─199×年夏─
ガラス戸を押し開けるとコーヒーの香りが鼻腔をくすぐる。
カウンターの中に立つ同僚の男が、僕の姿を認めて疲れた笑みで片手を上げた。昼食時はいつも通り忙しかったようだ。僕も彼に倣って軽く敬礼を返した。
「すーちゃんおはよう。昨日、来た?」
僕は一番気になっていたことを社員の鈴木に尋ねた。ランチタイムを終えた店内は閑散としていたから、声をひそめて。
「新人? 来た来た」レジの中で伝票整理をしていた手を止めて、鈴木は頷いた。
客席に気を配る僕の思いを無視するように、鈴木は普通の声で応じた。この男にはデリカシーがない。
「どんな感じ?」僕は小声で尋ねた。
アルバイトと社員とはいえ、僕と鈴木は大して歳が違わなかった。だから僕たちは、たいていお互いタメ口だった。
「偉そうなの」小太りの鈴木は、ものすごくしょっぱい梅干しか、ものすごく酸っぱいレモンでも口に含んだような顔をして、普通の大きさの声で答えた。
「偉そうなの?」僕はさらに小声になった。
新人のアルバイト女子はどんな人だろう、と心躍らせていた僕の心は半分折れた。その音はと言うと、そう、新鮮なセロリでも折ったような音だった。
「そう。えっらそうな、おばさん」鈴木は唇をタラコみたいにして、大きい声を出した。
「声、でかいってば」
「あ」鈴木はおばさんが笑う時みたいに、手のひらで口を覆った。
「偉そうなおばさん? おばさんなの? それで、偉そうなの? え、なんで?なんで? 22とか言ってなかったっけ? あれってガセネタだったの? おばさんなの? 態度でかいの?」僕はほとんど、息のような声を出した。
「ひろちゃん、質問多すぎ」
「怖いの? ヤバイの?」
今度はというと、鈴木は苦い薬でもなめたような顔をして頷いた。僕の心は三分の二ぐらい折れた。今度はくしょりと湿った音を立てて。
「マジで?」
「マジマジ」店内はエアコンが効いているのに、鈴木は額に汗を浮かべていた。
「こ、怖いなぁ。嫌だなぁ……」
「ひろちゃん、いじめられるよ。確定」着替えに向かう僕の背中に鈴木の声が刺さった。「今日は休みだけど、明日来るからさ」
「声でかいってば」振り返った僕は、また息のような声を出した。
***
「あ、おはようございます」僕はレジの中にいるその人にすぐさま頭を下げた。
「あの、いり……」名を名乗る前にその人は満面の笑みで口を開いた。「遠野です。よろしくお願いします」言葉と共に頭を下げた。
怖いおばさんが仁王立ちしている絵柄を想像していた僕は、脳しんとうでも起こしたような軽いめまいを覚えた。
遠野美樹子22歳。僕、入江弘之19歳。それが初めての出会いだった。
彼女の笑顔は、まるで真夏の日差しに揺れるひまわりのようだった。僕はすっかり担がれたか、鈴木の感性がおかしいか、のどちらかだった。
僕は一目で恋をした。
ポチッとクリックお願いします。
にほんブログ村
人気ブログランキングへ


















