ゆっくり学ぶ (悪性リンパ腫と共に)

ゆっくり学ぶ (悪性リンパ腫と共に)

2012.04 鮒谷道場第16期に入門する
2012.10 悪性リンパ腫と告知を受ける
2013.01-09 ホジキンリンパ腫 化学療法 寛解
2014.10ー2015.03 濾胞性リンパ腫 化学療法 寛解
2016.03ー2016.04 濾胞性リンパ腫 化学療法 寛解

いらっしゃいませ。 m(_ _)m


先日、初めてSendaiAIlabに参加した。

会場にいるのは、初めて会う人ばかり。

私は人見知りするほうなので、少し緊張していた。

でも、実際に始まってみると、特に何かをしなければならないわけでもない。

話を聞いたり、ほかの人が作業している様子を見たりしているうちに、緊張も少しずつなくなっていった。

今回のテーマは画像生成AIだった。

画像生成そのものは、私もブログの挿絵を作るときに使ったことがある。

ただ、Canvaで画像生成ができることは知らなかった。

Canvaというと、用意されたテンプレートを使ってデザインするもの、というイメージが強かった。

テンプレートだけではないんだ。

今回、知らなかった使い方を一つ知った。

そして、帰ってから少し思った。

せっかくいろいろな人が集まっていたのだから、もっと話をしてみればよかった。

最初に話した人からも、自分の知らないAIの使い方を聞くことができた。

こういう場所では、テーマになっている技術だけでなく、そこに来ている人から知ることも多いのかもしれない。

今回は、そこまで積極的には動けなかった。

それでも、まず会に参加した。

家でAIと毎日のように話しているだけではなく、実際に外へ出て、人と会った。

家に閉じこもっているわけじゃない。

まずは、それが第一歩だったのかなと思う。

これからは、もう少し積極的に社会と接続して、AIがどんなふうに広がっているのかを感じたい。

そして、自分でも少しずつ身につけていきたい。

次に参加したとき、自分が誰と何を話すのか。

そこはまだ、ちょっと分からない。

以前、「記憶の中では、たしかに言っていた」という記事を書いた。

 

 

ある陸上選手の、昔の優勝インタビューについての話だった。

私の記憶の中では、その選手がインタビューで、

「トウカイテイオー頑張れ」

のようなことを言っていた。

ずっと、そう覚えていた。

ところが記事を書こうとして、時代が合わないことに気づいた。

その選手が活躍していた時期を考えると、トウカイテイオーではおかしい。

もしかすると、

「ディープインパクトがんばれ」

だったのではないか。

そう思って、当時は結構調べた。

Googleでも検索した。

AIにも検索を頼んだ。

2005年前後のインタビュー記録や、当時書かれたブログなども探した。

でも、これだという記録は見つからなかった。

だから記事では、

時代を考えるとディープインパクトの方が近い。

ただ、そこも断定はできない。

記録が見つからないから。

そんなところで終わった。

記憶というのは、時間が経つと少しずつ変わる。

自分の中では確かだったものでも、調べてみると怪しくなる。

前の記事では、そんなことを書いた。

それからしばらくして。

まったく別の流れから、昔の自分のブログ記事を見つけた。

2013年1月27日に書いた記事だった。

 

 

そこに、こんなことが書いてあった。

「何年前か忘れましたが、NHKの陸上大会の優勝インタビューで『ディープインパクトがんばれ』発言からファンになりました。」

書いたのは、私だった。

2026年の私は、

「トウカイテイオーだった気がする」

と記憶していた。

でも、2013年の私は、

「ディープインパクトがんばれ」

とはっきり書いていた。

もちろん、2013年の自分が絶対に正しい、とまでは言い切れない。

その時点ですでに「何年前か忘れましたが」と書いているくらいだから、出来事からは時間が経っていた。

それでも、2026年の記憶だけを頼りにするより、出来事にずっと近いところにいた自分が残した記録ではある。

13年前の自分が、今の自分の記憶を補正してきた。

ちょっと不思議だった。

そして、もう一つ気づいた。

前の記事を書いたとき、私はそれなりに検索していた。

何も調べずに「分からなかった」としたわけではない。

「福士 ディープインパクト インタビュー」

など、いろいろ言葉を変えながら探した。

AIにも調べてもらった。

それでも見つからなかった。

でも今回、記録は見つかった。

ネットのどこか遠くではなく、自分のブログにあった。

情報がなかったわけではなかった。

探す場所が違っていた。

私はずっと、その選手についての記録を探していた。

だから、選手のインタビュー記事や大会記録、当時の第三者のブログなど、外側にある情報を探していた。

「昔の自分が、このことを書いていないか」

という方向には、検索を向けていなかった。

AIに頼んだときも同じだった。

AIがネット上の情報を全部見渡して、「存在しません」と判断しているわけではない。

こちらが与えた手がかりなどから、検索で見つけやすい情報を探している。

検索して見つからなかったことと、記録が存在しないことは、同じではなかった。

考えてみれば当たり前なのだけれど、自分で体験すると少し感覚が違う。

2026年の自分には、記憶があった。

その記憶を疑って、検索した。

検索しても分からなかったので、「断定できない」と書いた。

ところが2013年の自分は、その答えらしきものを普通にブログに書き残していた。

記憶は変わっていた。

記録は残っていた。

ただ、その記録を探していなかった。

前の記事を書いた時点での「分からない」は、たぶん間違ってはいなかった。

そのとき調べた範囲では、分からなかったのだから。

でも、「どこを探したか」まで含めると、少し違って見えてくる。

あれだけ探したのに見つからなかった答えが、13年前の自分の文章から、何でもない顔をして出てきた。

記憶より記録が強かった、というだけでもなく、検索すれば記録にたどり着ける、というだけでもなかった。

探していない場所にある記録は、そこにあっても、しばらく答えにはならないらしい。

 

 

AIと、ある人材育成プログラムについて話していた。

申込締切があり、その約1週間後には講座が始まる。

その時期に、私は新しいノートPCを購入しようと考えていた。

PC自体は、その講座を受講できるかどうかに関係なく、外出用として購入する予定だった。

ただ、もし講座を受けることになれば少し事情が変わる。

講座が始まる直前に新しいPCが届いても、操作に慣れる時間がほとんどない。

だから知りたかったのは、

「受講できるかどうかは、いつ決まって、いつ通知されるのか」

ということだった。

その話をAIとしていたあと、私は、

「確認お願いします」

と入力した。

するとAIが確認したのは、

「そのPCで講座を受講できるか」

ということだった。

私が確認してほしかったのは、そこではない。

知りたかったのは、受講の決定や通知の時期だった。

AIが調べた内容そのものは、それなりに筋が通っていた。

PCで受講できるか、という問いに対する回答として見れば、大きくおかしいわけではない。

でも、私が聞いていたことへの答えにはなっていなかった。

そこで、

「回答ズレていないか」

と指摘した。

その段階でAIは直前の会話を見直し、何を確認してほしかったのかを捉え直した。

今回気になったのは、AIが単純に「間違った答え」を出したことではなかった。

少し違う。

最初の「何を確認するのか」というところでズレていた。

そして、そのズレた前提のまま、調査や回答を続けていた。

調べ方や、その後の処理がそれなりに正しくても、出発点が違えば、欲しかった答えからは離れていく。

私が違和感を持ったのは、たぶんそこだった。

もちろん、

「確認お願いします」

という一文だけを取り出せば、かなり曖昧だと思う。

何を確認するのかを、私がもっと詳しく書けばよかった、とも言える。

ただ、今回はその一文だけで始まったやり取りではなかった。

その直前まで、申込締切と講座開始までの時間、そして受講できるかどうかがいつ分かるのか、という話をしていた。

会話の流れは、すでにあった。

そう考えると、少し別の疑問が出てくる。

会話型のAIに対して、人間はどこまで言葉を省略していいのだろう。

毎回、

「受講の決定時期と通知時期について確認してください」

と書けば、今回のズレは起きなかったかもしれない。

でも、それなら直前まで続いていた会話は、どの程度意味を持つのだろう。

人間同士なら、直前まで話していたことを受けて、

「それ、確認しておいて」

のように主語や目的語を省くことは珍しくない。

AIとの会話でも、私はたぶん無意識にそれに近い感覚で「確認お願いします」と書いていた。

一方で、AIから見れば複数の解釈があり得たのかもしれない。

だとすれば、

「受講決定の時期を確認する、という意味ですね」

くらいの短い確認があれば、それで済んだ可能性もある。

もちろん、何を頼んでもAIが、

「○○という意味ですか?」

「これで合っていますか?」

と聞いてきたら、それはそれで面倒だと思う。

会話のたびに確認されるなら、AIを使う軽さがなくなってしまう。

だから、何でも確認すればいい、という話でもなさそうだ。

意味がかなり明確なら、そのまま進む。

複数の解釈がありそうなら、短く確認する。

何か重要な操作をする場面では、AIが理解した内容を一度示してから進む。

そんな動き方なら、今回のようなズレはもう少し早く止められるのかもしれない。

これは私が一利用者として使っていて考えたことで、実際にAIがどう設計されているのかは分からない。

こうした問題そのものも、おそらくAIを作っている側では以前から考えられているのだと思う。

だから、「AIにはこんな問題がある」と大きく訴えたいわけではない。

むしろ残しておきたいのは、もっと小さな部分だ。

どの瞬間にズレたのか。

私はなぜ「なんか違う」と感じたのか。

そして、どんな一言が間にあれば、そのズレは止まったのか。

今回の場合、AIが出した情報よりも、その少し前にある、

「いま、何について調べようとしているのか」

という部分のほうが気になった。

AIを使っていると、答えが正しいかどうかには目が向きやすい。

でも、その答えが「こちらと同じ前提から始まっているか」は、意外と見落としやすいのかもしれない。

「確認お願いします」という言葉だけなら、確かに曖昧だった。

でも、その前には会話があった。

人間は会話型AIを相手にするとき、どこまで「さっきの話」を分かっているものとして言葉を省略していいのか。

そしてAIは、どのくらい曖昧になったところで、一度立ち止まって確認したほうがいいのか。

その境目が、まだよく分からないまま残っている。

 

 


 

最近、仕事で引継ぎ資料を作っています。

その中で、AIにも何度も資料を読んでもらいながら作業を進めています。

使い続けるうちに、少し気になり始めたことがありました。

最初に考えていたのは、「人とAIの認識のズレ」をどう減らすか、ということです。

同じ言葉でも伝わり方が違ったり、こちらが当たり前だと思っていたことが伝わらなかったり。

AIを使っている人なら、一度くらいはそんな経験があるかもしれません。

でも最近は、それ以上に気になることがあります。

それは、「システムとAIのズレ」です。

引継ぎ資料は、次の担当者のために作るもの。

ずっとそう思っていました。

でも今は、それだけではない気がしています。

AIもその資料を読んで、一緒に仕事をする時代になってきました。

そう考えると、資料は「人に渡すもの」であると同時に、「AIがあとから同じように理解し直せる状態を残すもの」でもあるのかもしれません。

一度AIに教えれば終わりではありません。

システムが変われば、AIの理解も少しずつ古くなっていきます。

だから大切なのは、AIに知識を渡すことよりも、人とAIの認識を少しずつ合わせ続けられる状態を作ることなのではないか。

そんなことを考えるようになりました。

もう一つ、試してみたいことがあります。

テストが終わった後ではなく、その前にAIへレビューをお願いすることです。

「バグを見つけて」というより、

「見落としている確認ポイントはない?」

そんな相談相手として使えたら面白いのではないかと思っています。

もちろん、まだ試せてはいません。

だから、これは期待というより、小さな仮説です。

最近、一番気になっているのは、AIがどれだけ速く読むかではありません。

それよりも、

「ここまでは理解できました。」

「ここから先は自信がありません。」

そう教えてもらえる方が、安心して次の作業へ進めます。

速さよりも、理解の輪郭が見えること。

毎日AIと仕事をしていると、その価値の方が少しずつ大きく感じられるようになりました。

これは本で読んだ話ではありません。

引継ぎ資料を作り、AIと何度もやり取りをする中で、自分の見え方が少しずつ変わってきた結果です。

まだ考えはまとまっていません。

だから答えを書きたいわけでもありません。

数年後に読み返したとき、「この頃から見ている景色が少し変わり始めていたのかもしれない」。




そんな記録になっていたら、それで十分です。
 

AIに動画を渡してみた。

Claudeは読めないと言った。

Geminiは動画を解析して、内容をテキストにしようとした。

ChatGPTは動画について説明を始めた。

最初は単純に機能の違いだと思った。

でも、途中から別のことが気になり始めた。

本当に見ているのだろうか。

ChatGPTはときどき映像を見たかのような説明を返してくる。

ところが後で確認すると、動画の中身ではなく、ファイル名や周辺情報から推測していたように見える場面があった。

見ていないとは言わない。

ただ、利用者の立場からは何を根拠に説明しているのか判断しにくい。

その説明が映像を解析した結果なのか、それとも別の情報から組み立てたものなのかは分からない。

そんな場面があった。

その曖昧さが妙に気になった。

最近はサッカーの動画をAIに渡している。

以前なら答えの内容だけを見ていた。

正しいか、間違っているか。

それだけだった。

でも最近は違う。

その答えは何を根拠にしているのか。

動画を見た結果なのか。

ファイル名なのか。

周辺情報なのか。

それとも推測なのか。

そちらの方が気になる。

AIの能力を比べたいわけではない。

むしろ興味があるのは、

AIがどこまで確認できていて、

どこから先を補っているのかだ。

少し前までは、AIが何を答えるかに興味があった。

最近は、その答えがどこから来たのかが気になる。

動画を観察していたつもりだった。

でも実際に観察していたのは、AIの方だったのかもしれない。

 


 

Gmailの古いメールを整理していた。

2009年や2010年のメールが残っていて、何気なく添付ファイルを開いてみた。

すると昔作ったExcelファイルが出てきた。

開いた瞬間、

「Microsoft SQL Server 2005 セットアップ」
「SQL Native Client が見つかりません」

というエラー画面が表示された。

当時なら、このエラーを見て検索していただろう。

原因を調べて、
Microsoftのサイトを探して、
あれこれ試していたと思う。

今ならAIに聞けば、

「昔のSQL Serverの接続情報を参照している可能性があります」

そんな答えが数秒で返ってくる。

便利な時代になったものだと思った。

ただ、そのあと見つけたものの方が面白かった。

添付されていたテストデータを眺めていたら、備考欄に妙な文章が並んでいた。

・主人対応注意。未収金なりやすい

・毎年部長替わるかも

・結果書と一緒に送付すること

最初は、

「誰が入力したんだろう」

と思った。

少し考えて気づいた。

これを書いたのは自分だった。

単なるテストデータなのに、

備考欄には現場の匂いが残っていた。

17年前の自分は、

「システムが動けばいい」

ではなく、

「現場で困ることは何か」

そんなことを考えながらテストしていたらしい。

少し笑ってしまった。

最近も、

AIの回答の前提のズレが気になったり、

契約条件の表示が気になったり、

システムの挙動が気になったりする。

「なぜそうなっているのか」

「実際に困る人はいないか」

そんなことが気になってしまう。

もっと大きなことを考えているつもりでも、引っかかる場所は案外変わっていないのかもしれない。

当時は未来のことを考える余裕なんてなかった。

目の前の仕事をこなすことで精一杯だった。

まさか17年後に、AIと会話しながら当時のファイルを見返しているとは想像もしなかった。

未来は予測できなかった。

でもファイルは残っていた。

古いファイルを開いたら、そこには昔の自分が残っていた。

思っていたより、その人は今の自分によく似ていた。

 

 


 

リングが見当たらなくなった。

こういうとき、人はまず記憶をたどる。

「たしか洗面所で外した気がする」

「そこに置いたはず」

そんなふうに。

私もそうだった。

だから最初は洗面所を中心に探していた。

でも、実際に見つかったのはポケットだった。

少し面白いなと思った。

私はずっと「どこに置いたか」を探していた。

でも実際には「どこにしまったか」の話だった。

置く。

落とす。

しまう。

小さな物はだいたいこのどれかで行方がわからなくなる。

そして意外と忘れるのが「しまう」らしい。

今回もそうだった。

リングを外した。

無意識にポケットへ入れた。

その行動の記憶だけ抜け落ちていた。

だから洗面所を探しても見つからなかった。

探し始める前にAIに相談したところ、

洗面所だけでなく、

トイレ

ポケット

といった候補が並んだ。

結果として、その中のポケットに入っていた。

特別な推理があったわけではない。

記憶に引っ張られている本人よりも、外から見た方が候補を広げやすかっただけだと思う。

私は以前から、何かあるとAIに相談することが多い。

答えを教えてほしいというより、

自分が見落としている可能性を並べてもらいたいからだ。

今回もまさにそんな感じだった。

普段、リングを置く場所は決まっている。

だから無意識に、

「いつもの場所にあるはず」

という前提で考えていた。

でも今回は違った。

置き場所を忘れたのではなく、

いつものルールから少し外れていただけだった。

こうして振り返ると、

リングが見つからなかった理由は単純だった。

リングがどこにあるかわからなかったのではない。

私はずっと、

「洗面所に置いたはずだ」

という考えの方を信じて探していた。

見つかったリングを見ながら、

探していたのはリングそのものではなく、

「洗面所に置いたはずだ」という思い込みだったのかもしれないと思った。

まだこういう思い込みは、ほかにもありそうな気がする。
 

 

少し前までのAIは、質問をして答えを返してくれる存在だった。

わからないことを聞いたり、

文章を作ってもらったり。

便利ではあるけれど、どこか「会話をするツール」という印象が強かった気がする。

でも最近は少し様子が変わってきた。

メールやカレンダーと連携したり、

タスク管理ツールとつながったり。

ただ返事をするだけではなく、実際の仕事の流れの中に入り込んできている。

「このメールに返信しておいて」

「来週の予定を調整しておいて」

そんなことまで任せられるようになり始めた。

AIと話すのではなく、AIと一緒に仕事をする。

そんな感覚に近い。

もちろん、全員が使うわけではないと思う。

興味がない人もいるし、必要性を感じない人もいる。

これまでも新しい道具はそうだった。

スマホも、ネットも、SNSも。

使う人と使わない人がいた。

ただ、今回少し違うのは、仕事そのものに近い場所まで入ってきていることかもしれない。

同じ仕事でも、AIを活用した人の方が早く終えられる場面は増えていくと思う。

その分、考える時間が増えたり、別のことに取り組めたりする。

便利になる人。

変わらない人。

いろんな人がいると思う。

AIを使うことで得られるものもある。

一方で、使わないことで守られる仕事の進め方や考え方もあるのかもしれない。

だから何が正解かは、人や仕事によって違うのだと思う。

ただ一つ言えるのは、

AIはもう単なる会話の相手ではなく、

少しずつ仕事の相棒になり始めている。

その変化は、思っているより静かに進んでいる気がする。
 

 

夢でみたメモを見返していたら、こんな言葉が残っていた。

デジタルカメラ。

のこぎりで切る。

人のブログリンク。

イメージ。

説明なし。

二十年後のわたし。

夢の中で何を見ていたのか思い出せない。

ただ、最近ひとつ気になる出来事があった。

昔のブログに書いてあった「ザラガス」が何だったのか思い出せなかったのである。

書いたのは自分だ。

そのときは意味があったはずだ。

でも今は分からない。

単語だけが残っている。

残っているのに、受け取れない。
 

夢の話に戻る。

最初は、人のブログリンクやイメージという言葉から、説明コストを減らしたい話なのだと思っていた。

ただ、夢の中では写真を見るのではなく、デジタルカメラそのものをのこぎりで切っている。

何が残り、何が消えるのか。

 

そんな夢だったのかもしれない。

人のブログリンク。

イメージ。

説明なし。

そして二十年後のわたし。

こうして並べると、夢が気にしていたのは「何を残すか」よりも、「何を省略していいのか」だったようにも見える。

写真だけ残す。

単語だけ残す。

リンクだけ残す。

文章だけ残す。

どれも残る。

でも、どれも少し足りない。

未来の自分に伝えるためには何かを削らなければならない。

でも削りすぎると受け取れなくなる。

ザラガスは、その境界線を越えてしまった例なのかもしれない。

当時の自分には十分だった。

だから説明を書かなかった。

でも今の自分には足りなかった。

残すことと、省略することは、同じ作業のようで少し違うらしい。

二十年後の自分に向けて何かを書くとき、その違いだけは忘れないほうがいいのかもしれない。

ただ、その「最低限」が何なのかは、まだよく分からない。

 

 


 

最近、「デジタル遺産(Digital Legacy)」という言葉を知った。

最初は暗号資産の相続の話だった。

本人が亡くなり、誰もパスワードを知らなければ、その資産は残っていても取り出せない。

法律上は財産でも、実際には誰も受け取れなくなる。

その話を聞きながら、少し違うことを考えていた。

これは暗号資産だけの話だろうか。

最近、昔のブログを読み返すことがある。

当時は当たり前だったことが、今では思い出せない。

なぜその言葉を書いたのか。

なぜそう考えていたのか。

自分で書いたはずなのに分からない。

文章は残っている。

でも意味が受け取れない。

古文書の解読も少し似ている。

紙は残っている。

文字も残っている。

それでも読めない。

当時の単位や制度、人間関係が分からないからだ。

先日、ようやく「甚八」という名前が読めた。

二文字が読めただけなのに、急に向こう側に人が現れた気がした。

文字を読んだというより、その人が生きていた背景が少し見えたのだと思う。

写真を見返していると、ときどき手が止まる。

「これは何の写真だっただろう」

撮った事実は残っている。

けれど、なぜ撮ったのかは思い出せない。

残したつもりだった。

でも受け取れない。

考えてみると、残すことと受け取れることは別なのかもしれない。

最近はブログを書くとき、一行だけ前提を書くことがある。

そのときの状況。

なぜそう思ったのか。

当時の自分には説明する必要もなかったこと。

未来の誰かのためというより、未来の自分のためなのだと思う。

気がつくと、先に思い出せなくなるのは前提の方なのかもしれない。

だから時々、その場では当たり前すぎることを一緒に書いておきたくなる。

それが何年後かの自分に届くのか、それともまた別の何かになってしまうのか。