人間は、坂ぬ下い上い
(にんじのー、ふぃらぬ・くだい・ぬぶい)
意味:人の一生は、坂を下ったり上がったりするようなものだから絶えず努力しなさいよ
●城であって城ではない「沖縄の城」
ウチナーグチ(沖縄の方言)では「グシク」と言います。
ウチナーヤマトグチ(戦後の標準語的にアレンジされたウチナーグチ)で言うと「グスク」になります。ウチナーグチは琉球語と言い換えても構わないようですが、永い年月を経て多少変化しています。
単語で見ると、日本語の古代語の影響が強く、更に遡れば古代ハングル語との共通点も指摘されています。
グシクは正確に言えば石を組み合わせて築かれた建造物を意味します。日本本土で言うところの「城」とは建築物の性格が異なるのですが、見た目は「城」に似ているために、本土の「城」という漢字が当てられ、現在では「城」で(ぐすく)とも読むのは所謂“沖縄読み”の代表のように変化しました。
原初のグシクに対して、中世以降のグシクは日本の「城」の要素を含んだものも増えてはきたようですが・・・。
●中国との関係が大きかった
ここまで沖縄の城が異質なのは沖縄を取り巻く歴史に大きなポイントがあります。
沖縄は約500年続いた「王国」でした。王国という事は周りの諸外国からも独立した国として認められていたという事です。国際関係では自分で「独立国」と叫んでも独立できるものではないからです。
「琉球」という国名も中国の皇帝からもらったものでした。という事は中国の支配下の国ではないか?という見方もありますが国際関係はそんなにシンプルなものではありません。当時の中国は自分の国の皇帝を頂点とし、周辺は野蛮人の国だ、という「華夷秩序(かいちつじょ)」という考え方をもっていました。
当時の中国は軍事、経済の面で超大国でしたので琉球を含む周りの国は中国のメンツを立てて距離感を保って関係性を持つ事でメリットがありました。中国としても自分の影響下に多くの国を巻き込めるのはメリットでした。
写真引用:日本財団図書館
●信仰と城の関係
日本の城は戦略上の要素が大きいです。
日本における城は、古代の環濠集落から石垣と天守を持つ近世の城まで多様なものが含まれます。幕末の台場や砲台も、城に含めることがあります。まさしく戦略上の存在です。造営は、堀や土塁を築く普請(ふしん、土木工事)と、門や塀を造る作事(さくじ、建築)から構成されます。屋敷や櫓・天守も作事に含まれます。
中世の城では、戦闘員である武士がおもに駐在していました。その武士たちを抱える主君の武家や豪族は、城のある山とは別の場所に館を構えて居住していました。戦国時代には、主君も城内に居住するスタイルが現れ、おもな家臣たちも城内に屋敷を与えられ、その家族や日常の世話をする女性も居住するようになりました。戦国末期から近世の城郭では、外郭を築き、城下町も取り込む城も現れました。江戸時代の1615年に一国一城令が発布されるまでは、城は各地に多数存在し、砦のような小さなものも含めると数万城あったといわれています。中世・近世に、平地に築かれた館や館造りの陣屋等は城には含まないものの城郭構の陣屋や館、少しでも城に近づけて造られたものは、城とすることがあります。 (参考wikipedia)
それに対して沖縄の城(グスク)は戦略上のものというよりは「信仰の聖地」という側面があるのが特徴です。琉球の信仰の聖地として、御嶽(うたき)というものがあります。御嶽とは琉球の神話の神が存在、あるいは来訪する場所であり、また祖先神を祀る場でもある。地域の祭祀においては中心となる施設です。
施設といっても限りなく天然のものです。御嶽の多くは森の空間や泉や川などで、島そのものであることもあります。御嶽によっては空間の中心にイベあるいはイビ石という石碑があります。これは本来は神が降臨する標識であり、厳密な意味でのご神体ではない(ご神体として扱われているところも多い)。宮古や八重山地方では、過去に実在したノロの墓を御嶽とし、そのノロを地域の守護神として祭っていることが多く見られます。(参考wikipedia)
写真引用:沖縄観光style
写真は浜川御嶽とよばれる御嶽です。浜川御嶽とは琉球創世の神と言われるアマミキヨがヤハラヅカサに降り立った後、仮住まいをした地とされています。浜川とは海のそばの湧き水のことで、アマミキヨはこの水で疲れを癒し、近くの洞窟にしばらく住んだのちにミントングスクに移り住んだと言われています。
御嶽はこのように自然の中にあるもので、実際に沖縄の城の中には御嶽があるところが多いです。有名なところでは首里城の中に御嶽があります。いくつかの門をくぐり、最後に「奉神門」をくぐると、そこに正殿があります。奉神門の手前に広がる広場「下之御庭」(しちゃぬうなー)には御嶽があります。
「首里森御嶽」(すいむいうたき)という御嶽です。天上の神が最初に降り立ったとされる場所で、ここを中心に、首里城が形成されたと考えられています。城内にある十カ所の御嶽「十嶽(とたけ)」のうちのひとつで、中でも最も重要とされている聖地です。
●実際に見ていきましょう
御嶽の機能もある沖縄のグスクですが戦闘などの戦略に長けたものもあります。特徴的な城を見ていく事にしましょう♪
・今帰仁城
写真引用元:©OCVB
今帰仁城跡とは
今帰仁城(別名北山城)は、琉球が中山に統一される前の「三山鼎立時代」には山北(北山)王の居城とし、また中山が三山を統一後には琉球王府から派遣された監守という役人の居城でした。外郭を含めると7つの郭からなり、その面積は首里城とほぼ同規模で、城を囲む石垣は地形を巧みに利用し曲線を描き、城壁のディテールは美しく、沖縄屈指の名城です。
2000年12月に開催された第24回世界遺産委員会で、座喜味城跡(ざきみじょうあと)、勝連城跡(かつれんじょうあと)、中城城跡(なかぐすくじょうあと)、首里城跡(しゅりじょうあと)、園比屋武御嶽石門(そのひやんうたきいしもん)、玉陵(たまうどぅん)、識名園(しきなえん)、斎場御嶽(せいふぁうたき)と共に本村の今帰仁城跡(なきじんじょうあと)の九つの資産が「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として世界遺産リストに登録されました。
また、平成18年には公益財団法人日本城郭協会により、日本100名城にも選定されました。これは優れた文化財・史跡であること。著名な歴史の舞台であること。時代・地域の代表であることを証明するものであります。(世界遺産 今帰仁城跡公式HPより)
今帰仁城跡内には2つの御嶽があります。
一つ目は大庭の北西部にある「ソイツギ」。『琉球国由来記』にある「城内下之嶽」という御嶽で、神名は「ソイツギノイシズ御イベ」。二つ目は御内原の林の中にある「テンチジアマチジ」。『琉球国由来記』にある「城内上之嶽」という御嶽で、神名は「テンツギノカナヒヤブノ御イベ」。城内で最も崇高な場所とされ、男子禁制の御嶽です。(世界遺産 今帰仁城跡公式HPより)
現在、ドローンでの航空撮影が完全に禁止されていますが規制前に撮られたあまりにも美しい空撮をご覧下さい。
・勝連城跡
写真引用元:©OCVB
勝連城とは
琉球王国が安定していく過程で、国王に最期まで抵抗した有力按司(あじ)阿麻和利が住んでいた城として有名である。城は、沖縄本島の中部勝連半島の根元に位置する丘陵上に築かれている。一の曲輪(くるわ)からは、北は金武湾を囲む北部の山々やうるま市の離島を望むことができ、南は知念半島や久高島、護佐丸の居城であった中城城跡が一望できる景勝地になっている。勝連城跡の標高は60m~98m。
総面積は11,897㎡。城壁は、自然の地形を巧みに利用しながら、石灰岩の石垣をめぐらせている。北西の最高部から一の曲輪、二の曲輪、三の曲輪、四の曲輪と各平場が階段状に低くなり、再び南東側の東の曲輪で高くなっている。城が立地しているこの場所一帯は、長い間人々が活用してきた土地である。城跡の崖下からは、貝塚が発見され、先史時代後期末から古代人の生活地として利用され、13世紀前後より城塞としての体裁を整えたと考えられている。(勝連城跡ホームページより)
勝連城址内には、タマノミウジ御嶽、肝高の御嶽のふたつの御嶽があります。
ドローンでの美しい空撮をお楽しみ下さい。
・中城城址
写真引用元:©OCVB
中城城とは
中城城跡は、中城村と北中城村にまたがり東北から南西にほぼ一直線に伸びた標高150m~170mの石灰岩丘陵上の縁辺部に立地する山城で、南東側は15m以上の切り立った断崖、北西側は勾配のきつい傾斜面となっているため城内に至るには正門や裏門に面している南北の丘陵尾根沿いしかなく、守りやすく攻めにくい地に築かれています。
城は6つの郭からなり、城壁は琉球石灰岩で積まれ、自然の岩石と地形的条件を巧みに生かしながら美しい曲線で構成されています。
中城城の築城年代は不明ですが、14世紀後半に先中城按司が数世代に渡って築き、1440年頃に座喜味城主「読谷山按司:護佐丸」が王府の命令により移ってきて、1458年に自刃するまでの間に、北の郭、三の郭を当時の最高の築城技術で増築したと伝えられています。
護佐丸滅亡後は、世子(王子)の居城となり、さらにその後は間切番所、中城村役場が置かれ、1945年(昭和20年)3月頃に戦争により焼失するまで中城村の行政の中心となっていました。
戦後は県下初の公園として動物園や遊園地等が設置され、県民の憩いの場として利用されました。
1972年(昭和47年)5月15日、沖縄の日本復帰に伴い、国指定史跡となり、2000年(平成12年)12月2日には「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として世界遺産に登録されました。さらに2006年(平成18年)4月6日には日本城郭協会より「日本100名城」にも選ばれました。(沖縄の世界遺産HPより)
中城城跡内には8ヶ所の御嶽・遥拝所があります。
ドローンでの美しい空撮をお楽しみ下さい。
・首里城
写真引用元:©OCVB
首里城とは
首里城は内郭(内側城郭)と外郭(外側城郭)に大きく分けられ、内郭は15世紀初期に、外郭は16世紀中期に完成している。正殿をはじめとする城内の各施設は東西の軸線に沿って配置されており、西を正面としている。西を正面とする点は首里城の持つ特徴の一つである。中国や日本との長い交流の歴史があったため、首里城は随所に中国や日本の建築文化の影響を受けている。正殿や南殿、北殿はその代表的な例である。
首里城は国王とその家族が居住する「王宮」であると同時に、王国統治の行政機関「首里王府」の本部でもあった。また、各地に配置された神女(しんじょ)たちを通じて、王国祭祀(さいし)を運営する宗教上のネットワークの拠点でもあった。さらに、首里城とその周辺では芸能・音楽が盛んに演じられ、美術・工芸の専門家が数多く活躍していた。首里城は文化芸術の中心でもあったのである。(首里城公園HPより)
先述したように首里城内には天上の神が最初に降り立ったとされる場所である「首里森御嶽」(すいむいうたき)があります。
(写真引用:首里城公園HPより)
色彩豊かな王殿に目が向きがちですが首里城で最も重要なのがこの御嶽なのではないでしょうか?そんな観点でこの御嶽を見てみると御嶽を守るように首里城が存在しているようにも見えます。
●沖縄の城(グスク)と琉球舞踊
歴史を振り返ると琉球舞踊は首里城や識名園、御茶屋御殿などで披露される宮廷芸能でした。首里城は別として他の城で琉球舞踊が舞われていたか?は疑問ですが現代のイベントとして中城城址で琉球舞踊が舞われるというものがありました。
人工の造形美と琉球舞踊の人の動きが生み出す美しさが相まってこの世のものとは思えない美しさです。ぜひ動画をご覧下さい。
前の記事のパワースポットの記事でも書きましたが沖縄の石にはパワーが宿っているように感じます。城にはその石がふんだんに使われています。城自体がパワースポットなのにその内部に御嶽を抱いているのは考えようによっては最高のパワースポットですね!
沖縄の城は世界遺産になったほど見どころが多いです。今回はさわりの部分しか触れられませんでしたが今後も取材をしてまた採り上げますね。今回は歴史などの深い部分ではなく美しい外見を堪能していただければ幸いです♪
今回も最後までお付き合いいただきありがとうございました!
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写真引用元:©OCVB