走りながら、食べて、聞いて、考えて! -53ページ目

2011年第六回隠岐の島ウルトラマラソン完走記 その1 「震災から始まっていた!」

3.11の震災によって、多くの大会も中止せざるをえなくなった。
その影響が、まさかこんなところに、こんな時期に出るとは思われなかった。

4度目の参加となる「隠岐の島ウルトラマラソン」。
最初の大会は、おなかを壊し体調が悪くも12時間ちょっとの大健闘。そして、翌日もダメージもなく島内観光をし、そのまま帰宅して仕事の打ち合わせにでかけたほどだった。
2回目の参加では、妻の応援もあり、また体調はベストの状態。目標としていた12時間を切ることができた。
3回目では、大会直前10日前に風邪を引き体調を崩し、また大会前日の夜に、ワールドカップ、日本イタリア戦があるもしっかり眠ることができ結果、なんとか12時間ちょっとで完走できた。

そして、4回目は、13時間48分、制限時間まであと42分という厳しい展開で終えた。それも、走りきれず後半はほとんど歩いてのゴールだった。
2月の泉州国際で痛めた足首は改善しないままの参加。大会10日前の風邪。2は日前の葉のかぶせがとれ、そして前日は仕事のトラブルの電話に、ほとんど眠れぬ状態での参加。最悪のコンディション。それに加え、当日はお昼頃に快晴。
「絶対、完走させるものか?」というほどの妨害を受けての参加だったが、そういうコンディションの問題以上に、実際は、3月の震災によって大きくリズムが狂ったせいなのかもしれないと思う。

通常であれば、2月の泉州国際で、フルの自己ベスト狙いは終え、「徐々に」ウルトラモードへ切り替えるわけだが、その間、3月の荒川、4月のかすみがうら、そして5月に仙台をいれて調整をしていくのだが、今回はこれらすべてが中止。
結局、4月のあたまに「ハセツネ30」の参加予定メンバー100名くらいで自由に走っただけで、このシーズンが終了したようなリズムになってしまった。

通常だと、ウルトラマラソンを終えて、そのあと夏バテ状態で体重も多少減少して秋を迎えるのだが、今回は、この時点で体重が減りスタミナも低下していたのだ。
生活のリズムが狂ったのだ。
なんとか、完走すべく風邪を早く直す工夫をし、ニンニク注射を3本も打った。
生活のリズムは注射などでは改善しなかった。

でも、それでもなんとかスタート位置に立てたこと。
これをとてもうれしく思ったし、隠岐の島で声を掛け合うランナーが増えてきている事実にも我ながら驚いた。

今年は、高速船を使って島に行くことにした。
羽田から、米子鬼太郎空港にとび、境港まで行き、そこから超高速船レインボーで隠岐の島に渡る。
境港では時間があったので、有名な「水木しげるロード」を散策に。

$走りながら、食べて、聞いて、考えて!

普通は、こういうキャラクターをうまく使っている町並みはいくつかあるが、この「水木しげるロード」は思い切って活用しきっている割りきりがすごい。

$走りながら、食べて、聞いて、考えて!


18日の境港は雨。

少し雨の量も多いが、これが小ぶり程度になれば、よかったのだが・・・。
超高速船で、隠岐の島、西郷湾に着いたころは完全に雨は上がってしまっていた。


$走りながら、食べて、聞いて、考えて!



(つづく)



第六回隠岐の島ウルトラマラソン ゴールしました

6月19日午後6時48分。
隠岐の島、レインボーアリーナに無事ゴールできました。
13時間48分という、ワーストレコードになってしまいましたが、最後までゴールを諦めない、折れない心に自信もついたように思います。

後半は、太腿が完全に死にかけ、走る事ができず、かなり歩きました。
速く歩けることもとても重要だと思いました。

完走記は、明日より記録していきます。

レインボーメダルまで、あと、3個。

隠岐の島ウルトラマラソン、2日前

隠岐の島ウルトラマラソン、2日前。
今年もとうとうやってきた。
自分にとってはこの大会は、一年間の総決算の大会であり、また、自分の体力を測るうえでも非常に重要な大会なのだ。
その大会が毎年6月の第三週の日曜日の父の日に開催されるのも、なんだかな~という感じではあるが。

今年も、結局コンディションはベストに持ってこれなかった。
昨年も直前に風邪をひいたが、今年は、足首の痛みが十分改善しないまま、直前に風邪、そのうえ今日夕方には、奥歯の被せが外れるという三重苦。まったく、弱り目に祟り目。さすが、夕方からみてくれる歯医者はなく、このままスタートするしかない。

さて、そういうコンディションでもなんとかスタートラインに立てるようになったことは喜ばしい。
あとは、100km先のゴールを目指すだけだ。

100kmという距離はとんでもなく遠いように思うが、しかし、スタートしてしまえばあとは徐々に残りの距離は確実に減る。ゴールは必ずあるのだから、なんとかなるもんだ。
特に、60kmを過ぎたら、あとは30km台。普段でもなんとか走れる距離だ。なんとか、なるさ、きっと。
そんな気持ちで明後日の朝5時にスタートしたいとおもう。

今回はさすが記録は考えず、完走狙い。従い、キロ8分レベルでおして行く予定。
25km地点でも3時間程度で過ぎてもまだ余裕はある。
とにかく、ゆっくりゆっくりだ。

できれば手紙をもらった西郷小学校の子供にお礼の手紙をわたしたい。
おじいさん、おばあさん、島の皆さんに笑顔でお礼をいいたい。
最高に幸せな一日がやってくる。

祈 完走

「隠岐の島ウルトラマラソン」まであと10日

久々のブログ記事更新。
というのも、最近、Webサービスもますます多様化してきて、ブログ中心だったのが、徐々に、Twitterに移行し、最近はFaceBookが中心になってしまったので、ブログに書き込むことも少なくなったのだ。

それに、最初は、ブログとTwitterとFaceBookの自動的連携も活用して、ほぼ同じ内容を更新するようにしたこともあったが、FaceBookなどでは会社関係者も増殖しており、どうも具合がよくないので、連携を遮断したりしている。
また、Twitterの監視もし始めているらしく、ますます、ひとりごと的なつぶやきもしにくくなったのも事実。

しかし、とうとう、隠岐の島ももうすぐ。あと10日にせまり、昨晩、ようやく参加案内証などが届いた。
いつものとおり、小学生の自筆の手紙つき。
これは本当にうれしいというか、しっかり走らねばという気持ちになるものだ。

足の調子はいまいちだが、仕方ない。
あとは、最悪痛みが出たときは、痛み止めを飲んでも走るしかないかと思っている。
あとは体力、スタミナだが、これもいまいちスッキリしないが、できることは全てやって臨みたい。
で、今日から禁酒。にんいく注射も考えて対策する。

当日はもはや記録更新は考えず、「キロ8分以内」を基本にペースを守って走るつもり。
途中、応援に来てくれる、妻には3度ほど会えるがそこで、Red Bullも飲むつもり。

また、大会直前に、カイロプラティックで調整し、また接骨院でもテーピングをしっかり施してもらい、準備は抜かりなくしたいと思う。

あと10日。
もう、いまさら何もできないので、ベストコンディションに近づけることに専念したい。


$走りながら、食べて、聞いて、考えて!

お弁当メール

Road to the Hasetsune Goal

少し走り出したのが、2004年のころ。
2005年の4月に、初フルマラソン挑戦。そしてあえなく32km地点リタイア。
その悔しさから、夏場の練習を強化し、秋のつくばで正式にフルマラ完走。4時間切り!

最初のころは、徐々に走る距離が増えていたが、30km走を初めてやったときは、ひどい脚の痛みに涙した。

それから、いつの間にか、普通の練習で20~30kmを走り、フルの距離への不安もなくなった。

走る距離をかせぐには、ゆっくり走れば問題なくいける。しかし、スピードがないと意味がない。

そういう気持ちもあり、フルマラソンの記録や達成感をさらに伸ばすために、ラフロードを走ることを考えた。また、夏場のトレーニングとして山道は涼しく気持ちよかったのだ。

しかし、そうしてトレイルランというものに脚を踏み入れながらも、自分としてはなんとかフルの記録を伸ばしたかった。せめて3時間30分はきりたかった。

ようやく3時間30分がコンスタントに切れるようになったが、今度は、フルの記録よりもさらに長い超長距離のウルトラや、トレイルへどんどん突き進んでいる。

もうこの歳でさすが新たに記録を更新するのは難しいという気持ちもあるが(そうは思いたくないのだが)、さらに新たな世界を垣間見ることが増え、そしてその素晴らしさにはまってしまったとしか言いようがない。

来月の19日は、「隠岐の島ウルトラマラソン」開催日。4回目の挑戦。
そして、とうとう、トレイルランの象徴的な大会「ハセツネ本戦」へのエントリーを行い、10月に71kmの山道を24時間以内に走りとおす大会に参加する。

正直、走り始めたころも、数年前までは、まったくもってハセツネの事は知っていても自分が山道を走ることになるとは想像していなかった。

でも、走る。

ロードの大会も素晴らしい。だからこそ、最近は大都市で大会が増え、さらに参加者も増加している。
しかし、ロード以外の山道には、山道のよさがある。

自分にとっての今年の最大のイベント。

必ず、完走しよう。

ハセツネ本戦 エントリー 完了!

とうとう、マウンテンマゾヒストの世界に足を踏み入れてしまいました。
10月22日~23日。
しっかり、走り、歩き、ゴールを目指します!

$走りながら、食べて、聞いて、考えて!

震災2ヶ月後

すでにあの忌まわしい震災が発生してから2ヶ月が過ぎた。
発生直後、某政治家が「バチがあたった」みたいなことを言って批判を浴びたが、なくなった方々や被災された方々には不適切な発言ではあるものの、確かに、この震災については学ぶ点が多かったように思う。

【日本人の災害対策】
約2万人が死亡および行方不明という確かに規模の大きい災害ではあったが、一方、マグニチュード9レベルという想像を絶する大地震がありながらも、日本であるがゆえに被害は極小化されたのではないか?という意見がある。

もし、日本以外で同規模の地震が起きたら、まずは建物の被害というのは、もっと甚大であったと思われる。日本の厳しい耐震構造の建物は非常に機能したと思われる。特に、震源地に近い宮城県仙台においても、津波による倒壊はあったものの、地震への対策は十分とられていたからこそ、大きな建物の倒壊などがなかったのだと思う。

そして、津波についても、確かに間に合わない悲惨な事態もあったものの、ある地域では全員助かった村や学校があったことも、日ごろの災害対策が行き届いていたことではないだろうか?

【日本人の想定外の対応】
3月11日から数日間の日本の生活を、日本国民全員想定していただろうか?地震の規模も、津波の大きさも、停電による影響も、原発の事故の影響も、ほとんどの日本人は、あのような大きな影響を想定してはいなかったように思う。
自分も、「いざとなったら、いくらでも歩いてかえることはできる」と言いながらも、まさか、16kmも革靴で歩くことになるとは想定していなかった。会社においてあるスニーカーなどは出番はなかった。
携帯電話が全くつながらない。一方で、ツイッターでの状況把握のみ可能というのも全く想定していなかった。停電による移動困難も、水不足も、ガソリン不足も、計画停電も全く想定などしていなかった。
しかし、不思議とあの3月11日の地震発生から2~3日間は、たんたんと日本人は行動していた。

そういう自分も、地震発生時には電車の中。そこに、乳母車と赤ちゃんをかかえたお母さんやサラリーマン、学生などがいて、避難する際に、自分も入社面接に行こうとしていた学生もそのお母さんを助けた。
歩くしかないと思った自分は、すぐにコンビニに入り水と食糧を確保した。
しばらく歩いて、暗くなりまた停電を想定して自分は懐中電灯も確保した。
翌日、思った以上に普通に会社に出勤してくる仲間がいた。
月曜日になって、通勤困難もあったものの、でも、大きな暴動などなかった。

不思議だが、あんなにとんでもない、想定もしない出来事があっても、日本人はなぜか想定していたかのように冷静に、人におもいやりをもって生活できるのだろうか?

あらためて日本人の「こころ」というか、「信念」のようなものを見た。

【お返しの文化】
さらに、想定外の悲惨な災害に合った日本に対し、これも想定外の各国からの支援が始まった。
これは、本当に驚いたとともに、こんなに日本という国が世界的にも評価されていたのだろうか という何か誇らしいような、うれしいような、安心できるそんな気もちが生まれた。
いくつかの国は、「以前、日本から支援をいただいた」ということでのお返しといった。
そうか、そんなに日本は世界のためにいろんなことをやってきたのか。
確かに、この時代までいろんなことがあったけど、でも日本人は世界でしっかり日本のこころを浸透させていたのかもしれない。
お中元、お歳暮。お世話になった人への感謝をこめての儀式。
でも、それが日本人が世界に伝えた気持ちだったのかもしれない。

日本を応援するイベントが世界で繰り広げられている。
被災者を支援するイベントがたくさん行われている。
生まれ故郷を応援する歌が流れている。

まだ、原発事故は収拾はしていないが、でも、
日本に生まれてよかった。
日本人に生まれてよかった。

そう、最近思えるのである。

3月11日が多くの日本人に本当の日本を思い出させたような気がしてならない。

いかん、泣いてしもた

フィギュアスケート世界選手権の最後のエキシビジョン ロシアからの愛