今日は、三国志の舞台となった時代について書いておこうと思います。


一般的に三国志というのは、中国のどの時代になるかというと、


後漢王朝末期の184年ごろに起きた、



黄巾の乱


に始まります。


この黄巾の乱は、張角が起こした、大規模な農民の反乱で、


各地に飛び火して、後漢王朝の統治能力を喪失させました。


黄巾の乱はやがて平定されますが、


黄巾の乱平定で、力をつけた地方の豪族たちの割拠する時代に入ります。


やがて、曹操の魏、劉備の蜀、孫権の呉の三国にまとめられ、


長い三国鼎立の時代に入り、


263年に魏により蜀が滅亡。


265年に司馬氏に乗っ取られるかたちで、魏が滅亡して晋ができます。


280年に晋が呉を滅ぼして、


晋による統一


で終わります。


この時代の、各勢力の攻防や、


人物の生き様を描いたものが「三国志」ということになります。


今日の人物録は、



周泰


を取り上げたいと思います。

ゲーム内で見たことはないのですが、客将で出てくる人みたいなので。



周泰  字は幼平 九江郡の下蔡の出身。


ショウ欽と共に、孫策の配下に入り側近となりました。


慎み深く、孫策に仕えて、しばしば戦いの中で手柄をあげました。


孫権は、彼の人となりを愛して、


孫策に願い出て、自分の配下に付けてもらいました。


孫策が六県の山越の不服従民を討伐したとき、孫権は宣城に兵を留め、


兵士たちに命じて守りを固めさせましたが、


兵の数が、千人にも満たないのに、たかをくくって、


柵も作らずにいたところ、山越が数千人で急に押し寄せてきました。


孫権がやっと馬に乗ったときには、敵の刃が身近にせまり、


鞍に斬りつけられたりしましたが、周りは慌てふためくばかりでした。


そんな中、周泰だけは、勇力を奮い起こして、


身をもって孫権を守り、その大胆さは人に倍するものがあったといいます。


この周泰の働きで、側近のものも戦いに加わることができました。


やがて、敵がちりぢりになると、周泰は体に12の傷を負って昏倒。


しばらくの間、意識不明になりました。


孫策は周泰に深く感謝して、春穀県の長に任じました。


その後、各地を転戦し、赤壁では、周ュや程普と共に、


曹操を撃退し、南郡にとどまった曹仁を攻めました。


曹操が濡須へ軍を進めると、軍を進めて攻撃をかけ、


曹操が撤退すると、その地にとどまり、


濡須の督となり、平慮将軍の称号をうけました。


その当時、徐盛や朱然たちが、周泰の指揮下に入っていましたが、


誰も彼の指示に従おうとしませんでした。


孫権はそれを聞くと、濡須まで閲兵に出かけ、


そこで、武将たちを集めて宴会を開きました。


孫権みずから、酌をしてまわり、周泰の前まで来ると、


周泰に命じて、上衣を脱がせ、


孫権は周泰の体にある傷跡を、一つずつ指でさしながら、


周泰に、どのようにしてできた傷かを説明させました。


説明のたびに、孫権は涙を流し、


身分の賤しい家の出身だからといって、遠慮することはなく、


思うように事をはこんで欲しいといって、


その場で命令し、いつも自分の使っている、かぶりものと青いキヌガサとを、


周泰に与えました。


宴会が果てると、孫権はその場にとどまって見送り、


周泰に、歩兵と騎兵とによる行列を作って帰路につかせ、


軍楽が鳴らされ、鼓笛隊が音楽を演奏しました。


そのことがあってから、徐盛たちは周泰の指揮に従うようになりました。


のちに孫権は関羽を破ると、蜀の攻略をもくろみ、


周泰を漢中太守、奮威将軍に任じ、陵陽候に封じました。


222年から229年のあいだに死去したとされています。


今日は、



蘇飛


を取り上げたいと思います。

この人も4月末のアップデートで、客将に追加された人です。


蘇飛  生没年は不詳。


この人は黄祖の配下でした。


甘寧の上役で、甘寧の才能を見抜いて、


黄祖に、甘寧を重く用いるように、しばしば進言していましたが、


取り上げられることはなく、黄祖はかえって甘寧のかかえている食客たちに、


自分のもとにくるように仕向けるなどし、


甘寧は黄祖の元を離れようと思ってみたが、脱出は不可能だとわかり、


悶々としていました。


その様子をさっした蘇飛は、甘寧のために宴会をひらきいいました。


「私はあなたを、たびたび推挙したが、ご主君は取り上げようとしなかった。

 ここでぐずぐずしているよりも、大きな志を持って、

 自分を知ってくれる主君にめぐり会うことを願うのがいいのではないか。」


甘寧はしばらく考えてから、


「その志はあっても、どうすればいいかわかりません。」


蘇飛がいいました。


「私がチュ県の長に、推挙してあげよう。そうなれば、どこに行くのも簡単だ。」


蘇飛は黄祖に、このことを言上し、甘寧は県に赴任することが認められ、


甘寧は孫権のもとに行くことになりました。


やがて、孫権が黄祖を破ったときのこと。


孫権は二つの箱をあらかじめ用意していて、その箱に、


黄祖と蘇飛の、二人の首をいれるつもりでいたが、


甘寧が、頭を床に打ちつけ、血と涙を流しながら命乞いをして、


蘇飛は赦されました。


その後の蘇飛は取り立てて、特筆する事柄もないのか、


歴史の表舞台からは消えています。


今日は先日、戦場で見かけた、



張温





を取り上げてみたいと思います。


張温   字は恵恕で呉郡の呉(蘇州)の出身。

張温は若くして節操正しい行動を取り、容貌も優れていたといいます。

父親の張允が名声があり、孫権に仕えて、東曹エンになったりしています。

張温の評判を聞いて、孫権が引見してみると、

彼の言葉や応対の見事さに、見ていたものは身を乗り出したりして、

聞き入り、孫権も態度を改め、よりいっそう丁重に遇したといいます。

退出するときに、張昭に、

あなたに期待していると言わしめました。

議郎・選曹尚書に任ぜられ、のち太子太フに移り、信任をえました。

よかったのはここまで。

その後、蜀に使者として赴き、蜀の人たちに高い評価を得るものの、

帰ってきたときに、蜀の政治を褒めちぎり、

孫権の不興を買います。

豫章郡に行き、部隊を動員できるよう兵士を再編するよう命じられるが、

仕事は、はかばかしくなく、

曹ヒが攻めてきたときにも、出撃できず。

そうなると、名声の高さが逆にあだとなり、

とうとう使い走り役に落とされ、

その6年後に死去しました。



今日は三国志演義の原作者 羅貫中さんについて取り上げたいと思います。


今、日本において三国志と呼ばれるものは、ほとんどこの三国志演義が元になっています。


本当の歴史書としては、陳寿の書いた三国志がありますが、


こちらは正史三国志と呼ばれていますが、あまり広く知られているというわけではなさそうです。


三国志演義というのは、元朝末期から明朝始めのころに、


羅貫中さんが、各地に散らばっている三国志の伝承などを、集めて、


当時人気のあった「蜀」を中心にして、編集した物語です。


これが好評を博して、年代を超えて伝わり、今も人気を得ているというわけです。


実は羅貫中というひとについては、よくわかっていないことが多い人なのです。


どこで生まれたか、どこに住んでいたかについても、いろいろな説があり定かではなく、


この名前も、ペンネームなのか、本名なのかわかっていない。


友人とされている人の記録でも、


戯曲など10編ほど書いたが、非常に人付き合いが悪く、最後は行方知れずになった。


ということ。


なにはともあれ、この人が編集作業をして、物語としてのこしていなければ、


小説、漫画、アニメ、ゲーム等々に広く使われるほどには、


なっていなかったのは確かだと思います。