あなたの知らない沖繩と琉球舞踊 -2ページ目

あなたの知らない沖繩と琉球舞踊

観光や日常生活では気づかない知っているようで知らない沖繩や琉球の歴史や文化、華やかな琉球舞踊の事を徒然と書いていきます。

 

光の存在がものを見えるようにし、また見えなくもしている。
けれどたとえこの上なく気高い創造物でさえ、暗黒と地上の影がなければ、いつまでも人の目に止まらない。そして天空の星も見えなくなる。
  トーマス・ブラウン

 

 


太陽と月と・・・・

 

沖縄は太陽のイメージがありますが実は太陽よりも月の影響が大きいです。

 


それは旧暦が今だに生活に根付いているからです。旧暦とは、月の満ち欠けで時を刻む太陰暦が基本です。古代では太陰暦を基本に自然の移り変わりを見極めました。農業や漁業のタイミングを知らせてくれたのです。

 

 

 

 

しかし太陰暦だけでは四季がずれていってしまうという不便が出てきました。そのため、約半月ごとの季節の推移を表す二十四節気を組み合わせたのが「太陰太陽暦」いわゆる旧暦です。

 


この旧暦は琉球王朝時代に沖縄へ導入されました。そして暦に基づくさまざまな祭事・行事が行われるようになったとされています。

 

 

でも、なぜ沖縄は旧暦は今だに生活に根付いているのでしょうか?まず言われているのが中国の影響です。琉球王朝時代は中国と琉球は密接な関係がありました。

 

 

当時、大国だった中国と良い関係を維持する事で琉球は地理を活かした中継貿易を発展させました。中国アジアは中国との貿易の際には共通言語である「太陰太陽暦」つまり旧暦を使う事が何かと便利だったのです。

 


他にも、当時から沖縄を襲う台風や、農業や航海にも旧暦はしっかりとフィットしていたので生活に便利だったという事があります。

 

 


沖縄は正月が2回ある?

 

旧暦を日常的に使う事で非常に特徴的なのが「旧正」です。これは旧暦の暦上の正月です。現代の西暦の暦では1月の終わりから2月にこの旧正のタイミングがきます。しかし毎年同じではありません。

 


なぜ、毎年同じ日にならないのか?これには「月」を基準とする旧暦ならではの理由があります。

 


新暦では、地球が太陽を1周する日数を1年=365日とし、生じる誤差を4年に1度の閏年(うるうどし)に1日閏日を入れて調整しています。

 


一方、新月から満月、さらに新月までを1か月とする旧暦では、ひと月平均が29.5日となり、12か月では354日にしかなりません。この誤差を埋めるため、旧暦では約3年に1度の閏年に、閏月(うるうづき)を1か月入れて13か月にします。3年ごとに、13ヶ月の年がくる。旧正月が毎年変わるのはこのためです。

 


しかし、なぜ沖縄ではまだ旧暦は生活に息づいているのですが日本本土では使われなくなったのでしょうか?歴史を紐解くと意外な事が分かりました。

 


それは当時の明治政府の逼迫した財政事情が影響したものなのだそうです。wikipediaによれば

 

 


旧暦のままでは明治6年は閏月があるため13か月となり、月給制に移行したばかりの官吏への報酬を1年間に13回支給しなければならない。これに対して、新暦を導入してしまえば閏月はなくなり12か月分の支給ですむ。また、明治5年も12月が2日しかないので、11か月分しか給料を支給せずに済ますことができる。さらに、当時は1、6のつく日を休業とする習わしがあり、これに節句などの休業を加えると年間の約4割は休業日となる計算である。新暦導入を機に週休制にあらためることで、休業日を年間50日余に減らすことができる・・・

 


このような裏事情があり、旧暦が廃止され半ば強引に新暦が導入されたそうです。実際、この改暦は、布告がその一カ月前にも満たない旧暦11月9日という、非常にスピーディーなものであった事が歴史から見て取れます。政府も大変だったんですね。

 


もちろん、日本本土でも旧暦が生活にはピッタリくるはずです。それはアジア各地で旧暦を今だに使用している国が多い事でも分かります。

 

 

 


実は、旧暦1月1日を「旧正月」と呼ぶのは日本だけだという事です。中国をはじめとする多くのアジア圏では「春節(しゅんせつ)」と呼んでいます。今でも新年を祝う大事な日です。

 


中国語である春節は、中国語では「チュンジエ」韓国では「ソルラル、クジュン」北朝鮮では「ソルミュンジョル」ベトナムでは「テト」と呼ばれます。

 


さらに、この日は、ほとんどの国で祝日となっており、生活に根ざした大切な日だという事が分かります。ちなみに中国では、旧暦大晦日から7日間、香港・シンガポールは旧暦元日から3日間、韓国は旧暦大晦日から3日間、ベトナムは旧暦大晦日から4日間と長いものになっています。

 


ですから、沖縄に旧暦が息づいているのはむしろ自然な事で、日本本土に旧暦が無いのがむしろ不自然な事なのです。

 


私が幼い頃は、新暦の正月(こちらが一般的ですが)と旧暦の正月の2回の正月を祝いました。お年玉も少しづつを2回もらいました(笑)でも旧暦の正月の方が盛大でした。幼心に覚えています。ちなみに今でも旧正を盛大に祝う地域もたくさんあります。

 

 



他の旧暦行事
 

 

・生年祝い(トゥシビー)

 

 

 

旧暦1月2日~13日に行われる行事。沖縄では、12年ごとに巡ってくる生まれた干支の年が厄年とされ、火の神(ヒヌカン)や仏壇に安全祈願をします。そして来客者の祝いの心で厄を落とすために生年祝いを行います。数えで13歳、25歳、37歳、49歳、61歳、73歳、85歳、97歳に行われます。97歳の祝いであるカジマヤーは最も盛大にお祝いされます。また地域で合同の生年祝いを行うところもあります。まだ地域がコミュニティとして生きている沖縄ならではですよね!



清明祭(シーミー)

 

本土の方からは「お墓でピクニックをする変わった風習」と思われているようですが実は中国から伝わった祖先供養の行事です。

 

写真引用:結不動産情報ネットワーク

 


お盆、正月と並ぶ沖縄の人にとっては大事な行事なのです。旧暦の3月にあたる、4月中旬頃には家族や親戚で先祖が眠るお墓へ行き、みんなで重箱のお供え物をお墓の前で全員で食事をします。最近ではお供え物ではなくバーベキューやピザをする人もいます(笑)でも、家族や親戚でワイワイガヤガヤと楽しそうに食事をする風景はとても微笑ましいものです。形は変わっても先人もこのように一族の和をつないできたのがこの清明祭(シーミー)という行事だったのではないでしょうか。

 

 


旧盆

 

旧暦にもとづく沖縄のお盆です。旧暦7月13日?15日の3日間にかけて行われます。この期間、人々はお中元を携えて親戚を訪ねあい仏壇にお線香をあげます。旧盆は沖縄の重要な年中行事として、生活の中に浸透しています。

 

 

13日の「お迎え」(ウンケー)はあの世から祖先の霊をお迎えする日。14日は「ナカヌヒ」つまり中日です。、最終日の15日は「お送り」を(ウークイ)と言います。

 


沖縄のお盆の中で一番大切な日で、家族や親戚が集まり食卓や仏壇を囲んで過ごします。フィナーレの祖先をあの世にお送りする「精霊送り」は15日の夜更けに行われます。これも中国の影響を多分に受けているのですが線香と一緒に紙でできたウチカビといわれる天国でのお札も一緒に燃やして供養します。天国でお金に困らないようにとの思いがあるのです。でも天国でもお金を使わなきゃ何もできないのはイヤですね(苦笑)

 

 

写真引用:最初はスズメ

 

 

この旧盆のタイミングであの有名なエイサーが各地を練り歩きます。月が煌々と照らす中、踊られるエイサーはとても神秘的です。
これが新暦ではこのタイミングでは無理なので、やはり旧暦は沖縄の生活にしっかりと息づいている事を実感できます。
 

 



旧暦と琉球舞踊


沖縄では旧暦8月15日の夜は八月十五夜(ハチグヮチジューグヤ)といい、古くからお月お祭り(ウチチウマチー)という月を愛でるお祭りが多くあります。

 

この日の前後3日間、農村では豊年祭の村遊び(ムラアシビ)が盛大に行われたり、狂言、組踊り、獅子舞、棒術、綱引き、宮古ではクイチャーの踊りなどがあります。今も生活の中にこの旧暦8月15日の夜の八月十五夜(ハチグヮチジューグヤ)は息づいています。

 

写真引用元:©OCVB

 

十五夜に芸能を奉納するのって素晴らしくないですか?

 


琉球舞踊で「旧暦」と言えば、旧暦八月十五夜の舞踊で、「瓦屋」(カラヤー)という女踊りがあります。別名、月見踊りとも言われているんですよ。

瓦屋節は『ナガラタ節』、『瓦屋節』、『シャウンガナイ節』の3曲で構成される女踊りです。月を眺め想いをはせるる女性を歌っています。

 


 


できやよ押し連れて眺めやり遊ば
今日や名に立ちゆる十五夜だいもの

押す風も今日や心あてさらめ
雲晴れて照らす月の清らさ

月も眺めたりできやよ立戻ら
里やわが宿に待ちゆらだいもの


【意訳】
さあ連れ立って眺めて遊びましょう。今日は名に立つ十五夜ですから。
そよ吹く風も今日は心あるもののように、空も晴れ渡って照り輝く月がなんときれいなことか。
月も眺めたし、さあ、急いで帰りましょう。愛しい人がわが家で待っているはずですから。
 

爽やかなさらっとした雰囲気を琉舞では表現します。私も踊るのが好きな演目です。

 

 

一方で

 

 


瓦屋頂登て真南向かて見れば
(瓦屋根に登り、真南の方を見てみると)

 島うらど見ゆる里や見らぬ
(私の生まれた里は見えるけど、愛しいあの方を見る事は出来ない)

 

 


この琉歌には悲話があると言われています。

 


首里王府は中国から瓦を作る技術をもった職人を呼び寄せ帰化させました。その帰化した中国人から見初められてしまった人妻が「旦那や子どもと別れて、瓦職人の妻になりなさい」と琉球王から言われたのです。哀しみの中で生活したその人妻が詠んだと言われる琉歌だと伝わっています。

 

瓦屋節の歌碑

写真引用:琉球の風光

 


彼女は瓦職人の妻となった後も元の旦那や子どもの事が忘れられず、小高い丘の上に立ち、自分のいた村の方向を眺めては涙を流していたとか。何と哀しい話でしょう。

 

写真引用:沖縄の風景


旧暦8月15日の夜は八月十五夜(ハチグヮチジューグヤ)には現代も語り継がれるそんな逸話があるんです。
 

 




現代科学では太陽系の中心には太陽があり、その周りを地球や他の星が回っています。太陽は主人公のような存在です。

 


でも一度、人間の生活を考えた時、月の満ち欠けに基づく暦がしっくりとくるのは面白いです。そして沖縄においてはこれから先も旧暦が廃れることなく続くでしょう。タイムマシーンがもしあるとしたら、昔の人がまだ続いている事にきっと驚く事でしょうね。

 


西暦を否定する訳ではないですが生活にピッタリとあった旧暦は一言で言えば「居心地が良い」です。この「居心地の良さ」が生活の質や満足度に繋がっているのなら、もしかしたら今、日本に必要なものかもしれませんね。(^_^)

そんな想いで今宵の月を眺めてみてはいかがでしょうか?

 

 

 

 

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 われわれは、われわれの歴史のなかにわれわれの未来の秘密が横たはつてゐるといふことを本能的に知る。  岡倉天心 「東洋の理想」

 

 

日本人と名前


名前は人間だからこそ持っているものです。それこそ紐解けば名前を人類が使用していた形跡は有史以前まで遡るとも言われています。

日本では「氏+名」という形式になっていますが、外国ではこの形式以外も多くあるそうです。

例えば、欧米では「個人の名」 + 「家族集団を示す名」 によって構成されます。順序も色々とあるようです。他にも、イスラム文化圏のように 「本人の個人の名」 + 「父親の個人の名」 という形式もあります。このうち 「個人の名」 は、必ずしも一語ではないそうです。欧米の名前でも、国・地域によって、色々な名前の構成パターンがあるそうです。

具体例でいくと一つ目の 「個人の名」 を英語ではファーストネーム、二つ目以降の 「個人の名」 をミドルネームと言ったりします。

いづれにしても名前により私達は存在し、また後世に脈々と続く流れがあります。
 


日本の名前の特徴


『名前と人間』(田中克彦著、岩波書店)という本には下記のような記述があります。

 


日本人の名をとってみても、多くのばあい男であるか女であるかがわかるようになっており(それは、ことば自体の要求ではなくて、そのように名づけるよう社会的に要求されているから)、時には生まれた年代すらも推定でき、専門家がその気になってせんさくすれば、その人の家系や出身地すらもが浮かびあがってくることもある。これをある面から言えば、固有名詞が帯びる特有の差別性ということになろう。つまり固有名詞をつけること自体が差別的行為と言わざるを得ないだろう。さらに固有名詞を『ことば』というふうに置きかえてみると、差別はまさにことばから生まれてくるのだということになる

 


どうやら、日本の名前も社会の中の必要性や要求の中から育まれてきたようです。

若い方は意外に思うかもしれませんが、日本は近代まで名字を自由に名乗る事が出来ませんでした。時代をさかのぼること約140年前。明治時代のはじめになりやっと普通に名乗れるようになりました。

明治政府は、明治3年に「平民名字許可令」、明治8年に「平民苗字必称義務令」という法律を作っています。

この法律により「すべての国民は名字を名乗らなければならない」という国民への義務になりました。明治になりやっと現在のように誰でも名字を名乗れるようになったわけです。

それ以前の江戸時代は庶民にも名字はあるにはあったが、名乗ることが出来るのは一部の位の高い人たちだけでした。

 


それよりもっと古い時代はと言いますと飛鳥時代から平安時代中期あたりは庶民は名字とはまた少し違う、その地名やその地の支配する一族に基づく「姓(かばね)」というものを持っていたそうです。

しかし面白いのは制度の変更や廃止等といった時代の流れとともに、その大半は忘れられていったようです。それでも8世紀前半(飛鳥時代)の文書にも数千名の名字が確認されているようです。

 



日本人に多い名前

 


いろんな経緯のある日本の名前ですが「日本人の名字ランキング」というサイトによるベスト10は以下の通りです。

 

資料引用元:「日本人の名字ランキング」

 

 

資料引用元:「日本人の名字ランキング」

 

 

 

資料引用元:「日本人の名字ランキング」

 

 

 

ちなみに、全国で栄えあるナンバー1をとった佐藤さんのルーツは下記のとおりです。

 


佐藤氏は藤原氏の一族が、藤原氏の「藤」と、「佐」をつなげて名乗ったのが始まり。
この「佐」には、職名の左衛門尉や、地名の佐渡、下野国佐野など、いくつかの由来があるが、いずれにしても、藤原氏の一族が自らの職名や地名をもとにして名乗ったものだ。
それらの中では、平安時代後期に左衛門尉となった藤原公清が、役職の左衛門尉の「左」ににんべんを付けた「佐」を使って「佐藤」と名乗った佐藤一族が本家とされている。
平安末期に佐藤本家の当主だった義清は朝廷に仕えていたが、のちに武士を捨てて出家し歌人西行となったことから、以後佐藤本家は凋落した。
現在では東日本に多く、東北に集中している。なかでも、秋田県では県人口の8%近くを占めるなど非常に多い。
  資料引用元:「日本人の名字ランキング」




沖縄での名前の歴史と由来


沖縄にはおよそ1,500種類の名字があるそうです。でも沖縄の人が名字を普通に持てるようになったのは明治維新の後からです。具体的にはうになったのは明治維新の後となる1872年の「琉球処分」からです。

ちなみに琉球処分とは

 

明治政府のもとでなされた沖縄に対する強行的な廃藩置県の事です。日本政府は,明治5 (1872) 年に琉球国を廃して琉球藩とし,中央政府の管轄としました。 1875年には内務官僚松田道之を処分官として琉球に派遣し,中国との関係を廃絶することを要求するなど,政府の処分の方針を伝えました。政府のこの措置に対しては,地元の士族層を中心とする反対運動もありましたが,政府は軍隊と警官を差向けてそれを押え,79年3月,琉球藩を廃し,沖縄県を設置する旨通告しました。旧国王は東京移住を命じられ,ここに琉球王国は約 500年にわたる歴史を閉じて,日本の一県として措定されたのです。これが琉球処分です。 (資料引用:ブリタニカ国際大百科事典 )

 

写真引用元:©OCVB

 


沖縄の名字の特徴その1:城という字が入る事が多い


これは城(ぐすく)という城や城跡が昔からたくさんあった事に関係していると言われています。沖縄ではメジャーな「大城」「金城」「玉城」「新城」「山城」「城間」などの名字には「城」という文字が含まれています。

沖縄には古くから地域を治める按司(あんじ・あじ)という役職があり、小さいながらも城(ぐすく)を築いてました。ですから城は多くあったのです。
城を中心に住民がコミュニティを築きますので例えば名字を名乗る時に○城の地域に住んでいるので、○城の太郎さんとする・・・こんな塩梅です。

似た考え方で「城間」という沖縄の名字も城と城の間にある地域なので「城間」というのです。城は身近なシンボリックリンクなものなので名字の元になったのです。

 

 


写真引用元:©OCVB

 

 

 

沖縄の名字の特徴その2:三文字の名字

 

 


沖縄独特の名字とは別に日本本土にある名字に音が同じなのに字が違うというパターンも沖縄ではよくみられます。

一例として

「前田」→「真栄田」
「中曽根」→「仲宗根」
「福原」→「普久原」
「横田」→「与古田」
「船越」→「富名腰」


があります。
これは、1609年、薩摩藩島津氏が琉球を侵攻した歴史が関係しています。島津氏は沖縄を征服しました。そして、琉球を外国のように見せるために日本風の名字は変えるか当て字などで三文字に変えさせられたのです。中央幕府には“外国を支配した”と薩摩藩の影響力を誇示する目的もあったのです。
 

 

沖縄の名字の特徴その3:地名から来る名字


沖縄はご存知のとおり本土とは違う地名も多いです。その地名がそのまま名字になるケースも多いです。

たくさんあるのですが一例として

仲村渠(なかんだかり)
我那覇(がなは)
喜屋武(きゃん)
東江 (あがりえ)
渡嘉敷(とかしき)
安慶名(あげな)
浦添 (うらそえ)
宜野座(ぎのざ)


これらの地名から派生した名字が沖縄の独特さを際立たせているように思います。
 

 

沖縄の名字と琉球舞踊


知り合いに「鳩間」さんという方がいました。この名字は沖縄でも、けっして多い名字ではありません。それだけに記憶に残っています。

ルーツは八重山の鳩間島にあると思います。面積は0.96kmという小さな島なのですが旧暦6月に3日間に渡っての豊年祭や毎年5月3日に行われる「鳩間島音楽祭」の時には、たくさんの人が訪れるそうです。

そして鳩間島には「鳩間節」という琉球舞踊の名作があります。この作品は伊良波尹吉氏により、元曲「鳩間中森」のテンポを早くし、日本舞踊などの手を入れて創られた踊り。鳩間島の美しさと、五穀豊穣を予祝した歌詞で、村人の喜びを軽快に表現した作品。です。


  
■鳩間節■

鳩間中岡 走り登り
ササユイサ
クバの下に 走り登る
ハイヤヨーティバカイダーキ
ティトゥーユルデンヨ
マサティーミグトゥ

美しゃ盛りたる 岡のクバ
ササユイサ
美らさ連りたる頂のクバ
ハイヤヨーティバカイダーキ
ティトゥーユルデンヨ
マサティーミグトゥ

いーなふイオつイんつきうむしろや
ササユイサ
あわんつイーんつきうむしろや
ハイヤヨーティバカイダーキ
ティトゥーユルデンヨ
マサティーミグトゥ

前ぬ渡ぬ 見渡しば
ササユイサ
でふねりりーふねさでいみぐと
ハイヤヨーティバカイダーキ
ティトゥーユルデンヨ
マサティーミグトゥ





沖縄の名前も琉球舞踊も綿々と流れる沖縄の歴史の中に存在しています。沖縄なくしては存在しえなかったのです。慈しみ、大切にして次世代にバトンタッチしていく事が私たちの責務かもしれません。

最後までお読みいただきありがとうございます。

 

 

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「地平線の様子は、独特なものでとても美しい。明るく光る地球の表面から、暗黒の空への境目は比べようもないほど美しい。暗黒の空間には星のまたたきが見える。この境目は、とても薄いもので地球の球体を囲む膜の帯のようだった。地球の色は、優しく光る淡い水色で、暗黒空間へとつづく境目は、とてもなめらかな曲線で美しい。言葉では伝えにくい。地球の影からでたとき、地平線はまた違ったようにみえた。地平線には、明るくオレンジ色にひかる帯があり、その色は、再び、淡い水色に、そして濃厚な黒色に変わった」   ガガーリン

 

 

 

 

 

 

人はなぜ境目に魅力を感じるのか?


インフィニティプールってご存知ですか?プールの水面を水平線と並行にすることで、まるで水平線に溶け込むかのようにデザインされたプールの事です。

 


他にもビルの屋上にあり空の一部になっているように溶け込んでいるプールもあります。

最近のインスタブームもありこのようなプールでの写真は人気があります。たしかに見ていても何だかワクワクしますよね!なぜ、私達は普通に水平線だったり、空だったりではなく、その境目に魅力を感じるのでしょう?

 


これって独断なのですが「境目」に人は魅力を感じるのではないでしょうか?

 


自然の境目だけではありません。マツコ・デラックスさんやikkoさんや、はるな愛さん等のように男性と女性の境目の人にも私達は魅力を感じる事が多いです。

 


これはあくまでも仮設ですが境目は「断絶はせずに繋がっている」ところに人は魅力を感じるのではないでしょうか?

 




ダンテ「神曲」とルシファー

 


昔の大学生や知識人は「常識」として読んでいたと言われるダンテの「神曲」という作品があります。

地獄篇、煉獄篇、天国篇の3部から成る、全14,233行の韻文による長編叙事詩です。

 

 

この作品は、聖なる数「3」を基調とした極めて均整のとれた構成から、しばしばゴシック様式の大聖堂にたとえられます。イタリア文学最大の古典とされ、世界文学史にも重きをなしている。当時の作品としては珍しく、ラテン語ではなくトスカーナ方言で書かれていることが特徴です。

 

 


あらすじですが、暗い森の中に迷い込んだダンテは、そこで古代ローマの詩人ウェルギリウスと出会い、彼に導かれて地獄、煉獄、天国と彼岸の国を遍歴して回ります。ウェルギリウスは、地獄の九圏を通ってダンテを案内し、地球の中心部、魔王ルチーフェロの幽閉されている領域まで至ります。そして、地球の対蹠点に抜けて煉獄山にたどり着きます。ダンテは、煉獄山を登るにつれて罪が清められていき、煉獄の山頂でウェルギリウスと別れることになります。そして、ダンテは、そこで再会した永遠の淑女ベアトリーチェの導きで天界へと昇天し、各遊星の天を巡って至高天(エンピレオ)へと昇りつめ、見神の域に達するというものです。(参考:wikipedia)

 

 


その神曲にインスパイアされたボッティチェッリの「地獄の見取り図」という有名な絵があります。その絵の最下部には堕天使ルシファーがいるとされています。ルシファーは元々は天使だったのですが神と対立し天国を追い出され地獄に追いやられます。そしてその後にルシファーはサタン(悪魔)になります。

 


ルシファーは悪魔はサタンともルシファーとも呼ばれる単一の人格です。ですから今でもルシファーに憧れる人が多いです。これも境目に生きるという事が魅力的なのでしょう。(別に私はルシファーの崇拝者ではありません(汗))
 

 


日常と非現実の境目の岬

 


私が日常と非現実の境目を感じるのはやはり大自然です。沖縄は海がとても綺麗ですので岬には日常と非現実の堺目を感じます。陸側が現実そして海側が非現実です。

 


初めに採り上げたインフィニティプールと似た感覚です。プールに入っている時は現実に足がついていますが、目前は非現実空間。そこには行けないし、でも行きたくなる不思議な感覚。

 


・万座毛

 

写真引用元:©OCVB

 

万座毛は沖縄県の中部の恩納村の西海岸にあります。沖縄の岬の代表といえば万座毛ではないでしょうか?その独特な名前とともに風光明媚な風景が有名です。

 


万座毛とは:「万人も座する草原」(毛とは草原のこと)琉球王朝時代、尚敬王が「万人を座するに足る」と賞賛したことが名の由来と言われています。

 


脱線しますが、昔の東宝映画の「ゴジラ対メカゴジラ」で沖縄の守護神というキングシーサーが眠っていたのも万座毛です(笑)

 


駐車場を抜け芝の部分に足を踏み入れたと同時に眼前に広がる海を見た時の感動は何度行っても変わらないです!動画をご覧下さい。


荒らされるとイヤなのでこっそり書いておきますが、駐車場に向かう道の横道があるのですがそれを進むと万座毛を違う角度から見られる秘密の場所がありますので、何回も万座毛に行っている方はぜひ一度お試し下さい。

 

 

 

 

・真栄田岬

 

写真引用元:©OCVB


真栄田岬は沖縄県の中部の恩納村の西海岸にあります。ダイビングをする方にとっては全国的に有名な場所ですね。もちろん真栄田岬自体も魅力があるのですがすぐ近くに「青の洞窟」があるのでそこへのアクセスポイントとしても有名なのです。

 

写真引用:activityjapan

 


真栄田岬から青の洞窟へ行くまでのすべてが動画で体験できます。ダイビングをする人もダイビングをしない人も是非、ご覧下さい♪

 

 


 

 

 

 

・残波岬

 

写真引用元:©OCVB

 

個人的にとても好きなのが残波岬です。残波岬は恩納村のお隣の読谷村にあります。

残波岬の特徴はその荒々しい断崖絶壁です。延々と高さのある断崖絶壁の様子は感動的です。リーフが多く比較的穏やかな波が多い沖縄にあって、あの波ふぶきは勇壮です。

 

 

 

琉球舞踊と岬

 


また残波岬は琉球舞踊の「上り口説(ぬぶいくどぅち)」や「下り口説(くだいくどぅち)」にも登場します。これは首里を出発して那覇から船に乗り、奄美諸島、を通り過ぎて薩摩へと旅をする様子を歌ったものです。
 

 

 

 

『上り口説(のぶいくどぅち)』    

旅ぬ出で立ち観音堂 千手観音伏し拝で 黄金酌とて立ち別る

袖に降る露押し払ひ 大道松原歩みゆく 行けば八幡 崇元寺

美栄地高橋うち渡て 袖を連ねて諸人の 行くも帰るも中之橋
 
沖の側まで親子兄弟 連れて別ゆる旅衣 袖と袖とに露涙
    
船のとも綱疾く解くと 舟子勇みて真帆引けば 風や真艫に午未

又も廻り逢ふ御縁とて 招く扇や三重城 残波岬も後に見て

伊平屋渡立つ波押し添へて 道の島々見渡せば 七島渡中も灘安く

燃ゆる煙や硫黄が島 佐多の岬に走い並で(エーイ) 

あれに見ゆるは御開聞 富士に見まがふ桜島
 

 

 

 


船から見える残波岬は自分の場所を知る当時はアイコンだったのでしょう。そういえば現在、残波岬には大きな灯台があります!今も昔も残波岬は存在感がありますね。

 


そんな現在の残波岬の様子をドローンによる空中からの映像でご覧下さい。

 



 

 

あなたにとっての岬は?

 

岬は陸側は現実の世界。そして海側は非現実の世界です。鳥やドローンでもなければ非現実の世界に行く事はありません。しかしながらその境目に私達は実際に立つ事ができます。その時にどれだけ非現実な部分を現実化していくのが『夢』だと思います。

 


あなたの周りの境目に『夢』は見えますか?

 


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信仰は、見えざるものへの愛、不可能なもの、ありそうにないものへの信頼である。  ゲーテ 「格言と反省」

 

写真引用元:©OCVB 


●はじめに

信仰とは


① 神仏などを信じ崇あがめること。
 経験や知識を超えた存在を信頼し、自己をゆだねる自覚的な態度をいう。

 

② 人を信じうやまうこと。(大辞林より引用)


古から人は抗えない大自然や運命と自分の人生との折り合いをつけるために信仰を持ちました。

 


それは時には宗教だったり自然崇拝だったりしました。形式が違うとはいえ、見えざるものへの畏怖や愛、そして信頼がそこにはあります。

 


ここ、沖縄でもそのような信仰が息づいています。それは大きな枠で言えば自然崇拝に近いものですが琉球に特有の神と混じり合う事により独特な景色を生み出す事になります。

 


前回の記事、「沖縄の城(グスク)はパワースポットにも書きましたが沖縄の城は戦争のための拠点という位置づけよりも「御嶽(ウタキ)」と呼ばれる信仰の場所を内包しており、その事の方が重要であったとのでは?いう事を書きました。

 


今回はその「御嶽(ウタキ)」について徒然と書いてみたいと思います。
 

 


●そもそも「御嶽(ウタキ)」とは?

 

「御嶽(ウタキ)」は琉球王国(第二尚氏王朝)が制定した琉球の信仰における聖域の総称です。実はそれ以前はさまざまな呼び方が各地方にあったそうです。信仰の概念を統一する事で権力の安定をはかったのでしょうか?(当時は政治と信仰が深く関係していたそうです)

 


沖縄の信仰は元来、自然崇拝や祖先崇拝が基本となっています。日本の原始宗教に近いのでは?と思います。御嶽はそのような背景をベースにもっているといえます。

 


御嶽の多くは森の空間や泉や川などの自然です。島そのものであることもあります。

 


また、御嶽によっては空間の中心にイベあるいはイビ石という石碑があります。でも一度でもイベを見た事のある方は納得するでしょうがイベは、本当にただの石である事が多いです。いわゆる「御神体」的なものではありません。

 

 

実はイベは御神体ではなく、は本来は神が降臨する標識と考えられていました。また宮古や八重山地方では、過去に実在したノロの墓を御嶽とし、そのノロを地域の守護神として祭っていることが多く見られるそうです。(一部wikipedia参考)

 

 


写真引用:わたし旅 

写真は「藪薩御嶽」です。
 

 


●御嶽は男子禁制


沖縄では神に仕えるのは女性の仕事でした。古くから沖縄では霊力は女性の方が男性より強く持つとされてきました。

 


女性は生まれながらにして神とふれあい、その力をひき出すエネルギーを強く持っていたようです。ですから神に仕える役割を担うのは自然に女性ということになります。

 


今でも村々のまつりごとや行事に際して、女性の神役は司祭者としての役割を担います。しかし、男性の神役は補佐する側に回るのが一般的である。女の神役は人と神の仲立ちをしたり、神の意志を取りついだりするが、男の神役にはこうした役割は無いのは興味深いです。

 


でもよく考えると、シャーマンや巫女などは世界的にも女性が主です。これは沖縄だけの考え方ではないのかもしれませんね。女性は直感に優れている人が多いので自然にこのような形になったのでは?というのが私の予想です♪

 


横道にそれましたが、聖域である御嶽は男子禁制がほとんどです。先に挙げた「藪薩御嶽」も男子禁制です (^_^)
 

 

 


●御嶽の由来


色々と調べてみましたが御嶽がどのように形成されているか?はハッキリしていないそうです。先に書いたように各地で自然発生的に起きた信仰を第二尚氏王朝時代に「御嶽」と制定したという経緯もあるのでしょう。

 


しかし、有力な説としては御嶽がある場所は元々は集落だったという事です。その証拠として御嶽の近くで生活の後や人骨などが見つかる事が多いからだそうです。

 


集落の中で自然崇拝や祖先崇拝の観点で「イビ」的な石などを祀るようになり、何らかの理由で集落が廃れても御嶽の機能は残り現代に残っているのではないでしょうか?

 

 



●御嶽が現代に生き残る理由


沖縄では、古くからの風習がまだ生活の中に息づいています。それは苦難の多かった沖縄の歴史もあったからかもしれません。

 


これは私的な意見ですが、本土から移住した方などが沖縄の人の排他的な態度に嫌気がさして帰ってしまうという事を聞く事があります。排他的な側面は否定できませんが、もしかしたらこのような古くからの風習が影響しているかもしれません。

 


しかし、だからと言って本土の方に対して排他的である事は良い事では全くありませんのでこれは大いに改善されるべき事だと思います。

 

 

沖縄における御嶽は先祖を祀る場所です。「んっ?それならお墓はあるのでは?」と疑問に思う方もいるでしょう。でも沖縄の人にとって、お墓と御嶽は別物なのです。沖縄の人達は遠い遠い遠い祖先たちを祖霊神であると考えています。

 


しかもその霊は現在も私達のそばにいて日常の私達を見守ってくれていると強く信じています。この考え方は現代にも脈々と受け継がれています。小さい頃、悪さをしたら、「天国のオジーやオバーが見ているよ」とよく言われたものです。

 


語弊を恐れずに言うなら、墓や仏壇、御嶽はそれぞれ祖先へアクセスするための別々の入り口という感覚を沖縄の人は自然に持っています。それが御嶽が昔と変わらずに残っている理由だと思います。
 

 


●有名な御嶽


御嶽は生活の場でもあったので大小様々なものが存在しています。観光地になっているところもあれば、ひっそりとその役目を終えかけているところもあります。街を歩いていて神社でもお寺でもないのに道端でお供えものやお酒などが置かれている祠のような場所は、ほぼ御嶽です。初めて見る方はきっと驚かれるはずです。そのくらい生活に根付いた場所なのです。

 


今回は有名な御嶽をいくつか採り上げてみたいと思います。



まずはその歴史から・・・
「琉球開闢七御嶽」

琉球の神話では、日の大神(天にある最高神、日神、天帝)が開闢の神アマミキヨ(アマミク)に命じて島作りをさせたと言われています。

 


アマミキヨはこの命を受け、沖縄本島を作り、そこに9つの聖地(出典「中山世鑑」)7つの森(出典「聞得大君御規式の次第」)を作ったとされています。

 


現在では、アマミキヨによって作られた聖地のうち7つが、琉球開闢七御嶽として語り継がれ、琉球の信仰においてもっとも神聖な御嶽として位置づけられています。

 


このうち王国の祭政一致体制において最重視された御嶽は、斎場御嶽です。聞得大君の就任式などはこの御嶽で行なわれました。現在の斎場御嶽からは、アマミキヨ降臨の聖地である久高島が遥拝できるが、これは王国時代の史料には記録されていません。また国王就任に際しては、君手摩(きみてずり)が安須森御嶽に現れ、5つの御嶽を順に巡り、最後に首里真玉森御嶽に現れるといわれています。(wikipediaより引用)

 



以下、アマミキヨが作ったとされる順番です。
 

・安須森御嶽(あすむぃうたき):国頭村辺土
・クボウ御嶽:今帰仁村今帰仁グスク内
・斎場御嶽(せーふぁうたき):南城市知念
・薮薩御嶽(やぶさつうたき):南城市玉城
・雨つづ天つぎ御嶽(あまつづてんつぎうたき):南城市玉城、玉城グスク内
・クボー御嶽(くぼーうたき):南城市知念(久高島)
・首里真玉森御嶽(しゅいまだむいうたき):首里城内

 

 

 


・安須森御嶽

安須森御嶽は琉球開闢七御嶽の一つであり、沖縄最高の聖地です。
ここは山の頂上に位置しており登山道も獣道のようなものなので簡単には行けません。貴重な動画がありましたので観て下さい!



 

 

・クボウ御嶽


琉球開闢七御嶽のうち、アマミキヨが2番目に作ったとされる御嶽です。山全体が御嶽になっているそうです。

 


・斎場御嶽

琉球の始祖「アマミキヨ」が造ったとされ、国始めの七御嶽の一つといわれる沖縄最高の聖地です。琉球の最高神女であった聞得大君(きこえおおきみ)の就任の儀式はこの斎場御嶽で執り行われました。2000年12月、首里城跡などとともに「琉球王国のグスク及び関連遺産群」としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されました。


 

 



●御嶽と琉球舞踊


琉球舞踊 稲まづん

今年もづくりや あん美らさよかて
倉に積み余ち 真積みしやべら
(訳:今年の稲作は見事な出来栄えで倉に積みあまして、真積もしましょう)

銀臼のなかへ 黄金軸立てて
ためし摺り増する 雪の真米
(訳:銀の臼に黄金の軸を立てて、もみを摺りしらげると
例年になく多くの雪のような白い真米がとれたよ)

 

 

 

これは五穀豊穣を祈り、祝う歌ですがこの歌詞にも見られるように琉球の人は昔から祖先や自然を大切にし、受け継いできました。

その姿は、昔と変わらずに御嶽を大切にするところと全く同じです。人間は太陽がなければ生きていけません。そして沖縄ではこの太陽の光が年中、強いです。幾多の困難な歴史を体験した琉球の人は、変わらずに輝き力を与えてくれる太陽に感謝し、それが自然崇拝、祖先崇拝という不変のアイデンティティを育んだのではないか?と感じます。

 

 


写真引用元:©OCVB 

 


●東御廻りの御嶽


これは現在も行われている聖地巡礼の事です。
太陽の昇る東方を、ニライカナイのある聖なる方角と考え、首里からみて太陽が昇る東方(あがりかた)といわれた玉城、知念、佐敷、大里にある御嶽を巡るものです。

 


元々の起源は国王の巡礼と考えられており、以後時代が下るに従い、士族、民間へと広まったようです。

 


現在では、士族の流れを汲んでいる門中(むんちゅー:男系血族)を中心に行われています。

 


巡る御嶽は門中によって多少異なるが、起点の園比屋武御嶽から以下の順に巡るのが一般的です。(wikipediaを参考)



   1,園比屋武御嶽(すぬひゃんうたき):首里城外
   2,与那原親川(よなばるうぇーがー):与那原町
   3,御殿山(うどぅんやま):与那原町
   4,場天御嶽(ばてぃんうたき):南城市佐敷
   5,佐敷上グスク(さしきうぃぐすく):南城市佐敷
   6,テダ御川(てぃだうかー):南城市知念
   7,斎場御嶽(せーふぁうたき):南城市知念
   8,友利ノ御嶽(とむいのたけ):南城市知念知念グスク内
   9,知念大川(ちねんうっかー):南城市知念
10,ミントングスク(みんとぅんぐすく):南城市玉城
11,仲村渠樋川(なかんだかりひーじゃー):南城市玉城
12,アイハンタ御嶽(あいはんたうたき):南城市玉城
13,藪薩御嶽(やぶさつうたき):南城市玉城
14,ヤハラヅカサ:南城市玉城
15、潮花司(すーぱなつかさ):南城市玉城
16,浜川御嶽(はまがーうたき):南城市玉城
17,浜川受水走水(はまがーうきんじゅはいんじゅ):南城市玉城
18,雨つづ天つぎ御嶽(あまつづてんつぎうたき):南城市玉城玉城グスク内
19,玉城祝女殿内(たまぐすくぬんどぅち):南城市玉城
20,志堅原仁川(しちんばるじんがー):南城市玉城





このように現代にも脈々と息づく伝統の基礎が御嶽にはあります。100年後も同じようにこの伝統は続いているものだと思います。ですから、「今に生きる」一人としてあらためて御嶽に祈りを捧げてみたいなぁと感じました。あなたはどのような感想を持ちましたか?

 

 

 

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写真引用元:©OCVB 

 

 

 

 

 

 

 

人間は、坂ぬ下い上い
(にんじのー、ふぃらぬ・くだい・ぬぶい)

意味:人の一生は、坂を下ったり上がったりするようなものだから絶えず努力しなさいよ

 



 

 



●城であって城ではない「沖縄の城」


ウチナーグチ(沖縄の方言)では「グシク」と言います。

 


ウチナーヤマトグチ(戦後の標準語的にアレンジされたウチナーグチ)で言うと「グスク」になります。ウチナーグチは琉球語と言い換えても構わないようですが、永い年月を経て多少変化しています。

 


単語で見ると、日本語の古代語の影響が強く、更に遡れば古代ハングル語との共通点も指摘されています。

 


グシクは正確に言えば石を組み合わせて築かれた建造物を意味します。日本本土で言うところの「城」とは建築物の性格が異なるのですが、見た目は「城」に似ているために、本土の「城」という漢字が当てられ、現在では「城」で(ぐすく)とも読むのは所謂“沖縄読み”の代表のように変化しました。

 


原初のグシクに対して、中世以降のグシクは日本の「城」の要素を含んだものも増えてはきたようですが・・・。

 


●中国との関係が大きかった

 


ここまで沖縄の城が異質なのは沖縄を取り巻く歴史に大きなポイントがあります。

 


沖縄は約500年続いた「王国」でした。王国という事は周りの諸外国からも独立した国として認められていたという事です。国際関係では自分で「独立国」と叫んでも独立できるものではないからです。

 


「琉球」という国名も中国の皇帝からもらったものでした。という事は中国の支配下の国ではないか?という見方もありますが国際関係はそんなにシンプルなものではありません。当時の中国は自分の国の皇帝を頂点とし、周辺は野蛮人の国だ、という「華夷秩序(かいちつじょ)」という考え方をもっていました。

 


当時の中国は軍事、経済の面で超大国でしたので琉球を含む周りの国は中国のメンツを立てて距離感を保って関係性を持つ事でメリットがありました。中国としても自分の影響下に多くの国を巻き込めるのはメリットでした。

 

写真引用:日本財団図書館

 


●信仰と城の関係


日本の城は戦略上の要素が大きいです。

日本における城は、古代の環濠集落から石垣と天守を持つ近世の城まで多様なものが含まれます。幕末の台場や砲台も、城に含めることがあります。まさしく戦略上の存在です。造営は、堀や土塁を築く普請(ふしん、土木工事)と、門や塀を造る作事(さくじ、建築)から構成されます。屋敷や櫓・天守も作事に含まれます。

 


中世の城では、戦闘員である武士がおもに駐在していました。その武士たちを抱える主君の武家や豪族は、城のある山とは別の場所に館を構えて居住していました。戦国時代には、主君も城内に居住するスタイルが現れ、おもな家臣たちも城内に屋敷を与えられ、その家族や日常の世話をする女性も居住するようになりました。戦国末期から近世の城郭では、外郭を築き、城下町も取り込む城も現れました。江戸時代の1615年に一国一城令が発布されるまでは、城は各地に多数存在し、砦のような小さなものも含めると数万城あったといわれています。中世・近世に、平地に築かれた館や館造りの陣屋等は城には含まないものの城郭構の陣屋や館、少しでも城に近づけて造られたものは、城とすることがあります。 (参考wikipedia

 


それに対して沖縄の城(グスク)は戦略上のものというよりは「信仰の聖地」という側面があるのが特徴です。琉球の信仰の聖地として、御嶽(うたき)というものがあります。御嶽とは琉球の神話の神が存在、あるいは来訪する場所であり、また祖先神を祀る場でもある。地域の祭祀においては中心となる施設です。

 


施設といっても限りなく天然のものです。御嶽の多くは森の空間や泉や川などで、島そのものであることもあります。御嶽によっては空間の中心にイベあるいはイビ石という石碑があります。これは本来は神が降臨する標識であり、厳密な意味でのご神体ではない(ご神体として扱われているところも多い)。宮古や八重山地方では、過去に実在したノロの墓を御嶽とし、そのノロを地域の守護神として祭っていることが多く見られます。(参考wikipedia

 

 

写真引用:沖縄観光style


写真は浜川御嶽とよばれる御嶽です。浜川御嶽とは琉球創世の神と言われるアマミキヨがヤハラヅカサに降り立った後、仮住まいをした地とされています。浜川とは海のそばの湧き水のことで、アマミキヨはこの水で疲れを癒し、近くの洞窟にしばらく住んだのちにミントングスクに移り住んだと言われています。

 

 


御嶽はこのように自然の中にあるもので、実際に沖縄の城の中には御嶽があるところが多いです。有名なところでは首里城の中に御嶽があります。いくつかの門をくぐり、最後に「奉神門」をくぐると、そこに正殿があります。奉神門の手前に広がる広場「下之御庭」(しちゃぬうなー)には御嶽があります。

 

 


「首里森御嶽」(すいむいうたき)という御嶽です。天上の神が最初に降り立ったとされる場所で、ここを中心に、首里城が形成されたと考えられています。城内にある十カ所の御嶽「十嶽(とたけ)」のうちのひとつで、中でも最も重要とされている聖地です。

 

 


●実際に見ていきましょう

 

御嶽の機能もある沖縄のグスクですが戦闘などの戦略に長けたものもあります。特徴的な城を見ていく事にしましょう♪

 


・今帰仁城

 

写真引用元:©OCVB 

 

 

今帰仁城跡とは

今帰仁城(別名北山城)は、琉球が中山に統一される前の「三山鼎立時代」には山北(北山)王の居城とし、また中山が三山を統一後には琉球王府から派遣された監守という役人の居城でした。外郭を含めると7つの郭からなり、その面積は首里城とほぼ同規模で、城を囲む石垣は地形を巧みに利用し曲線を描き、城壁のディテールは美しく、沖縄屈指の名城です。

 

 

 

2000年12月に開催された第24回世界遺産委員会で、座喜味城跡(ざきみじょうあと)、勝連城跡(かつれんじょうあと)、中城城跡(なかぐすくじょうあと)、首里城跡(しゅりじょうあと)、園比屋武御嶽石門(そのひやんうたきいしもん)、玉陵(たまうどぅん)、識名園(しきなえん)、斎場御嶽(せいふぁうたき)と共に本村の今帰仁城跡(なきじんじょうあと)の九つの資産が「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として世界遺産リストに登録されました。

 

 

また、平成18年には公益財団法人日本城郭協会により、日本100名城にも選定されました。これは優れた文化財・史跡であること。著名な歴史の舞台であること。時代・地域の代表であることを証明するものであります。世界遺産 今帰仁城跡公式HPより

 

 


今帰仁城跡内には2つの御嶽があります。
一つ目は大庭の北西部にある「ソイツギ」。『琉球国由来記』にある「城内下之嶽」という御嶽で、神名は「ソイツギノイシズ御イベ」。二つ目は御内原の林の中にある「テンチジアマチジ」。『琉球国由来記』にある「城内上之嶽」という御嶽で、神名は「テンツギノカナヒヤブノ御イベ」。城内で最も崇高な場所とされ、男子禁制の御嶽です。世界遺産 今帰仁城跡公式HPより

 

 


現在、ドローンでの航空撮影が完全に禁止されていますが規制前に撮られたあまりにも美しい空撮をご覧下さい。

 



 

 

 



・勝連城跡

 

写真引用元:©OCVB 

 


勝連城とは

琉球王国が安定していく過程で、国王に最期まで抵抗した有力按司(あじ)阿麻和利が住んでいた城として有名である。城は、沖縄本島の中部勝連半島の根元に位置する丘陵上に築かれている。一の曲輪(くるわ)からは、北は金武湾を囲む北部の山々やうるま市の離島を望むことができ、南は知念半島や久高島、護佐丸の居城であった中城城跡が一望できる景勝地になっている。勝連城跡の標高は60m~98m。

 

 

総面積は11,897㎡。城壁は、自然の地形を巧みに利用しながら、石灰岩の石垣をめぐらせている。北西の最高部から一の曲輪、二の曲輪、三の曲輪、四の曲輪と各平場が階段状に低くなり、再び南東側の東の曲輪で高くなっている。城が立地しているこの場所一帯は、長い間人々が活用してきた土地である。城跡の崖下からは、貝塚が発見され、先史時代後期末から古代人の生活地として利用され、13世紀前後より城塞としての体裁を整えたと考えられている。勝連城跡ホームページより

 


勝連城址内には、タマノミウジ御嶽、肝高の御嶽のふたつの御嶽があります。

ドローンでの美しい空撮をお楽しみ下さい。

 

 

 

 


・中城城址

 

写真引用元:©OCVB

 

 

中城城とは

中城城跡は、中城村と北中城村にまたがり東北から南西にほぼ一直線に伸びた標高150m~170mの石灰岩丘陵上の縁辺部に立地する山城で、南東側は15m以上の切り立った断崖、北西側は勾配のきつい傾斜面となっているため城内に至るには正門や裏門に面している南北の丘陵尾根沿いしかなく、守りやすく攻めにくい地に築かれています。

 

 

城は6つの郭からなり、城壁は琉球石灰岩で積まれ、自然の岩石と地形的条件を巧みに生かしながら美しい曲線で構成されています。

 


中城城の築城年代は不明ですが、14世紀後半に先中城按司が数世代に渡って築き、1440年頃に座喜味城主「読谷山按司:護佐丸」が王府の命令により移ってきて、1458年に自刃するまでの間に、北の郭、三の郭を当時の最高の築城技術で増築したと伝えられています。

 


護佐丸滅亡後は、世子(王子)の居城となり、さらにその後は間切番所、中城村役場が置かれ、1945年(昭和20年)3月頃に戦争により焼失するまで中城村の行政の中心となっていました。
戦後は県下初の公園として動物園や遊園地等が設置され、県民の憩いの場として利用されました。

 


1972年(昭和47年)5月15日、沖縄の日本復帰に伴い、国指定史跡となり、2000年(平成12年)12月2日には「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として世界遺産に登録されました。さらに2006年(平成18年)4月6日には日本城郭協会より「日本100名城」にも選ばれました。沖縄の世界遺産HPより)

 


中城城跡内には8ヶ所の御嶽・遥拝所があります。

ドローンでの美しい空撮をお楽しみ下さい。

 

 

 

 


・首里城

 

写真引用元:©OCVB 

 


首里城とは

首里城は内郭(内側城郭)と外郭(外側城郭)に大きく分けられ、内郭は15世紀初期に、外郭は16世紀中期に完成している。正殿をはじめとする城内の各施設は東西の軸線に沿って配置されており、西を正面としている。西を正面とする点は首里城の持つ特徴の一つである。中国や日本との長い交流の歴史があったため、首里城は随所に中国や日本の建築文化の影響を受けている。正殿や南殿、北殿はその代表的な例である。

 


首里城は国王とその家族が居住する「王宮」であると同時に、王国統治の行政機関「首里王府」の本部でもあった。また、各地に配置された神女(しんじょ)たちを通じて、王国祭祀(さいし)を運営する宗教上のネットワークの拠点でもあった。さらに、首里城とその周辺では芸能・音楽が盛んに演じられ、美術・工芸の専門家が数多く活躍していた。首里城は文化芸術の中心でもあったのである。首里城公園HPより)

 


先述したように首里城内には天上の神が最初に降り立ったとされる場所である「首里森御嶽」(すいむいうたき)があります。

 

 

写真引用:首里城公園HPより)

 

色彩豊かな王殿に目が向きがちですが首里城で最も重要なのがこの御嶽なのではないでしょうか?そんな観点でこの御嶽を見てみると御嶽を守るように首里城が存在しているようにも見えます。

 


 



●沖縄の城(グスク)と琉球舞踊


歴史を振り返ると琉球舞踊は首里城や識名園、御茶屋御殿などで披露される宮廷芸能でした。首里城は別として他の城で琉球舞踊が舞われていたか?は疑問ですが現代のイベントとして中城城址で琉球舞踊が舞われるというものがありました。

人工の造形美と琉球舞踊の人の動きが生み出す美しさが相まってこの世のものとは思えない美しさです。ぜひ動画をご覧下さい。





前の記事のパワースポットの記事でも書きましたが沖縄の石にはパワーが宿っているように感じます。城にはその石がふんだんに使われています。城自体がパワースポットなのにその内部に御嶽を抱いているのは考えようによっては最高のパワースポットですね!

 


沖縄の城は世界遺産になったほど見どころが多いです。今回はさわりの部分しか触れられませんでしたが今後も取材をしてまた採り上げますね。今回は歴史などの深い部分ではなく美しい外見を堪能していただければ幸いです♪

 


 

 

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写真引用元:©OCVB