「自覚しない存在は悲惨である」 伊波普猷
沖繩には宝物がたくさんあります。それに気づけないのはもったいないと思います。
今回はエイサーから紐解いていきたいと思います。
モノは変わる
「昔の電話はかけたい相手に直接電話をかけられなかったんですよ」
という話をすると若い人はキョトンとした表情になります。中には「それじゃぁ、どうやってかけるんですか??」と納得のいかない人もいます。
その昔の電話は受話器をとると「電話交換室」というところにかかり、そこで相手の電話番号を告げるとつないでくれるという仕組みです。
現在、電話は個人個人で所有するものになっていますが昔は会社か大金持ちの家にあるくらいのものでした。
形も木で出来た箱に小さな拡声器みたいな器具が取り付けてあるものでした。現在はスマホに代表されるように薄い四角い箱が電話です。形も大きさも性能もその意味合いすら変化してしまいました。
時の流れで変化したものと言えば・・・
もしもタイムマシーンがあったなら古(いにしえ)の人が現代のエイサーを観たらどんな感想を持つでしょう?
今でこそ「エイサー」と言えば沖繩!というイメージがすっかり定着しました。
写真引用:世界の民謡・童謡
30年位前だと「沖繩にはエイサーという旧暦のお盆の最終日に太鼓を叩きながら踊り集落を練り歩く風習があるんです」という説明をいちいち挟まなくてはいけませんでした。
そうしないと“何それ?”という質問攻めに遭う事も少なくなかったものです。
まず、エイサーという呼び名はいつ頃から使われるようになったのでしょうか?調べてみると諸説あり地域によってはヤイサー、エンサー、七月舞(しちぐゎちもーい)、念仏廻り(にんぶちまーい)とも呼ばれます。
その中でも有力だと思われる説は、浄土宗系念仏歌に挟まれる囃子の一つ「エイサー、エイサー、ヒヤルガエイサー」から来ているとされるという説です。たしかに無理がない説ですね~。
次にエイサーそのものの由来ですが、これもやはり諸説あります。その中でも有力な説は東北出身の袋中上人が1603年から3年間首里に滞在して浄土宗を布教したのを契機に、沖縄では王家や貴族の間を中心として念仏が広まったという説です。
18世紀中頃には、托鉢や芸事を行なう「念仏にゃー」(念仏屋、にんぶちゃー)をお盆に招いて先祖の供養を行なう風習が、首里の屋敷町などで存在していたそうです。
オリジンに近いエイサーの姿は?
注目すべきは当時は現代のエイサーと形式が異なり、門付歌と念仏歌だけで踊っていたという事です。明治以降になると、念仏の詠唱を村の若人が代行する形で庶民の間にエイサーが普及していったと言われています。
それが沖縄本島中北部から県内全域へ拡がる中で、民謡などを取り込む例も増え現代の形に近づいたと考えられているそうです。
当時のエイサーの原型に近いものとされている、那覇市の国場の念仏保存会による念仏(にんぶち)です。
そしてこの国場の念仏保存会のごく最近の動画です。
現在のエイサーでも演奏されている「花ぐらん」という念仏歌です。現代のエイサーと似ていますが雰囲気が全く違いますよね。
エイサーのルーツを探して
もうひとつ、エイサーの源流に近いと言われているのがうるま市の平敷屋のエイサーです。
このエイサーの特徴は近年のエイサーの動きが大きく派手なのに対して淡々としたシンプルなものです。しかし燃えるような熱を感じる事が出来る素晴らしいものです。
うるま市の公式動画がありますのでご覧下さい。その違いが分かりますよ。
変わらないという事は「変えない」と選択する事
士族からの流れのエイサー
「嘉手納町千原エイサー保存会」という長い伝統のある会があります。
千原エイサーの「千原」は、西暦1800年頃、首里、那覇、久米村 等から移住してきた士族によって形成された 集落だったそうです。後に字千原 として独立しました。戦前は農業で発展していたそうです。
しかし戦後、集落は基地に接収されてしまい現在の嘉手納町を中心に 離れて住むことになりました。
しかし1960年に千原郷友会 を結成し先祖伝来の有形無形の伝統文化を承継し、現在まで伝統を受け継いでいます。
千原エイサーの特徴は、男性だけで踊るダイナミックな エイサーです。空手の型を取り入れた力強い豪快な踊りです。
千原エイサーをよく知る人は空手の型が入っているのはハッタリではなく昔は実際の他の部落とのケンカなどにも立ち向かえるようにマジで練習したそうです。腰を落とし、半身に構え、締太鼓を水平にしての踊りは実は実戦も意識してのものなのです。そう考えるとまた違って見えますね。
言葉が文化を引き留める
創作エイサーについては、色んな見方があるのですが私はエイサーの一部だと思います。
現在、伝統エイサーと呼ばれているものでも実は昔の人から見れば大きく変容しているものも多いです。そんな中で始めから創作としてスタートしているエイサーは今までとは違う価値を表現していると思います。
そして、私が思うに沖繩の方言が分からない世代や分からない地域の人が創作エイサーを好んでしていると感じています。(批判ではないですよ)
エイサーは踊り、音楽が一体になった芸能です。ですから音楽の中の歌詞が理解できないと魅力も半減してしまいます。逆に歌詞の意味が理解出来るとその魅力は倍増するはずです。
難解な昔の歌詞に行くより、すぐに自分も歌える現代の曲にエイサーをのせて踊るというのはむしろ自然の流れをいえるかもしれません。
琉球舞踊の歌詞が理解できると・・・
琉球舞踊でも沖繩の方言で歌詞が構成されています。もしもですがこの歌詞を日本語に替えて歌ったとしたら、多分味わい深さがなくなると思います。
琉球舞踊は衣装、音楽、踊りが揃って始めて成り立つ総合芸術です。でもそんな特性が敷居の高さになったり、とっつきにくさに繋がっているとしたら残念な事です。
私は好きな演目に「加那ヨー天川」という曲があります。男女で踊りますが、軽快なメロディーとリズム感があり特に後半の「天川」のアップテンポは心が弾みます。
もし、歌詞の内容がわからないと踊りの意味も全く分からないです。しかしこの動画を観て下さい。歌詞の字幕が出ているので方言ですが内容が少し理解できます。それだけで踊りが活き活きと伝わります。
「加那ヨー天川」~「島尻天川節」
やはり言葉は文化を繋ぐものだという事をエイサーと琉球舞踊を見ると痛感します。
花 ~すべての人の心に花を~
ここまで書いてきた事を覆すようですが(苦笑)言葉と伝統を超えるものもあります。
喜納昌吉さんの「花」という曲です。世界的に有名な曲なのであなたもご存知かと思います。
あの「花」という曲は方言ではありません。そして琉球音階を使っている訳でもありません。でもしっかり琉球の心が伝わります!
これはいつも不思議に感じている事なのですがなぜ琉球の心が伝わるのでしょうか?今日この記事を書きながら思ったのは踊りも、歌詞も実はただのツールにすぎないのでは?という事です。
こんな事を言うと関係者に怒られそうですが(苦笑)
琉球という国が争いを好まず色んな国と交易をしていた歴史が目には見えないけれど脈々と受け継がれているのでは?と思いました。
この普遍的な価値観を沖繩はこれからも伝えていく立場にあるのかもしれません。
そう考えると琉球舞踊は今後大きな役割があると思います。
『本当の世界平和のために』
今回も最後までお付き合いいただきありがとうございました!
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