三位一体の話② 立証の証拠と否定の根拠 | 元J民の色々考察ノート

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前回はこっち

 

キリスト教が神を「三位一体」として考える理由は、

キリストを「神」とみなす考えに基づいています。

 

そこで、キリストが「神」であることを立証する証拠と、

「子」のキリストが「神」であることを否定する根拠を、

聖書から幾つかピックアップしてみます。

 

 

① イエス・キリストが神である証拠

 

 

ヨハネによる福音書1章1節「言(言葉)は神であった」と書かれている

 

ヨハネ1章1節の「言」イエス・キリストを指しているというのは

世界中のキリスト教徒の共通する見解であり、エホバの証人も認めています。

 

1節から3節では、

「言」つまりキリストであり、神と共にあって、すべてのものを創造した

と書かれているので、

が「」であり「一体」であり「創造主」であるという考え方の根拠になります。

 

 

 

ヨハネによる福音書10章3節で「私と父は一つである」と書かれている

 

」と「」が一体であるとみなす考え方の直接的な根拠となります。

 

 

 

ヨハネによる福音書14章9節でキリストが「『私』を見たものは『父』を見た」と言っている

 

これは弟子フィリポの「父を示してほしい」という要望に対する回答であり、

直前の7節でも、「私」を知ること「父」を知ること だという言葉があります。

 

「父」と共に長い期間を過ごした「子」が、「父」の姿を「模倣」また「反映」した

(これはエホバの証人の考え方)とややこしく考えるより

「子」肉体を持った「神」だから「子」を見ることは「神」を見ることでもある

ととらえる方がしっくりきます。

 

 

 

ヨハネによる福音書20章28節で、使徒トマスがキリストを神と呼んでいる

 

キリストは自身を神だと呼ばれても否定していないので、キリストは神だと考えられます。

 

 

 

フィリピ2章6節で、

キリストは神のかたち(邦訳によっては〝神〟そのもの)だったが、肉体を持った

と書かれている

※ただし神と同等であろうとはしなかった、とも付け加えられている

 

コロサイ2章9節

キリストには神の神性(役によっては〝徳〟〝性質〟)が実体を持って宿っている

と書かれている

 

いずれも「神」肉体を持って目に見える実体化したものがキリストであるかのように

書かれています。

 

ちなみに、現在エホバの証人に配られているシルバーの新世界訳の邦訳

ヨハネ1章1節、フィリピ2章9節、コロサイ2章9節の文自体が改変されているため、論証には使えません。

 

 

これらは三位一体の証明とされている聖句の一部にすぎませんが、

すべてを統合して考えると

キリスト自身が神であると考えるのが妥当であるように思えます。

 

 

 

②イエス・キリストが神ではない根拠

 

 

ヨハネによる福音書5章19節で、「子」は自分からは何事もできないと書かれている

 

「子」なるキリスト自身が、「父」をすることを見て、習うことしかできないと述べて

「父」との力と権限の差について明示しているので、「父」より劣ると考えられます。

 

 

 

ヨハネによる福音書14章28節で、キリストは「父」を自分より大きい存在だと認めている

 

キリストは「父」を格上の立場に見ているので、「父」なる「神」とは違うと考えられます。

 

 

 

マタイによる福音書26章39節で、キリストは「父」に対して祈りを捧げている

 

キリスト自身が祈りを捧げる立場にいました。

聖書の中で「正しい崇拝の対象」として認められているのは「神」だけなので、

この時のキリストは「父」なる「神」ではないという見方が導き出されます。

 

 

 

マタイによる福音書27章46節で、キリストは死に際に「わが神」と繰り返し呼びかけている

 

英文は「my god」。キリストにとっても「神」がいると考える証拠になります。

 

 

 

コロサイ人への手紙1章15節で、キリストはすべてのものに先立って生まれたと書かれている

 

「生まれた」はキリストが被造物(作られた存在)であるとする根拠です。

「全創造物の初子」なる邦訳は私が知る限りエホバの証人の聖書にしか書かれていませんが、

元の英文の翻訳としては間違っていません。(first born というワードが使用されている)。

 

 

コリント人への手紙 第一 11章3節で、キリストの頭は神であると書かれている。

 

既に昇天したはずのキリスト「神」が別々に書かれています。

「頭」というワードについて言えば、エフェソス人への手紙1章22節や5章23節、

コロサイ人への手紙1章18節で、

キリストが教会(エホバの証人の新世界訳では〝会衆〟)の「頭」であると書かれています。

 

この関係性が明確な上下関係を明示しているかはともかく、完全に対等だとは考えられません。

「神」キリストの「頭」なら、キリストは「神」と同じ立場ではないと言うことになります。

 

 

コリント人への手紙 第一 15章28節は、

御子が万物を(自分)に従わせたものに自らも服従すると書かれている。

 

前提として、27節では「すべてのものをキリストに服従させる」存在が明示されており、

その上で御子自身も「その方」に従うとされています。

そのまま解釈すれば、御子は上の存在に従わなければいけない立場ということになります。

 

 

 

私自身がJWとして育てられたために贔屓目で見てしまうのもあるのですが、

 

これらの聖句に基づいたエホバの証人の主張も、かなり説得力はあるように思えます。

 

 

キリスト自身は「子」の立場で「父」を別の存在として語っている

・・・これだけなら三位一体を否定する根拠としては弱いけれど、

キリスト自身「神」に対して祈っています

 

さらに、福音書を含めて新約聖書には「父」または「神」と、「子」またキリストとの間に

明確な上下関係(力においても権限においても)が存在するかのように書かれている聖句が

複数見られます。これらは「父」も「子」も等しく「神」とする三位一体が間違っていると

否定する根拠として挙げられています。

 

 

①「神」とは唯一無二の存在である。

 

②「キリスト」は、神そのものであるように書かれている。

 

③「子」の「キリスト」と、「父」なる「神」には、力や権限の差があるように書かれている。

 

この3つの矛盾するように思える要素を、どのように統合するか。

 

②は神とキリストを完全に別々の存在だと切り分ける考え方とは辻褄が合わないし、

③は三位一体説を否定する理由になってしまう。

 

 

地上にいたキリストは、人の身でありながら「神」そのものの精神記憶をそのまま持っていた

 

と考えれば辻褄が合うんじゃないだろうか