ラジオをつければミーウタ(新唄)と呼ばれる沖縄民謡の新曲が生まれ続けています。子ども達は琉舞道場に通い。大人は琉舞の新人賞を目指します。日常の中に伝統が息づきそれが世代を超えて受け継がれています。

 

 

 


しかし、そんな継承が危ぶまれているものもあります。それは織物です

 

 

日本人の生活様式が欧米化し洋服を着るのが普通になった社会情勢やバブル崩壊以後の長引く景気の低迷、海外からの安価な生活品の輸入の増加、生産従事者の高齢化の進展と後継者の確保難、原材料価格の高騰や良質な原材料の入手難などの要因から沖縄の織物にとどまらず全国的に厳しい状況が続いていると言われています。

 

ここからはさらに時代の波にもまれながらも現在も生き続けている沖縄の織物を詳しく見ていきましょう。

 

 

 

●大宜味村喜如嘉の芭蕉布

写真引用:伝統工芸青山スクエア

 

 


■大宜味村喜如嘉の芭蕉布■

 

バショウ科の糸芭蕉(いとばしょう)という多年草から繊維を取り出し、それを糸にして織られる織物です。
芭蕉布は、軽くてさらりとした肌触りの良さが人気となっています。風通しが良いので夏の衣服として沖縄全域で着られてきました。

 

芭蕉布は、多くの織物がある沖縄でも最古の織物とされ、13世紀頃には織られ始めていました。第二次世界大戦の際には壊滅的な被害を受け、存続の危機を迎えますが、現在人間国宝に指定されている平良敏子さんを筆頭とする職人たちの尽力により、現在まで伝統が繋げられています。

 

現在、喜如嘉の芭蕉布は重要無形文化財(1974年~)、経済産業省指定伝統的工芸品(1988年~)に指定されています。    資料引用:四季の美

 

 

 

●宮古の宮古上布

写真引用:伝統工芸青山スクエア

 

■宮古の宮古上布■

 

沖縄県の宮古島で主に生産されている宮古上布は細い糸で精緻なかすり模様を織り出す麻織物で、まるでロウを引いたかのようになめらかです。

一反が250グラム程の軽さで生地も薄い為に夏の高級着物として人気が高く、「東の越後、西の宮古」とも言われる程で、上布の中でも最高級品とされています。また、その精緻なかすり模様と光沢感のある生地も特徴です。

宮古上布は、14世紀頃から宮古島に自生する苧麻を用いて織られ始め、16世紀頃に宮古上布として完成したと言われています。

 

現在、宮古上布は重要無形文化財(1978年~)、経済産業省指定伝統的工芸品(1975年~)に指定されています。  資料引用:四季の美 

 

 

 

●八重山の八重山上布

写真引用:伝統工芸青山スクエア

 

■八重山の八重山上布■
沖縄県の石垣市、八重山郡竹富町で主に生産される八重山上布。
白地に赤茶色の染料で絣模様を捺染したもので、色上布などでも知られる麻織物です。

南国らしい模様を、手括りによる絣糸で手織りしていきます。
その肌触りの良い着心地で、夏の織物としても人気となっています。
歴史と成り立ち

八重山上布の詳しい起源は不明とされていますが、17世紀には琉球王府に納められていたことが記録に残っています。
その後、明治時代に組合が結成されると産業が盛んになりました。

現在、八重山上布は経済産業省指定伝統的工芸品(1989年~)に指定されています。

資料引用:四季の美 

 



他にも久米島紬、読谷山花織、読谷山ミンサー、琉球絣、首里織、与那国織、八重山ミンサー、琉球びんがた、知花花織、南風原花織など美しく気品のある織物が沖縄にはたくさん現代に残っています。でもこんな小さい島にこれだけ多くの織物があるって驚きですね?何と、伝産法で指定された染織物が平成26年現在で12品目あります。その品目数は、日本一です。

 


なぜ、こんな狭い島国にこれだけの織物があったのか?については諸説あるようです。琉球王国の時代に文化の守護者たる琉球王家がいて、文化的に周辺地域を従属させていたからこそ、他の文化圏に対する「部品」の供給基地にならず、多様な染織技法が併存して残ったのではと言われています。

 

 

 

●想像を超える手間のかかる製作

 


今回は芭蕉布を採り上げてみたいと思います。制作過程は文字や写真よりも動画が分かりやすいので伝統工芸青山スクエアさんがyoutubeで公開している「喜如嘉の芭蕉布」の作製過程の動画を見て下さい。

 

 


ご覧になると分かるように芭蕉布は素材や染料などもすべて自然の素材を使用しています。100年以上の歴史をもち、国の重要無形文化財にも指定されています。

 


戦前に大宜味村の喜如嘉以外でも芭蕉布は多く作られていましたが沖縄戦の影響やその後の生活様式の欧米化、技術を継承出来る人の減少などによりかつてのような生産数ではなくなってしまいました。

 


しかし、奇跡的にも大宜味村喜如嘉は戦争の難を逃れました。そしてこれも奇跡的なのですが1939年、当時の平良真次区長が東京三越で開かれた特産品即売会に芭蕉布を出品し、一躍脚光を浴びたのでした。

沖縄戦での大きな被害を免れた喜如嘉では、1945年7月末に芭蕉布の生産を再開。芭蕉布のさらばる復興に大きな仕事をしたのが先の平良真次区長の娘の敏子さんでした。

 


彼女の作品は高く評価され「喜如嘉の芭蕉布」というブランドを築き上げたといっても過言ではないでしょう。また喜如嘉の女性の織り手達をまとめあげてしっかりと生活できる仕事として基盤と作っていったのも喜如嘉の芭蕉布が今日まで生き延びたポイントかもしれません。

 



●琉球舞踊の中の芭蕉布

 


琉球舞踊でも芭蕉布を着て踊る演目があります!「谷茶前」や「むんじゅるー」という演目です。

 


その中でも「むんじゅるー」は私のは好きな踊りの一つです。芭蕉布の着物を右片袖を抜き短く着て、素足で軽やかに17、8歳の若き乙女の踊りです。芭蕉布の清涼感と素足の躍動感が素朴さの中にさわやかな色香を感じます。芭蕉布の軽やかさが生きる演目だと思います。

 

ただ、少し残念なのは実際の芭蕉布を舞台で着て踊っている事は大変少ないです。

 

 

舞台用の芭蕉布風の衣装で踊っているのが大半です。客席からだと本物の芭蕉布なのか、芭蕉布風の衣装なのか?見分けはつかないと思います。

 

 

しかしながら

「用と美が結ばれるものが工芸である」という柳宗悦先生の言葉にもあるように本物の工芸品である芭蕉布を本物の琉球舞踊で用いる事は見栄などではなく必然だと感じます。

 

 

琉球舞踊は幾多の苦難を乗り越え、現代も生き延びています。芭蕉布も、元々はアジア各国にありましたが、もはや世界中で沖縄の喜如嘉にしか残っていません。

 

 

そして、両者は演目によってはお互いが必要不可欠な存在です。

いつくしみながら「琉球舞踊」と「芭蕉布」ひいては沖縄のの織物を『日常的』にする事が後世にこれらを残していく唯一の方法ではないかと思うのです。

 

 

 

 

 

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