現代人が武士道から何を学ぶべきか?


「日本人なら知っておきたい武士道」(武光誠)の最後の締め括りに


武士道の核になるのは、和の心、つまり日本人らしさである。


武士道の道徳の柱として


「自分の役割をはたす責任感」


「よい人間関係をつくる礼儀」


「自分で物事を考えて決定する自主性」


こういった生き方をみにつけるために、日本の伝統文化に関心をもち、それを学んで、その心を知ること。

と書き、これからの日本に、和の心を知るサムライがふえていくことを願いたいと締め括る。


私も、これまで日本の歴史に培われた文化や伝統、作法や精神を日本人として、正しく大切に伝えていけるような和の心を知る侍になりたい。

BUSHIDO(新渡戸稲造)の武士道概念


武士道は、日本の象徴である桜花にまさるとも劣らない、日本の土壌に固有の華である。わが国の歴史の本棚の中におさめられている古めかしい美徳につらなる、ひからびた標本の一つではない。それは今なお、私たちの心の中にあって、力と美を兼ね備えた生きた対象である。それは手にふれる姿や形はもたないが、道徳的雰囲気の香りを放ち、今も私たちを引きつけてやまない存在であることを十分に気づかせてくれる。


君に忠、親に孝、自らを節すること厳しく、下位の者に仁慈を以てし、敵には憐みをかけ、私欲を忌み、公正を尊び、富貴よりも名誉を以て貴しとなす」



そ~ですね! 日本人としての誇りを持ちたいと思います。

「葉隠」 山本常朝(やまもとつねとも)

※実際は、佐賀鍋島藩士の田代陣基(たしろつらもと)が同藩士の山本常朝の話を筆記したものらしい。


「武士道と云うは、死ぬ事と見付けたり」


竹光誠(明治学院大学教授)「武士道」の解説によれば、

この言葉は、「死ぬこと」をすすめているわけではなく、安全な道をとって生きのびて、まわりから臆病者とそしられて暮らすぐらいならば、潔く死ぬがよいと考えた。これは、観念的な道徳ではなく、厳しい取り決めの多い藩内でお家が生き残るための処世術であったとしている。

「葉隠」は武家社会の厳しい日常生活を、武士として上手に生きていくための知恵の書であったようである。


処世術とみると、やはり観念的な道徳を説いた書であるように感じますが、ただ、素直に自分の誇りや、「ご恩と奉公」に対して真摯で、謙虚な道徳としての究極的思想であると、私は考えます。昔の人はそれほど真っ直ぐで、強く大きく譲れない誇りを持っていたのではなかろうか?

そんなふうに、胸を張って生きていた武士は、素晴らしいと思います。

「孝」の順序が、1番目に主君でその下が親とされていた時代であるから、(かといって親より君とはなかなか思えないだろうけど)その時代を生きた武士道の究極的思想であると、私は解釈したい。

「武士道は刀を、その力と武勇の象徴とした。」 

「伊達に刀はささぬ」

(武士道:新渡戸稲造)


武士はこのような危険な武器をもつことによって、

自尊心や責任感を抱くこととなる。

決して武士の持つ刀は、無差別に人を傷つけるためのものではなく、

不当不正の使用を厳しく非難し、やたらと刀を振り回す者は、卑怯者か虚勢をはる者と軽蔑された。

安易に刀を抜くのは臆病者ということ。

刀とは「平和」を実現されるために用いるべきと心得ていたようである。

刀すなわちそれこそ武士の魂であったのですね。


「日々、剣(心技体)を磨き、刀を抜けば必ず切れる。

しかし決して抜かない。

抜かないところに侍の価値がある。」

(大山総裁がよく口にした言葉だが、もともとは誰かの言葉かな?)

ということでしょう。


新渡戸稲造の「武士道」に

武士道の道徳的教育の面の源泉は、中国の孔子や孟子の教えだとし、

そして武士たちは知識としてではなく自分たちの行動の規範として儒教を身につけたと述べている。

武士がもっとも重んじた徳は「義」と「勇」であり、不正取引や裏取引をもっとも憎むのである。


「武士の重んずべきものは節義である。この節義は、人間の体の骨のようなもので、節義のない人間は、才能や学問があっても世の中の役に立たない。」

真木和泉守(まきいずみのかみ):尊王派の武士


国を司り社会を統制する。企業を経営し社会を創造し、社会に貢献する。

リーダーに求められるのは、この日本の武士道の精神であると思います。

「武士」がつくことわざを調べてみました。


武士は食わねど高楊枝(ぶしはくわねどたかようじ)

武士は貧しくて食事ができなくても、

食べたばかりかのようにゆうゆうと楊枝を使う。

武士はたとえ貧しくとも、気位を高く持つということ。

また、やせがまんすることにもいう。


武士は相身互い(ぶしはあいみたがい)

同じ立場である者は、互いに思いやって助け合うべきであるということ。



戦の事は武士に問え(いくさことはぶしにとえ)

何事も専門家にたずねるのが一番であるということ。



士族の商法(しぞくのしょうほう)

明治維新後、士族となった旧武士が、慣れない商売に手を出して失敗したことから、

慣れない商売を始めて失敗することのたとえ。



調べてみたものの、何か「あ~っそぅっ。」って感じでした。

何かほほ~うっ!っていうことわざないのかな?

正義なき力は無能なり。力なき正義も無能なり。


正義のない力は暴力にすぎない。

かといって正義を守り抜く力がなければ意味がない。


何のために強くなるのか?

それは自分に打ち勝つためであり、義を通すためであり、

人を導くためである。


自分に打ち勝つことで義を貫くことができる。

義を重んずる強い人間を導くために、

義で結ばれる真の友と歩むために強くなる!

そんな総裁の義に篤い大きさを感じることのできる、強さの概念である。

うぅ~ん深い。

受けた恩は忘れるな。受けた恨みは忘れてしまえ

「どんな小さな事でも受けた恩は絶対に忘れないようにしなさい。そして、受けた恨みはいつまでもぐずぐずとあいつがああだった、こうしたと言わない!そんなのすぐに忘れてしまえ。」

良い事があったら相手のおかげと思え!悪いことがあったらそれは全部自分のせいだと思え!

自分の身の回りの事象は、すべて自分の成す事において起こるものであると理解し、感謝と反省の気持ちを持つことの訓えであると思います。


「日本中借り物の言葉が多過ぎる。自分の言葉で話せないかね!」


「相手の気持ちを察して発言する、それが本当の意味での敬語だ」


ビジネスでの敬語テクニックではなく、相手を伺い察する気持ちで会話をすることが大切であると説いた言葉と理解します。相手を思いやる気持ちが大切で、その気持ちによって自然に出てくる言葉が敬語であるということだろう。また、自分の言葉というのはもっと深いように思う。自分の言葉とは自分の思想でもあるし、自分の将来を見据えた言葉であり、心の中を映す素直な言葉であろう。

実践なければ証明されない。証明なければ信用されない。信用なければ尊敬されない。


昔 大山(極真)空手が世間から喧嘩空手と蔑まれ、認知されていない時に実際に海外でのデスマッチなどを通じて世界で空手を実践し、その強さの証明をした。そして世界の人々から空手の実践有効性を信用させてきた、そうして世界で大空手ブームが巻き起こり、世界最大の武道組織ができあがる。

身分や人種、宗教や政治にとらわれない偉大な空手の先駆者として、世界中から尊敬を集めた自らの体験からきた言葉だと思います 。極真空手の原点です。