風神 あ~る・ベルンハルトJrの「夜更けのラプソディ」 -112ページ目

「ふってるぅ」ドアから出てきたのはすみれだった。空を見上げて発した言葉はまるで蒸気機関車のように顔の前に白い息を振りまいた。

「お昼には止むらしいわよ」後ろからドアを押し開けているのは妻の早紀だ。黄色いゴム長を履いたすみれが小さくジャンプして雪の中に立った。スキーのジャンプ並みに両手を横に広げたすみれが顔を上げた。

「あーパパだー!」目を大きくして、宝物でも見つけたような顔をした。
「パパが帰ってきたー!」白い息が盛大に舞った。

声が遠くで聞こえる。まるで現実感がない。この風景には、リアリティというものが完全に欠如していた。



「あら、どうしたの?」妻の声がする。
「うーん……」鳴海は首をかしげた。何をしに戻ってきたんだったろう。
「忘れ物?」
「いや、忘れ物というか……」
「どうしたのよ、ボーッとして。熱でも出たんじゃないの」

これはやはり、夢だろうか。目覚めたら病院のベッドか、三角兵舎の中か、はたまた隼の中か。歩み寄ってきた早紀が手袋を取り、その手が鳴海の額に触れた。

「手が温かいせいだろうけど、よく分からないわね。冷たいわ額」早紀が少し笑った。
「パパはお仕事がおやすみになったの?」すみれが見上げた。鳴海は両手を広げてすみれを抱き上げた。暖かい。明らかな体温を感じる。
「パパは……」鼻の奥にツンとした刺激が走り、目が痛い。
「ごめんねすみれ、パパは、いいパパじゃなかった」



「パパが泣いてるよ」すみれの声のトーンが落ちる。
「いや、泣いてないよ、すみれ」すみれを下ろし、両手で雪をすくった。これで顔を洗ったら、夢から覚めるのだろうか。

……だとするのなら、もう一度だけ。

手のひらの雪を捨ててすみれを抱きしめた。いつものすみれの暖かな匂いがした。
「パパを許してくれるか、すみれ」
「よしよし、いいこだからね。泣かないんだよパパ」すみれの手が鳴海の後頭部をパタパタと叩く。
「ありがとう、すみれ」鳴海は覚悟を決めてすくった雪で顔をゴシゴシと洗った。

声は聞こえない。辺りはシンと静まりかえって何も聞こえなかった。二度、三度、雪をすくって顔を洗う。

顔を上げたら誰もいない。娘を亡くした男がひとり、我が家の庭で雪を顔になすりつけて後悔をしている情けのない姿を晒す。鳴海はゆっくりを顔を上げ、目を開けた。



「パパが雪だるまになってるー」すみれの笑い声とくしゃくしゃの顔が見えた。
「パパはやっぱり、お熱を出してるかも」早紀が眉根を寄せた。

「俺のことがちゃんと見えてるか?」
「見えてるに決まってるでしょ。それより、気づいちゃったんだけど」
「何?」
「左のバンパーが少しへこんでるの」早紀がアウトバックを指さした。

「ああ、ちょっと居眠りをして何かにぶつけちゃってね」
「怪我はないの? ねえ、ひょっとして頭ぶつけてない? さっきから言動が変だけど」
「いや、頭はぶつけてない」鳴海は小さくコクコクと頷いた。
「ならいいけど」



「あ、思い出した」
「何を?」
「何で戻ってきたのかを……マフラーだ」
「マフラー?」すみれが自分の首に巻かれたマフラーを握る。
「いや、違うマフラーだ。車のマフラーだよ」すみれの頭を撫でた。

フォレスターに潜り込んだら、案の定マフラーに雪が詰まっていた。鳴海はそれを小枝で取り除いた。

「よし、いいぞ!」
「詰まってた?」
「ああ、危ないところだった」小枝を投げ捨てた。早紀が歩み寄り、鳴海の服についた雪を払った。
「ありがとう。居眠り運転って、疲れが出てるんじゃないの?」
「ちょっとの間だろうけど、長い夢を見た」
すみれは足に抱きつき、足踏みをしながら歌を歌い始めた。

歩こう 歩こう 私は元気ぃー 歩くの大好きー どんどん行こう♪
「パパも歩いてー」すみれに言われて、鳴海も足踏みを始める。暖かい。確かな温もりを太ももに感じる。



坂道、トンネル、草っぱら、1本橋に、でこぼこジャリ道
「パパも歌って―」
くもの巣くぐって くだりみち♪

「あ、そうだわ、実家から電話があったのよ」
「電話? どっちの実家?」
「あたしの実家」早紀が自分の鼻先を指さす。
「で、何だって?」
「で、いつまで足踏みしてるつもり?」
「ん?」すみれはとっくに足から離れていた。

いねむり……パパがいねむり……じっか。すみれがブツブツと復唱している。この子はこうやって言葉を獲得してきた。
「じっかって、なに?」
「すみれにとっては、この家が実家になるんだよ」
「おぉー」
分かったのか分かっていないのか、それでも大きく頷いている。



「本家のおばあちゃんがね、もう体がいうことをきかなくなってきたから、今年は靖国に行きたいって言ってるらしいの。で、東京で暮らしたことのあるあたしたちに白羽の矢が立ったらしんだけど。もちろん、連れて行って欲しいってことで」

「靖国神社か」
「そう。おばあちゃんのお兄さんが特攻で亡くなったのよ」
「特攻で? もしかして……亡くなったお兄さんって、杉浦って姓?」
「ううん。姓が途切れるからって、おばあさん婿さんをとったからお兄さんも土田って名前だけど、誰? 杉浦って」

「しりゃは? しりゃはのや?」
「し・ら・は・の矢だよ」鳴海はすみれに笑いかけた。
しらはのや……しらはの、や……。
「なに?」

「今夜教えてあげるよ」
「おぉー」
その今夜は本当に来るのだろうか。いや、来る。これは夢ではない。紛れもなく現実だ。

誰かが時間を少しだけ戻してくれたのだ。それは杉浦だろうか、佐智だろうか、それとも、敵艦空母に突撃して砕け散った杉浦の愛機、一式二形の隼だろうか。


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額に衝撃を受けた。焦点を結び始めた視界に、自分の手の甲が見えた。指を動かしてみる。握っているのは黒い輪っか。
頭を起こして顔を離す。熊?! ビクリとする。けど、違う。

覚醒していく意識はその実体を捉えた。目玉に見えたのはメーターで輪郭に見えたのはハンドルだ。鳴海は顔を上げて前方を見つめた。そこに広がるのは白い世界だった。視線を動かすとルームミラーが見えた。



アウトバックの中だ。
どこだここは?!
右を見た。左を見た。そしてインパネの中央のデジタル時計を見た。
8:38
8時38分……8時38分……。

娘のすみれは死んだ。妻の早紀は意識不明。
いや、助かったと医師が……いや、会ったんだ。確かに会った。
今日は何曜日だろう?

すみれは死んだ。
病院、病院……いつ、病院から戻ったんだ?

お葬式……すみれのお葬式……。
……あげてはいない。



ここはどこだ? 鳴海はハンドルにもたれかかるように外の景色を眺めた。振り返ると右後方に山が見える。ということは、職場の近くだ。
飲み込めない。この身に起こっているあらゆる事態が理解できない。
帰らなければ。家に戻らなければ。それだけが鳴海の体を突き動かした。

ギアチェンジした鳴海は狂ったように右ハンドルを切り、車をUターンさせた。
今日は何日だ。インパネを見ても。外気温と燃費と時間しか分からない。

赤信号で並んだミニキャブの助手席の男に、ウィンドウを下ろして声を掛ける。
「すみません! 今日は、今日は何曜日ですか?!」
気づいた男がウィンドウを下ろした。
「あ?」
「すみません、今日は何曜日ですか?!」
「今日かい? 今日は土曜だよ」
「えーと、2月の……」
「21日だよ。寝ぼけちまったか」気のよさそうな中年の男は、うひゃっと笑い、雪は止んで昼から晴れるよ、と付け加えた。

「どうもありがとう」
青信号に変わるやいなや、鳴海はアクセルを踏んだ。
気が逸(はや)る。ハンドルを持つ手が震える。けれど、焦ってはいけない。車間距離を保て。急ブレーキになる状況はアウトだ。弱いブレーキを繰り返す。落ち着け落ち着け。
鳴海は自分に言い聞かせながらアウトバックを操った。



たどり着いた家の駐車場には、早紀のフォレスターが止まっていた。背筋を悪寒が這い上る。
早紀とすみれが、再び倒れているのか。胃がドロドロに溶けていくような感覚に襲われる。
悪夢だ。夢は再び、心を砕くのか。目だけが意志を持ち、射貫くようにフォレスターを見つめた。

金槌、金槌、はたして金槌で車のガラスが割れるだろうか。それとも、ドライバーを当てて叩けば割れるだろうか。
工具箱は玄関の靴箱の中だ。

鳴海はアウトバックを出て、積もる雪の中を走り出した。
「早紀ー! すみれー! うをぉー!」後は言葉にならない声を張り上げて走った。

と、そのときだった。玄関のドアが唐突に開いた。


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特攻機がおよそ110機、掩護(えんご)の戦闘機が60機、しかし特攻機の何機かは、機体トラブルで引き返した。
悪天候により、沖縄を目指した特攻機が進発基地に戻ることは珍しくはなかったが、今日は天候に恵まれた。

第二次総攻撃の最終日。各地の飛行場から陸海軍の特攻機が集まってきていた。相当消耗したのか、あるいは温存か、海軍の神風には零戦が見あたらない。



特攻の機種は様々だ。2枚プロペラに下駄履きの九七式もあれば、隼もある。三式戦闘機〝飛燕(ひえん)〟、百式司偵(百式司令部偵察機)ともに隼の速度を超えている。さらに、最高速度624km/hという四式戦闘機〝疾風〟は実用化された日本製戦闘機の中では最速だった。隼より100m/hも速い。

隼の前方を、車輪を突き出したまま飛んでいる飛行機が見える。九九襲(九十九式襲撃機)だ。パイロットと偵察員の二人乗りの機には、律儀に二人が乗っている。
優れた機体ではあったが、すでに時代に置き去りにされた脚部を収納できない下駄履きの飛行機だったため、特攻の主力機となった。



隼の機首と回るプロペラの先に、白い雲を散らす青い海が広がっている。やがて水平線の彼方に島影が見え隠れする。直接護衛機のパイロットが大きな仕草で前方を指さす。あれが沖縄だと。掩護機のパイロットをしていた杉浦にとっては珍しい景色でもないだろう。

突入路を開く間接支援機はすでに先行している。
護衛の戦闘機がスピードを上げて飛び去っていく。先行の戦闘機が撃墜できなかった迎撃機が向かってきたのだ。
はるか先で、戦闘機が舞い乱れる。迎撃機の群れと護衛の戦闘機の空中戦が繰り広げられる。

掩護(えんご)機が撃墜できなかったグラマンが数機飛んでくる。その後を掩護(えんご)機が追う。こっちは重い爆弾を積んでいて動きが鈍い。黒煙と炎を上げて撃墜されていく特攻機も見える。
「おあいにくさま。この隼はちゃんと撃てるんだよ」操縦桿を引き、隼は上昇を始めた。



特攻機は、武装と防弾板を取り外した機も多かったが、杉浦はそれを拒んだのだろう。彼の戦闘機乗りとしての戦歴がそれを可能にしたのかもしれない。

重い機体に引っ張られるように急旋回した隼は、上昇してくるグラマンめがけて降下した。体にかかるGで血流がままならないことが分かる。
カタカタカタカタッ!
機銃が立て続けに撃ち出される。零戦の20mm弾に劣るものの、隼の鼻先から発射された12.7mm弾を浴びた2機のグラマンはすれ違いざま黒煙を上げた。
250キロ爆弾を抱えて、当時最速、最強を誇ったグラマンとやり合うとは、やはりこの男、優れたパイロットだ。

沖縄本島に近づくにつれ、雲の狭間から見える敵艦船の多さに驚かされる。もちろんお互いの高射砲や機関砲の射程外を維持してはいるのだろうが、海を埋め尽くすかのようだ。



外側を守るように配置されているのは、現在のイージス艦にあたるレーダーを積んだピケット艦だ。迎撃機の飛んでくる速さから見て、とうの昔に特攻機は捕捉されている。だからこそ、あれほど早くグラマンが飛んできたのだ。
杉浦はそれを分かっているだろうか。頭の片隅で鳴海は思った。まるで多重人格者のようでもあった。

ピケット艦に向け、急降下で特攻を仕掛ける戦闘機が見える。まだだ。隼は先を目指した。血が騒ぐのか、機体トラブルで飛行は無理だと諦めたのか、護衛機でありながら、特攻を仕掛ける機も見えた。
やがてひときわ大きい艦船が前方に近づいてきた。



友軍機のパイロットに左手を挙げる。鳴海の仕草に応えるように、男は右手で握り拳を振り上げた。数日前に初めて会話を交わした青年だった。
〝海軍の町〟長崎は、圧倒的に海軍志願者が多いのだという。そんな中、みんなと同じは好かん、と、陸軍を志願した男だった。教えてもらった不思議な指遊びは覚えきれなかった。

出ん出らりゅうば 出て来るばってん
出ん出られんけん 出て来んけん

来ん来られんけん 来られられんけん
来―ん 来ん

出ようとして出られるならば、出て行くけれど、出ようとしても出られないから、出て行かないよ。
行こうとしても行けないから、行くことはできないから、行かない、行かない。

戦闘機の狭い操縦席は、まさに、出ん出られんけん 出て来んけん、だな。出た時は五体が整合性を持たない。砕けた頭蓋の上を千切れた足が飛んでも、おかしくはないのだ。

『中尉殿、不思議なことに長崎には大規模な空襲がなかとです。そのうち大きいのがドカンとやってくるんじゃなかとって、母が心配しちょりました。早うアメリカなんぞ、やっつけてきよってって』
一時帰省の折り、特攻に志願したことを、母親には告げなかったそうだ。我が子を特攻で死なせてまで、戦争に勝ちたい母親などいないだろう。

『福岡の大刀洗に向かう汽車に乗ったとき、駅のホームの端っこまで母は追いかけてきよったとです。何も言わなかったけれど、目に涙を一杯溜めて。母は気がついていたのかもしれません。今度生まれ変わるなら、戦争のなか時代がよか』
三角兵舎の中で、彼は静かに語った。

一式二型隼は援護支援の戦闘機に感謝と惜別の意味を込めて翼を左右に振った。戦闘機もそれに応えて翼を振る。



高度を下げつつ右に旋回した。右の翼の先に海。左の翼の先に空。鳴海は風防天蓋(ふうぼうてんがい)を閉めた。
もってくれよ隼。左手でスロットレバーを絞り、足の間の操縦桿を必死に押さえ、敵艦に目標をセットする。狙うはもちろん空母。その空母は円運動を始めている。隼のもろい機体に注意をはらいながら急降下に入った。

急降下は45度から50度。しかし浮き加減になる隼は、せいぜいが30度ぐらいの緩慢な降下になる。鳴海はタブと呼ばれる昇降舵で機首が下がるように修正しながら、海面めがけて真っ逆さまに最大角度で突っ込んでいった。ガソリンの匂いがぷんと鼻を突く。

ダメだ足りない! 突入角度が緩い!
これ以上機体を空に晒しておくわけにはいかない。早く海面に到達しなければ。
海面すれすれを飛び、敵艦の土手っ腹に突入する。これは出撃前から杉浦が考えていた突入方法のようだった。砲門が多く並ぶ横から突入するとは何という無謀さだろう。



再び機体を戻した隼は背面飛行に入った。空と海が逆転する。そのまま一度遠ざかる。
操縦桿を引く。頭上の海が徐々に目の前に移っていく。機体は落下するように機首を海に向けて突っ込んでいく。スロットルを開き速度が乗ったところで緩める。
体全体に強いGがかかる。視界の大半が海になる。黒々とした煙の塊が空に散り、遅れて音が響いてくる。敵艦からの迎撃が始まった。

通称ポムポム砲と呼ばれる多連装の高射機関砲。雨あられとはこのことだろう、避けることなど出来ない。左上空で黒い煙が上がった。翼の付け根から炎を上げて友軍機が錐もみで墜ちていく。

ろくな操縦技術を学ぶ間もなく、精神を鍛える時間すらなく特攻に行かされた学徒だろう。彼らに比べ飛行機乗りは選ばれし人間だ。100人いても2人と存在しえない運動能力をもち、肉体的にも精神的にも常人の域を超えている。しかし、彼らは学業の途中でかり出された学生だ。

なんと哀れな。特攻に来ながら、敵艦に近づくことすら出来ずただ撃ち落とされて死んでいく若者たち。



友もいただろう。心ひそかに思いを寄せる人もいただろう。恋文のひとつも書いただろうか。恋する人のその手に触れただろうか。父母は泣くだろうに。
指揮を執る者たちは、火の粉の及ばぬ所にいる。毎夜飲んだくれている上官もいると聞く。

Gに耐えながら操縦桿を引き絞った。速度およそ600Km/h、隼はこれをオーバーすれば翼がもぎ取られる恐れがある。足踏桿のベダルを操作しながら隼にブレーキを掛ける。視界の上方から敵空母が降りてくる。

しまった! 操作が遅すぎたか! 海面が思いの外近くに迫ってきた。250キロ爆弾は、杉浦の操縦技術をも狂わせたか。鳴海は歯を食いしばりながらいっぱいっぱいの操縦桿をさらに引いた。ここまで来て海に突入して死ぬなどまっぴらだ。

上だ隼! 上昇しろ! 上昇してくれ隼! 鳴海は声を張り上げた。

やがて隼は海面スレスレを這うように水平飛行に移った。海面からおよそ3メートル。高度計の針はマイナスを示して役に立たない。プロペラの風圧で海面に水しぶきが上がり眼前を覆った。



もう少しだ、もう少しで砲撃から逃れられる距離に近づく。右に左に砲弾の水柱が上がる。隼が右に流れる。と間もなく左に曲がる。スラロームを描きながら隼は確実に空母に近づいていく。

隼を正面から射止めるのは難しいはずだ。薄い翼にスリムなボディ。遠くから見れば横棒の真ん中に小さい丸を描いた程度にしか見えないだろう。なるほど、杉浦はこれを狙っていたのか。

空も海も青かった。ただ、前方で波飛沫をあげながら進む空母だけが、異様な生き物に見えた。砲撃の及ばない距離まで近づいた時、鳴海は風防天蓋を開けた。猛烈な風が操縦席に巻き起こる。

これにより若干スピードは落ちる。爆弾を落とすより遅い戦闘機が激突しても、思ったほどの破壊力は生まないから、できればスピードが欲しいところだろう。それでも最後の新鮮な空気を吸いたいと、鳴海は思った。

艦上を逃げ惑う敵兵たち。彼らに恨みはない。戦争などなければ分かり合えたかもしれない若者たち。航空眼鏡を外すと風が目に突き刺さる。眉間を絞り狙いを定めるように目を細めた鳴海は無線のスイッチを入れた。
灰色の敵空母の横っ腹が、眼前いっぱいに広がった。



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「魂のルフラン」



警戒警報もなく、いきなり空襲警報が鳴り響いた。驚いた佐智は空を仰いだ。4月の知覧の空は今日も青く広がっている。

特攻機を掩護(えんご)する飛行隊員たちが、戦闘機を格納してある掩体壕(えんたいごう)に走る。しかし、すでに無理だと判断した様子で、宙をにらんだまま動きを止めた。邀撃(ようげき)は諦めたようだ。

「佐智! 早よう逃げんと!」遠くから呼ばわる声に、佐智は弾かれたように走り出した。
日本軍の飛行機とは違う、腹に響く熊ん蜂のような音。米軍の艦載機だ。佐智は防空壕のある方へまっしぐらに走った。

音が近い。走りながら見上げると、ずんぐりむっくりとした機体の群れ。グラマン(F6Fヘルキャット)だ。

杉浦さんが教えてくれたことがある。無敵を誇った海軍の零戦も陸軍の隼ももはや時代に取り残され、F6Fとまともに闘えた戦闘機は零戦の後継機として開発された紫電改ぐらいだったと。彼らはすでに日本軍の戦闘機を舐めきっていた。

キーンという耳障りな音がしてくる。急上昇の音とは明らかに違う、急降下音だ。
足がついていかず前のめりに倒れて、額を思いきり地面に打ち付けた。手を突き、膝を立て、起き上がって走った。恐怖で膝に力が入らない。

掩体壕(えんたいごう)で整備兵が、こっちへ逃げてこいとばかり、腕招きをする。
空襲から戦闘機を守るために、4メートルほどの土塁をコの字型に積んだ掩体壕は、まさに杉浦さんの隼の偽装を外した場所だった。

「走れ、走れ!」整備兵の声が励ます。
足がもつれて、また転んだ。耳をつんざくほどの轟音。近すぎる。立ち上がったが、息が上がり足が萎えたように言うことをきかない。
「やっせん!」
腿を両手で叩いて足を踏み出したが、もう走れなかった。足が、動かない。

バリバリバリッ、背後に機銃の音が迫る。
標的が大きくなるから伏せてはいけないことなど知っている。それでも佐智は体を縮めるように伏せた。
「伏せちゃダメだ! 走れ走れ走れ!」整備兵の悲鳴に近い声がする。



杉浦さんは言った。佐智、スカートが捌ける時代がもうじき戻ってくるよ、と。
もんぺじゃなくて、またスカートが捌ける時代がね。
僕の母は体を悪くして、僕以降に子供を産むことはなかった。だから佐智をとても可愛く思う。

右前方からすさまじい土煙が迫ってきた。違うグラマンの機銃掃射だ。
佐智、誰の命にも時間の制限がある。その時間がいつ訪れても悔いの無いように、これからも精一杯生きなさい。僕の分まで。

グラマンを操縦する米兵の顔が見えた。顔を真っ赤にした赤鬼。
「佐智はもうダメんごたる!」
背中に熱い衝撃を受けた。胴体が勝手に弾む。鼻先で、最後の息が土埃をかすかに震わせた。





「すみれの様子はどうですか? 寂しがっていませんか?」
「おまえだってまだ回復していないんだから、焦ることはない。心を穏やかに治療に専念しなさい。今は回復することが一番大事だ」
「そうね……」

納得はしていないだろう。しかし、すみれの様子など伝えようもない。早紀は窓の外に顔を向けた。
「こんなことがなければ、今日はスーパーで遊ぶ日だったのにね」誰にともなく、呟くように、早紀が口にした。

「来週は行けるのかしら?」
鳴海は言葉に詰まる。今はまだ真実は語れない。これ以上、嘘はつきたくなかった。けれど、せめて治療が終わるまでは早紀の心を潰してはならない。

しかしこれは、言葉にしていなくても、いや、していないからこその立派な嘘。
それも、優しさの欠片もない、残酷な偽り。



早紀はきっと、すみれの死も知らずに発した自らの言葉を、悲しみと共に反芻するだろう。己を咎めるように、幾度も幾度も。
思い浮かべたスーパーでの景色も、すみれの笑顔も、来週はいけるのかしらの言葉も、彼女をナイフのように切り刻む。

すみれは斎場に搬送された。明日は焼かれて小さな骨片になる。



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「いよいよ明日になりもした……」
「そうだねえ……しかし、何というか、明日死ぬことが分かっている人間なんてこの世にどれだけいるんだろうか。戦場での我が身は明日をもしれぬけれど、明日と決まっているわけではない。まあ、ここにはそんなに人間がゴロゴロいるんだけどね」杉浦さんは苦笑した。

「できることなら行かんでほしかです」
「無理な注文をするな佐智。僕は飛ぶよ、運命は変わらないから」右の手のひらをひらひらと落下させた。

それは特攻を意味するのか、逆らえない運命を示すのか、分からなかった。いや、この人は自ら特攻を志願した人なのだ。それを運命と呼ぶのだろうか。
「外園(ほかぞの)曹長も、汗を拭き吹き迎えに来るだろうし」杉浦さんは薄く笑った。



「ん?」それは唐突だった。
「こんな所にホクロがあるんだね」杉浦さんが顔を寄せて耳たぶを引っ張った。
「あぁ、こいですか? さっちゃんな、耳んクゾが付いとぉって、こまんか頃よくからかわれもした」
確かに耳の穴のそばにホクロがある。佐智は杉浦の引っ張った左耳を触った。耳が熱を持った。

「か……かごんま(鹿児島)には、泣こかい、飛ぼかいってありもす。こまんか男ん子らが高い所から飛んだりすっとに、腕を前後に振りながらすっとです」
「何で耳を押さえてるの?」
「そがんことは、よかとです。話ん途中です」
「あら、怒っちゃったの?」
「怒ってません。かごんまには……あの、聞いとりますか?」
「さっきから、ずっと聞いてるよ。かごんまが2回出てきた」
どうもこのひとは、熱を出した辺りからときどき人格が変わるような気がする。でも、この砕けた感じも好きだが。

「で?」
「泣こかい、飛ぼかい、泣こよかひっ飛べっ! ちゅうて飛ぶとです。男ん子なら、泣くぐらいなら飛べっちゅうことです。
でも、杉浦さんには飛ばんで欲しかです。でも……でも、飛ぶのが運命なら、勇ましく飛んで欲しかです」
「うん、多分何気なく飛ぶよ、未来を信じてね。勇ましいかどうかは謎だけど」

姉と弟に挟まれて育った佐智には、兄という感覚が想像の域を出なかったけれど、あの人と接して、年の離れた兄がいたらこんな感じなのだろうかと思った。

小さい頃に近所に住む吾一君が好きだった。一緒にいるだけで嬉しかった。そばにいなくてもいつも視線の先に吾一君を捜した。今にして思えばあれが初恋だったのかもしれない。それが今は坊主頭で唐芋(サツマイモ)のような顔をしてボソボソとしゃべる変な子になった。でも、あの頃は大好きだった。

人は恋などという存在に気づく前に人を恋する。好きという感情は勝手に育つものだ。自分があの人に寄せる感情は、存在しなかった兄への慕情に近いのかもしれない。



「葬儀と告別式は斎場で執り行うことでよろしいですね」葬儀社の男の声に、鳴海は力なく頷いた。
「では明朝の搬送で手配します。ご心労でしょうけれど、わたくしどもも心を込めて、お子様をお送りさせていただきます」

会社への連絡を忘れていたことを思い出し、鳴海は階下に降りた。待合には午後の診察を受けるひとたちがたくさん座っていた。
売店近くの公衆電話で会社への報告を終え、正面玄関から外に出た。
すみれの死を知った後か知る前か、妻はここを通るだろう。しかし、すみれが通ることはない。吸ったタバコは、ひどいめまいを誘った。



すみれの葬儀をすませ、妻にすみれの死を伝え、後遺症が残らないことを確認できたとき、妻に別れを告げよう。
3人で暮らしたあの家で、これから2人で暮らしていくことは早紀とて辛いことだろう。それに何より再び子が生まれることはないだろうから、彼女の傷が癒されることもない。もとの赤の他人に戻って、それぞれの人生をやり直そう。

すみれはなぜが焼き鳥の皮が大好きだった。塩でもタレでも美味しそうに食べた。
父親に似て酒飲みになるなあ。早紀の両親が笑いながら口にしていた。人の気も知らないとはこのことだ。鳴海のほほえみは頬の筋肉をわずかに動かすだけで終わった。

すみれに罪はなかった。健気で愛おしい存在だった。しかしそれが苦悩の種であり、時として疎ましく悩ましく狂おしかった。そのすみれが、二人を繋ぎ止めるという役割を果たしていたことに鳴海はあらためて気がついた。



雲の切れ間から無数の薄日が筋状に差していた。
天使の梯子……。
すみれはやがて、あれを登るのだろうか。遠く空の彼方まで。



「来ましたか」鈴木軍曹の背後に立った佐智は小声で尋ねた。
「来ましたよ。えーと……」
「杉浦中尉です」
「はい、杉浦中尉殿は、確かに受信しました」
やった。やっぱりあの人は敵艦にたどり着いた。
「ちょっと待ってください」礼子から渡された形見の万年筆と腕時計を、佐智は胸に抱いた。

チェスト行け! キバレキバレ!……口の中で念じる。
「お願いします!」

「われ、これより敵空母に突入す。その直後、連絡が途絶えました」
あの人は見事に散った。佐智はしゃがみ込み、唇を噛みしめた。涙は床にぽとぽとと落ちた。
「ここで泣いちゃダメよ」励ます礼子の声に佐智は頷いた。特攻兵たちに涙は見せてはならない。
うんの声が嗚咽になった。



明日ここを訪ねても、もうあの人はいない。ご苦労様とあげる片手と、目尻にしわを寄せる優しげな笑顔に接することは出来ない。遠い沖縄の海に散ったのだから。

わたしは生きよう、彼のために。道の途中で間違った選択をしたとしてもそれは時代のせいだ。未来があると言ったあの人の夢を信じて、わたしは生きよう。

『人ん思いは川ん水じゃ。川ん流れは人ん誠意じゃ。海はもうひとりの、あるいは大勢の人ん心じゃ。
すべての川は海に注いどっ、人ん思いもそいとおんなじじゃ。叶うごとするには思えばよか。思いに銭はいらん。
じゃっどん、邪(よこしま)な思いで濁ったもんを流すっとはダメじゃ。漉(こ)して漉して、きれいになった水、要は穢(けがれ)んなか思いじゃ、そいを流せばよか。そうすれあ思いは通じっとじゃ』
死んだじいちゃんが笑いながら言っていた。



帰りのトラックに乗った途端、みんな声をあげて泣き出した。今日は特別に悲しかった。でも、本当に深い悲しみは、一夜が過ぎた明日の朝日が連れてくる。

町が近づいてきた。特攻兵士の前で涙を見せてはならないことと、この知覧に特攻基地があることは親兄弟にも口外してはならないことだった。
「涙を拭いて、さ、歌おう。〝空から轟沈〟がよかね? あ! 昨日教えてもろうた〝同期の桜〟にすっが。さ、みんな、泣かんで、歌おう!」

「同期の桜」


作詞:西條八十 作曲:大村能章

貴様と俺とは同期の桜
離れ離れに散ろうとも
花の都の靖国神社
春の梢(こずえ)に咲いて会おう


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「広島と長崎に想像を絶する爆弾が落ちる。戦闘員でもない多くの尊い命が一瞬で失われる。その数は30万人を超えた。それは原子爆弾と呼ばれる悪魔の兵器だ」

「げんし、ばくだん……そいも、見たとですか」
「日本の歴史に残っている。この戦争は、もっと早く終わらせるべきだった。せめてあと一年早く終わっていれば、200万人は助かっただろうに」端正な顔に、苦しげな表情を浮かべた。



「悲しいかなあまり知られていない、東京大空襲も教えておこう」
「3月の」
「そう、先月10日の大空襲だ」
「みんなに、忘れらるっとですか」

「いかに原爆の衝撃が大きかったかと言うことになるだろう」杉浦さんはふぅっと息を吐いた。
「米軍は市民を殺すことを目的に東京大空襲を行った。方法は火の壁を作って市民を閉じこめることだった」
「火の壁に閉じこめられたとですか」

「僕は飛行機乗りだからわかるのだけど、夜間の空襲でこれを狙うのは難しいことだろう。だから偶発的かもしれない。けれど、まさに火の壁ができあがった。
江東区、墨田区、台東区にまたがる40㎢の周囲にナパーム製高性能焼夷弾を投下して、逃げ場を失った何十万人もの人びとの頭上に焼夷弾を雨あられと降らせた」
杉浦さんは右手の指をひらひらとさせて、ゆっくりと降下させた。
「そいはひどか。グラマンの機銃掃射よりひどかことです」



「浅草、本所、深川に、要は下町と呼ばれる人口が密集している地区だけど、そこに超低空で飛来したB29が325機だ。爆弾はM 69という焼夷弾が48,194発、188トンが投下された。その第一弾は0:08だった」
「夜中」
「そう。人々が寝静まる頃だ。空襲警報が発令されたのは遅れて0:15分、それからおよそ2時間半にわたって波状絨毯爆撃が続いた」
「2時間半もですか」



「東京大空襲は、あらかじめ計画された無差別集団殺戮だったんだよ。それも区域内にいる市民をすべて焼き殺すために綿密に立てられた殺人計画だった。
通常の作戦であれば、工場などの生産設備や、電力、水道、通信施設などのインフラを狙い定めて破壊する。これであれば市民の被害が少なくてすむからだ」

「いんふらっち、何ですか」
「なんと言えばいいんだろう? たとえば道路もそうだ。要するに基盤、土台になるものだね。いま言ったけど、電気もそうだし、水道もそうだ。
しかし、米軍が使った焼夷弾は日本家屋に火災を発生させるために新たに開発したものだった」


日本本土空襲用に開発されたM69油脂焼夷弾 焼夷弾とはゼリー状の石油

「その、いんふらじゃのうて、家を焼くためですか」
「そうだ。その日は風が強かった。折からの風速30メートルの強風に乗って、炎は一気に広がった。炎から逃げ惑う市民には超低空飛行のB--29から機銃掃射が浴びせられ、隅田川に逃げ延びた人たちも、焼夷弾の炎で焼き殺された。犠牲者の屍は炭化し、熱でおなかが炸裂して胎児が露出した妊婦もいた」

「なんちゅうことを……」
「ハーグ陸戦条約という1899年に制定された条約の第25条に『防守されていない都市、集落、住宅または建物は、いかなる手段によってもこれを攻撃または砲撃することはできない』と定められている。東京大空襲はこの国際法に明らかに違反した、まさに戦争犯罪だった。
東京大空襲は、広島、長崎に落とされた原爆の惨事と並んで、人類史上最大の虐殺だったんだ」



「やっぱり鬼畜米英やったとですね」
「いや、アメリカだ。この戦争で、これほどの残虐非道を行ったのは米軍をおいて他にないだろう。東京の人たちは、一瞬ではなく、逃げ惑い、機銃掃射に体を蜂の巣にされ、炎に焼かれ、水を求め、死んでいった」
「言葉ん出んです」
「アメリカ人はこれを真摯に受け止め、反省しなければならない。それならいつかはきっと、日本人は赦すに違いない。時代だったんだと」



「時代……」
「佐智、時代には逆らえないものだ。君だって、きれいでいたいだろうに、そんなもんぺを穿いている。それが、時代だ」
「もんぺは確かに動きやすかでばってん、おしゃれじゃなかです」

「しかし、立ち直った日本は凄い国になっている。ビルヂンングが建ち並び、家の中に小さいキネマがある」
「家ん中にキネマですか?!」
「うん、テレビジョンという奴だ。色が付いている。それから手のひらに収まるような大きさの電話で話が出来る。それを持ち歩いている」杉浦さんは左手を耳元に当てた。

「そん電話の線は、どげんすっとですか?」
「無線だ。それをみんな持っている。蛍光灯という灯りはまるで昼間のようだ。佐智の苦手な洗濯も機械がやってくれる」
「機械が手洗いすっとですか?!」
「いや、洗濯石けんを入れた水が回るんだよ」

「水が勝手に回っとですか! タライん中でですか?!」
「ま、そんなところだ。飯も火を使わなくても炊ける。話せばきりがない。でも、失われた美徳も多い。日本人は品格を失った。それは誇りを捨てたに等しい。道徳観も失い、治安も悪くなっていた。
人々は挨拶を交わすわけでもなく、俯き加減に行き交う。それも能面のような無表情さで。
笑うのも微笑むのも限られた人たちの中だけだ。己大事さで人々は助け合うことを忘れた。親が子を殺し、子が親を殺す。あんな国のために、この時代の若者たちは命を捨てるのだろうかと、暗い気持ちになる」
「そがん国になるとですか……」

「これは覚えておいて欲しい。この戦争の後に〘東京裁判〙という無謀な裁きが行われる。正式には極東国際軍事裁判だ」
「東京……裁判ですか?」



「そうだ。戦勝国が負けた国を裁く場に、中立国がいないというあり得ない裁判だ。
彼らは『人道に反する罪』として軍人を裁いた。しかし、非人道的な殺戮を行ったのは米軍だ。
あれが戦後日本の悲しい出発点になる。
倒幕から開国の明治以来、日本が行ってきたすべてが悪であるいう決めつけと自己嫌悪、これは日本人に植えこまれてしまったもっとも悪い傷だと言ってもいい」

「日本は裁かるっとですね……」
「あれは裁きではない。日本人としての自信と誇りを失ってはならない。佐智、君が長く生きたら伝えて欲しい。日本に浴びせられる批判の多くは、捏造なんだと」
「はい、わかりもした。日本人はみんな優しかです」
「そうだ、それこそが日本人の本質なんだよ」



「死んだら終わりですよね」
「佐智、昨日の話を聞いてなかったのか? 僕は未来を見てきたんだよ」
「夢ですよね」
「そう、長い長い夢。でも、僕の想像だけであんなものは作り出せない。だからきっと未来だ。その未来で僕は4歳の幼い娘を死なせてしまった。深い反省をした。己を呪いさえした」


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「特攻兵たちが死守しようとした沖縄は、無残な戦場になる。いや、彼らが守ろうとしたのは沖縄ではなく、ましてや日本でもなく、もっともっと小さいものだったのかもしれない。でも、結果として残るであろうものは、もっともっと大きいものだ。日本と日本民族の未来だ。
誰もが喜び勇んで特攻に来たわけでもないだろう。嫌々ながらの人もいるはずだ。断れない空気に押されてね」
杉浦さんが眩しそうな目で見上げた空を、佐智もつられて見た。青い空には何事もないかのように白い雲が浮かんでいた。
「みんなが志願じゃなかったとですか」驚きを通り越して小さく呟いた。



「初期はそうだったろう。けれどここまで来ると、それでは間に合わない。学徒は特にそうさ。時代は、戦争は、彼らの希望も夢も意思さえも、戦車のキャタビラのように踏み潰していく」

「あん人たちは、そがんして来たとですか……それなのに笑うて出撃して。それなのに日本は負けて、滅びるとですか」佐智は膝に乗せた拳を固く握った。

「日本は滅びなどしない。忘れないで欲しいのは、最終最後、彼らは納得していることだ。それがなければ死にになど行けるはずがない。これほど清冽な集団は世界に類を見ないだろう。佐智さん、日露戦争を知っているね」
「はい。ニッポン勝った、ニッポン勝った、ロシア負けたーちゅうて歌うたそうです」



「あの日露戦争でロシアに勝ち、有色人種を救った。あれがなければ、有色人種は世界の奴隷であり続けただろう」
「世界の奴隷?……」
「そうだ。世界の陸地のほとんどは白人が支配している。有色人種は白人の植民地支配を受けていたわけだ。彼らは有色人種など豚や馬と同じで、我々白人に飼育されているのが当然などと公言してはばからなかった。
そこに、あろうことか数少ない有色人種の独立国家日本が、強大なロシア帝国に戦いを挑んだんだ。
最終的にはアメリカの仲介を受けた形ではあったけれど、勝った。これが有色人種に勇気を与え、全世界の植民地による独立運動に繋がっていった」

「そがんことじゃったとですか。ないごて日露戦争は起こったとですか」
目を丸くして興味を持ったことに、杉浦さんは嬉しそうに微笑んだ。こんな話なんて聞いたことがない。父も母もじいちゃんも教えてはくれなかった。



「当時、ヨーロッパをはじめとする列強が、世界を植民地支配するのは当たり前のことだった。朝鮮半島を支配していた韓王国も危険にさらされていた。軍事力も経済力も遅れていた韓王国が保たれていたのは、清大国(中国)の属国だったからだ。
その清大国も、白人勢力に多くの領土を浸食され、半植民地と言ってもいい状態になっていった。
日本に最も近い朝鮮半島をフランスやロシアやドイツ、いずれにせよ白人の植民地にされてしまったら、日本の独立が危険な状態に陥り、やがて植民地化される恐れがある」
「ほんのこつ、そうです」早紀は大きく頷いた。

「特にロシアは不凍港を求めて南下政策をとっていた。それが実現したら喉元に匕首(あいくち)を突きつけられるに等しい。
何で日本がそこまで強くなったのかといえば、運がよかったからだ。日本の植民地化を狙っていた列強が睨み合いをしている間に、富国強兵を行ったからだよ」
「いろいろあっての戦争じゃったとですね」

「佐智さん、この戦争が、大国が小国を武力と金で支配する、領土拡張と資源獲得の最後の戦いになるはずだ」
「やっぱり、負くっとですね……」
「残念ながらね。でも、この特攻は誇りにこそ思え、非難されるべき事ではない」

「誰が非難をすっとですか」
「自らがだよ」杉浦さんは右手で胸をとんと叩いた。
「自ら?」
「切腹を命じられたら自ら腹を切る、それが日本の武士だった。自分が自分に罰を下すなんて国家は、世界広しといえども日本しか存在しない。だからいつか必ず、特攻に関しても腹を切る。小さな非難を大きく受け止め過ぎてね」



「ただ忘れないで欲しいのは、特攻は無謀な行為だけれど、われわれ日本民族だからこそできうる行動だということだ。死中に活を求める、という言葉がある。身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ、という言葉もある。
しかし、滅私奉公の心は、危険を生むことがある。今まさにそうだ。もしも時間が残されているなら、この話しもしよう。

日本には天皇があり神道があり武士道がある。揺るぎないその伝統のうえに異教の仏の教えを受け入れ、キリストさえ受け入れたしなやかな民族だ。しなやかさは強さだ。だからこそ、この戦いに負けたぐらいで誇りを失ってはならない」
「はい」佐智は頷いた。

「我々は亜細亜の雄、日本人として誇りを持って飛び立つ、それだけは覚えておいて欲しい。大和民族を意のままに支配することなど何人(なんびと)たりとも出来ない。
勝てないと分かっている戦いに、亜細亜でただ一国立ち上がったのが日本だ。その意地を見せるのが僕たちの役割さ、民族の誇りと己の命をかけてね」
「分かりもす」

「ただし、美化してはいけない。佐智さんは、もう理解したね」
「佐智でよかです」
「あ、そうか。じゃあ佐智。ここに来ている特攻隊員の多くが学徒だ。学業を途中で放棄されられて招集された学生たちだ。軍人である僕たちとは根本的に違う。
将来の日本のために彼らを殺してはならない。死ぬのは僕たち軍人だけで充分だ。しかし軍部はそれをいとわない。これは作戦としては恥ずべき事だ」温厚な杉浦さんに似合わず憤った声だった。
「はい、確かに皆さん若かとです。わたしたちみんな、実のお兄さんのごたるって」
「うん。ここに集まった人たちは、ひとりの人間ではなく、もはや一個の爆弾に過ぎないのだ」
「爆弾……」
「それはそれとして、僕が見てきた未来の話をしよう」


日本とアジアの大東亜戦争─侵略の世界史を変えた大東亜戦争の真実



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胸の奥底には、それぞれが言い表せないほどの思いを抱えていただろう。けれど、知覧にくる特攻兵たちは、みな心優しかった。己の死を覚悟したゆえなのか、澄んだ川面を吹き渡る風のように、清涼な空気を運んできた。

「先に無線室に行ってもよか?」洗濯物を干す手を止め、中村佐智は横を向いた。
杉浦中尉が飛び立ってから2時間あまりが過ぎた。順調に飛んでいれば、もう沖縄に到着してもいい頃だった。佐智はずっと時間ばかりを気にしていた。

「もう、そげな時間になったとね」肩の辺りで頬を拭った鳥浜礼子に、佐智はあごを引くように頷いた。
出撃した後、担当した特攻兵たちの消息を訪ねるのは常だった。

「あん人は、さっちゃんをわっぜぇ(すごく)可愛がっちょった。さっちゃんな鈍かから気がつかんかったかもしれんけど」頬に笑いを浮かべた。
「僕が飛び立ったら渡してくれっちゅうて、さっちゃんに、あん人から形見の頼まれもんがあっとよ」
「ほんのこっ(ほんとう)?」佐智は驚きと喜びで目を大きくした。

「みんながあいをください、こいが欲しかですっちゅうて言うとるときに、さっちゃんな、何も言い出せんかったとやろ? こん2つは先約があるからっちゅうて、杉浦さんな誰にも渡さんかったとよ」

いただけるのなら何かひとつでもと思ったが、それが言葉となることはなかった。
何も言わなくとも、これあげるよと差し出してくれる兵士たちも多かったから、それを期待する気持ちもあったのだが、杉浦さんは何も言わなかった。

「さ、あたしがそいをとってくる間に、行きやんせ。中尉殿はきっと、成功されるじゃろ」



昭和20年3月27日早朝、佐智たち18人の女学生は、夜も明けきらぬうちに電話で学校に集められ、事情も知らされず知覧飛行場に向かった。佐智は知覧高等女学校の三年生に進級する寸前の春、15歳だった。

その日は正門からではなく、飛行場を迂回するように、松や檜、竹林の中を進み、飛行場の奥に着いた。そこに並んでいたのが、敵機から姿を隠すようにひっそりと建っている半地下式の三角兵舎だった。それはまるで、崩れて屋根だけが残った粗末な家のようにも見えた。その屋根には偽装の杉の幼木が被せられていた。

そこで将校の訓辞があった。
「知覧飛行場は特攻基地となった。今日からみなさんには、特攻兵士たちの身のまわりのお世話をしてもらいます」

特攻のことは新聞で読んで知っていたが、この知覧飛行場が特攻基地になるなどとは、誰しも考えてもみなかった。息を呑み、お互いに顔を見合わせた。それぞれが驚きの表情を浮かべていた。

半地下に屋根を付けただけの、けっして広くはない三角兵舎に、特攻するまでの数日間を16人が暮らした。そのひとつの兵舎を、それぞれ3.4人が担当して、掃除、洗濯、ご飯運びなどの世話をした。



特攻兵たちの寝具は、わら布団に毛布だけの粗末なものだった。これがお国のために命を捧げる人たちの最後の暮らしなのかと、申し訳なささえ感じた。
軍人でも軍属でもなかったが、佐智たちは、自らを「なでしこ部隊」と名づけた。



到着してくる特攻兵士たちは皆若かった。そんな中、杉浦中尉は物事をよく知っている、成熟した人だった。

途中、熱で寝込んだせいもあり、あの人とは他の特攻兵よりも長く接した。洗濯や掃除や身の回りの世話が終わった午後には、いろんな話をした。質問と言ってもいいのかもしれない。

「奥様はおいやっとですか? 父母様はご健在ですか?」
「父も母も健在だけど、やもめだよ」白い歯を見せて笑った。
「ないごて(なんで)ご結婚されんかったとですか」
「悲しむ人を増やしたくないからさ。僕は軍人だし、明日をも知れぬ飛行機乗りだからね」
目尻にしわを寄せたその目は、冗談を言っているようには思えなかった。

「ご実家はどこですか」
「東京だよ。実家は幸い無事だったが、先月空襲を受けた」
3月10日未明、東京の3分の1を焼き尽くし、10万人以上の死者を出した東京大空襲が起こった。



「あたしは体んこまんか(小さい)せいもあって、重か物も持てんとです。洗濯しとっても腕ん力が続かんとです。だから足で踏んどったです。そしたら兵隊さんの服を足で踏んだらいかんっちゅうてガラレ……あ、分かりもはんな……怒られっしまいもした」
「だから?」
「みんなの足を引っ張っとる気がして」
「人にはそれぞれ、持ち分持ち味というものがある。佐智さん、君の笑顔は辺り一面を染める菜の花のようだよ。僕は野に咲く菜の花がこの世で一番好きだ。佐智さんだって好きな物があるだろう?」
「はい、本を読むのは好きです。童話も小説も詩集も」
「そうか、好きになるというのは、それだけで才能の萌芽(ほうが)だ。僕はちっちゃい頃から飛行機が大好きだった。だから飛行機乗りになった」手折った草をクルクルと指で回しながら宙に曲線を描いた。

「才能ですか?」
「そう、心の琴線(きんせん)に触れない物を、人は好きになったりはしない。持って生まれた何かが共鳴するんだよ。裏を返せば人を形づくる根本にかかわることでは、異質の人間同士は心底からは共鳴しえない。
だから、親が結婚相手を連れてきたらよく話をしてみることだ。駄目だと思ったら、構うことはないから断ってしまえ。わたしには分不相応でございます、とね」 

「杉浦中尉さんは、死ぬのが怖くなかですか」
「中尉なんていらないよ。杉浦でいい。官位も何もかも脱ぎ捨てれば、世の中はもっと棲みやすくなる。そして質問の答えは、死ぬのが怖くない人間なんていない」
「やっぱり、怖かですよね」
「ああ、怖いさ。戦闘に出ればいつ死んでもおかしくはない。空中戦で死ぬのは自分の力不足だ。しかし特攻は、力量にかかわらず、必ず死ぬ」
ふっと息を吐き、空を見上げるその横顔は、まるで答えを求める哲学者のようだった。

「人間死んだらおしまいですよね。目の前が真っ暗闇になって、お墓に埋めらるっとですよね。そいも、ひとりぼっちで。夜んお墓は怖かです。死んだら、あげなところに埋めらるっとですよね」



「佐智さん、君に答えが与えられることを願うよ。その前に、ひとつ教えておこう。この戦争は負けるよ」

「ないごてですか?! 兵隊さんが、そいも杉浦さんが、ないごてそげなことを!」
「僕は知ってるからだよ」
「負くることを知っちょっとですか?」

「知ってるよ。僕は、隼の中で長い長い夢を見たんだ。この戦争が負けるということは軍本部だって分かっている。ただ、講話を有利にするために最後の抵抗をしているのさ」そう言って苦い笑いを浮かべた。
それはとても不思議で、理解できない言葉だった。


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腹に響くエンジン音がとどろき、プロペラが巻き起こす風が耳当てを揺さぶる。翼に乗り整備兵の背中を軽く叩いた。驚いたように敬礼をする男に微笑んで敬礼を返した。

狭い操縦席に桜の小枝が飾ってあるのが見えた。それを口にくわえ、操縦席に乗り込んでからそっと膝の上に乗せ、結ばれていた紙を解いた。



君死にたまふことなかれ
またお会いしたいです
杉浦中尉殿 それまでしばしのお別れです 中村佐智

与謝野晶子か、鳴海はふっと笑った。それに佐智は中村という名だったのか。
またお会いしたいとはどういう意味だろう。杉浦の実家があるという東京に墓参に行くということか、それとも靖国神社に参拝するということだろうか。

隼の機内には、少女たち手作りのマスコット人形が揺れている。鳴海は青く染まった知覧の空を見上げた。

「杉浦中尉殿、今までありがとうございました。ご武運を祈ります!」少し緊張気味の整備兵に笑って手を差し出した。遠慮がちに握り返してきたその手は、ごつごつとしていた。

「こちらこそありがとう。隼の調子はどうですか?!」エンジン音に負けないように鳴海も大声を出した。
「最高であります! 歴戦のパイロット杉浦中尉殿の隼を整備できて光栄でありました!」
「ありがとう。感謝します!」
プロペラが巻き起こす風によろめきながら、翼の上で整備兵が再び敬礼をした。鳴海も敬礼を返した。

外ではハンカチが振られる。ゆっくりと、あるいは小刻みに。中には盛りを過ぎた桜の小枝を手にする者もいる。もんぺ姿の知覧高等女学校の生徒でつくる『なでしこ学徒隊』だ。彼女らは校章の撫子からその名前を付けたそうだ。

鳴海は日の丸が描かれた鉢巻きを両手で引き絞った。兵舎を受け持った少女たちの名前が書かれている血染めの日の丸だった。彼女たちは小指を切り、滴る血で日の丸を描き、めいめい名前を書いた。
中村佐智。体に似合わずひときわ大きい朱文字が目に入った。それを額に当てぎゅっと締めた。

整備兵が帽子を回す。隼がゆっくりと風に向かって滑走を始めた。機はゆるゆると滑走路を走る。横一列に並ぶ彼女らの中から、二歩、三歩とつんのめるように、小柄な姿が前に出た。
佐智だ。左手で口元を押さえ、千切れるほどにハンカチが振られている。鳴海は隼から敬礼をした。



「さよなら!」右手を挙げ、鳴海は微笑んだ。
そのとき、隼の翼に追いすがるように小さな体が走ってきた。腕を引き寄せ首を傾け不格好な走りだ。
「ダメじゃっち!」隼の翼の後ろを併走する佐智。
「……ダメじゃっち! ……」何事かを叫び続けるが轟音にかき消されて聞こえてこない。
「佐智、危ないぞ! 止まれ! 戻れ!」鳴海は声を張り上げた。
つまずいて、どうと倒れたその姿を置き去りにするように、滑走路を走る振動が薄れ、やがて伝わってこなくなった。隼は地上を離れたのだ。

沖縄までの距離は650キロ、飛行時間は2時間あまり。向かう先に薩摩富士と呼ばれる開聞岳(かいもんだけ)が見える。鳴海は身を乗り出すように後ろを振り返った。兵舎の上によじ登り、多くの女学生がまだハンカチを振り続けている。その中に佐智を探したが見つけられなかった。鳴海はさよならの代わりに隼の翼を左右に振った。

しかし、佐智はなにをダメだと叫んでいたのだろう。鳴海は思い返してみる。そして気がついた。さよなら、と言った瞬間に佐智は走り出したのだと。

左に遠ざかって行く開聞岳を、鳴海は何度も振り返った。大隅半島から先は海原が続く。点在する島々が時折見えるだけで、これが最後の九州の地になる。



眼前には春の東シナ海が広がっている。もう地上へは戻れない。二度とこの足が大地を踏むことはない。海で泳ぐことも、飯を食うことも、布団で眠ることもない。いや、しかしこれは夢なのだ。

隼の操縦桿を握りしめ、「と号空中勤務必携」を暗唱する。
「─衝突の瞬間─頑張れ神も英霊も照覧し給うぞ 目などつぶって目標に逃げられてはならぬ 目は開いたままだ」
「と号」とは特別攻撃隊を意味する。



病室に行くと、ひとり部屋の静かな空気に溶け込むように、早紀は目を閉じていた。そばまで歩み寄りその顔を見つめた。意識が戻ったらなんと伝えればいいのだろう。

すみれとの対面を終え病室で少し休んだ。その間に考えを巡らせたが、言葉は堂々巡りをするばかりで伝えるべき姿を現すことはなかった。

すみれが死んだことを早紀は噛み砕き、受け入れるだろうか。その葬儀にすら出られないことを納得するだろうか。窓の外は先ほどまでちらついていた雪が止み、濃淡を織り交ぜた灰色の空が広がっていた。

「あなた」妻の声に鳴海は不意を喰らった。
「ごめんなさい。あたしのせいで」
「いや、無事で何よりだよ」

「すみれはまだ治療中だそうです。まだ子供だから急激な加療はできないらしくて、時間がかかるそうです。様子を見に行くことはできるのかしら」早紀の声はか細く、その頬はやつれたように見えた。

「先生に訊いてみよう。それより体調はどうだい?」
「ええ、頭が重いけど大丈夫。あたしが会いに行っていいかどうかも訊いてください。意識が戻っていたらかわいそうだから、早く会いに行ってあげなくちゃ。あの子」早紀が窓の外に頭を向けた。
「あなたに似て寂しがりやだから」
言い終わるやいなや、妻は意識を失うように眠りに就いた。後遺症が残らないことを祈るだけだった。


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「ふらつきますか? 霊安室は地下ですからゆっくり行きましょう」腕を支えるように看護師が促した。
この病院の地下にすみれは眠っているのだ。誰の温もりも腕枕もなく、ひとりぼっちで。

地下に到着したエレベーターが開き光りが差す。思いの外明るい廊下を進むと遺体安置所の矢印があった。遺体安置所1、遺体安置所2とある。辺りには線香の香りがかすかに漂っていた。

「こちらです」
指し示されたドアを鳴海は見つめた。耳を澄ませゆっくりと鼻から息を吸い込んだ。しかし、すみれの声は聞こえず暖かな温もりも薫らなかった。

勇気を振り絞って開けると、意外なほど狭い部屋だった。小さな祭壇があった。出口はもう裏口にしか残されていない場所にすみれは横たわっていた。その空間には動くものなどなにも存在していなかった。笑っていたのは今朝のことなのに。

すみれにも、ちょっとした反抗や我が儘が出ることがあった。親でもない子でもない、その関係が憎かった。自分とは一切関係ないその存在が悔しかった。無表情のままその頬を親指と人差し指で掴んで横に引っ張った。すみれの目が驚きで見開かれ頬が伸び口が歪み、やがて泣き出した。

うるさいよ。冷たく言い放ち頬を叩いた。
さらに泣いた。うるさいんだよ。手の甲側で再び頬を叩いた。訳が分からず泣くすみれ。お前は俺の子供じゃないんだ! 大声で怒鳴りたい衝動に駆られた。
「黙れ! あっちに行け!」
「いやだぁ」
泣きながらそばを離れないすみれは、あのとき3歳になっていた。この家族は世界にひとつだけだったのに、時として自分はそれをないがしろにした。



「おやっとさぁ(お疲れさま)ごわす。おいは明後日の第2次総攻撃に決まりもんした。先に靖国に行っとっで、杉浦さぁ(さん)も、きばいやったもんせ(がんばってください)。冥土への道には迷わんようになぁ」

昭和20年4月6日、連合艦隊指令長官の『皇国の興廃はまさに此の一挙にあり』の訓示を受けて、15:20戦艦大和は水上特攻部隊の旗艦として徳山港を出港した。

海軍の立てた計画は、4月6日と7日の第一次航空総攻撃で打撃を与え、戦艦大和が敵の上陸海岸に攻撃を仕掛けつつ、沖縄を守る第32軍が敵を海に追い落とすというものだった。制空権を失い、火力兵力の圧倒的な差から、明らかに無謀な作戦だった。陸軍は総攻撃と呼び、海軍は菊水作戦と命名した。

重油の枯渇により、大和は片道の燃料しか積み込んではいなかったとされている。沖縄を往復するための4000トンに対して、軍令部は2000トン以内としたからだ。

が、その命令を現場の軍需部は黙殺した。武士が刀を抜き去った時、すでに刀を収めるべき鞘(さや)を捨てるという行為を、現場はさせたくなかったのだろう。空タンクに残っている重油を手押しポンプで必死で揚げて、大和に搭載したのだ。
しかし軍需部の願い空しく、大和は出港の翌4月7日午後、米艦載機386機の波状攻撃を受けて沈没した。



鳴海は粗末な布団から起き上がった。奇妙な浮遊感と共にめまいが遅う。

「冥土に行く時は、親しかった誰かが迎えに来るそうだ」
「じゃったら、杉浦さぁはおいが迎えに行きもんそ。三途ん川の手前までなぁ」髭面が笑った。
「短い間じゃったが……」差し出された外園の手を握った。
「おいどんたちは最後まで戦友じゃっでな。時は違えどお国のために見事に散りもんそ。こいまであいがとさげもした(これまでありがとうございました)」
大きな体を窮屈そうに曲げて、外園は口元を引き結んだ。挨拶がすめばにこやかな顔に戻った。彼らは本気で、崖っぷちの日本を守ろうとしたのだとその表情から伺える。

「サチは」
「あぁ、もうあん娘(こ)らは帰ったど。杉浦さぁ、熱は下がりきらんでも、明日は富屋食堂でしょちゅ(焼酎)でん飲みもんそ。最後のだいやめ(晩酌)じゃ。トメさんにお別れもせんばならんでな」



「寒くないかいすみれ。雪は止んだよ」
白い布の盛り上がりから、その手が胸の辺りで組まれていることが分かる。経過時間からして筋肉はすでに硬直しているだろう。

何度もそばまで手を寄せたが、その手に、その体に触れることは、やはり出来なかった。冷えた硬いすみれの体をこの手に覚え込ませることはどうしても出来なかった。
柔らかな温もりだけを記憶しておくことが、すみれの供養になると思えた。それこそがすみれだったから。

さよならをしないままいなくなってしまったすみれ。明日は楽しみにしていたお休みだったのに、あのスーパーの100円ショップやゲームコーナーに、すみれの笑顔が弾けることは2度とない。

2年前からではなく、きっと生まれた時から、自分は父親失格だったのだ。それをすみれが伝えてきた事故死だったのだ。

「鳴海さん、まだ熱が下がっていないのでおやすみになったほうがいいですよ」看護師の声がした。


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