展望台の金網に寄りかかり、町を見下ろす。日課にしていたのだろうか、小さな通りを、腕を曲げウォーキングをする人の姿が見える。その姿をじっと目で追ったが、見覚えのない人のようだった。まだこの丘に登ってきてはいないのだ。
その向こう、左右に伸びる砂浜には、今日も穏やかな白い波が打ち寄せ、遠く水平線の上には雲が散在している。

「今日も来ちゃいました」振り返ると菅原君が立っていた。
腕時計を見ると午前9時、今日はずいぶんと早い到着だ。
「来たいときに来ればいいさ」微笑んだ私は大きく伸びをして、拳の甲で腰を叩いた。
「どうしようかなあって、思ってるんです」と町並みを見やり,「覗こうかどうしようか、朝から迷ってるんですよ」と苦そうな笑みを浮かべた。
確かに、連日覗けば、別れのときもそれだけ早まる。それは彼とて知っていた。
ともすれば、人は別離という名の切り替えポイントが、この世に存在することを忘れる。愛し合う恋人同士もいつか別れるときがくる。熱の冷めた婚姻関係の男女にもその可能性はある。
しかし、もっと大きい、越えようのない別れがある。それが死別だ。

人はいつか必ず死ぬ。そしてそれは何の前触れもなく、唐突に訪れることもある。分岐点を離れたレールが今生で交わることは二度とない。
なのに、その肝心なものを、まるで記憶でも失ったかのように置き去りにして、人は何気なく日々を送る。彼は今、その悔恨をかみしめているに違いない。
「これ、駅長さんのお店で買ってきたんですよ」
菅原君は白い歯を見せて、ショルダーバッグから缶コーヒーとお茶を取り出した。差し出された緑茶のペットボトルを私は受け取った。
「おしゃべりだけでもいいじゃないか。ありがたく頂くよ」ベンチを指さし、私は歩き始めた。
「ですよね。話だけでもいいんですよね」横に並んだ菅原君は子供のような笑顔を見せた。彼だってもっと、誰かに聞いてもらいたい想いがあるだろう。
ベンチがギシッと音を立てた。私はペットボトルのキャップをねじった。
「クリスマスにけんか別れしたんだったね。それから……よりが戻った」私は話を向けた。隣に座った菅原君は照れくさそうに鼻をつまんだ。

「けんか別れじゃないけど、でも、まあ、ざっくり言ってしまえばそんな感じですかね。その後に彼氏ができたって噂も立ったりして、内心きつかったですよ、もう終わりなのかなぁって。
友達にもさりげなく訊いて回ったりして、落ち着かない日々でした。
でも、単なる噂でした。彼女、僕が声を掛けてくれることを待ってたんです」
「そうか」私は笑って頷いた。
彼にも、実は死んでいるのは君の方だと、告げなければならないときが遠からずやってくる。短い命を惜しむように、展望台に蝉時雨が降り注ぐ。

【中日新聞 社会面】 4月13日
12日午後7時すぎ、愛知県一宮市相生2丁目の民家で、この家に住む無職塩田みえさん(65)が頭から血を流して死んでいると、帰宅した会社員の次男庄司さん(41)から110番通報があった。
庄司さんの妻裕恵さん(38)はパートに出ており、塩田さんは一人でいたとみられる。頭に数カ所、鈍器のようなもので殴られた跡があるといい、愛知県警は殺人事件とみて捜査を始めた。
相生署によると、塩田さんは息子の庄司さんと庄司さんの妻裕恵さんと3人暮らし。2階建て住宅の1階北側にある6畳仏間でうつぶせに倒れていた。
救急隊員が駆けつけたときには塩田さんはすでに死亡していた。庭の植え込みで凶器とみられる血の付いた金づちが見つかったという。室内には土足痕と物色された跡があり、物取りによる犯行とみられている。

庄司さんによれば、日頃から塩田さんには多額の現金は預けておらず、それが業を煮やした犯人の凶行につながった可能性もあるとみている。
被害の状況は分かっていないが、仏壇の横に置いてあった、庄一さんの官帽子がなくなっていたという。同署は庄司さんらから事情を聴くとともに、13日に遺体を司法解剖して詳しい死因を調べる。
近所の女性(67)は「塩田さんは、夫で名古屋鉄道に勤務していた庄一さんを10年ほど前の昭和60年に交通事故で亡くしていた。物静かで、周りから恨みを買うような人ではない。こういう事件が起きると不安で眠れない」と話した。
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