「ふってるぅ」ドアから出てきたのはすみれだった。空を見上げて発した言葉はまるで蒸気機関車のように顔の前に白い息を振りまいた。
「お昼には止むらしいわよ」後ろからドアを押し開けているのは妻の早紀だ。黄色いゴム長を履いたすみれが小さくジャンプして雪の中に立った。スキーのジャンプ並みに両手を横に広げたすみれが顔を上げた。
「あーパパだー!」目を大きくして、宝物でも見つけたような顔をした。
「パパが帰ってきたー!」白い息が盛大に舞った。
声が遠くで聞こえる。まるで現実感がない。この風景には、リアリティというものが完全に欠如していた。

「あら、どうしたの?」妻の声がする。
「うーん……」鳴海は首をかしげた。何をしに戻ってきたんだったろう。
「忘れ物?」
「いや、忘れ物というか……」
「どうしたのよ、ボーッとして。熱でも出たんじゃないの」
これはやはり、夢だろうか。目覚めたら病院のベッドか、三角兵舎の中か、はたまた隼の中か。歩み寄ってきた早紀が手袋を取り、その手が鳴海の額に触れた。
「手が温かいせいだろうけど、よく分からないわね。冷たいわ額」早紀が少し笑った。
「パパはお仕事がおやすみになったの?」すみれが見上げた。鳴海は両手を広げてすみれを抱き上げた。暖かい。明らかな体温を感じる。
「パパは……」鼻の奥にツンとした刺激が走り、目が痛い。
「ごめんねすみれ、パパは、いいパパじゃなかった」

「パパが泣いてるよ」すみれの声のトーンが落ちる。
「いや、泣いてないよ、すみれ」すみれを下ろし、両手で雪をすくった。これで顔を洗ったら、夢から覚めるのだろうか。
……だとするのなら、もう一度だけ。
手のひらの雪を捨ててすみれを抱きしめた。いつものすみれの暖かな匂いがした。
「パパを許してくれるか、すみれ」
「よしよし、いいこだからね。泣かないんだよパパ」すみれの手が鳴海の後頭部をパタパタと叩く。
「ありがとう、すみれ」鳴海は覚悟を決めてすくった雪で顔をゴシゴシと洗った。
声は聞こえない。辺りはシンと静まりかえって何も聞こえなかった。二度、三度、雪をすくって顔を洗う。
顔を上げたら誰もいない。娘を亡くした男がひとり、我が家の庭で雪を顔になすりつけて後悔をしている情けのない姿を晒す。鳴海はゆっくりを顔を上げ、目を開けた。

「パパが雪だるまになってるー」すみれの笑い声とくしゃくしゃの顔が見えた。
「パパはやっぱり、お熱を出してるかも」早紀が眉根を寄せた。
「俺のことがちゃんと見えてるか?」
「見えてるに決まってるでしょ。それより、気づいちゃったんだけど」
「何?」
「左のバンパーが少しへこんでるの」早紀がアウトバックを指さした。
「ああ、ちょっと居眠りをして何かにぶつけちゃってね」
「怪我はないの? ねえ、ひょっとして頭ぶつけてない? さっきから言動が変だけど」
「いや、頭はぶつけてない」鳴海は小さくコクコクと頷いた。
「ならいいけど」

「あ、思い出した」
「何を?」
「何で戻ってきたのかを……マフラーだ」
「マフラー?」すみれが自分の首に巻かれたマフラーを握る。
「いや、違うマフラーだ。車のマフラーだよ」すみれの頭を撫でた。
フォレスターに潜り込んだら、案の定マフラーに雪が詰まっていた。鳴海はそれを小枝で取り除いた。
「よし、いいぞ!」
「詰まってた?」
「ああ、危ないところだった」小枝を投げ捨てた。早紀が歩み寄り、鳴海の服についた雪を払った。
「ありがとう。居眠り運転って、疲れが出てるんじゃないの?」
「ちょっとの間だろうけど、長い夢を見た」
すみれは足に抱きつき、足踏みをしながら歌を歌い始めた。
歩こう 歩こう 私は元気ぃー 歩くの大好きー どんどん行こう♪
「パパも歩いてー」すみれに言われて、鳴海も足踏みを始める。暖かい。確かな温もりを太ももに感じる。

坂道、トンネル、草っぱら、1本橋に、でこぼこジャリ道
「パパも歌って―」
くもの巣くぐって くだりみち♪
「あ、そうだわ、実家から電話があったのよ」
「電話? どっちの実家?」
「あたしの実家」早紀が自分の鼻先を指さす。
「で、何だって?」
「で、いつまで足踏みしてるつもり?」
「ん?」すみれはとっくに足から離れていた。
いねむり……パパがいねむり……じっか。すみれがブツブツと復唱している。この子はこうやって言葉を獲得してきた。
「じっかって、なに?」
「すみれにとっては、この家が実家になるんだよ」
「おぉー」
分かったのか分かっていないのか、それでも大きく頷いている。

「本家のおばあちゃんがね、もう体がいうことをきかなくなってきたから、今年は靖国に行きたいって言ってるらしいの。で、東京で暮らしたことのあるあたしたちに白羽の矢が立ったらしんだけど。もちろん、連れて行って欲しいってことで」
「靖国神社か」
「そう。おばあちゃんのお兄さんが特攻で亡くなったのよ」
「特攻で? もしかして……亡くなったお兄さんって、杉浦って姓?」
「ううん。姓が途切れるからって、おばあさん婿さんをとったからお兄さんも土田って名前だけど、誰? 杉浦って」
「しりゃは? しりゃはのや?」
「し・ら・は・の矢だよ」鳴海はすみれに笑いかけた。
しらはのや……しらはの、や……。
「なに?」
「今夜教えてあげるよ」
「おぉー」
その今夜は本当に来るのだろうか。いや、来る。これは夢ではない。紛れもなく現実だ。
誰かが時間を少しだけ戻してくれたのだ。それは杉浦だろうか、佐智だろうか、それとも、敵艦空母に突撃して砕け散った杉浦の愛機、一式二形の隼だろうか。
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