「覗いてみるかい」
ポケットから取り出したコインを差し出したのが、塩田老人だった。あの頃の彼は70歳前後の年齢に見えた。
子供の頃にしか遊んだことのなかった展望台だが、およそ丘の上の商店主らしからぬ、上品で柔和な彼の顔は覚えていた。
仕事に追われ、女房子供の相手もなかなかしてやることもできなかった私は、家族をこの丘に連れてくることさえしなかったのだ。そんな私の顔を、彼が覚えていようはずもなかった。
二十年前の私は、どこへ行くあてもなくさまよい、この丘に登り、展望台の椅子に腰掛け、襲い来る絶望と闘っていた。
あのとき私は、這い上がることもできそうにない、深くて暗い絶望の底に身を縮めていた。

「望遠鏡……ですか」私は力なく、うっすらと笑った。
「見てみるといい」塩田老人は目尻のシワを深くして、こくりと頷いた。
なんて子供だましを……私は取り合う気も起きず、ふぅと息を吐き足下に視線を落とした。
「いいです」ゆっくりと首を振った。
「見てごらん。あんたがこの丘に登ってきたのはそのためなんだから」
望遠鏡を覗くためにこの丘に登ってきた? ……なんておかしなことを口にする老人だろう。
怪訝そうに見上げた私に、塩田老人は再び頷いた。
しきりに差し出す小銭を断りポケットを探った私は、気の進まぬまま腰を上げ、塗料の剥がれかかった投入口にコイン押し込んだ。

少し腰を落として目を当てると、町並みが眼前に広がった。赤い屋根、青い屋根、スレート葺きの屋根。日陰に沈む路地、小さな商店、電信柱。
徐々に上に振ると日の光を弾く海が見える。白い砂浜、打ち寄せる波。子供の頃に遊び、とても夏休みとはいえぬ二日ほどの仕事の休日に、娘を遊ばせたことのある遠浅の海岸だ。岬の灯台の下では白い波が砕けている。

再び街並みに戻し、どこを見るともなくゆっくりと左右に振ってみた。するとそこに飛び込んできたのが見覚えのある家だった。
父が建て何度か補修をし、今も住み続けているあの家だった。私は倍率を上げた。そのとき、開け放たれた二階の掃き出し窓の向こうに人影が動いているのが見えた。
そんなはずはない。すべて戸締まりはしてきたし、窓が開いているはずはないのだ。なんてこった、空き巣だ。
しかし、今から駆けつけたって間に合うはずもない。大切な物はどこにしまってあったろう。通帳、印鑑……高鳴る動悸が耳元でうるさく鳴ったが、思い出せない。
やがて人影が、3畳ほどのベランダに出てきた。
空き巣野郎だ!
が、その姿は予想を裏切り、とても違和感を感じさせるものだった。髪が長くスカートをはいているのだ。
それは紛れもなく女性の姿だ。女の空き巣? あまり聞いたことがない。
さらに倍率を上げた望遠鏡の向こうに捉えたものは、つい最近死んだ妻だった。

両手でプラスティックのかごを抱えている。そのかごをベランダに置き、洗濯物を干しだした。乱れる息で望遠鏡が揺れた。
妻がふいと部屋の方を振り返る。二言三言会話を交わしているようだ。軽く微笑んだ顔のまま妻が洗濯物に向き直る。
部屋から男が顔を出した。そのとき私は、妻が若いということに気がついた。そして、顔を出したのが紛れもなく自分だということに。
二人が笑いながら洗濯物を干す姿を、私は汗で滑る手で望遠鏡を握りしめ、目をこらして見つめ続けた。

妻のヘアスタイルと双方の服装から、私が30歳ぐらいなのだと推定できる。そう、あの当時だから、双眼鏡を覗いた10年ほど前の映像ということになる。
男というのは、自分の着ている服や相手の着衣から時期を推し量れるほど記憶力がよくない。でも私には分かった、妻と子を亡くしてから何度もアルバムを開いたからだ。
この数年後に娘が生まれたのだ。私は食い入るようにして望遠鏡をのぞき続けた。そのとき機械的な音がして、視界が真っ暗になった。
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