聖書の改ざんの話① | 元J民の色々考察ノート

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思うがまま好き勝手に考察を書いていきます

「聖霊」についての話で思い出したこと。

 

昨今のJWと関わりのある方はみんな知っていると思うけど、

近年発行された最新の新世界訳聖書からは、「聖霊」というワードが消失しました。

 

 

「聖霊」を神ではなく神の力だとみなすのは別に良い。

だけど、読者にそう思わせるために「聖霊」という言葉を聖書から抹消して、

「聖なる力」などというオリジナルの造語に改変するのは、

聖書翻訳者としては一線を越える行為にあたるのではないでしょうか。

 

エホバの証人は三位一体を否定しており、

「聖霊」が人格を持つ存在ではないと教えているから

わざとこういう訳にしたのでしょう。

日本語の「精霊」とか「霊(幽霊的な意味)」と混同させないようにする目的も

あるのかもしれない。

 

それでも「聖霊」という邦訳は、ほぼすべての聖書で統一されている

それそのものを指し示し、確立させる唯一無二のワードだったんです。

 

それを自分達の宗派の独自の主張に合わせて勝手に書き換えるのは、

「意訳」の範疇ではありません。

 

 

「聖霊」というワードは、旧約聖書にはほとんど出てきません。

「聖霊」が注がれる、満たされるといった言い回しは、新約聖書から出てきます。

「聖霊の賜物」の様態は、キリスト以前と以後では異なるという考え方も存在します。

 

それなのに新世界訳は、旧約聖書中に頻繁に登場する「神」の「霊」という言葉も

「聖霊」と同じく「聖なる力」に変えてしまいました。

この聖書だけを読む人は、新約で「聖霊」と訳されていた存在と、

旧約で「霊」と訳されていた存在の区別がつかなくなります

 

新約聖書の「聖霊」バプテスマに深く関係しており、

バプテスマは、新約聖書から定着した概念と言っても良いでしょう。

 

旧約の「神の霊」が全て新約の「聖霊」と同じものと考えて良いのかどうかはともかく、

「聖霊」という言葉で表されていた存在のアイデンティティを故意に失わせるというのは

「聖霊」の価値を極めて軽視しているとしか思えません。

 

 

これを「改ざん」だと断言する理由は、

原語の改訂された新世界訳は「Holy spirit」のままで、

「聖霊」にあたるワードは改変されていないからです。

 

旧約聖書に出てくる「神の霊」という言葉は、

 

the spirit of God

Jehovah's spirit

 

など、字義通りの言い回しが維持されており、

「聖霊」と見分けがつくようになっているのです。

 

 

邦訳だけが、組織の都合に合わせるかのようにわざと書き換えられている不自然さ。

 

これは「聖霊」に限った話ではありません。

 

意味合いが変わるレベルの改変箇所は他にもあります。

それは次の記事で。

 

 

こういう改変は是認してはならない行為ではあるんだろうけど、

私は、良い結果も生むのではないか、と予想しています。

歴史のある聖書原本とは異なる「イミテーション」の聖典を使っている、と

他者から認識されることは、

「キリスト教」を自称する主張の信頼性を損ねる結果に繋がるから。

 

少しでも聖書の素養がある人間なら、

「聖霊」という、新約聖書の中でも極めて重要な役割を果たす存在が

故意に書き換えられていることにはすぐに気づく。

「父と子と聖霊の名において」という言い回しは、多くの人が聞いたことがあるはずです。

 

そんな有名なワードを堂々と「改ざんした」とひとたび思われてしまえば、

「聖なる力とはなんたるか」を説明するまもなく、普通の人は警戒して距離を置くでしょう。

 

エホバの証人の信者達は、建前上は仲間を増やすことを主要な目的としているけど、

こういう改変は伝道者にとってメリットなんて無い。無意味どころかマイナスです。

そしてこれに気づく人は一人や二人ではないと思う。

なにより、バプテスマにも関係してくる「聖霊」という「語句」を勝手に書き換える行為、

統治体の信者ならともかく、キリストの信奉者なら違和感ぐらいはもって然るべきです。

 

この改変は、現役信者にも「気づかせる」きっかけになったんじゃないかな。

 

グッボーイ、日本支部