風神 あ~る・ベルンハルトJrの「夜更けのラプソディ」 -111ページ目

展望台の金網に寄りかかり、町を見下ろす。日課にしていたのだろうか、小さな通りを、腕を曲げウォーキングをする人の姿が見える。その姿をじっと目で追ったが、見覚えのない人のようだった。まだこの丘に登ってきてはいないのだ。

その向こう、左右に伸びる砂浜には、今日も穏やかな白い波が打ち寄せ、遠く水平線の上には雲が散在している。



「今日も来ちゃいました」振り返ると菅原君が立っていた。
腕時計を見ると午前9時、今日はずいぶんと早い到着だ。

「来たいときに来ればいいさ」微笑んだ私は大きく伸びをして、拳の甲で腰を叩いた。

「どうしようかなあって、思ってるんです」と町並みを見やり,「覗こうかどうしようか、朝から迷ってるんですよ」と苦そうな笑みを浮かべた。

確かに、連日覗けば、別れのときもそれだけ早まる。それは彼とて知っていた。

ともすれば、人は別離という名の切り替えポイントが、この世に存在することを忘れる。愛し合う恋人同士もいつか別れるときがくる。熱の冷めた婚姻関係の男女にもその可能性はある。
しかし、もっと大きい、越えようのない別れがある。それが死別だ。



人はいつか必ず死ぬ。そしてそれは何の前触れもなく、唐突に訪れることもある。分岐点を離れたレールが今生で交わることは二度とない。
なのに、その肝心なものを、まるで記憶でも失ったかのように置き去りにして、人は何気なく日々を送る。彼は今、その悔恨をかみしめているに違いない。

「これ、駅長さんのお店で買ってきたんですよ」
菅原君は白い歯を見せて、ショルダーバッグから缶コーヒーとお茶を取り出した。差し出された緑茶のペットボトルを私は受け取った。

「おしゃべりだけでもいいじゃないか。ありがたく頂くよ」ベンチを指さし、私は歩き始めた。
「ですよね。話だけでもいいんですよね」横に並んだ菅原君は子供のような笑顔を見せた。彼だってもっと、誰かに聞いてもらいたい想いがあるだろう。

ベンチがギシッと音を立てた。私はペットボトルのキャップをねじった。
「クリスマスにけんか別れしたんだったね。それから……よりが戻った」私は話を向けた。隣に座った菅原君は照れくさそうに鼻をつまんだ。



「けんか別れじゃないけど、でも、まあ、ざっくり言ってしまえばそんな感じですかね。その後に彼氏ができたって噂も立ったりして、内心きつかったですよ、もう終わりなのかなぁって。
友達にもさりげなく訊いて回ったりして、落ち着かない日々でした。
でも、単なる噂でした。彼女、僕が声を掛けてくれることを待ってたんです」
「そうか」私は笑って頷いた。

彼にも、実は死んでいるのは君の方だと、告げなければならないときが遠からずやってくる。短い命を惜しむように、展望台に蝉時雨が降り注ぐ。




【中日新聞 社会面】 4月13日

12日午後7時すぎ、愛知県一宮市相生2丁目の民家で、この家に住む無職塩田みえさん(65)が頭から血を流して死んでいると、帰宅した会社員の次男庄司さん(41)から110番通報があった。

庄司さんの妻裕恵さん(38)はパートに出ており、塩田さんは一人でいたとみられる。頭に数カ所、鈍器のようなもので殴られた跡があるといい、愛知県警は殺人事件とみて捜査を始めた。

相生署によると、塩田さんは息子の庄司さんと庄司さんの妻裕恵さんと3人暮らし。2階建て住宅の1階北側にある6畳仏間でうつぶせに倒れていた。

救急隊員が駆けつけたときには塩田さんはすでに死亡していた。庭の植え込みで凶器とみられる血の付いた金づちが見つかったという。室内には土足痕と物色された跡があり、物取りによる犯行とみられている。




庄司さんによれば、日頃から塩田さんには多額の現金は預けておらず、それが業を煮やした犯人の凶行につながった可能性もあるとみている。

被害の状況は分かっていないが、仏壇の横に置いてあった、庄一さんの官帽子がなくなっていたという。同署は庄司さんらから事情を聴くとともに、13日に遺体を司法解剖して詳しい死因を調べる。

近所の女性(67)は「塩田さんは、夫で名古屋鉄道に勤務していた庄一さんを10年ほど前の昭和60年に交通事故で亡くしていた。物静かで、周りから恨みを買うような人ではない。こういう事件が起きると不安で眠れない」と話した。



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【読売新聞 社会面】 11月12日

7日、荒川区町屋の交差点付近における追突事故の続報。
軽乗用車を運転中、事故で死亡した菅原明人さん(23)の車内から刃渡り15センチの包丁が見つかり、鑑定の結果、付着していた血液が同乗者の大久保明日香さん(20)のものと判明。

大久保さんは脇腹に刺し傷があり、爪にこびりついていた皮膚片から抵抗の形跡と見て、荒川署はDNA鑑定を急いでいる。
凶器とみられる真新しい包丁からは菅原さんの指紋が採取され入手経路を調べている。

友人らの話によると、菅原さんと大久保さんは一時期交際があり、大久保さんは最近ストーカーの陰に怯えていたという。
同署は交友関係も含め捜査を進めると共に、大久保さんの回復を待って事情聴取を行うとしている。




「終わっちゃったね!」亜弥ちゃんの、ことさら明るさを装うような声がした。
それを潮時のように、ベンチから菅原君が腰を上げた。
「また来ます」頭を下げた菅原君の髪がさらりと揺れる。私はまたおいでと声をかけた。

彼の記憶しているとおりの現実世界であったのなら良いのだが……私は少し不安になる。多くの人を送ってきたからこそ分かる。ここで持たされた記憶と、現実世界での出来事は大きく食い違うことがある、ということに。緩い坂を下りてゆく後ろ姿を目で追った。

「亜弥ちゃん、これを持って行きなさい。広場が暑いようだったら、お店で食べてもいいよ」好物だという唐揚げと卵焼きの入ったおにぎり弁当だ。
亜弥ちゃんは、受け取ったその包みを頬の辺りに上げ、ありがとうと笑った。

「いろいろありがとうございます。ゆっくり間隔を空けてきたいのですが」と秋山さんは苦笑した。私は小さく、幾度も頷いた。
たった6歳の子供に曲がりくねった真実を理解させるのは難しいことだ。

「違うよーお父さんが訊くんだよ。展望台に行くかって」亜弥ちゃんは下唇をつきだし、長い手足をもてあますように振った。

「亜弥ぁ」秋山さんが人差し指を立てた。
「その言葉どおりだ。お父さんは、望遠鏡を覗こうかなんて、ひとことも言ってないぞー」人差し指を左右に揺らす反撃に、亜弥ちゃんは、へへっと肩をすくめた。



「塩田さん、終わる!」
双眼鏡を掴み私は叫んだ。妻と子が穏やかな顔でこちらを見たのだ。過ぎ去った暮らしに接して、すでに一ヶ月が経過していた。

「終わらん! おまえが己の死の瞬間を見るまで終わらんぞ。もし懺悔があるならその機会も来る」
そのとき私は、眼前にわき起こる炎と嫌な匂いを嗅いだ気がした。

「ワシもそろそろ歳だ……」空を見上げた塩田さんが呟いたのがあのときだった。
「誰か、引導を渡してくれる人はおらんものかね」
その誰かは、どう考えても自分しかいない。地蔵公園には守人(もりびと)が必要なのだ。

全てを聞いて理解した後だったから、いかにも現実に見える、この町への未練もあったし、先へ進む恐怖心もあった。そのない交ぜの思いが渦巻く中で、やりましょうかという言葉が口をついて出た。

「そうか、あんたが引き受けてくれるならそれが一番だ、いいのか?」私は、塩田さんの憂い顔に頷いた。
「ワシのように、成仏が遅くなるぞ」

私が本当に、この町の駅長の息子だったのか、確かめるすべはない。
私が本当に、この丘で幼い頃に遊び、あの砂浜で妻とともに我が子を遊ばせたかも同じだ。





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「駅長さんが見てもいいって。ありがとうを言おう」秋山さんの声にかぶるように、亜弥ちゃんのありがとうの声と、弾けるような笑顔が返ってきた。秋山さんがポケットのコインを探る。

いい。これでいいんだ。私は自分に言い聞かせた。

展望台を風が吹き抜け、全部で四つある一番端っこの望遠鏡をのぞき込んでいた、ジーンズにTシャツ姿の年若い男の髪を揺らした。つい最近この丘にやってきた、菅原という名のまだ23歳の青年だった。



「今年成人式だったんですよ。これから楽しい人生が待っていたはずなのに……」

初めて望遠鏡に接した日、菅原君は端正な顔を少しゆがめ、寂しそうに口を引き結んだ。彼が恋人のことを、表現をあぐねるほどに愛おしんでいたことは、痛いほど伝わってくる。

「一度別れたことがあったんですよね」ベンチに座った彼は足下の草をむしり、ふっと吹いた。彼の口調はいつも静かだ。

「クリスマスのことです……」
長い沈黙の後、注ぎ続ける水がいつしかグラスから溢れるように彼は口を開いた。

「張り切ってディナーを予約したんです。といっても一流ホテルとかじゃなくて、町場のレストランでしたけど」



そこは繁華街にある、そこそこ流行っているイタリアンのレストランだったという。
「名の通ったオーナーシェフの店じゃないけど、美味しいって、今が狙い目だってネットに出てたんです。でも、なんていうんですか? ダブルブッキングですか?」

弾んだ気持ちで訪れた店に二人の席はなかった。当然店側は慌てるが、席は空いていない。それに予約なしの客も店内の入り口の椅子に大勢座っていた。

あいにくその日は雨だったため、お洒落をしていた彼女のことを考えて、出直す選択肢は捨てた。恐縮する支配人に二人が与えられた待合の席が、二階へ上がる階段下の隙間だった。

「やっと順番が回ってきたけど、彼女は黙々と食べるだけだったんです。まるで大食い選手権みたいに」
情景を思い出したのか、彼は口元に苦い笑みを浮かべた。



「お詫びの一品もあったし、予定にないデザートも出てきて、普段の彼女なら小さくガッツボーズでも出そうなものなのに、平らげることだけに集中してるみたいでした。話しかけても返事はありませんでした」

そのせいもあり、彼は彼女に一大イベントである指輪を渡すことができなかったそうだ。
「でも、それは君が悪いわけじゃない」
「ええ、そんなこと彼女だって分かってるんです。何より僕のフォローも足りなかったんです」

「だから、復活したんだろう?」私の問いかけに苦笑しながら頷き、
「今年のクリスマスこそは、と思ってたんですが」と小さい声で付け加えた。
あれから数日が経つ。彼ら二人の人生ドラマの結末はどこへ向かうのだろう。



「どうも、ありがとうございました」望遠鏡を離れ、こちらに歩いてくる菅原君が律儀に頭を下げた。

「ほれ、これを飲みなさい」彼のために、さっき店からよく冷えた缶コーヒーを持ってきていた。
「ああ、ありがとうございます。では遠慮なくいただきます」
菅原君が隣に腰を下ろし、缶のプルトップを引いた。

「二度目も見られるんですね」望遠鏡に取り付く秋山さんと亜弥ちゃんの後ろ姿を見ながら、菅原君がぽつりと呟いた。
君も見たいかと喉まで出かかったが、よい提案ではないことに気づいて口をつぐんだ。

「あぁ、あの親子はもう送り日が近いんだ」
「そうだったんですか」ちょっと眉をしかめ、菅原君は悲しそうに首を振った。

そのうち彼にも伝えなくてはならない。彼は信じてくれるだろうか。しかし、伝えることが私の義務だった。それが、塩田老人から引き継いだ仕事だからだ。


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【読売新聞 社会面】 11月8日

7日午後9時半頃、荒川区町屋の交差点付近において、同区に住む会社員秋山慎太郎さん(39)運転の軽ワゴン車と、練馬区に住む会社員菅原明人さん(23)運転の軽乗用車が追突事故。
菅原さんは頭などを強く打ち死亡。秋山さんも全身を強く打ち間もなく死亡した。



軽乗用車助手席にいた大学生、大久保明日香さん(20)は肋骨などを折り出血も多く重体。

軽ワゴン車助手席にいた秋山さんの妻絵美子さん(35)は車外に投げ出され右肩の骨を折るなどして重傷。
後部座席にいたとみられる長女亜弥さん(6)は助手席の下で見つかり全身打撲の重体である。



荒川署によると、現場は片側一車線の緩いカーブの交差点で、秋山さんの軽ワゴン車が歩道に乗り上げる形で電柱に激突。菅原さんの軽乗用車が続いてワゴン車に追突したとみられる。

昨夜の現場は激しい雨が降り、軽ワゴン車のブレーキ痕が交差点進入直前からあることから、秋山さんの信号見落としか、交差点付近で別の何らかのトラブルが発生したのではないかとみている。

同署では、目撃者の情報を集めると共に、詳しい事故原因を調べている。




「見えたかね」
静かな声に振り返ると、後ろに塩田老人が立っていた。その姿は、教え子の受験をじっと見守っていた老教師のようでもあった。
「はい、見えました」頭の整理がつかず呆然としたまま、私はかすれた声で言葉を返した。

「根を詰めずに来たらいい。会いたくなったらまた来ればいいさ」塩田さんは頷き、背中を見せて歩き始めた。
訊きたいことは胸の奥から溢れるように湧いて出たが、一切の質問を拒否する頑なさが彼の肩口からにじんでいた。

「今日は頭を休めなさい。心を落ち着けなさい。少しずつ教えてやろう。少しずつだ」振り向くことなく、彼は遠ざかっていった。

この展望台の望遠鏡は、過去を垣間見せてくれる覗き鏡だった。その後の塩田老人の説明によれば、必要がある人にしか見えないということだった。

見る必要とは何かといえば、それは、未練、そして後悔だった。未練の心があるならばそれを解き放ち、後悔の懺悔は慰めをもたらす。

「ときがくれば、向こうの世界の愛する人たちがこっちを見る。右でもなく、左でもなく、上でも下でも、前でも後ろでもなく、間違いなく、焦点を合わせて真っ直ぐにこっちを見るそうだ。
そうさなあ……これまでおつきあいありがとう。これでひとまず、おしまいだよ、とでもいうようにな。
ワシはそこで止めたままだよ、何せ恐がりだからな」塩田さんは大きい口を開けて笑った。



そうやって私は丘の階段を上り、この望遠鏡の前に立ち、妻との暮らしを見てきた。娘が増えて三人になり、むつまじく暮らす我が家もこの目でなぞった。許された時間はたったの五分間、それも日に一度しか覗くことはできない。

私にとって、この展望台に来ることが唯一の楽しみになった。期せずして訪れた邂逅(かいこう)は、古びた一軒家に一人で暮らす男の、何よりの励ましになった。

「未練があるなら、それをやり直すことはできるんですか」
「それはできない。ありのままをなぞるだけだ」塩田老人は毅然として答えた。

楽しいひとときが終われば、我に返ってさらに心が痛んだ。それを忘れるために塩田老人に質問を投げかけた。答えは毎回的確に返ってきた。その話の中で、この望遠鏡の仕組みと意義を教えてもらったのだ。

欠かすことなく通い詰めたある日、死んでしまった妻と娘がこっちを見た。ほほえみを浮かべて、見たのだった。
そのとき娘は6歳、妻は34歳、私は41歳だった。その娘ももう、嫁に行く歳だろう。



「もう一回見る。もう一回!」亜弥ちゃんの声がする。見ると、台の上でしきりに足踏みをしている。主義主張を表に出さないあの子にしては珍しいことだった。

かけがえのない人の姿を、もうひと目見たいというのは自然の感情だ。ましてや彼らは、死という越えがたい障壁に分かたれてしまった。

彼岸の人に寄せる哀憐(あいれん)の情は計り知れず、それでもなお、実体としての存在を欲して止まない心は、ひとたび吹けば赤々と燃える炭火のように強い。
これは誰にも止めようのない、人が抱える本能という名の悲しみだった。

遠くからホームビデオでも見るように眺めるだけだった母親が、今日は望遠鏡を覗く彼らの方を見たはずだ。やっと認識してくれたのだ。そこにいる自分ではなく、ここにいる自分を。
その瞬間、確かな温度を感じたに違いない。だからこそ、思いはよけいに募る。



愛する人の死を咀嚼(そしゃく)し、そしてそれを飲み下すことは、人のもっとも不得意とする試練だ。流れる時間が忘却の筆でカンバスを塗りつぶさぬかぎり、色と形を変えながら悲しみは続く。ひと言でもいい、声が聞きたいだろう。

戸惑ったように振り向く秋山さんを見つめながら、私はゆっくりと頷いた。もう一度見たいという願いを可能にできるのは、塩田老人から譲り受けた私だけの力だった。


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老人になってからしたいこと ブログネタ:老人になってからしたいこと 参加中

うーむ……できれば老人になる前にしたいのだけど……

サックスを吹けるようになりたいなあ。

サックスといってもいろいろあるけど、パッと思い浮かぶのはやっぱりテナーサックスかな。
でも、でかすぎる。吹いてるうちに腕が萎えて、息切れして死んでしまいそうだ。

世にテナー吹きよりアルト吹きが多いのはこのせいに違いない。テナー吹きは酸欠でバタバタと死んでしまうのだ。
となると、少し長生きしたい僕はアルトサックスかなあ。
こんな感じで。



テナーとアルトの違い? 大きさはもちろんテナーの方が大きいけど、吹くところというか、首というか……L字でシュッとしてる(大阪人か!)のがアルトで、くねっと曲がってるのがテナー。

それに、そもそも音色が違う。癖のない高域の綺麗な音のアルトに、むせび泣くようなテナーって感じかな?
いずれにせよ、楽器は家で練習できないというハンデがあるけど。

いや、待てよ……サックスが吹けるようになったって、どこで披露するのだ。
河原で一人吹くしかないのか……聴衆は川と木々と雀か? 時々鳩?

誰か僕と、ジャズやるべ!
吹けるようになったら……

これでシュッと、とくねっとを見比べてください。前列一番左、上野樹里が吹いてるのがテナー・サックス。前列向かって一番右は、バリトン・テナーかな?

ジャズやるべ!

Swing Girls (スウィングガールズ)



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「覗いてみるかい」
ポケットから取り出したコインを差し出したのが、塩田老人だった。あの頃の彼は70歳前後の年齢に見えた。

子供の頃にしか遊んだことのなかった展望台だが、およそ丘の上の商店主らしからぬ、上品で柔和な彼の顔は覚えていた。

仕事に追われ、女房子供の相手もなかなかしてやることもできなかった私は、家族をこの丘に連れてくることさえしなかったのだ。そんな私の顔を、彼が覚えていようはずもなかった。

二十年前の私は、どこへ行くあてもなくさまよい、この丘に登り、展望台の椅子に腰掛け、襲い来る絶望と闘っていた。
あのとき私は、這い上がることもできそうにない、深くて暗い絶望の底に身を縮めていた。



「望遠鏡……ですか」私は力なく、うっすらと笑った。
「見てみるといい」塩田老人は目尻のシワを深くして、こくりと頷いた。
なんて子供だましを……私は取り合う気も起きず、ふぅと息を吐き足下に視線を落とした。

「いいです」ゆっくりと首を振った。
「見てごらん。あんたがこの丘に登ってきたのはそのためなんだから」

望遠鏡を覗くためにこの丘に登ってきた? ……なんておかしなことを口にする老人だろう。
怪訝そうに見上げた私に、塩田老人は再び頷いた。

しきりに差し出す小銭を断りポケットを探った私は、気の進まぬまま腰を上げ、塗料の剥がれかかった投入口にコイン押し込んだ。



少し腰を落として目を当てると、町並みが眼前に広がった。赤い屋根、青い屋根、スレート葺きの屋根。日陰に沈む路地、小さな商店、電信柱。

徐々に上に振ると日の光を弾く海が見える。白い砂浜、打ち寄せる波。子供の頃に遊び、とても夏休みとはいえぬ二日ほどの仕事の休日に、娘を遊ばせたことのある遠浅の海岸だ。岬の灯台の下では白い波が砕けている。



再び街並みに戻し、どこを見るともなくゆっくりと左右に振ってみた。するとそこに飛び込んできたのが見覚えのある家だった。

父が建て何度か補修をし、今も住み続けているあの家だった。私は倍率を上げた。そのとき、開け放たれた二階の掃き出し窓の向こうに人影が動いているのが見えた。

そんなはずはない。すべて戸締まりはしてきたし、窓が開いているはずはないのだ。なんてこった、空き巣だ。

しかし、今から駆けつけたって間に合うはずもない。大切な物はどこにしまってあったろう。通帳、印鑑……高鳴る動悸が耳元でうるさく鳴ったが、思い出せない。

やがて人影が、3畳ほどのベランダに出てきた。
空き巣野郎だ!

が、その姿は予想を裏切り、とても違和感を感じさせるものだった。髪が長くスカートをはいているのだ。

それは紛れもなく女性の姿だ。女の空き巣? あまり聞いたことがない。
さらに倍率を上げた望遠鏡の向こうに捉えたものは、つい最近死んだ妻だった。



両手でプラスティックのかごを抱えている。そのかごをベランダに置き、洗濯物を干しだした。乱れる息で望遠鏡が揺れた。
妻がふいと部屋の方を振り返る。二言三言会話を交わしているようだ。軽く微笑んだ顔のまま妻が洗濯物に向き直る。

部屋から男が顔を出した。そのとき私は、妻が若いということに気がついた。そして、顔を出したのが紛れもなく自分だということに。
二人が笑いながら洗濯物を干す姿を、私は汗で滑る手で望遠鏡を握りしめ、目をこらして見つめ続けた。



妻のヘアスタイルと双方の服装から、私が30歳ぐらいなのだと推定できる。そう、あの当時だから、双眼鏡を覗いた10年ほど前の映像ということになる。

男というのは、自分の着ている服や相手の着衣から時期を推し量れるほど記憶力がよくない。でも私には分かった、妻と子を亡くしてから何度もアルバムを開いたからだ。

この数年後に娘が生まれたのだ。私は食い入るようにして望遠鏡をのぞき続けた。そのとき機械的な音がして、視界が真っ暗になった。


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幼い頃に見た夕焼けの赤、コタツで食べたミカンの味、大好物だった母の手料理。
季節ごとに咲く花の香り、木々を渡る鳥の声、優しかったあの人の笑顔。

人は実に様々なものを記憶にとどめている。だが、そのすべてが正しいとは限らない。それにも関わらず、あたかもそうであったかのように信じてしまうのは、日常において記憶が変化していくさまを、人は実感することがないからだろう。

己の、実は頼りない記憶と、残された写真や映像以外に、過ぎ去ったものを回想するすべがないのも理由のひとつだろう。しかし、人の記憶というものが、自分に都合の良い内容に変化してゆくことに大元の原因はある。



思い出には、楽しかったものもあれば辛かったものもある。それぞれに歩んできた人生も違う。辛い経験を乗り越えてきた人もいれば、さしたる苦労もなく過ごしてきた人もいるだろう。

ところが、その様々な人生模様を紡いだ人たちでも、追憶の段階で変わらないものがある。それは楽しい思い出が6割ほどで、辛い記憶は1割に過ぎないといわれることだ。

誰にとっても思い出は、美しく変容を遂げるものなのだろう。だから人は、明日に向かって生きてゆけるのかもしれない。



「駅長さんっ!」
声に振り向くと、父親に手を引かれた女の子が緩い坂を上ってくるところだった。クルクルと動く利発そうな瞳と、少したれ気味の眉をした髪の長い子だ。年齢は確か6歳だったはずだ。ノースリーブのひまわり柄のワンピースを着ている。

「おぉ、亜弥ちゃん来たのか、今日はひまわりだねえ、よく似合ってるよ」
坂を上って立ち止まった亜弥ちゃんはふふっと笑い、ピンクのサンダルを履いた片足で石でも蹴るような仕草をした。

「また来ました」
女の子の手を引いているのは、年の頃は40ぐらいの、金縁で細身のめがねをかけた父親だ。ボタンダウンのシャツにサマーカーディガンを羽織り、軽く腕まくりをしている姿は、いかにも実直なサラリーマン風に見える。

「秋山さん、今日はからりといい天気になりましたね」
空を見上げた私につられるように、秋山さんは空を仰ぎ、本当ですねぇ、湿度が低くて気持ちいいです。とまぶしそうに目を細めた。



小走りに駆け出した亜弥ちゃんは台に乗り、くるりとこちらに体を向けた。

「お父さん、早く、早く! 半分こずつ見よ」さかんに手招きをする。
あの親子はいつもそうだった。顔を寄せ合い、一緒に望遠鏡をのぞき込むのだ。

「うん、今行くよ」小銭入れを取り出した秋山さんは軽く頭を下げて、展望台の望遠鏡に向かった。
風になびく髪を手で押さえる亜弥ちゃんの笑顔と、ゆっくりと歩いてゆく秋山さんの後ろ姿を見つめながら、神と仏の存在というものを私は考えてみた。

自ら悟りを開いた仏陀ならまだわかりやすい。では、神とは何だ。神は実在するのか。だとするなら、なぜ姿を見せないのだ。なぜに直接、教えを説かないのだ。

アッラーだのヤハウェだの、ムハンマドだのイエスだの、だから争いが絶えないのではないのか。だから誰しも、悟りに至らないのではないのか。
とりとめのない考えは、亜弥ちゃんの声で中断された。



あ! あ! 亜弥ちゃんが興奮気味の声を上げたのだ。
「こっちだよ! こっちこっち!」
望遠鏡をのぞき込んだままの亜弥ちゃんがさかんに手を振り、秋山さんが沈痛な面持ちで振り返った。

ついに来たか……。
私の胸は針でも刺されたようにチクチクと痛み、思わず顔をしかめた。神よ仏よ、どうか彼らに柔らかな救いを。




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「駅長さぁん!」
呼びかける声に左を見ると、つい最近この丘にやってきた青年が、店の前で手を振っている。
「お昼、何がいいっすかぁ!」
腕時計を見ると11時。昼食にはちょっと早いが、私は口元で箸を二、三度上下させる仕草をして見せた。

「そば? そばっすか?」私と同じ仕草を返す姿に大きく頷いて見せた。
「ざるっすね? 了解っす!」
「まだ、作らなくていいぞ!」声が届いたかどうかは定かではなかったが、青年は右手を挙げて店に引っ込んだ。



長引いた梅雨もようやく明け、丘の展望台にも蝉時雨の降る季節がやってきた。木々の向こうに沸き立つ雲は、日の光を受けて白くそびえ立ち、真夏の近さを教えている。

ここを訪れる人たちは、私のことを「駅長さん」と呼ぶ。かといって、この丘に駅があるわけもなく、父から譲り受けたくたびれた官帽子がそう呼ばれるゆえんだった。



父は鉄道員で、勤めの最後は町の南側にある小さい駅の駅長だったはずだ。木陰のベンチで帽子を取り、首に掛けたタオルの端をランニングシャツの胸元から抜き取って額と頭の汗を拭った。

食べ物から飲み物から、お酒や文庫本まで、何でも置いてある小さな店は若い者二人に任せて、私は日がな一日展望台のベンチに座っていた。もちろん、この丘を訪ねてくる人たちを出迎えるためだ。

展望台から緩やかな坂を下りて、店を左手に見て通り過ぎると、シロツメクサが生い茂る広場があり、春には桜の名所になったし、秋には紅葉狩りも楽しめた。
かつては親子連れやカップルで賑わいを見せたものだが、今は町の人口が減ったせいか以前のような活気はない。



元々この店は、塩田という老人から譲り受けたものだった。その当人もまた、人から引き継いだものであるらしい。

「もうワシも歳だから、誰かやってくれる人はおらんもんかな」
当時の経営者だった塩田老人の期待を込めた呟きに、では私が、と引き受けたのがすべての始まりだった。

「そうか、あんたがやってくれるならそれが一番いい。しかし、いいのか?」塩田老人の憂い顔に私は頷いた。
「じゃあ、ワシはそれと」と望遠鏡を顎でしゃくり、「最後の日々を過ごすことにしよう」と目尻にしわを寄せた。



私がここの望遠鏡に出会ったのは四十そこそこの頃だから、もう二十年ほど前になる。もちろん子供の頃からこの場所は知っていたし、よく遊びにも来たが、その当時は望遠鏡などなく階段も整備されてはいなかった。

絶望のどん底にいた私は、行くあてもなく坂道を上りここを訪れ、塩田老人と出会った。あれは何かの導きであったのだと、今にしてそう思う。


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久しぶりに面白い小説に出会った。
まあ、僕の場合帰りの電車で14分が唯一の読書タイムだし、小説を読まないときは何年も読まないから参考にはならないけど……。

僕のパソコンデスクの上にはラムサの「ホワイト・ブック」が乗っかっている。これだってなかなか読み進まない。




そんなこんなで、おもしろいと言った本はこれ「ストロベリーナイト」
ものすごく評判になって映画にもなったなんて僕は知らなかった。これで本当に読書が趣味なんて言えないだろうなぁ……でも、久しぶりに心躍る小説にぶつかった。

誉田哲也といえば「ジウ」
僕はこれを途中で読むのをやめてしまった。なぜだかは覚えていないけれど、興味を失ったからだろう。でも、これは面白い。



文章力皆無の僕が小説なんてものを書けるなんて夢にも思っていなかったけれど、それでもなお、書きたい衝動に押されて最初に挑んだ小説は「裁き」というタイトルだった。妹を殺されたやくざな男が挑む少年犯罪の壁と復讐劇。

最後まで書き上げてあったけどパソコンの故障であえなく消え去り、未完のままに終わった小説だった。僕は何編小説をダメにしたろう。それもいつも同じく、パソコンの故障で……。失せたものを再び書くのは難しい。

それでもなお、相変わらずバックアップを取っていない現状。これを、学ばない愚かな男というのだろう。

僕は構想なんてものは何も練らない。登場人物の設定もしない。ただ、いきなりキーボードを叩く。後は登場させた人物が勝手にしゃべり、勝手に行動するのを待つだけ。登場人物が動かなければそれで終わり。

「翳りゆく愛に」も、陸の零戦と呼ばれた隼と特攻を書きたいと思っただけで、特に構想など組み立てはしなかった。それで何であの書き出しになっているのか自分でもよく分からない。

大東亜戦争と特攻には何の知識もなかったから調べるのには時間がかかった。
そこで分かったのは戦争というのは絶対悪だけれど、大国がアジアを植民地化してゆくあの当時は、避けられない戦争もあったのだな、ということだった。

僕は毎日12時間働いている。だから時間がない。小説を書けないのだ。それを理由に再び書き直しに挑みたいと思っている。今の僕ならどう描くだろう。僕の筆の力はいくらか成長しただろうか。それは楽しみのひとつでもある。
次は「イノセント・ワールド」で行ってみようかな。


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鳴海は取り出した手帳を開いた。
「今年の8月15日は……土曜日か、じゃあその前後で夏休みをもらおうか。お盆休みなんてない会社だからね」
「悪いわね」
「たまには二人で暮らした東京で初心にの戻るのもいいさ、すみれは東京を知らないし」閉じた手帳をジャケットの内ポケットにしまった。

「とうきょー?」
「うん、すみれ、今年の夏は東京に遊びに行こう。靖国神社も行こう」鳴海は両手を膝についてすみれに顔を近づけた。
「うん!」すみれが嬉しそうに頷く。
「あなた、遅刻じゃないの?!」
「ま、いいさ。ちょっと事故っちゃったし」鳴海はアウトバックを振り返り苦笑した。



とうきょーにお遊び……ママとパパととうきょー……やすくにじんじゃ……やすくに、じんじゃ……おばあちゃん。



「すみれのおばあちゃん?」すみれが鳴海と早紀を交互に見上げる。
「違うわよ。うーん、説明するのはややこしいわね。お兄さんが特攻に行ったおばあちゃんよ」
「それは、余計ややこしいんじゃないの」

ややこしい……よけいややこしい……とっこう……とっこう……とっこうにいったおにいさんのおばあちゃん。
「関係性が、ちょっと違うなぁ」早紀がクスッと笑った。

ちょっとちがう……かんけいせい……とっこう……とっこう……とっこう

ちらん……



知覧?!
今の話の中で知覧など出てこなかったのではないか。出てくるはずはない。すみれはお下げを振りながら、舞い落ちてくる雪を掴もうとしていた。

とうきょーにお出かけ。ママとパパとすみれがとうきょーにお出かけ。やすくにじんじゃ。
動きを止めたすみれは背中を見せて、まるで仁王立ちするように空を見上げた。

ぐらまん……ぐらまん

鳴海はすみれの後ろ姿を凝視した。

とっこう……とっこう……

はやぶさ

グラマン?! 隼?! すみれはいったい何を言っているのだ。
「すみれ」鳴海は小さく声をかけた。その声は自分でも分かるぐらいに震えていた。

はやぶさ……
さくら……

鳴海の声も聞こえぬかのようにつぶやき続けるすみれ。
夢で見たシーンは、確かに八重桜が散る頃だった。



さよなら……はやぶさ……

さよならは……さよ、なら、は……

鳴海は跪き、肩を掴んですみれを振り向かせた。きょとんとした顔の、その小さな体を引き寄せた。うきゃきゃーと身をよじるすみれ。
「パパが耳をひっぱるぅ」

「今夜、夢の話をしてあげよう。すみれとママに」
「パパ、おひげが痛ぁい」
鳴海はあごを触った。
「あ、そり忘れてる!」

昨日シェーバーが壊れたから、間に合わせで安いひげそりを買ったんだった。スーパーに入っている家電量販店で、明日あらためてシェーバーを買おうと思っていた。いつもと手順が違ったから、そり忘れた。



ルームミラーに映る、早紀とすみれの乗ったフォレスターが左折のウインカーを出し、スピードを緩めた。鳴海もそれに合わせて速度を落とす。
助手席のチャイルドシートに座るすみれが両手大きく振る。笑っていなければ溺れてもがいているようにも見える。あの様子なら両足もジタバタさせているに違いない。

ふっと笑った鳴海は片手を上げた。幻のあの日に隼を発進させたときのように。
ゆっくりと左に折れた車はルームミラーから消えた。

けっして耳クソには見えなかったけれど、すみれの耳の穴のそばにそれはあった。夢で見た佐智とまったく同じほくろが。
いつの間にできたのだろう。そう、例外を除いては、生まれたての赤ちゃんにはほくろがないのだ。

病院で造影検査を受けてみたって、自分の体に精子など存在しないのだ。鳴海にはそう思えた。
けれど、これでいいんだ。

靖国詣での後、その足で早紀とすみれを知覧に連れて行ってやろう。八月のまばゆい日差しの差す鹿児島に。
そして、杉浦という名前を探してみよう。隼を追いかけた、色黒で小柄な中村佐智という名前も。



鳴海は左を見た。雪をまとった真っ白な世界のその先に、空から差す無数の天使の梯子が広がっていた。

目に見えぬ何かの力に、鳴海の胸は感謝で震えた。ぼやける景色を手の甲でぬぐい、遠くにそびえる雪山に延びる轍(わだち)の跡を追うように、鳴海は軽くアクセルを踏みこんだ。

─FIN─

語り継ぐ愛に / 来生たかお


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