走りながら、食べて、聞いて、考えて! -54ページ目

すばらしい自然の音

納得して死ねるのか?

こんな日本人、いや人間がいたとは。
医師とは・・・

http://www.youtube.com/watch?v=cJu-rU4-Xyk&feature=share

隠岐の島ウルトラまであと49日

5月1日。今日で、あと49日と大会も迫る。
う~ん、ちと焦るな。

昨日久々に50km走をやりました。大阪単身赴任のときは、京都~大阪がほぼ50kmだったので、ある意味楽しいランができましたが、自宅から出発する自宅付近で50kmを走るのは、走りなれているからこそ、けっこう精神的に辛いものになりますね。

結局、朝8時過ぎ。NHKの「おひさま」を見たいところを我慢して自宅から横浜市の金沢区のあたりまでいけばたぶん片道25kmくらいにはなるだろうと思い、スタート。

ルートは20km程度まではいつものとおり。
最初からゆっくり走る予定も、やはりいつの間にかキロ5分半は出ている。
速すぎ。これでは絶対に100kmはもたない。自分の実力では。
そう思い、キロ6分レベルにしようとするも、それ以上にゆっくりにするとLSDのように辛い練習になってしまいけっこうキツい。
仕方ないので、やはりキロ6分前後のJogで行くしかない。
それと、シューズは、セーフティタイプがどうも重たくかんじ、またボテボテして、さらに後半ずるずるという感覚がいやで、ライトタイプにしようも、先日のLSDでナイキのルナスパイダーのアウトソールがはがれてしまっている。仕方ないので、レース用のアシックスのスカイセンサーで走った。

最近は、このくらいのライトタイプが足と一体化していて気持ちよいのだが、先日の泉州国際でこのシューズで足をいためたので、なんとなく嫌な気分。

でも、快調に走れる。まだ朝も早く観光客も少なかったからなのだが。

あっという間に、大桟橋。
$走りながら、食べて、聞いて、考えて!


この景色はいつ見てもいいねえ。
みなとみらいが一望できるし、お天気がもっとよければ、高層ビルの谷間から富士山も見える。
そして、この桟橋の先端で、お祈りをして走り続ける。

今回は、このところお気に入りのSAVASのゼリーを補給食にしたのだが、これはおいしい。
特に、マスカットが最高にお気に入り!

山下公園を抜け、いつものとおり本牧に向かう。
そして、第一エイド。コンビニで氷とレッドブル補給。

再び走り続ける。
根岸を抜け、磯子も抜け、新杉田。ここでほぼ20km。けっこう疲れてきている。
あと5kmは進めたい。
こんもあたりから車も増え、さらに自転車が多い。
ロードバイクが・・・。けっこうきちんと信号も守り、マナーも良いサイクリストもいるが、たまにメットもせずGパンでロードバイクを乗っているマナーの悪いものもいて、危険を感じることも少なくない。
一時期、マラソンランナー急増し、マナーの問題もとりざたされたが、今後は自転車に対する問題が勃発するだろうね。

トンネルを抜けるともう金沢区。
そして能見台あたりでちょうど25km。折り返し。
いや~きつい。

来た道を折り返し走る。
だんだんキロ6分半から7分レベルに落ちる。
コンビニでまた氷と今度は渋いお茶を飲む。
けっこうお茶の渋みが気持ちいい。

しかし35kmあたりから40kmあたりが一番キツいなあ~。
途中お腹もすいて、コンビニで桃がたっぷりはいったゼリーを食べる。
それから、山下公園までようやくもどり、そこで、フリフリコーラ。


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あと8kmくらいで50kmなのだが、ここが一番キツいなあ。

ただのこり5kmくらいからけっこう調子がよくなってきた。
意外にも、まだいける感じでキロ5分半ペースにも戻った。

隠岐の島の本番ではこの48kmあたりが昼間のレストステーション。ここで着替え後半に向かう。
課題は、50kmあたりから60kmまでのこの10km。
同じような単調なところを走り、まだ40km以上もあるという負担も大きく、苦しい時間帯。
しかし
60kmを過ぎたところで、急に精神的に楽になる。
あと3●km。というこの数字が大丈夫という気持ちになるのだ。

ま、とりあえず50kmを走り終えたが、スカイセンサーはどうも合わない。
左親指にマメが・・・。
やはり、シューズを買わないと。

これから新緑の5月。
気持ちよく練習して、6月の隠岐を迎えたい。

$走りながら、食べて、聞いて、考えて!

マラソンの話題にもどろう

このところ、ブログの記事更新はなかなかできなかった。
書くことは震災や原発のことばかりになってしまっていたし、何よりも走ることも大会は中止されるし、気力も失せるしで。
でも、ふと気づけばもう、隠岐の島ウルトラまで55日。2ヶ月をきってしまった。
ということは実質一ヶ月ちょっとしか鍛錬ができない。
いくら完走経験はあるもウルトラは天候やコンディションで大きく完走率もかわる競技だし、ピークをあわせないと本当につらい。(昨年は風邪病み上がりだったし、初めてのときはお腹不調で10回もトイレ行ったし)

ということで、約1ヶ月のウルトラ鍛錬をしっかりやりたいと思う。
が、
シューズがどうも具合悪い。というか、ほとんどがアウトソールが磨耗し買い替えタイミングが集中したということに尽きるのだが。

ウルトラの練習のために、厚底タイプのシューズで練習することが多かったが、最近は、比較的薄めでも走りやすい感覚ができていた。ナイキのシューズにしてからクッションの感覚が比較的自分にマッチしているのかもしれない。そしてたまに厚底を(たとえば、ナイキのルナグライド+2でも)はくと、どうも足がボタボタもたついて気持ちよくない。
それに、後半に足を引きずりだしてよけいアウトソールの磨耗が激しくなる。
で、早々にルナグライドのアウトソールの黒いゴムはへたっちゃったので、レース用のルナスパイダーをはいていたら調子はいいが、これも結局この前のロング走でアウトソールがはがれ出してしまった。

隠岐の島まで2ヶ月ないので、今新しいシューズにしても本当はギリギリでリスクが高いが仕方ないので、早々に新しいシューズを用意して履きこまないとまずい。

昨年、隠岐の島は天候がよくなく、どしゃぶりに近い雨も瞬間的にあった。そのためにシューズも雨の事態も予想して準備しないといけないし、一方、暑いと足もムレるから通気性のいいものを選びたくなる。
これがなかなか難しい。

あと、ウエア。
肌寒い、まだ朝日の出ない早朝から走り始め、日中の暑さを乗り越え、時に雨がふればカラダの冷えもしのいで約12時間動き続けなければならない。
ウエアやボトルポーチなど、カラダに身に着けるものはとにかく「擦れ」が一番気になる。走っている間は気づかないことも多いが、走り終わった後に、シャワーの水も痛むようなことさえある。
そのためには、十分着慣れたものや、擦れがあるようなものは事前にテープなどで予防しておかないと厳しい。

それから、携帯補給食などの準備。
これも、本番だけでは効果なく、事前に準備し、口にあうものや、同じ味で飽きないようさまざまなものを準備したり、ここぞというところでエネルギーパワーの強いものをいれたりと作戦も必要になる。

これらは、やはり数回のロング走をやって経験をしていかないといけない。

そしてなんといっても暑さ。
この暑さは、走って慣れないといけない。特に、冬から夏にかけてのこの時期はからだの水分調節機能がまだ冬仕様なので、熱さに対処していないのだ。だから徐々に慣れさせないと、熱中症や脱水にもなる。今年は、その絶好の練習としての「かすみがうらマラソン」が中止になったので、まだからだは冬のままの濃い汗が出る状態。早く、サラサラの汗にしなくちゃならない。


さて、今週末から本格的にロング走をやって準備するしかない!

と、盛り上がってきたところだったのだが、「大阪マラソン」は、落選。
なんだって本当に情けないくらい、こういう抽選に弱いなあ。これで東京マラソンから6連続落選。

ヘコむな~。

原子力発電について考える

「東京原発」という映画からのいちシーンである。
東京に原発を作ろうという話であるが、都庁で検討する場で専門家が原子力発電について語る場面である。



この映画は、非常にタイムリーだが今、認識をしっかりするためにも観ておくべき映画であると思う。

自分も知らなかったのだが、なんと日本の原子力発電の歴史は、なんと広島に原爆を落とされたあと10年も経っていないときに、スタートした。これは衝撃的な事実だ。

<以下、Wikipediaからの抜粋>
1945年8月、第二次世界大戦敗戦後、日本では連合国から原子力に関する研究が全面的に禁止された。しかし1952年4月にサンフランシスコ講和条約が発効したため、原子力研究は解禁されることとなった[1]。
日本における原子力発電は、1954年3月に当時改進党に所属していた中曽根康弘、稲葉修、齋藤憲三、川崎秀二により原子力研究開発予算が国会に提出されたことがその起点とされている。この時の予算2億3500万円は、ウラン235にちなんだものであった[2]。
1955年12月19日に原子力基本法が成立し、原子力利用の大綱が定められた。この時に定められた方針が「民主・自主・公開」の「原子力三原則」であった[3]。そして基本法成立を受けて1956年1月1日に原子力委員会が設置された[4]。初代の委員長は読売新聞社社主でもあった正力松太郎である[5]。正力は翌1957年4月29日に原子力平和利用懇談会を立ち上げ、さらに同年5月19日に発足した科学技術庁の初代長官となり、原子力の日本への導入に大きな影響力を発揮した。このことから正力は、日本の「原子力の父」とも呼ばれている。

このたびの震災で福島第一原発の事故が長引き、日本だけでなく世界的に影響を与えている。
もはや、国レベルの問題ではなく世界的、地球的な規模になっている。

原子力のしくみはある意味非常にシンプルで発電のタービンを回すためのエネルギー燃料として、水力や火力を使っていたが、その燃費効率のよさといったん燃え出すと延々と高熱で燃え続く(臨界)というちからを使っているが、所詮は水蒸気を起こしてタービンを回すので構造的には大きな違いは無いといえる。
しかし、その効率のよい原子力の「制御」が非常に難しく、また、使用済み廃棄物が、石油や石炭とは比べ物にならないほどの危険なものであるということだ。

そんなものを発明してしまった人間は、原子力を何度かの事故や危険をおかしながらコントロールしてきたつもりであったが、しかし自然の力にその制御能力を奪われてしまった。

この結果、相当国内的にも世界的にも原発への拒否反応が今後高まると思われる。

しかし、問題はこの原発と原発の残した廃棄物は延々と人間が管理継続していかないといけないものであるということだ。
要は、渡ってはいけない橋を渡ってしまった。もう後戻りができない事態に今きているということだ。

単純に、国内で原発を廃炉にして廃止することは不可能ではない。ドイツなどは大陸続きであることからフランスから電力を購入することで原発を廃止している。しかし、結局は、世界のどこかに原発がある以上、その脅威におびえ続けなければならない。

日本が原発を廃止することとして、しかしながらお隣の韓国でも台湾でも、中国でも原発はあるわけだし、日本でも廃炉にしたとしても延々と残る廃棄物や核施設の管理をし続けなければならないのだ。

そんな危険で、とほうもないものをスタートさせた当時の「中曽根康弘、稲葉修、齋藤憲三、川崎秀二」そして、それを推進した「正力松太郎」の責任は非常に重い。
さらに、そういうことを「政治的無関心」のまま放置してきた私を含めた国民の罪は大きい。

「東京原発」では、都知事が「約1億人の無関心な国民の責任」ということ叫ぶ。

資源の少ない日本において、多分に石油に依存して戦争になったことも反省し、わずかなウランで大きなエネルギーを生み出す原子力へ踏み込んだのだと思う。その結果、戦後の飛躍的な奇跡的な復活があったのだと思う。高度成長時代を築いたのは、実はこの原子力だったのだと思う。
しかし、その結果、今回の震災で初めてこの「悪魔の原子力の怖さ」を知った。
プルサーマルという仕組みは、非常に可能性の高い効率のよい仕組みのようだが、しかし、延々と本来地球上に存在しえないプルトニウムを作り続ける。それを、知っていたのか?
石油火力を使わないということで、クリーンネルギーのように思わされていたが、大量の温水を海に放出していたことを、知っていたのか?
この地球上の石油もこの40~50年で無くなるということと、原子力発電のウランも同じように枯渇することを、知っていたのか?
廃棄物として作り出されるプルトニウムがなかなか減らずさらに海外から輸入され続けるということを、知っていたのか?

全く、無知であること、無関心であることが この国や地球の問題を見えなくしてしまっていたのだ。いや見なかったのだ。

今、地球温暖化の問題以上に、この原子力発電の問題は大きな問題である。

もはや、無関心ではいられない。

これからが大変なんだよ

あの忌まわしい地震から一ヶ月後。
未だ痕跡が生々しい。

被害は大きくはなかったものの、住まいに地震の被害が現われてしまった土浦の両親、兄夫婦の住む家に見舞いに行った。

常磐高速道路は比較的空いており、道路の表面は多少修理場所はあったものの非常に滑らかにスムーズに運転し、約1時間半ほどで到着した。

しかし、両親・兄夫婦宅の屋根は問題ないものの、10件に1件くらいは、屋根のかわらが落ちていた。
$走りながら、食べて、聞いて、考えて!

外の壁にはヒビが入っていた。
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そして、内側の塗り壁も、そのまま崩れていた。
$走りながら、食べて、聞いて、考えて!

そうは言っても、電気も水道もガスも問題なく電話もネットも完全に復旧しており生活に支障はない。
でも、毎日続く余震に年齢を重ねた両親はさすが疲れた様子であった。

こんな状況を知らぬ間に死んでしまえばよかった・・・
というようなコトバが出たが、まったくそういう思いでいる人が、今の日本に相当数いるのではと感じる。

これからが大変なんだ。
またゼロから、いやマイナスからスタートしないといけない。

いくら、がんばろう!とは、まけるなと言っても、やるほうは大変だよ。

やはり、東京などから、「励ましの言葉」なんて意味ないと感じたし、そもそも、現場は大混乱しているのに未だヘッドオフィスを東京から動かさない今の政治家にはあきれた。

しかし、
時は春。


$走りながら、食べて、聞いて、考えて!

こんな普通の生活があったんだよ。誰にでも。



再掲

がんばれ!斉藤和義!

ずっとクソだったんだぜ

ありがとう というコトバしか浮かばない。本当に、ありがとう。

今日は入学式

職場のあるところでは、入学式に向かう親子連れがたくさんいた。
どうか、どうか、この子達にも、素晴らしい明るい未来が待っているように・・・