innocent world イノセント・ワールド「2」 | 風神 あ~る・ベルンハルトJrの「夜更けのラプソディ」

「駅長さぁん!」
呼びかける声に左を見ると、つい最近この丘にやってきた青年が、店の前で手を振っている。
「お昼、何がいいっすかぁ!」
腕時計を見ると11時。昼食にはちょっと早いが、私は口元で箸を二、三度上下させる仕草をして見せた。

「そば? そばっすか?」私と同じ仕草を返す姿に大きく頷いて見せた。
「ざるっすね? 了解っす!」
「まだ、作らなくていいぞ!」声が届いたかどうかは定かではなかったが、青年は右手を挙げて店に引っ込んだ。



長引いた梅雨もようやく明け、丘の展望台にも蝉時雨の降る季節がやってきた。木々の向こうに沸き立つ雲は、日の光を受けて白くそびえ立ち、真夏の近さを教えている。

ここを訪れる人たちは、私のことを「駅長さん」と呼ぶ。かといって、この丘に駅があるわけもなく、父から譲り受けたくたびれた官帽子がそう呼ばれるゆえんだった。



父は鉄道員で、勤めの最後は町の南側にある小さい駅の駅長だったはずだ。木陰のベンチで帽子を取り、首に掛けたタオルの端をランニングシャツの胸元から抜き取って額と頭の汗を拭った。

食べ物から飲み物から、お酒や文庫本まで、何でも置いてある小さな店は若い者二人に任せて、私は日がな一日展望台のベンチに座っていた。もちろん、この丘を訪ねてくる人たちを出迎えるためだ。

展望台から緩やかな坂を下りて、店を左手に見て通り過ぎると、シロツメクサが生い茂る広場があり、春には桜の名所になったし、秋には紅葉狩りも楽しめた。
かつては親子連れやカップルで賑わいを見せたものだが、今は町の人口が減ったせいか以前のような活気はない。



元々この店は、塩田という老人から譲り受けたものだった。その当人もまた、人から引き継いだものであるらしい。

「もうワシも歳だから、誰かやってくれる人はおらんもんかな」
当時の経営者だった塩田老人の期待を込めた呟きに、では私が、と引き受けたのがすべての始まりだった。

「そうか、あんたがやってくれるならそれが一番いい。しかし、いいのか?」塩田老人の憂い顔に私は頷いた。
「じゃあ、ワシはそれと」と望遠鏡を顎でしゃくり、「最後の日々を過ごすことにしよう」と目尻にしわを寄せた。



私がここの望遠鏡に出会ったのは四十そこそこの頃だから、もう二十年ほど前になる。もちろん子供の頃からこの場所は知っていたし、よく遊びにも来たが、その当時は望遠鏡などなく階段も整備されてはいなかった。

絶望のどん底にいた私は、行くあてもなく坂道を上りここを訪れ、塩田老人と出会った。あれは何かの導きであったのだと、今にしてそう思う。


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