今日は、




韓当


を取り上げます。


韓当  字は義公。遼西郡の令支の出身。


弓術や馬術に巧みで、体力もあるということで、


孫堅から目をかけられて、その征伐にしたがって各地を転戦。


最初、下働きがおおく爵位をあたえられませんでしたが、


しばしば危険を犯し、敵を破り、その功により、


別部司馬に任ぜられました。


孫策が江東に渡ると、配下として会稽・呉・丹楊の郡の討伐に参加して、


先登校尉に昇進して、兵2千と馬50匹を授けられました。


劉勲の討伐に参加し、黄祖の軍を打ち破り、軍を還して、


ハ陽を討伐し、楽安県の長の職務にあたりましたが、


山越たちは、彼の威を畏れて従順であったといいます。


赤壁の戦いでは、中郎将の官位でもって、


周ユらとともに、曹操の軍を打ち破りました。


その際に、黄蓋が流れ矢にあたって寒中に水に落ちました。


呉軍のものに救い上げられましたが、それが黄蓋とはわからず、


便所に放置されました。


黄蓋は力を振り絞り、ひと声、韓当を呼びました。


韓当はそれを聞くと、


これは公覆どのの声だといい、


黄蓋を見つけると、その姿を見て涙を流し、衣服を取りかえました。


こうして黄蓋は命拾いをしました。


その後、呂蒙とともに南郡を奪取して、その功により、


偏将軍に任ぜられました。


宜都の戦役では、陸遜や朱然とともに、


タク郷の蜀軍に攻撃をかけ、これを徹底的に打ち破りました。


この功により、威烈将軍にうつり、都亭候に封ぜられました。


地方に出て軍の指揮に当たるときは、


部将や士卒を励まして心を一つにして、


中央からきた、目付け役のものの意見につつしんで従い、


法令を遵守したといいます。


その態度に、孫権は満足していました。


223年には、石城候に封ぜられ、昭武将軍に昇進し、


冠軍太守の職務にあたり、のちには都督の称号を加えられました。


敢死軍と解煩軍(いずれも特殊部隊)一万を率いて、


丹楊の反乱者たちを討伐しました。


そうこうしているうちに、病を得て亡くなりました。



今日は、三国志の本の紹介をしたいと思います。


「横山光輝版 三国志」


いまや図書館にも置いてある漫画です。


横山さんの、他の作品(鉄人28号とかサリーちゃんとかバビル2世とか)


は知らなくても三国志は知っているという人も多いのでは。


劉備中心の蜀メインのストーリーとなっています。


全60巻と、大変なボリュームですが、


一番ポピュラーな三国志の部類に入るのではないかと思います。


絵の部分に関しては、好き嫌いはあると思いますけど、


小説はちょっと苦手という人でも、読める作品だと思います。


いちおう、この作品はアニメ化もされています。


赤壁の戦いまでで打ち切りな感じですが、


テレビ東京系列で放送していました。



これで周ユ伝は最後です。


有名な赤壁の戦いに入ります。


あまり説明の必要はないとは思いますが、知らない人もいると思うので、


説明しておきます。


荊州を難なく手に入れた曹操は、


その勢いで、呉の孫権も併呑してしまおうと考え、


降伏するよう書簡を送りましたが、それを呉が拒絶する形で、


戦争状態に入ります。


呉は周ユと程普を、左右の督として3万を先発させて、


2万を孫権が率いて、後詰する形で迎え撃ちました。


対する曹操は、数十万の兵を率いています。


形的には、曹操軍対劉備・孫権連合という形の戦い、


ではありますが、劉備軍は、ほとんど何もしていません。


三国志演義では、孔明が風を吹かせたりしていますが、あれはフィクションです。


実際に曹操と戦い、打ち破ったのは、周ユと呉の水軍の力です。


まず赤壁で遭遇した両軍は、戦闘に入りますが、


緒戦、曹操軍には疫病が発生していたこともあり、


曹操軍は敗退したので、長江の北に陣営を移します。


そして、呉軍は長江の南に陣営を構えました。


そのとき、黄蓋が


持久戦は不利であり、曹操の船を見ると、船首と船尾が互いにくっついた状態なので、


焼き討ちをかければ、一気に打ち破れる


といったので、周ユはその策をいれました。


そして黄蓋は偽りの降服をして、


船には焚き木と草を詰め込み、その中に油を注ぎ、


その上を布で覆いをかけて、曹操の陣営に近づくと、


船に火をかけて突っ込ませました。


おりからの強風で、火はたちまち全部の船に燃え移り、


陸上の陣地にまで及びました。


周ユは、軽装の精鋭を率いて、火の延焼を追うように攻撃をかけ、


戦鼓を雷のようにならして、大挙攻め込むと、


曹操の軍勢は壊滅し、曹操は北方に逃げ帰りました。


さらに、周ユは南郡を攻め取り、江陵に駐屯しました。

その後、孫権に劉ショウの治めている、蜀を攻め取り、


馬超と連携する策を進言して、許可され、


準備をする途中の巴丘で病に倒れ亡くなりました。


ときに三十六才。


孫権は喪服をつけて、哀哭し、その様子は左右にはべる物の胸を打ったといいます。


周ユは、おおらかな性格で度量があり、誰からも好かれましたが、


ただ程普とだけは仲が悪かったのですが、


のちに程普も周ユに心服しています。


さらに音楽にも精通していて、どんなに酔っ払ったときでも、


演奏に間違いがあったり、欠けたりしたところがあると、


必ず聞き分けて、演奏者のほう振り向いたといいます。


続きです。


それからしばらくして、孫策は荊州の奪取を企てると、


周ユを中護軍に任じて、江夏太守の職務に当たらせ、


周ユは、孫策に従って、カンを攻め、これを落としました。


このとき、橋公の二人の娘を捕虜にしましたが、


ともに絶世の美人でありました。


孫策は姉の大橋を妻とし、周ユは妹の小橋を妻としました。


孫策はさらにそれに加え、周ユに鼓吹隊を下賜し、立派な住居を整えやり、


賜りものの多さは並ぶものがなかったといいます。


孫策は令を下していいました。


「周公キンは、俊英にして異才。私とは幼なじみで、血のつながりもある。


丹楊では、軍勢と船を用意して、大事を成功に導いてくれた。


その徳と功を評価するならば、これでも足りない」


さらに尋陽まで軍を進めて、劉勲を破り、


江夏を討伐し、軍を還して、


豫章とロ陵とを平定すると、巴丘に軍をとどめました。


200年に孫策が逝去し、孫権があとを継ぐことになりました。


周ユは兵を引き連れて、葬儀に駆けつけると、そのまま呉にとどまり、


長史の張昭と、ともにすべての事務をとりしきりました。


やがて、孫権が江夏を討伐すると、周ユは従軍して前軍大督をつとめました。


曹操が荊州に侵攻すると、劉ソウは領民を挙げて降伏し、


曹操は水軍を手に入れました。


その結果、曹操の配下は水兵と歩兵とをあわせて、数十万となり、


これを伝え聞くと、呉の将士は恐れを懐きました。


孫権が群臣を招集すると、ほとんどが降伏を勧めるものでした。


その中で、魯粛だけが交戦を唱え、ハ陽に派遣されていた周ユを呼び寄せるよう進言しました。


ハ陽から帰った周ユは、魯粛同様に交戦を唱え、


孫権は刀を抜くと、前におかれた机を斬りつけて、


「部将や官吏の中で、曹操を迎え入れるべきだと言うものがあれば、


この机と同じようになるのだ」


こうして曹操と戦うことになったのです。




今日は、



周ユ


を取り上げたいと思います。


一回では収まりきらないので、分割して書いていきます。




周ユ   字は公キン ロ江郡のジョの出身


従祖父の周景と、その息子の周忠とはともに大尉に任ぜられ、


父の周異は、洛陽県の令という家柄の人です。


周ユは成人すると、立派な風采をそなえたといいます。


イケメンだったということです。


孫堅は、董卓の討伐に向かうと、家族をジョに移住させました。


孫堅の息子の孫策とは、同じ年であったことから、


二人は特別に親しい交わりを結びました。


(この二人の交流を、断金の交わりと言ったりします)


周ユは道の、南側の大きな家を、


孫策に譲ってそこに住まわせ、座敷に通って、


母親に拝謁し、必要なものは融通しあって生活をしたといいます。


周ユの叔父の周尚が、丹楊太守に任じられると、


周ユは機嫌を伺いに出かけました。


ちょうどそのころ、孫策は長江を渡ろうとして、


歴陽まで軍を進めてきていて、いそぎの使者に手紙を持たせて周ユに知らせました。


周ユは兵士をつれて出迎え、孫策は大いに喜びました。


周ユはそのまま、孫策の配下に入って横江と当利とを攻撃し陥落させました。


そしてさらに軍を進め、長江を渡って、


サク融とセツ礼との勢力を打ち破り、劉ヨウを逃亡させました。


このとき孫策の軍勢は数万にもなっていたので、孫策は、


十分な兵力があるので、戻って丹楊を固めてほしいと、周ユに言いました。


そこで周ユは丹楊に戻りました。


それからしばらくすると、袁術が従弟の袁胤を、


周尚の代わりに、丹楊太守に送り込んでくると、


周ユは周尚と一緒に寿春に戻りました。


袁術は周ユを自分の配下にしようとしましたが、


周ユは、袁術がやがて失敗するであろうことを見通して、


居巣県の長になりたいと願い出ました。


袁術はこの願いを入れました。


そこで居巣にいき、そこから呉に戻りました。


孫策は自ら出迎え、建威中郎将の任を授け、


その場で、兵士二千人、馬五十匹を与えました。


このとき、周ユは24歳で呉の町の人々は、周郎(周の若君)と呼びました。