翳(かげ)りゆく愛に「8」 | 風神 あ~る・ベルンハルトJrの「夜更けのラプソディ」

「ふらつきますか? 霊安室は地下ですからゆっくり行きましょう」腕を支えるように看護師が促した。
この病院の地下にすみれは眠っているのだ。誰の温もりも腕枕もなく、ひとりぼっちで。

地下に到着したエレベーターが開き光りが差す。思いの外明るい廊下を進むと遺体安置所の矢印があった。遺体安置所1、遺体安置所2とある。辺りには線香の香りがかすかに漂っていた。

「こちらです」
指し示されたドアを鳴海は見つめた。耳を澄ませゆっくりと鼻から息を吸い込んだ。しかし、すみれの声は聞こえず暖かな温もりも薫らなかった。

勇気を振り絞って開けると、意外なほど狭い部屋だった。小さな祭壇があった。出口はもう裏口にしか残されていない場所にすみれは横たわっていた。その空間には動くものなどなにも存在していなかった。笑っていたのは今朝のことなのに。

すみれにも、ちょっとした反抗や我が儘が出ることがあった。親でもない子でもない、その関係が憎かった。自分とは一切関係ないその存在が悔しかった。無表情のままその頬を親指と人差し指で掴んで横に引っ張った。すみれの目が驚きで見開かれ頬が伸び口が歪み、やがて泣き出した。

うるさいよ。冷たく言い放ち頬を叩いた。
さらに泣いた。うるさいんだよ。手の甲側で再び頬を叩いた。訳が分からず泣くすみれ。お前は俺の子供じゃないんだ! 大声で怒鳴りたい衝動に駆られた。
「黙れ! あっちに行け!」
「いやだぁ」
泣きながらそばを離れないすみれは、あのとき3歳になっていた。この家族は世界にひとつだけだったのに、時として自分はそれをないがしろにした。



「おやっとさぁ(お疲れさま)ごわす。おいは明後日の第2次総攻撃に決まりもんした。先に靖国に行っとっで、杉浦さぁ(さん)も、きばいやったもんせ(がんばってください)。冥土への道には迷わんようになぁ」

昭和20年4月6日、連合艦隊指令長官の『皇国の興廃はまさに此の一挙にあり』の訓示を受けて、15:20戦艦大和は水上特攻部隊の旗艦として徳山港を出港した。

海軍の立てた計画は、4月6日と7日の第一次航空総攻撃で打撃を与え、戦艦大和が敵の上陸海岸に攻撃を仕掛けつつ、沖縄を守る第32軍が敵を海に追い落とすというものだった。制空権を失い、火力兵力の圧倒的な差から、明らかに無謀な作戦だった。陸軍は総攻撃と呼び、海軍は菊水作戦と命名した。

重油の枯渇により、大和は片道の燃料しか積み込んではいなかったとされている。沖縄を往復するための4000トンに対して、軍令部は2000トン以内としたからだ。

が、その命令を現場の軍需部は黙殺した。武士が刀を抜き去った時、すでに刀を収めるべき鞘(さや)を捨てるという行為を、現場はさせたくなかったのだろう。空タンクに残っている重油を手押しポンプで必死で揚げて、大和に搭載したのだ。
しかし軍需部の願い空しく、大和は出港の翌4月7日午後、米艦載機386機の波状攻撃を受けて沈没した。



鳴海は粗末な布団から起き上がった。奇妙な浮遊感と共にめまいが遅う。

「冥土に行く時は、親しかった誰かが迎えに来るそうだ」
「じゃったら、杉浦さぁはおいが迎えに行きもんそ。三途ん川の手前までなぁ」髭面が笑った。
「短い間じゃったが……」差し出された外園の手を握った。
「おいどんたちは最後まで戦友じゃっでな。時は違えどお国のために見事に散りもんそ。こいまであいがとさげもした(これまでありがとうございました)」
大きな体を窮屈そうに曲げて、外園は口元を引き結んだ。挨拶がすめばにこやかな顔に戻った。彼らは本気で、崖っぷちの日本を守ろうとしたのだとその表情から伺える。

「サチは」
「あぁ、もうあん娘(こ)らは帰ったど。杉浦さぁ、熱は下がりきらんでも、明日は富屋食堂でしょちゅ(焼酎)でん飲みもんそ。最後のだいやめ(晩酌)じゃ。トメさんにお別れもせんばならんでな」



「寒くないかいすみれ。雪は止んだよ」
白い布の盛り上がりから、その手が胸の辺りで組まれていることが分かる。経過時間からして筋肉はすでに硬直しているだろう。

何度もそばまで手を寄せたが、その手に、その体に触れることは、やはり出来なかった。冷えた硬いすみれの体をこの手に覚え込ませることはどうしても出来なかった。
柔らかな温もりだけを記憶しておくことが、すみれの供養になると思えた。それこそがすみれだったから。

さよならをしないままいなくなってしまったすみれ。明日は楽しみにしていたお休みだったのに、あのスーパーの100円ショップやゲームコーナーに、すみれの笑顔が弾けることは2度とない。

2年前からではなく、きっと生まれた時から、自分は父親失格だったのだ。それをすみれが伝えてきた事故死だったのだ。

「鳴海さん、まだ熱が下がっていないのでおやすみになったほうがいいですよ」看護師の声がした。


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