三位一体の話④ 神の化身 | 元J民の色々考察ノート

元J民の色々考察ノート

思うがまま好き勝手に考察を書いていきます

三位一体についての話 ラスト。

 

一回目

前々回

前回

 

本題の三位一体について語る前に、

「聖霊」についても手短に触れておきたいと思います。

 

 

「聖霊」とはなにか。

ヨハネの福音書14章16節、26節によれば「父」が遣わした「助け手」であり、

ヨハネの福音書15章26節によれば、キリストについての「あかし」を行います。

ヨハネの福音書16章13節によれば、クリスチャンを真理に導きます。

 

 

そして、キリスト教においては、「神」第三の位格とされています。

つまり「聖霊」「神」だというわけです。

 

「聖霊」「神」である根拠としてよく挙がるのは、使徒5章3節、4節です。

「一つの嘘」に対する断罪として、「〝聖霊〟を欺いた」という言葉のすぐ後

〝神〟を欺いた」という言葉が出てくるので、

聖霊を欺く行為はを欺く行為でもある、と結論づけられます。

 

「聖霊」人格を持っているような描写があります。

エフェソス人への手紙4章30節で、「聖霊」悲しむことがあると書かれています。

 

 

 

エホバの証人は、「聖霊」「神の活動する力」そのものだと考えているため

「聖霊」が人格を持っているかのような表現は「擬人化」と断定しています。

 

ルカの福音書1章41節使徒2章4節、17節、18節では、

人間が「聖霊」満たされたり、「霊」が人に注がれると書かれているため、

「人格」を持つ存在ではななく、「力」であると考えているのです。

 

 

 

率直に言えば、エホバの証人の主張も 一理ある と思います。

 

自分はエホバの証人として育ったので、

聖書に出てくる「聖霊」「神」であるとみなしたことは無かったし、

「聖霊」「神」とするキリスト教に対する批判に、違和感を持ったこともありませんでした。

 

何故なら「聖霊」「力」と置き換えても意味が通ってしまう聖句が少なからず存在するから。

 

だから、「聖霊」に関するエホバの証人の解釈の否定はしないでおきます。

 

ただ、ちょこっと思ったことを言わせてもらうと、

 

エホバの証人の考えでいけば

「聖霊」「神の活動する力」なので、「神」の意志に基づいて行使されます。

「擬人化」されているため、「助け手」として人を助けたり、悲しまれるなど、

人格」を持って主体的に活動するかのような表現があります。

エホバの証人によれば、「キリスト」は神により最初に作られた「魂」なので

「聖霊」「キリスト」より前から存在することになります。

 

 

・・・これを「神」と切り分ける必要があるのか?

 

 

 

 

三位一体の話に戻ります。

 

 

三位一体を難解なものにしている最大の要素は、「父」「子」両立です。

 

「唯一神」にして「万物の創造主」なる「神」

「父」「子」ふたりが含まれているのはおかしいだろ、という当然の疑問。

 

キリストは「子」の立場で「天」の「父」について繰り返し言及しているけど

一度も「父」を自称していない。

このふたりが等しく「神」だということなどありえるのだろうか?

 

 

ふたり〟

 

 

エホバの証人として育ったから、

エホバとイエス、別々に「魂」がある、という前提が常にあった。

キリストは「神」の人格を複製された人間である、という考察は、そこに端を発している。

 

 

「三位一体」を理解するには、

「父」「子」が別々の「魂」であるという前提は捨てる必要がある。

 

 

 

 

 

 

不敬罪注意

 

 

 

 

 

 

デスタムーア というRPGの大魔王がいます。

 

フリーザ様のように変身を繰り返していくんですが、

最後の形態は右手左手分離します。

 

それぞれにHP(体力)が設定されています。

なので、どれか一つを倒しても他が復活させてしまうことがあり

全部のHPを削り切らなければ勝てません。

そして、それぞれが独立してバラバラの攻撃をしかけてくるため、

実質的には3体の魔王との戦いになります。

(プログラム上は別々のモンスター扱い)

 

この「キャラクター」の「魂」が「3つ」あると考えるプレイヤーがいるかと言われれば

おそらくいないでしょう。

肉体は分かれても、「魂」まで「分裂した」という描写はされていません。

 

「頭」は物理的な攻撃はせず、呪文などで広範囲を攻撃することができます(全体攻撃)。

両の「手」は物理的な攻撃に用いられます。

 

「手」は「頭」ではないから

「デスタムーア」という「キャラクター」ではない、

と考えるプレイヤーがいるかと言われれば、おそらくいないでしょう。

それぞれ異なる特性があり、攻撃手段も異なるけれど、

いずれも「デスタムーア」であり、それ以上でも、以下でもありません。

 

何故なら「魂」はひとつだからです。

 

※例に「キングギドラ」を挙げなかったのは、普通に3つの魂を持ってるような節があるから

 

 

 

「化身」という言葉があります。

 

「〇〇〇〇の化身」という言い回しは

ある人物が「〇〇〇〇」であるかのような、という意味合いに使われることが多い。

 

しかし本来の意味は、

 神人の姿となってこの世に現れることを指します。

 

 

「神の化身」という考え方を「子」であるイエス・キリストに当てはめるのであれば

「父」「子」「魂」は、「ふたり」ではなく「ひとつ」だということになります。

 

「父」「子」それぞれふたつの「魂」「神」の内奥に共存しているのではなく、

「父」「子」「聖霊」いずれもひとつの神が「三つの姿」となって現れたものである

あるいはこれら三つの姿が「ひとつの神」の側面である、と考えてはじめて

三位一体の理解に近づきます。

 

 

「聖霊」人間に作用するを与える。

 

「イエス・キリスト」「神の化身」としての位格であり、人間に救済の道を開いた。

 

では「父」とは?

 

なぜキリスト「父」というワードを使用したのか?

 

「創造主」としての「神」を表す表現として言ったのかもしれない。

「人間」の姿で「創造主」を自称するのは、説得力を伴わないから。

 

キリストは基本的にイスラエル人に対してのみ宣教を行いましたが、

当時のイスラエル人は元から聖書の「YHWH」を信じていたので

追随者達の信仰する「天」にいる「神」概念を指して「父」と呼んだとも考えられます。

 

 

キリスト教には「受肉」という概念があります。

神が人類の救済のためにイエスという人間の肉体を持って世に生まれたことを意味します。

キリストが「神」により生み出された「被造物」ではなく、

「神」「人間」の形を持って生まれてきたと考えるので、

「父」「子」のいずれかがに生まれた、とは考えないのです。

 

福音書に登場する「イエス・キリスト」という「人物」も、

新約聖書に繰り返し出てくる「聖霊」という「助け手」も、

「天」にいる「万物の創造主」も、すべては「神」であり、

優劣や生まれの前後は存在しない。

 

こう考えれば、

「父」「子」等しいという考え方の理解に繋がるのではないでしょうか。

 

 

 

 

 

―――とはいえ、

「父」「子」「聖霊」すべてが「唯一の神」の「顕現する様態」と考えてしまうと、

それはそれで、4世紀で異端とされたサベリウス主義寄りになってしまうんです。

「父」「子」「聖霊」すべては互いに独立していなければならないというのが

三位一体の考え方だから。

 

・・・・・・

 

・・・・・・

 

・・・・・・

 

とにかく、キリスト教の「三位一体」はややっこしい

色々な解釈の手法や余地が、1500年以上昔に、異端として完全に廃絶されてしまっている。

結果的に残った現在の三位一体は、キリスト教の内外から「よくわからない」と言われている。

 

それでも、「異端」とされている解釈に固執しなければならない理由や動機が無いのであれば、

素直に受容して良いものだと思います。

 

複数の聖句に基づいているし、この筋道を立証するような講釈は、探せばいくらでも見つかる

一方で「異端」となる思想は、裏付けとなるような確たる証拠が乏しい。

 

多数派だから、と言う理由による「受容」は「妥協」と思う人はいるかもしれませんが、

いずれにせよ1600年間以上の長い年月にわたって「正規」とされてきたルート以外

「100%辻褄が合う」完全無欠の答えを新たに導き出すというのは、おそらく不可能です。

 

 

正直言えば、

今の立場から見ても、

エホバの証人の主張にはある程度の説得力はあるし、一理あるとも思ってはいるんですよね。

もう信じてはいないけど。

 

新興宗教でも「まともな組織」だったら、今でも疑うことすらなく信じていたかもしれない。