教理についての話をします。
エホバの証人と他のキリスト教が異なっている相違点として最も有名な点といえば、
「三位一体」と「地獄」の否定かもしれません。
しかし私がエホバの証人の教理で最も問題があると考えているのは、
現在生きているクリスチャンを「油注がれた144,000人」と「それ以外の大群衆」に
区分した上で
ほとんどのクリスチャンが「大群衆」として地上で永遠に生きる、とする教えです。
今年の「イエスの死を思い起こす集まり」が3月24日に開催予定なので、これを機に
なぜ「油注がれた144,000人」と「それ以外の大群衆」の区分に問題があるかについて
解説をしていきたいと思います。
ただしこの記事では問題の核心には迫らず、関連する福音書の聖句の考察から始めます。
人の子が栄光の中にすべての御使たちを従えて来るとき、彼はその栄光の座につくであろう。
そして、すべての国民をその前に集めて、羊飼が羊とやぎとを分けるように、
彼らをより分け、 羊を右に、やぎを左におくであろう。
そのとき、王は右にいる人々に言うであろう、
『わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、
世の初めからあなたがたのために用意されている御国を受けつぎなさい。
あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせ、かわいていたときに飲ませ、
旅人であったときに宿を貸し、 裸であったときに着せ、病気のときに見舞い、
獄にいたときに尋ねてくれたからである』。
そのとき、正しい者たちは答えて言うであろう、
『主よ、いつ、わたしたちは、あなたが空腹であるのを見て食物をめぐみ、
かわいているのを見て飲ませましたか。
いつあなたが旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せましたか。
また、いつあなたが病気をし、獄にいるのを見て、あなたの所に参りましたか』。
すると、王は答えて言うであろう、
『あなたがたによく言っておく。
わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、
わたしにしたのである』。
それから、左にいる人々にも言うであろう、
『のろわれた者どもよ、わたしを離れて、
悪魔とその使たちとのために用意されている永遠の火にはいってしまえ。
これらの最も小さい者のひとりにしなかったのは、
すなわち、わたしにしなかったのである』。
そして彼らは永遠の刑罰を受け、正しい者は永遠の生命に入るであろう」。
マタイによる福音書25章31節ー41節、45節-46節 (口語訳 1955)
私は、このたとえでキリストが「私の兄弟」と言っている人々は
「天的な希望を持つ脂注がれた144,000人」で、
彼らの指示に従って協力する「地上で永遠に生きる希望を持つ大群衆」が
羊として選り分けられ、大患難を生き残る資格を得ると教わりましたので、
この解釈が今も大きく変わっていないという前提で話を進めます。
エホバの証人によれば、聖書中でキリストの兄弟と言われるのは
「天的な希望を持つ脂注がれた144,000人」だけで
「それ以外」の有象無象は、
「天的な希望を持つ脂注がれた144,000人」に忠誠を示すか否かで
羊として永遠の命を得る機会を得るか、
やぎとして滅ぼされるかが決定づけられることになります。
その理論で行くと、後者に当たる「大群衆」の将来は、
「天的な希望を持つ」キリストの兄弟達に全面的に依存しているということになります。
エホバの証人がそう考えている根拠として、
エホバの証人の信者になるための聖書レッスンで使用される公式テキストには、
バプテスマを受けてエホバの証人に正式に入信する条件として
キリストの兄弟を自称する「忠実で思慮深い奴隷」の指示に従い、
援助することが定められています。
これを「羊とやぎ」の例えに当てはめると、ある疑問が生じます。
「天的な希望を持つグループ」も「地上の希望を持つグループ」も
あたかも「一つの群れ」であるかのように、
同じ場所で、同じ教材で、同じ基準を学び、同じ活動をしています。
先述したように、「大群衆」と言われる人々は「忠実で思慮深い奴隷」から
「忠実で思慮深い奴隷」に従い、協力することで救われると教えられているので
骨身を削って宣教などの宗教活動にできる限りの時間を費やしています。
しかしキリストのたとえ話に出てくる「羊」たちは、
「主よ、いつ、わたしたちは、あなたが空腹であるのを見て食物をめぐみ、
かわいているのを見て飲ませましたか。
いつあなたが旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せましたか。
また、いつあなたが病気をし、獄にいるのを見て、あなたの所に参りましたか」
と、自分達が善行をした自覚「すら」持っていないのです。
自ら「忠実で思慮深い奴隷」に生涯をかけて忠義を尽くす契約(バプテスマ)を行い
その契約に従って奉仕活動に人生を捧げている「大群衆」には明らかに当てはまりません。
おびただしい数の若者達が「世俗の仕事」を減らして生活を切り詰めて
宣教が中心の生活を送っていますし、
「忠実で思慮深い奴隷」の命令に従って政治的な中立の立場を取ったことで
迫害を受け、身体的な危害を受けた人もいます。
これは「困窮しているイエスの兄弟の衣食住を援助する」どころではない
自主的に行われる甚大な自己犠牲です。
そのような人達を、
🐑「わたしたち なんかいいこと しましたか ?」
と自分のことすらよくわかっていない羊に当てはめるのは、
「大群衆」の地汗のにじむような努力や苦闘を軽視する見方です。
では「羊」とは何を指すのか。
ヒントになるのは、キリストの下記の言葉です。
「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れるのです。
わたしを受け入れる人は、わたしをお遣わしになった神を受け入れているのです。
もし預言者を、神から遣わされた預言者だというので受け入れるなら、
預言者と同じ報いを受けるでしょう。また、神を敬う正しい人たちを、
彼らが神を敬うというので受け入れるなら、彼らと同じ報いを受けます。
また、この小さい者のひとりに、わたしに代わって冷たい水一杯でも与えるなら、
よく言っておきますが、その人は必ず報いを受けるのです。」
マタイによる福音書 10章40節-42節
「キリストの弟子に善意を施したものは必ず報われる」という教えは、
羊とやぎのたとえ話と類似しています。
ここで注目すべきは、この手前の部分で
「神を敬う正しい人達」を受け入れる者たちは
「神を敬う正しい人達」と同じ報いを受けると書かれている点です。
文脈上、「神を敬う正しい人達を受け入れる者たち」は、
「神を敬う正しい人達」とは異なるはずです。
これを羊とやぎのたとえ話に当てはめると
クリスチャンに善行を施した人はキリストに是認されて報いを受ける
という解釈ができます。
もし羊とやぎの選別が、エホバの証人が教えている通り
千年統治の開始の前に実施されると仮定した場合。
羊とヤギが選別される基準は単純に
クリスチャン(エホバの証人とは言いません)に善行を施したかどうか
と解釈しておくのが自然なのではないでしょうか。
黙示録に登場する獣と、ダニエル書7章の四番目の獣はいずれも
クリスチャン(聖徒、聖なる者)を迫害すると予告されているので、
その時にクリスチャンに対してどのような態度を取るかで
命運が決定する、と言う考え方もできるかもしれません。
・・・・・・ちなみに。
なんでそういう考え方を提示したのかと言うと、
もしエホバの証人が「世界で唯一の真のクリスチャン」を自称した上で
「自分達(信者全員で構成される宗教そのものを指す)に対する態度によって
世界中の人々が羊かやぎか分けられる」と考えていたのであれば、
宗教2世問題であそこまで問題のある対応は取らなかった可能性が高いからです。
「世の光」として人々を導き、自分達の「行い」や「態度」や「立場」が
世界の人々の命運を左右するという責任感を抱いていれば
「汚点」や「きず」により組織全体の評判が下がるような事態は
絶対に避けようとするでしょう。
この「日本」という国において、最適解と思える対応を選んだはずです。
しかし報道の取材に対する日本支部の広報の対応は、
日本の組織人であれば有り得ないと思えるようなシロモノでした。
世界本部に指示を仰いで、帰ってきた回答をそのまま伝えているように見受けられますが
日本支部が世界本部の「忠実で思慮深い奴隷」を神の経路として見ているから
彼らを手本として同じような態度を取った可能性もあります。
エホバの証人―神の王国を触れ告げる人々―という書籍は
組織内で行われた年代計算を根拠とする間違った期待(主に千年統治の開始時期)が
実現しなかったことで失望して組織を去っていった人達のことを
脱穀で吹き飛ばされるもみがら、「ゴミ」であるかのような言い方をしています。
「羊とやぎ」の解釈によれば、
組織は「何が正しいか」というより「誰に従うか」を、救済の条件として重要視しています。
自分たちをキリストの兄弟として選ばれた特別な存在に据えた上で、
それ以外の有象無象のモブが「我々に忠節に従い、我々のために生きるべきである存在」
でしかないとみなしているのなら、
「自分たち」が判断を誤ったとしても一切責められるべきではないし、
それを理由に離反する輩は例外なく生きる価値の無い「ゴミ」である、
と思わせるような意思表示を行うのも不思議ではありません。
それに倣った日本支部も報道の取材に対して、
被害を受けた人達がいたことに対してではなく
自分達が非難されていることに心を痛めていると回答してしまいました。
このような対応は、
ただただ組織の心象や立場を悪くするばかりではなく、
彼らが掲げる「エホバ」という名前のイメージダウンに繋がっています。
ここからはエホバの証人側の言いぶんの紹介なので、読んでいただく必要はございません。
今回はエホバの証人の「羊とやぎ」についての解釈の反証として、
「羊の善行の内容そのもの」と「羊が善行を自覚していない理由」を根拠に挙げました。
エホバの証人側がそれらの疑問について言及している「ものみの塔」研究記事を、かなり昔のモノですがひとつだけ知っています。
こちら側が一方的に疑問を投げかけっぱなしで終わるのはフェアではないと思ったので、組織側の提示している回答も紹介します。
イエスは,ご自分の兄弟の一人に一切れのパンやコップ一杯の水を勧めるといった小さな親切を示す人は皆その羊の一人になれる,と言っておられたのでしょうか。確かに,そのような親切な行為は人間味ある親切心の表われであるにしても,実際のところ,このたとえ話の羊にはもっと多くのことが関係しているようです。例えば,イエスが言っておられたのは,ご自分の兄弟の一人にたまたま親切な行ないをする無神論者や僧職者たちのことだとはとても考えられません。それどころか,イエスは羊のことを二度,「義なる者たち」と呼んでおられます。ですから,羊とは,ある期間にわたってキリストの兄弟たちを助け,つまり積極的に支援し,神のみ前での義なる立場を与えられるほどに信仰を働かせた人たちのことであるに違いありません。
(ものみの塔 1995年 10月15日号『羊とやぎにはどんな将来がありますか』10節)
一番だいじな根拠の部分が俺ルールじゃねーか
もしほかの羊が今,油そそがれた者たちと共に良いたよりを宣べ伝え,油そそがれた者を援助しているのであれば,ほかの羊はなぜ,「主よ,いつわたしたちは,あなたが飢えておられるのを見て食べ物を差し上げたり,渇いておられるのを見て飲む物を差し上げたりしたでしょうか」と尋ねるのでしょうか。様々な理由が考えられます。これはたとえ話です。この話によってイエスは,ご自分の霊的な兄弟たちに対する深い関心を示しておられます。イエスは兄弟たちと感情を共にし,彼らと共に苦しまれるのです。イエスは以前に,「あなた方を迎える者はわたしをも迎えるのであり,わたしを迎える者は,わたしを遣わした方をも迎えるのです」と言われたことがありました。この例えの中でイエスは,その原則を敷えんし,ご自分の兄弟たちに対して(善にせよ悪にせよ)行なわれる事柄が天にまで及ぶことを示しておられます。その事柄は,あたかも天のイエスに対して行なわれたかのようにみなされるのです。また,イエスはここで,裁きのためのエホバの規準を強調し,神の裁きが好意的なものであれ有罪を宣告するものであれ,正当な根拠に基づく公正な裁きであることをはっきりさせておられます。やぎは,『じかにあなたを目にしてさえいたなら,力にもなれたのですが』という言い訳はできないのです。
(ものみの塔 1995年 10月15日号『羊とやぎにはどんな将来がありますか』12節)
わざわざ話題を振っておいて即ぶん投げんなよ