三位一体の話③ 「神」であって「神」ではない | 元J民の色々考察ノート

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モーセの律法は「あかしの石の書き板」に書き留められた。

この「板」のコピーを取れば、まったく同じ文章の写しが複製される。

しかし、それは「書き板」そのものではない

 

であれば、人の身「神」そのものの精神記憶を持って生まれたなら、

「神」とまったく同一の性質であり、かつ「神」同一の存在では無いので、

「神」であって「神」ではないという矛盾を解消するのではないか?

 

 

ということで、

キリストは「神」の人格を複製された人間である 

という仮説

 

 

 

「キリストが神である」証拠として提示してきた聖句と

「キリストは神ではない」根拠として提示してきた聖句に

照らし合わせていきます。

 

 

 

「万物は神の子によって作られた」 コロサイ人への手紙1章16節

「彼によらずに作られたものはひとつもない」 ヨハネによる福音書1章3節

 

キリストが「神」の人格を持っているなら、万物を想像した記憶も兼ね備えていますから

はじめから存在する(はじまりがない)この世のすべてを作り出した」〝ことのある

人物です。だから「自分はアブラハムが存在する前からいた」ということができました。

 

 

 

「わたしと父はひとつである」 ヨハネによる福音書10章30節

 

「コピー」は原本を一字一句正確に写し取るように、

キリストが神の精神や記憶すべてをそのまま持っているのであれば、

両者は「同じ性質」だといえます。なぜなら元々「ひとつ」だからです。

 

 

 

「『私』を見たものは『父』をも見た」  ヨハネによる福音書14章9節

 

地上の人間は「父」を見ることはできなかったけど、

「父」と「子」同じ人格であれば、「子」を知ることは文字通りの意味で「父」を理解する

ことになると言えます。コリント人への手紙第一2章16節も同じ考え方を当てはめられます。

 

 

 

「神のかたちであった」

「神と対等であろうとはしなかった」 フィリピ人への手紙2章6節

 

キリストが人の身でありながら神の人格を複製された存在だとすれば、

神と同じ「魂」を持ちながら、神と同じ立場に立とうとはしなかった、と解釈ができます。

 

なぜならキリストは「人の身」で死ななければならなかったから。

 

ローマ人への手紙5章では、

一人の人「アダム」がもたらした罪科を、一人の人「キリスト」が帳消しにするという理論が

説明されています。

 

アダムは「神のかたち」に作られました(創世記1章27節)

彼も人の身でありながら不死の魂を宿していた「神の模造品」です。

そのアダムという人間の罪に釣り合う「贖い」には何が必要なのか?

「神のかたち」に作られた人間です

だからキリストは、ヘブライ人への手紙2章9節にあるように、

天使よりも立場の低い「人の身」で死ぬ必要がありました。

 

「子」「人の身」であるという点において「父」とは異なります。

 

 

「子」は自分からは何もできない ヨハネによる福音書5章19節

 

「子」「神」の精神を持っているだけで「人の身」なので、

「神」としての「全能」の力と権限は持っていないと考えれば、

「子」「父」の力関係の説明がつきます。

 

 

 

「父は私より偉大である」 ヨハネによる福音書14章28節

 

人間のキリストは天使より低い立場にいるので、「神」なる「父」を上に見ていると言えます。

 

 

 

キリストが「父」を「神」と呼び祈っている 

マタイによる福音書26章39節、27章46節

 

クローンにより複製された生命体は、生物としての素材はまったく同じでも

オリジナルと意識は共有していません。「魂」が別々だからです。

これはキリストが「神」である「父」と同じ精神を持っているはずなのに、

「父」である「神」に対して祈りを捧げる理由として挙げられます。

 

 

 

キリストはすべてのものに先立って生まれた「全創造物の初子」である

コロサイ人への手紙1章15節

 

キリストが「神」の人格を複製された人間だとしたら、なぜ「初子」と言えるのか?

 

キリストは「神」としての「史上最古精神記憶」を宿している上で、

物質として形作られた「肉体」を持っているから、

すべての創造物に先立って存在する『魂』」を持つ「創造物」になる。

 

「神」のかたちに作られただけのアダムとの違いは、

「聖霊」により生み出されているということです。(マタイによる福音書1章20節)

 

ヨハネの福音書3章5節で「水と霊から生まれなければ神の国には入れない

と言われており、これが「父と子と聖霊の名においてバプテスマを受ける

に繋がっています。

 

ヨハネの福音書3章で言われている「新しく生まれた最初の存在もまた、

イエス・キリストなのかもしれません。

 

 

 

「父」は唯一神にしてすべての源である。

「子」の命はすべての人間に救済の見込みを与える。

「聖霊」によって救済に至る新しい命が与えられる。

 

すべては唯一の神を源とする。

どれかひとつでも欠けていれば、救われる道はない。

この三つすべてが揃って初めて、救われる道に至る。

人類を救済する三つすべてを信仰の対象として据える考え方が「三位一体」。

 

もうこれでいいんじゃないかな。

 

 

 

 

 

そんな風に考えていた時期が俺にもありました。

 

 

 

上で挙げたような考え方は、「キリスト教」の三位一体の証明にはならない。

 

 

なぜなら三位一体なる教理を確立させた「アタナシオス信条」は

は等しいものとみなし、

は神に作られた「被造物」ではないと定めているからです。

 

キリストを作られた「被造物」として「神」と切り離すのは

三位一体の確立によってキリスト教から廃絶された「アリウス派」寄りの考え方であり

 

キリストが「」であり「人間」でもあるという両方の側面を強調するのは

アリウス派と同じくキリスト教の主流派にとって異端である

ネストリウス派」に近しい考え方だから。

 

 

三位一体は初期のキリスト教徒が時間をかけて構築していった

「先人の知恵」だと思ってるから、

絶対に間違っている!などと公言して全否定する気はないけど、

 

アタナシオス信条の

「父」も「子」も等しく、いずれも永遠で、全能で、大小や強弱がなく、

力と権威と永遠性において同格である

 

と言う部分は、正直なところ突っ込まれても仕方ない気がします。

 

「三位一体」概念自体、信じているけどよくわかっていない人達がいるぐらいには

「ふわっとしたもの」、だと言ってしまえるわけで

 

さらに福音書では「子」自身が「父」を偉大な存在だと述べたり

「神」として祈りを捧げていたりするわけで、

 

異端と呼ばれる「エホバ」「統一」「モルモン」ら そうそうたる面々

既存のキリスト教を「踏み台」にして独自の教義を宣明する際の

説得力を与えてしまっていると感じます。

みんな言ってることバラバラなんだけど。

 

「三位一体」は、皇帝にとって都合の良い教義だったから採用された

なんて話もあるし。

 

ともかく、

今回は「キリスト教」の信じている三位一体とは全然違う考え方を提示してしまったので

次回は「キリスト教の三位一体」を擁護してみようと思います。

 

 

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キリストが「神」の人格を複製された人間であるとする考え方は、

「父」と「子」両方が万物の誕生より前から存在しているとする

三位一体、エホバの証人いずれとも相反するものです。

 

こんな仮説を挙げた理由についてですが、

 

聖書の中には「三位一体」が書かれていないのは勿論、

旧約聖書の中に「神の子イエス」が存在していることを示す記述がまるで見当たらないから。

将来やってくる「メシア」つまり地上のキリストについての予言はたくさんあるというのに。

 

 

「神は世を深く愛するがゆえに、ご自分の独り子を与えた」

エホバの証人は「ずっと傍らにいた最愛の息子を、人類への愛ゆえに犠牲にした」と考える。

感動的なストーリーです。

 

しかし、それを前提で考えるなら、聖書の中に、

「神」なる「父」と「子」との「絆」についての記述があまりにも少なすぎるのではないか。

「父」の「子」に対する愛情とか、「子」を失ったときの悲しみとか、

そういう親子間の「情緒」的なものがなかなか伝わってこない。

※ヨハネによる福音書14章31節で、キリストが「父を愛している」とは言っている

 

ここで本当に「父」と共に「子」が昔から存在していたのか?という疑問が浮かびます。

 

ローマ人への手紙5章14節では、

原初の人間アダムがきたるべき〝キリスト〟の〝〟または〝原型〟と書かれています。

(これはエホバの証人の新世界訳では新旧共にまったく別の言い回しに変えられている)

 

アダムが持ち込んだ「原罪」をあがなうには、

「神のかたち」に作られたアダム以上の「魂」を対価にしなければならない。

 

だから、「神」を模して造られただけの人間ではなく

「神そのもの」の「魂」が宿った肉体が用いられた。

 

「キリスト」自身が〝神〟であり、「すべてのものを創造した」と言われている理由は

「キリスト」「すべてのものを創造した」〝神〟としてのを持っているからである。

 

 

つまりキリストは、人類の救済のために備えられた〝メシア〟という手段だった

 

 

という考え方なんですが

「箴言8章」のように、これを否定する根拠というのも色々あって、

そういうのをあえて無視してるだけなんですよね。