翳(かげ)りゆく愛に「9」 | 風神 あ~る・ベルンハルトJrの「夜更けのラプソディ」

腹に響くエンジン音がとどろき、プロペラが巻き起こす風が耳当てを揺さぶる。翼に乗り整備兵の背中を軽く叩いた。驚いたように敬礼をする男に微笑んで敬礼を返した。

狭い操縦席に桜の小枝が飾ってあるのが見えた。それを口にくわえ、操縦席に乗り込んでからそっと膝の上に乗せ、結ばれていた紙を解いた。



君死にたまふことなかれ
またお会いしたいです
杉浦中尉殿 それまでしばしのお別れです 中村佐智

与謝野晶子か、鳴海はふっと笑った。それに佐智は中村という名だったのか。
またお会いしたいとはどういう意味だろう。杉浦の実家があるという東京に墓参に行くということか、それとも靖国神社に参拝するということだろうか。

隼の機内には、少女たち手作りのマスコット人形が揺れている。鳴海は青く染まった知覧の空を見上げた。

「杉浦中尉殿、今までありがとうございました。ご武運を祈ります!」少し緊張気味の整備兵に笑って手を差し出した。遠慮がちに握り返してきたその手は、ごつごつとしていた。

「こちらこそありがとう。隼の調子はどうですか?!」エンジン音に負けないように鳴海も大声を出した。
「最高であります! 歴戦のパイロット杉浦中尉殿の隼を整備できて光栄でありました!」
「ありがとう。感謝します!」
プロペラが巻き起こす風によろめきながら、翼の上で整備兵が再び敬礼をした。鳴海も敬礼を返した。

外ではハンカチが振られる。ゆっくりと、あるいは小刻みに。中には盛りを過ぎた桜の小枝を手にする者もいる。もんぺ姿の知覧高等女学校の生徒でつくる『なでしこ学徒隊』だ。彼女らは校章の撫子からその名前を付けたそうだ。

鳴海は日の丸が描かれた鉢巻きを両手で引き絞った。兵舎を受け持った少女たちの名前が書かれている血染めの日の丸だった。彼女たちは小指を切り、滴る血で日の丸を描き、めいめい名前を書いた。
中村佐智。体に似合わずひときわ大きい朱文字が目に入った。それを額に当てぎゅっと締めた。

整備兵が帽子を回す。隼がゆっくりと風に向かって滑走を始めた。機はゆるゆると滑走路を走る。横一列に並ぶ彼女らの中から、二歩、三歩とつんのめるように、小柄な姿が前に出た。
佐智だ。左手で口元を押さえ、千切れるほどにハンカチが振られている。鳴海は隼から敬礼をした。



「さよなら!」右手を挙げ、鳴海は微笑んだ。
そのとき、隼の翼に追いすがるように小さな体が走ってきた。腕を引き寄せ首を傾け不格好な走りだ。
「ダメじゃっち!」隼の翼の後ろを併走する佐智。
「……ダメじゃっち! ……」何事かを叫び続けるが轟音にかき消されて聞こえてこない。
「佐智、危ないぞ! 止まれ! 戻れ!」鳴海は声を張り上げた。
つまずいて、どうと倒れたその姿を置き去りにするように、滑走路を走る振動が薄れ、やがて伝わってこなくなった。隼は地上を離れたのだ。

沖縄までの距離は650キロ、飛行時間は2時間あまり。向かう先に薩摩富士と呼ばれる開聞岳(かいもんだけ)が見える。鳴海は身を乗り出すように後ろを振り返った。兵舎の上によじ登り、多くの女学生がまだハンカチを振り続けている。その中に佐智を探したが見つけられなかった。鳴海はさよならの代わりに隼の翼を左右に振った。

しかし、佐智はなにをダメだと叫んでいたのだろう。鳴海は思い返してみる。そして気がついた。さよなら、と言った瞬間に佐智は走り出したのだと。

左に遠ざかって行く開聞岳を、鳴海は何度も振り返った。大隅半島から先は海原が続く。点在する島々が時折見えるだけで、これが最後の九州の地になる。



眼前には春の東シナ海が広がっている。もう地上へは戻れない。二度とこの足が大地を踏むことはない。海で泳ぐことも、飯を食うことも、布団で眠ることもない。いや、しかしこれは夢なのだ。

隼の操縦桿を握りしめ、「と号空中勤務必携」を暗唱する。
「─衝突の瞬間─頑張れ神も英霊も照覧し給うぞ 目などつぶって目標に逃げられてはならぬ 目は開いたままだ」
「と号」とは特別攻撃隊を意味する。



病室に行くと、ひとり部屋の静かな空気に溶け込むように、早紀は目を閉じていた。そばまで歩み寄りその顔を見つめた。意識が戻ったらなんと伝えればいいのだろう。

すみれとの対面を終え病室で少し休んだ。その間に考えを巡らせたが、言葉は堂々巡りをするばかりで伝えるべき姿を現すことはなかった。

すみれが死んだことを早紀は噛み砕き、受け入れるだろうか。その葬儀にすら出られないことを納得するだろうか。窓の外は先ほどまでちらついていた雪が止み、濃淡を織り交ぜた灰色の空が広がっていた。

「あなた」妻の声に鳴海は不意を喰らった。
「ごめんなさい。あたしのせいで」
「いや、無事で何よりだよ」

「すみれはまだ治療中だそうです。まだ子供だから急激な加療はできないらしくて、時間がかかるそうです。様子を見に行くことはできるのかしら」早紀の声はか細く、その頬はやつれたように見えた。

「先生に訊いてみよう。それより体調はどうだい?」
「ええ、頭が重いけど大丈夫。あたしが会いに行っていいかどうかも訊いてください。意識が戻っていたらかわいそうだから、早く会いに行ってあげなくちゃ。あの子」早紀が窓の外に頭を向けた。
「あなたに似て寂しがりやだから」
言い終わるやいなや、妻は意識を失うように眠りに就いた。後遺症が残らないことを祈るだけだった。


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